山景の大地

狐夏

山景の大地

 山景の大地 


 山に沿った線路の景色は、渓谷を渡りトンネルを抜けると、田園が展ける。その一つ先の低くなった山々の間に貞尾の家はあった。

 小気味好く揺れる単行列車の中で寝ている貞尾は静かに目を開く。進行方向に対し左側に座って、初夏の匂いを含んだ樹木が後ろへ後ろへ流れていく様だけが見える。背後に流れるのは山の麓に広がる市街の眺望。今はただ家を出た日に見た景色が浮かぶ。まるで正面の窓ガラスがあの日の街並みを映し出しているかのように感じられる。

 貞尾は再び目を閉じる。さらに濃く景色は目蓋に浮かんだ。低調な揺れが高い音へと変わる。どうやら電車は渓谷を渡す橋へ入ったようだ。目蓋の裏にはトンネルを抜けた田園の景色が浮かんでいる。苗は根を張り、青々としている頃だろう。

 一昨年、家を出る前の最後の年に、祖父である玄太から任せられた一畝の田を思い出した。それまでも貞尾は毎年田植えや稲刈り、脱穀を手伝ってきた。だから一畝の田で最高の米を作ってから家を出てやろうと考えていたのだ。そんな頃のことがまぶたの裏には次々浮かんでくる。

 外の音がまた変わっていた。トンネルへ入ったようだ。

 晩春の光を透かしていたところが暗くなり、対して浮かぶものがより鮮明にされていく。トンネルに響く列車の轟音が貞尾を記憶の中へと吸い込んでいく。幾度となく反響される音の中に一つだけ確かなものがあることを感じる。そしてそれが自身の鼓動なのだと貞尾にはわかった。


 山道、畦道、田んぼ道。カゴに畦シートを、荷台に肥料を乗せた自転車を走らせる。山桜も終わり、木々は若葉の色も深くなりはじめる四月末、下の農家はすでに田起こしを済ませてしまった家が多く、処々草の生えた土地の一町、二町が目についた。

 行きの春風を全身に受け下った坂道も、帰りには勾配と荷重によって汗だくになる。

「じいちゃんはいつもそうだ」と、呟きながらペダルを踏み締め体重を交互に掛ける。

 耕運機は買うと維持に金が掛かり、田もそこまで広くないからと玄太が以前言っていたが、そのため下の農家から耕運機を借りるために軽トラックで行き、耕運機を往復させ、軽トラックに苗を積んで戻ってくるということを毎年繰り返していた。そして田起こしの間に貞尾が自転車を走らせて下の商店まで肥料と必要があれば畦シートや農具を調達しに行くことも毎年であった。

 昼前なので風さえ切れれば心地よいものの、こうも荷物が邪魔をすると疲労ばかりが感じられ、行きに見た蓬や蓮華も山の緑の濃くなったのさえ感じられないほどに疲れと、それ以上の不満が溜まっていった。

 これも毎年のことだが、億劫だと感じながら下り、心底投げ出したいと思いながら帰り、来年は軽トラックで行ってくれと催促するのだ。それも一年経つと忘れて、やはり毎年のように貞尾は不満を募らせているのだった。

「本当、なんだ、毎年、毎年、俺が往復せにゃ、ならんの、じゃ」

 最後のじゃ、で一踏みしてようやく坂の天辺までたどり着いた。この坂は後ろと先で高低差のため長さが違っており、行きより上りが長い割に下りは数メートルで終わってしまう。本当ならば重力の作用に委ねて全身に風を受けながら、噴き出た汗を吹き飛ばしたいところなのだが、この距離ではそれもできず、束の間の風を感じるとすぐ、玄太のいる田に着いてしまった。

「ほれ、坂の上で止まっとらんではよ来んかい」

 すでに田起こしは済んでいて、畦で玄太は煙草を吹かしていた。

「じいちゃんはいいさ、トラクタ乗ってるだけじゃもん。俺は荷物持って坂上るから疲れるんじゃ」

 荷台から肥料を降ろしてその上に腰を下ろす。

「若いのが何言うか」と煙草を揉み消しながら言い、よいこらせと立ち上がると、手だけで退くようにやる。

 貞尾も重そうに立ち上がり畦シートをカゴから取り出して手伝いに掛かった。撒いて土に馴染むようもう一度トラクタをかけて作業は終わる。


「ほれ」

 畦で待っていると目の前ににぎり飯を持ったごつごつした手が、ぬっと出てきた。

 待つ間、白詰草の上に仰向けになっていたので、思わず「おっ」と声を出しそうになってしまったが、黙って受け取ると続いて水筒も差し出される。

「ありがと」と一言添え受け取る。

 玄太も隣に腰を下ろし、二人とも黙ってにぎり飯を食べ続けた。

 真っ青ではないが高い空は、遠くに綿雲を二、三浮かべていて広い。二百平米の田を眼前に、先には小高い山が並ぶ眺めは、季節ごとにそれぞれ異なる様相を見せる。今年は比較的天気の好い日が多く、かと言って雨がないということでもなかったためか、玄太は田畑のどうこうという小言も少なかった。

