それからの志士たち
沖田 秀仁
第1話
それからの志士たち
沖田 秀仁
明治二十四年二月二十五日夜、大気には凛とした冬の名残があった。
麻布鳥居坂の井上馨邸に数台の俥が止まっていた。洋館の玄関両壁には煌々と外灯が燈り、玄関を入った右手の応接室のギャマンの窓ガラスが濡れそぼって、水滴が幾筋もの尾を曳いていた。
一週間ばかり前の二月十八日に三條實美は波乱万丈の生涯を閉じ、生前の功績を讃えて七日後の今日、国葬が執り行われた。幕末の激動期を生き抜いた仲間の葬送に、集まった誰もが深い感慨に耽っていた。降る雪のような静けさを破って、時折暖炉の薪が弾けた。
「三條卿は享年五十五歳であらせられたのか」と、溜息のような呟きが漏れた。
それは幾度となく呟かれたものだった。
今朝九時に二頭立ての馬車に乗せられた棺が麻布市兵衛町の三條實美の屋敷を出た。馬車は沿道に並ぶ人たちに見送られて日比谷を巡り昼前に音羽護国寺に着いた。明治維新以降初の国葬は明治十六年の岩倉具視の葬儀で、次いで明治二十年に没した島津久光の葬儀が二人目の国葬として執り行われ三條實美で三人目だった。
四人の男たちが猫足の丸テーブルを囲んでビロード張りの椅子に深々と腰を下ろしていた。井上馨だけが濃紺の袷を身に纏い、他の三人はしかつめらしく洋服を着込んでいる。
国葬当夜は政府から厳しい御達しにより歌舞音曲や芝居の類が禁じられていた。当然のことながら柳橋や神楽坂などの置屋や料亭も暖簾をおろして店を閉ざしている。まさか現職の総理大臣や貴族院議長たちが出掛けて店を開けさせるわけにはいかない。だが日頃の癖で日暮れると水が低きへ流れるように外出したものの行く当てはなく、一人また一人と申し合わせたように鳥居坂の屋敷へ集まってきた。日暮れから散歩がてら出掛けるのに、寛いだ井出達というわけにもいかなかったのだろう。ただこの夜ばかりは三條卿に憚ってか誰一人として微醺を帯びていなかったし、屋敷の主人に酒を所望する者もいなかった。
男たちは一様に黙りこくって肩の間に首を埋めていた。中でも国葬の主催者だった総理大臣山縣有朋は一段と疲労の色を濃くしていた。しかしそれは激務による疲労というよりも、寄る年波による衰えかも知れなかった。
「古より人生五十年と申しますから、早世ということでもないのでしょうが」
と、伊藤博文が遠慮がちに応じた。
伊藤博文は天保十二年生まれで、三條實美より六歳年下の四十九歳だった。
「嫌なことを言うな。儂は三条卿より一才ばかり上でこの中では最年長だが、まだ暫くはこの世に生きていたい」
伊藤博文の言葉を遮るように、窓を背に座る井上馨が気色ばんで呟いた。
「それにしても光陰矢の如し。文久三年に七卿落ちされたのも、慶応二年に高杉さんが僅か二十七歳でこの世を去られたのもつい昨日のようで、幕末・維新は遠のくばかりだ」
と、腕組みをした山縣有朋が低い声で取り成した。
「うむ「去る者は日々に疎し」とはこのことだな。なにはともあれ今日は晴れて良かった、昨日までは氷雨が降ったりしてかなり冷え込んでいたからな。さすがは生前他人に優しかった三条卿だけのことはあらせられる」そう言って、井上馨は納得したように頷いた。
前日までは冬の名残の木枯らしが吹き荒れていたが国葬当日は『晴天無風摂氏十一度と二月の東京にしては珍しく穏やかな日だった』と新聞に記されている。
三條實美が亡くなったのはインフルエンザが元とされている。数日来風邪をこじらせて高熱を発していたが、ついに肺炎を併発して不帰の人となった。葬儀の日が冷え込めば国葬に参列した高齢者たちが三條實美と同じように風邪をひいて寝込まないとも限らない。朝から井上馨は空模様と昨夜来の冷え込みを頻りと気にしていた。
「三條卿のことで心痛むのは、四年ばかり前に内閣制度へ移行した際の総理大臣人事です。世間では誰もが太政大臣の三條卿が初代総理大臣就任かという空気の中、僕が強引に初代総理大臣を奪い取ったのではないかと蟠りがありましたが、」