「好い天気じゃ」

「そうじゃな」

 返事をしたがそこから続かず、また黙ってしまった。貞尾も特に話すこともなかったので、ラップに着いた米粒を食べた。

 食べ終わった頃には汗もひいて玄太がトラクタを返しに行くと言うので、貞尾は先に家へ戻ることにした。

 帰り道、山鳩が力強く鳴いていた。


 玄太は今年で六七になる。妻は貞尾の父が幼い頃に亡くなったと聞く。そしてまた貞尾自身も小学生の頃に両親を亡くしていた。それ以来貞尾と玄太はこの家に二人で暮らしている。

 小学生までは祖父によく付き従っていたが、中学に上がると年相応に玄太に生意気を言っては、玄太も昔ながらの性分で、二人して言い合うことも増えて言った。

 こんなこともあった。


「百姓の子どもが何ふざけたこと言っとるか」

 朝の空気に玄太の声が冴える。冬も近い朝、空気も震えた。

「ええじゃろ朝くらいパン食ったって。小麦も農家が作っとるんじゃし」

「屁理屈言うんじゃねえ。米が一等いいにきまっとるわ」

 玄太の目が鋭く掴みかからんと貞尾の目を射る。奥歯が鳴るほどに食い縛らないと睨み殺されるのではないかという気迫が玄太から感じられた。幼い頃や中学前はその目が恐くてすぐ従ったものだったが、貞尾は貞尾で考えがあって、合わなければそれを主張するようになっていた。だが、それでもやはり玄太には敵いそうにないほどの気迫があり、貞尾は逸らすわけにはいかなかったが、年輪のように深く刻まれた皺の奥の穴蔵の、熊のごとき眼光を前に何とかこの場から逃げなければという気が習慣的にしているのであった。

「気に食わねえなら食うな」

「ああ、いらね、いらねえよ」背を向けながら言うと貞尾は鞄に荷物を放り込み畳が抜けん勢いで居間を通り過ぎると玄関の扉を力いっぱいに叩き閉めて出て行ってしまった。

 玄太は、何事もなかったように炊飯器から米をよそい、冷蔵庫から漬物を出すと黙々食べ始めた。

「罰あたりが」

 呟いた言葉の後からは漬物を噛む音が漏れるだけだった。

 玄関を思いっきり閉めた貞尾は乱暴に自転車を走らせて坂を駆け下りていく。息が白くなるほどではないが頬に当たる風が冷たかった。血の昇った頭も冷やされ、今は静かな怒りへと変わっている。心の中ではまだ、パンの美味さがわからない、米しか食ったことがないからなどと自らを正当化する論理が広がっていた。

「だいたい、軽い気持ちでパンにしようと言っただけじゃのに、何であんなに怒られなきゃならんのじゃ」と、玄太がむきになる理由がまったくわからなかった。

 自転車が坂を下る間、そういった考えが廻り、貞尾の目には道端の晩秋の露に濡れた黄、紅の葉など微塵も映らないでいた。

 坂を下って十分ほどで駅に着く。入場券を取るだけの無人駅は石段を上がるとすぐホームになっていてベンチもない。電車は下の街まで通っていて始発も向こうからであった。この駅で降りるときは車掌にキップを渡す。田畑の広がる山の麓もこの辺りだけは少し違い、商店や食堂、文具屋などが並び賑わう。こんな駅であってもこの山の人たちにとっては生活の中心の場であり、それは貞尾自身も例に違わず、市街地にある高校まで毎日通う場所だった。

 ホームからは田畑の中を走る線路が続き、山の木々へと消える。電車は、来れば山の中腹からわずかに見え隠れしてしばらく消えた後に山の木々の中から現れる。

 普段よりも一つ早い時間のせいもあり、ホームにいるのは貞尾だけだ。

 稲の刈り取られた裸の田が山まで続き、静かに冬の訪れを待っている。貞尾は見慣れたホームから足元の線路に敷かれた石をじっと見つめていた。そして祖父の言葉にまだ反論をしていた。

 すると済んだ空気に電車の音が乗ってやってきて、貞尾の前でそっと停まり扉が開く。貞尾が乗ると間もなく電車は発車した。静かなホームが賑やかになるのはまだ三十分は先のことだろう。


 単行列車は行く。貞尾を乗せ、小気味好く走っている。朝露に黒く湿った大地を蹴るように電車は行くと、葉のまだ幾許か残った広葉樹の間を抜け、トンネルへ入り、渓谷を渡ると、整備された住宅街を左手に、右手に五、六の工場、それから電車は駅へとゆっくり停車した。この駅は貞尾の住む山の駅とは雲泥の差で、工場誘致のために県が支援し、新幹線を引いたこともあり、近隣の市の中でもとりわけ大きかった。そしてこの駅前から出るバスは各工場経由になっている。その一本の途中に貞尾の通う高校はある。

ホームへ降りると相変わらず反対ホームには大勢の人が列を成していた。駅を出ればバスを降りた大人たちが改札口へと歩く。結局誘致に成功したものの、その一方でさらに都市部へと働きに出る人も増えたのだ。

 そういった大人やその子どもたちと関わっていればこそ、貞尾も自然と都会に憧れていったのかもしれない。その一抹が今朝のパンであることは貞尾自信意識などしてもいない。ただ、そういった生活をしている人たちの方が良く思えたのだろう。

 駅前のコンビニで菓子パンを買って食べた。そして特にすることもないので、この日は早めに学校へと向かった。


 学校が終わり家に着く。貞尾は忘れた風を装って居間を通りぬけようとすると、やはり玄太に呼びとめられた。

「今朝は何か食ったんか」

 新聞を読んでいて玄太の顔はわからない。しかし、声に鋭さは感じられず怒ってはいないようだった。

「パン」となるべく普通に言った。

「うまかったか?」

「普通」

「そっか。晩飯もパンか?」

 玄太の言葉に嫌みは感じられないことは貞尾にはよくわかった。単に朝もパンなら夜も同じでいいだろうという確認でしかない口調だ。

「いや、いつも通りでいい」

「いつも通り?」

 今度は少し嫌みを感じる。おそらく新聞などもう読んでいないだろう。

「米でいい」

 そう言った途端、玄太は新聞を放り大笑いをした。そして一通り納まるとひいひい苦しそうに、「米か、米か」と言ってまた笑いだした。

「わりいか、腹減ったんじゃ」

 貞尾は玄太の姿を見て怒る気にもなれず、むしろ恥ずかしそうに言った。

「お、おい。これ以上笑わせんでくれ。苦しい」

 それから三、四分は笑っただろうか。腹を抱えながら立ち上がり、玄太は台所へと支度に向かった。

支度の最中も何度か意地悪そうな顔を向けては貞尾に、「米か」と、にやにやしながら言うので、貞尾もさすがに「もうええじゃろ」と語気を強めて言ったが、案外そういったやり取りも嫌ではなかった。


 一畝の田を玄太に任された翌年、貞尾は願って志望した大学に進学した。山の下の子どもの中には塾に通う者も多く、貞尾の友人にも夏や冬に講習を受けに市まで通う者もいた。その一方で、貞尾のように家を継ぐことを強いられ塾はもとより、受験もさせないと言う家もまだ多かったのだ。そして貞尾に至っては進学してからもなお納得してもらえずのままでいた。そのため貞尾は、寮に入り、アルバイトをして学費、生活費の大半をなんとかした。残りの足りない分は奨学金を借りた。だから玄太にはこれまで一度も金の面で頼らずにいたが、月によっては生活が厳しいこともあった。それでもやり繰りをし、水で腹を満たしてでも頼らぬ覚悟だった。それが受験をした貞尾の意地でもあった。

 小気味好い音がしている。貞尾はまた少し眠るように記憶の流れに身を任せた。


 玄太は壁掛け時計を確かめた。針は六時を過ぎており、今日は貞尾が戻らないことを予知させる。この頃、貞尾は休日前になると外泊することが多くなっていた。玄太もはじめは詮索したが、友人の家だと言い迷惑にはならないようにしていると、聞いてもそれだけで、金曜の夜は戻らないのだ。それでも泊まるようになり始めた頃は、誰某の家だ、今日は泊まると言っていたが、夏休みに入ったあたりから無断で帰らぬことが多くなっていった。

 玄太からしてみれば、自分も貞尾の歳には親に行き先も告げず出掛けることの方があたり前になっていたから、むしろもうそんな年頃になったかと、時の速さに驚くことの方が大きかった。

 窓を閉めに立ちあがると玄太は田を眺めた。晩夏の稲はまだ若く青々としている。月明かりを受けて芒が光っているせいか田の様子がよく見渡せた。数時間前まで夕光に赤く染まっていた田と山は、今はただ静かに藍に沈み夜を待ち受けているようだ。

 風がすでに秋だと感じると、玄太は窓を閉め晩御飯の支度に取り掛かった。

 玄太の家は曾祖父の頃からこの辺りにあり、昔はこの近辺の山の木を伐っては材木として下まで売りに行っていたそうだが、玄太の父の代には百姓として稲作りをするだけになっていた。山も管理に手間と金が掛かると言ってわずかばかりの値で売ってしまったらしい。それでも玄太は子どもの頃のようにたまに山へ入っては、あけびや山菜を採ってきて食卓に並べていた。

 台所で煮付けを作っていると、突然玄関の開く音がした。ただいまと言いながら貞尾が居間へきたようだ。

「帰ったんか。飯食うんか?」と、声だけ居間へ投げ掛ける。

「うん。腹減っとるし食うよ」と、居間から声だけが返ってくるとすぐ台所に貞尾が入ってきた。

「今日も帰らんかと思ってたが――」玄太が言いかけると、

「友達のとこが用事で行けんかったんじゃ。それで本屋寄っとったら遅くなった」

 ほう、と返し貞尾の分も用意を始めた。

 居間へ戻ると、大きめの紙袋が目についた。

「なんじゃそれ?」

 書店の名の入った紙袋を指差し玄太は訊ねる。

「本じゃよ。見てわかるじゃろに」

 後からきた貞尾は答える。

「そんなん知っとるわ。そんなたくさん何の本じゃきいとるんじゃ」

「勉強の本じゃ」

 貞尾は訊かれたことに対して関心なさげであったが、玄太には気掛かりなことが思い出されるのだった。


 晩御飯が済むと貞尾は紙袋から一冊を取り出して読んでいた。難しいことが書いてあるようで玄太には少し見ただけでは何の本かわからなかった。

「そんなようわからんもん読んどらんで、少しは米作りでも覚えたらどうじゃ」

 ふと思ったことが口から出る。

「そんなもんとは何じゃよ。それに米作りならずっと見とるから出来るわ」

「ほう。見ただけでできるならわしも軍曹くらいなれたかもしれんの」

 そんな上手くいくわけがないと玄太は言う。

「その本でお前は学者にでもなるんか」

「学者なんかにはならん。だが来年は受験じゃから今から勉強するんじゃ」

「そんなもんこそ、うちには関係なかろうが」

 玄太は少し語気を強めて言う。

「何でじゃ、俺は受験して大学に行くぞ。みんなそうするんじゃから、俺だけいつまでもおれん」

 貞尾も語気が強まる。

「自分は自分じゃろうが。わしは自分で決めて親父の土地と田を守ってきたんじゃ。そしたら次はお前しかおらんじゃろ」

 玄太は心の底から湧いてくる恐怖にも似た感情を言葉にしてぶつける。

「なら、俺も自分で決めて受験する。じいちゃんには何も頼らんし、迷惑も掛けん。それに――。それでいいじゃろ」

 貞尾は感情的になって父のことまで言おうとしたが言葉を止めた。そして一方的に話を切って袋ごと隣の部屋へと行ってしまった。

 隣の襖が閉まると玄太は急に疲れを感じた。立ち上がらず腕を伸ばして後ろの窓を開ける。月の白い影が仄かに窓に映り、涼しくなった風と虫の音を感じる。ごろりと横になると目を閉じ、しばらく虫の声に耳を傾けてそのまま、寝入ってしまっていた。

 隣室では虫の音が気になるわけでもなく、なかなか寝付けず、貞尾は本を読み耽っていた。

貞尾はこの頃から大学進学を考えており、友人の家で勉強をしたり、貯めた金で問題集を買っては準備をし始めていた。

 他の人のように塾や講習は望めないとわかっていたからこそ勉学に熱を入れ、東京という大都市へ行くことを夢としていた。

 貞尾の両親もまた大学を出、ごくごく普通の企業へと、麓の市から勤めていた。もちろん玄太はそれを強く反対したようで、父とはだいぶ揉めたらしい。そういったこともあって、自分にも厳しく反対するのだろうと貞尾は思っていた。


 その夜、玄太は夢を見た。正しくは夜明け近くに目が覚めたときそんな感じが残っていた。少し瞳が濡れているような気もしたが、どういった内容だったかはすでに残っていなかった。ただ漠然と自分の田で貞尾と苗の植え付けをしていたようだった。何か話をしていた気もするが記憶は曖昧だった。むしろその話したことよりも、その声が貞尾ではなかったことの方が印象に残っている。もしかすると目覚めてからそんな気になっただけなのかもしれないが、もしかしたら息子であったかもしれない。そんなことをぼんやりとした頭で考えていた。きっと貞尾があんな本を買ってきたから思い出したのだろう。玄太は開けたままだった窓を閉め再び横になった。

 こおろぎが入り込んだのか、部屋のどこからか虫の声が聞こえた。


 貞尾は大学で一年間いろいろ学んだ。とはいえ大半は教養科目だったため、興味のあることは自分で調べた。その中でも活用できそうなものについてまとめてきたものが鞄に入っている。帰郷の目的の一つには、これを見て祖父が何と言うかも含まれていた。

 今思えば、きっかけは単純だった。高三の春、玄太が言った一言だ。貞尾はずっと進学の勉強を続けながら農作業も家の事もそれまで通り手伝っていた。

 玄太が勉強に口を出しては言い合うことの増えていた頃だった。


「貞尾、今年はお前に一畝任せようと思うんじゃ。好きにやっていいから米作ってみい」

「何でじゃ? 毎年作っとるじゃろに」

「いや、一畝全部任せる。自分で苗もらって、うんめぇ米、作ってみろや」

 玄太の言葉は落ち着いた風で決して強制はしていないようだったが、貞尾はやってみようという気持ちになっていた。それは急に今そう思ったのではなく、春休みを終え、クラスが受験を意識し始め、卒業生の合否の話を聞くうちにある想いが湧いてくるようになったこともあるらしかった。

「やってもいいけど、継がんからな」と、気が変わったわけではないことを、念を押すように言った。

「それとは関係ないから気にすんな」

 いつもなら言い返してくる玄太の言葉はひどく穏やかだった。

「なんね。後で何かあるんじゃなかろうね」

「別に何もねえよ。ただ、お前が一人前に美味い米作れるようになったか見ておきたいだけじゃて」

 そう言いながら玄太は煙草に火をつけて一口飲み込んで、ゆっくり吐き出した。

「そんなら一等美味い米作ってやっから期待しとれよ」

 貞尾も全て託されたこと、これで最後の米作りになることを飲み込んで、玄太の考えるところがわかったような気がして答えた。

 一畝なら大した広さもないので、植え付けも田起こしも手作業でできるだろう。堆肥を使って土を換えてみても良いかもしれない。貞尾は任された広さから出来得ることをいくつか考えてみた。


 翌日から貞尾は一日の内、一、二時間を田へ費やすことにした。

 まず、例年より一週間早く田起こしを始め、肥料を小分けにして与え、除草もほぼ毎日した。苗を植える頃には、祖父の土よりもよく肥え、人肌よりも温かく感じられた。

 それからも草取りや稲の状態の記録を続けていった。

 玄太は本当に何も口を出さず、どうだと聞かれて答えても、ほうとかへえとか言うくらいだった。

その年は梅雨もよく雨が降り、夏はよく照った。貞尾の稲はぐんぐん伸び、夏の終わる頃には祖父の田へはみ出ているほどで高さも二〇センチは高かった。

 秋の気配が濃くなると貞尾はしだいに勉強へと力を傾けていった。

 稲もあとは刈り入れ時を待つばかりという頃、近くを大型の台風が通る予報があった。だが、貞尾も玄太も然程心配してはいなかった。それは台風の進路が村からだいぶ離れており、多少雨風が強いだろうという程度だったからだ。玄太は念のため水路の水を調整し、田へ入る量を減らしておいた。予報では今晩から明朝に近くを通るそうで、通ると言ってもやはり心配に及ぶほどではなかったため、二人ともそれ以上の対策はせずのままだった。

 晩御飯時になると窓がかたかた鳴るようになり、床へ就く頃には雨の吹きつく音が絶えず聞こえていた。

 そして翌朝、抜けるような青い空が窓に見えた。案の定、台風自体はたいしたこともなく過ぎ去ってしまったようだった。

 居間へ行くと玄太も茶を啜っており田も無事だという様子でいる。

「おはよう、じいちゃん。水路は大丈夫だったんじゃろ?」

「ああ。何ともなかった。自分の米は自分で見てきたらいいじゃろに」

 そう言われ、寝巻のままで田の様子を見に行ってみた。

 米は芒を突き立て青空に向かって立ち並んでいた。が、皆同じ高さで並んでおり、東側に並んでいた一際高い貞尾の稲が見当たらない。走った。そしてやっと視界に捉えられる距離までくると、そこには綺麗に北へ穂先を向けて倒れる稲があった。

「――何でじゃ」と、言うも思うも同時に家へと戻る。

 紐と鋏を手に引き返す。幾つか束にし紐で括ると脚立のように立てていった。幸いたかだか一畝であったため束にする作業はすぐに終わった。

 家に戻ると玄太は悠長に朝食の支度をしていた。

「なあ、じいちゃん。何で俺の稲だけ全部倒れてしまったんじゃ」

「わしは教えん言うたじゃろ。自分の頭で考えねば、百姓としては不合格じゃ」

 朝飯にしようと促され、結局何も貞尾はわからぬままだった。後になって、あれだけ高いのだから倒れてもおかしくないなと考え結論付けた。


 今思い返せばあれはどの道倒れていただろうと容易にわかる。

 春からあれだけ肥料を混ぜ与えては、稲が消化不良を起こしてしまう。また量は取れても味が落ちることも見当がつく。本当に我ながらに、あれは農業でなく農作業だったと呆れてしまうほどだった。おそらく玄太も春の段階で口を出したかったことだろう。

 そんなことを思い返すとともに貞尾はもう一つ、当時覚えたものに似た郷愁を再び感じていた。

トンネルも半ばを過ぎただろうか。単行列車はまだ小さな白い点へと向かってずっと走っているようだった。


 高く雲雀が囀っている空の下、貞尾は鍬を手に、田起こしに汗を流していた。玄太に米を作れと最初に言われたときは正直勉強の支障になると考えたが、実際やってみるとかえって適度な気分転換になることがわかり心地良かった。

 堆肥と土をよく混ざるようにし、家へ戻って朝食を取り学校へ行く。これが日課になっており、日によっては草をむしり、畦シートを替え、何かしら田へ出てはいじった。そしてそれを記録する。もちろん一日では大きな変化は少ないため、貞尾は天気や風、空気の湿り具合といった細かな点まで書き溜めていった。

 自転車は下り坂を行く。加速しながら春の朝のまだ涼やかな風を胸に受け貞尾は次の手をあれこれと考える。

 今朝は朝焼けが綺麗な紫であった。今は薄く延ばされた白雲に水色の空が透けて見える。風の中に山鳩の声が繰り返し聞こえてくる。貞尾の好きな朝だった。

 どこかすぐ近くで雉が一声上げた。坂を抜けると田が眼前に広がる。

 幼い頃から駆け回った山や畦道、商店街は今の貞尾には窮屈だった。人も景色も代わり映えのないもので、市街地のように新しいビルや店もなく、人は出ても入ることのないこの村よりも、都会へ行き自分の 目で肌であらゆるものを見、触れ、感じたいと思った。結局貞尾たちにとって受験とは多少差はあれそういった目的によるものだった。

 自転車をこぎながら貞尾は思った。人は常に旅をしたいのかもしれない。この山へ来たはじめの人もおそらくそうだったのではないだろうか。山を越えて、渓谷を渡り、また山を越えて、――。ならば今度はこの地から出発して新たな地へ向かうのが正しいに違いない。だってそうではないか、人類はアフリカから南アメリカまでずっと歩いていったのだ。これで旅が嫌いという方がおかしい。きっとそうだ。自分だって庭へ出て遊ぶのが多かったが、近くの山、下の村、電車に乗って市街地へ。だから次は県外、都会へ行くのが正しい。貞尾は風の中でそう論理立てた。

 春、受験にも米作りにも熱を入れ始めたばかりの貞尾は、都会へ行くことの正しさを確認しては、進学を固く決めていた頃だった。


 その決意に暗雲が立ち込めてきたのは梅雨明け前の六月だった。

 志望校を決め始めている周囲に残されるように貞尾は進学先を決めあぐねていた。都内の大学と言っても学部も学科も様々ある。その中で興味が持てるものと言ったら生物系か工学系だった。そもそも今まで農業と市の工場しか仕事らしい仕事を知らず、商店や農家では村にいるのと変わらない。かと言って工業系も都心での就職まで繋がるようには考えられないでいた。そういった理由から貞尾は担任に本音も言えぬまま夏を迎えようとしていた。

 玄太はそんな心の内を知らぬか知ってか、田を任せてからは勉強にも継ぐことにも触れず、時おり田の様子はどうかと差し障りのない範囲できくだけでやはりそれ以上のことは言ってこなかった。

 もちろん貞尾から玄太にそんな相談をできるわけもなく、想いは葉の濃くなるとは反対に梅雨雲のように灰色にくすんでいくように感じられた。

 春までの作業のかいもあってか、苗はぐんぐん伸び青々としている。今までやってきたことがこの先実りとなっていくのだろう。貞尾は苗と自身を重ねてみたが、今まで与えられた肥料である経験は米作りくらいしかないと改めて理解できた。すでに自分の人生が幼い頃から祖父によって決められていたような気がして無性に悔しく思えた。米はこうして青々としているのに、進路一つまともに決められず、農業に縛られている身があまりにも違いすぎていて、稲の上を行く蜻蛉さえ嘲笑しているように貞尾には見える。

 拳をぐっと握り、ああっと声を荒げると足元のクローバを力いっぱい蹴った。散った葉は風に乗り、いく片かが苗の合間に落ちて浮いた。そんなものを蹴飛ばして、あめんぼはスイスイと田を横切る。夏は近づいているが、貞尾の心は停滞したままで内からの怒りに似た感情を勉強へぶつけることしかできないでいた。

 それからも心のもやもやは居座ったままで、夏の晴天さえ憂鬱に感じながら、この村ではできぬこと、自分の今までを肯定できること、そして何よりあの玄太をぬうと言わせてやれるようなことがしたいと思っていた。そんなことがはたしてあるのかとやはり悩み、農業でしか玄太を納得させられないようにも思えて、しかしそれでは村にいるのと変わらず、しかし今までの経験が十分に活かせ、だがやはり――、となる。

 その間も稲は育っていき台風の日はやってきたのだ。


「――、何でじゃ」

 貞尾は家へと向かいながら繰り返す。何でじゃ、何でじゃ、何でうまくいかんのじゃ。あんだけ時間掛けて、肥料やって、大きく育ったじゃないか、何でうまくいかんのじゃ。貞尾は稲を紐で束ね終えると玄太のもとへ向かった。

「なあじいちゃん。何で俺の稲だけ全部倒れてしまったんじゃ」

 結局何も教えてもらえぬまま、不合格を言い渡されただけだった。

 俺は農業すらまともに出来んかったんか。この十数年は何だったんじゃ。悔しさに任せて噛んだ米はかえって甘く感じられ、貞尾は乱暴に飯をかき込んだ。――、丈があったから俺の米は倒れたんじゃろか。でもそれならじいちゃんのだっていくらか倒れてもおかしくないはずじゃ。米を噛み締めながら、稲があんなにも容易く風に負けてしまった理由を考えた。が、結局高さ以外に考えつくところがないままで、それは翌年まで貞尾の中に残されるのだった。


 じいちゃんの米と比べてくそ不味かった時、二人で笑ったのは懐かしいものだった。――と、思っているうちに全てが白くなった。響く音が電車と気付き白む眼前に青が飛び込んでくる。車窓に青田と空と山が映り、思い出が逆回りをしていた。それほどまでに貞尾にとって一年が早くもありこの風景が強く残ってもあった。

 電車は稲を揺らす風となって走る。駅に着けば、すぐあの坂。そしてじいちゃんの田と家がある。

遮断機の音が高速で左へと流れ去る。練り飴の糸引くように音は細く小さく消えていった。それにともないブレーキが回数を増し、長くなると電車はゆっくりホームだけの駅へと停まる。アナウンスは終着と次の発車を知らせ沈黙した。目の前の扉が開き、一歩を踏み出す。

 陽光に温められたコンクリートの熱が足元から昇り、田を駆けた風が髪を撫で、フェンスの向こうの畑には紋黄蝶が舞い風と陽と戯れる。

 あたり前に過ごしてきた地に戻ったことがやけに新鮮に感じられ、貞尾は早く坂へと、心急かされる想いでホームを後にした。

 坂へ向かうまでの家並も変わらず、懐かしく思う。そもそも一年でそこまで大きな変化があったことは貞尾の覚えている限りでは一度もなかったのだが、帰郷というとそういった変化にまた郷愁を覚えるものだというところがあったからだろう。商店の通りも相変わらずなままで、村の人々でそれなりに賑わっている。途中数人とすれ違ったが見知った人に声を掛けられないところからすると、――と貞尾はこの地を離れていた一年の長さも短さもを幾度か感じつつ、坂を上った。

 雑木林は軟らかな日差しを跳ね返し、葉の隙間から淡いそれでいて透き通った光を道端の草花へ落としている。その坂を上り切るまでに二、三度雉の声を耳にして、目の高さが坂の上を超えると長い間出たくて仕方のなかった家とあの田があった。手荷物をぐっと握り直し、坂の上で止めた足を再び踏み出す。

 田を抜け庭を通り戸を開けると、親しみ慣れたにおいがする。

 玄関を上がり居間へ入ると、いつも通りに玄太は新聞を読んで座っていた。

「ただいま」

「おう、おかえり」


 勉強はどうなんだと尋ねた玄太は、貞尾の話にほうとかへえとか応えるだけだった。

 しかし貞尾が鞄から紙を数枚取り出したのを新聞片目に玄太は見ると、それを置いた。貞尾は玄太の目が急にあの穴蔵の熊の目になったとわかった。

「これさ、一年掛けて色々調べて勉強したんだよ。下の田畑もここも、このままじゃ皆荒れてなくなるんじゃないかと思ってさ」

「無駄なことをしおって。一年連絡もせんで何しとるかと思えば、そんなくだらんことに時間使っとったのか」

 目の色が変わったのは束の間で、返ってきたのは気迫ない言葉だった。

「無駄ってなんだよ。俺は美味い米作ってこの村が裕福になれば思っただけじゃ」

「美味い米なんかどこでも作っとるわ。それに裕福になったら皆村を出ていくのはわかるじゃろうて」

「まあ、そうじゃけど……」

 貞尾の一年は玄太の経験からいとも簡単に無駄扱いされてしまい、言葉はそこで途切れた。

「まあええ。久々に帰ったんじゃ、飯にしよう」

 そう言って玄太は台所へ行ってしまった。貞尾もまとめた資料を放って玄太の後に続いた。

「しっかり飯は食っとるんか?」

 豆腐の水を切っていると横から声を掛けられる。

「ちゃんと食っとるよ。たまにコンビニで買ったりするけど自炊しとる」

「ほう、たいしたもんだ。てっきり外食と出来物だけかと思ったわ」

「そんなことしたらすぐ金が尽きてしまうわ」

「お前はそんなに財政難なんか」と、笑いながら玄太は言う。

「自分で作った方が美味いだけじゃ」

 小鉢に入れた豆腐へ葱と生姜を盛って居間へ入る。と、先に戻った玄太が放っていた紙をまじまじと読んでいた。

「なんじゃ、散々に言っといたんに」

 豆腐を置きながら玄太に言う。

「ようわからんもんばかり書いてあるが、農業のことなんか?」

「そうじゃよ。作物のことばかりじゃのうて農学や農業をする人たちについても調べたんじゃよ」

「ほう、フェア、トレード? 百姓やってきて一度も聞いたことないがなあ」

「俺も知らんことだらけじゃ。それももとは収入が安定しない発展途上国とで行われとるらしいが、日本の野菜や米は高くて外国じゃ売れなかろうから。日本食ブームでもない限りはだめじゃろ」

「結局、それがうまくいっても人は戻って来んのじゃろ」

「そうじゃのう」

 玄太は自分が貞尾のすることに興味を抱いていることに気付くと何か気恥ずかしい気がして紙を脇に置いた。

「そうじゃ――」

 貞尾は思い出して鞄から土産を取り出す。土産と言っても東京のものでなく、地元の米で作ったものだが、玄太にはその方が喜ばしいだろうと考えてのことだった。

「土産じゃ」

 ぐいと玄太の前に突き出す。

「気が利くの。――なんじゃ、下の酒屋でも売っとる奴じゃねえか」

「えじゃろ。他のじゃ口に合わん言うんじゃから」

「ようわかっとる、わかっとる」

 目元に深い皺をつくると玄太はコップにそれをなみなみと注いだ。

「ほれ」

 コップを貞尾の前にぐいと出す。

「ありがと。注ぐよ」

「ああ――」


 小鉢も空になり、酒瓶の中も軽くなった頃、

「そういやの。――なんか施設ができるらしいんじゃ」

 貞尾はそれまで見なかった赤い顔の玄太を見ながら、

「何の施設じゃね」

 貞尾も呂律がうまく回らずにだいぶ酔いが回っているようだった。

「よく知らんが、土の研究をするそうじゃ。わしらには関係ないとは思うが、また誘致らしい。下の街もすっかり変わっちまった――」

「ほれじいちゃん、下に人が増えれば作物も売れるじゃろて。地産地消いうて地元志向が流行っとるんじゃから」

「――そうならいいがな」

 玄太は呟くと、小鉢に残った葱を箸でつまみ、コップに残った酒を飲み干した。

「ところで、いつ向こうに行くんだ?」

「明日の昼には戻るよ」

「ゆっくりしていけばいいじゃろに」

 玄太の声が明らかに沈んで聞こえた。

「また来年帰るからいいじゃろ。リベンジじゃ、ぎょうさん勉強してまた来るわ」

「期待せずに楽しみにしとるわ」

 また玄太の目元に皺が浮く。


 明くる日、貞尾は昼前の電車で東京へと戻っていった。

 玄太は、居間の窓際で熱心にノートを読んでいる。朝、貞尾が渡したものだ。そこには昨年育てた貞尾の稲について細かく記録がされていた。そして穫れた精米が一袋、玄太の脇に置かれている。

 その米の種は、玄太から貞尾へと預けた一畝から穫れた、――あの不味い米だそうだ。


 完

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山景の大地 狐夏 @konats_showsets

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