伊藤博文がそう言うと、井上馨は不機嫌そうに猫足の丸テーブルをドンと叩いた。
「バカなことを言うな。太政官制度を廃して近代国家として内閣制度とすべき宮中の会議で、誰を初代内閣総理大臣に推すかという段に差し掛かった折に「これからの総理大臣は赤電報(外電)が読めなければ駄目だ」と口火を切ったのは儂だぜ」
と、半ば芝居がって気色ばんで口を尖らせた。すると山縣有朋も茶化すように応じて、
「それじゃあ伊藤君しかいない、とやったのは俺だ。尤も俺は英語も蘭語も操れないが、こうして烏滸がましくも総理大臣を拝命しているがな」と真面目な顔で言って頬を緩めた。
世間の下馬評では太政大臣三條實美がそのまま初代総理大臣に横滑りするのではないかと見られていた。しかし政府内では生まれも育ちも高貴な三條實美は据え物の太政大臣こそ勤まるものの、一癖も二癖もある政治家相手に丁々発止の駆け引きが必要な総理大臣は勤まらないというのが大方の見方だった。とはいえ井上邸に集まった彼らは三條實美に対して各人各様の深い感慨を抱いていた。特に伊藤博文は自らの運命にかかわった人物として三條實美には強い思いがあった。
目を閉じれば伊藤博文の脳裏に功山寺決起当夜の雪景色がまざまざと甦ってくる。
元治元年十二月十五日夜、高杉晋作は藩政奪還に決起した。高杉晋作の求めに応じて伊藤博文は日暮れてから手勢の力士隊二十名を率いて駆け参じた。しかし主力の奇兵隊をはじめ諸隊は様子見を決め込んでいたため、集まった軍勢は他藩脱藩浪士からなる遊撃隊の一部と合わせて総勢八十余名に過ぎなかった。たったそれだけの軍勢で、高杉晋作は幕府に徹底恭順を唱える俗論派萩政府に戦いを挑む。それは生半可な決死の覚悟などというものではない。『死地へ赴く』という言葉がある。文字通り命懸けの、それも九分九厘敗北して囚われ賊の汚名を着せられ、野辺で首を刎ねられる無謀な決起だった。
しかし怯むことは許されない。ここで立たなければ日ノ本から尊攘派は悉く潰え去る。たとえこの場を生き延びたとして、松陰先生や命を落とした大勢の仲間たちにあの世でどの面下げて顔向け出来ようか。是非もない。馬関海峡から氷のように冷たい横殴りの吹雪が頬を叩き続けたが、伊藤博文ならずとも兵たちの顔面が蒼白となって強張り、全身が小刻みに震えているのは寒さのせいばかりではなかった。
高杉晋作は手勢を率いて雪の功山寺へ赴き、軟禁されている三條實美の前で「長州男児の肝っ玉をご覧に入れ申す」と叫んだ。藩を牛耳る俗論派打倒の決起にすら、高杉晋作は筋目正しい上士として大義名分を必要とした。いわば三條實美は正義派軍の旗印だった。
もちろん井上邸に集まった長州閥の明治政府要人たちは長州藩では正義派に属し、高杉晋作と共に命を賭けて戦った者たちだ。しかも井上馨を除く他の三人は松陰門下だった。彼らは松陰門下生という経歴があればこそ文久三年に長州藩で実施された人材登用令により足軽や中間から藩士に登用され、幕末の活躍により明治政府で官職に就けた。安政年間の萩の郊外松本村にたった二年半しか存在しなかった松下村塾に在籍した僥倖により、彼らの人生は大きく拓けたといえる。
ただ四人の中で井上馨だけが異っていた。筋目正しい家禄百石の上士の家に生まれ、小姓役として早くから藩主の身近に出仕した。そうした家柄と育ちに矜持がないわけではないが、経歴だけを縋って生きようとはしなかった。
井上聞多には身分制度を度外視するおおらかな性格が備わっていた。それは大風呂敷とも破天荒とも少し異なる。そもそも『聞多』という名は彼の博識ぶりを愛でた藩主・毛利敬親によって付けられたものだ。いや博識を愛でるというよりも「今少し他人の意見に耳を傾けよ」との戒めだったのかもしれない。しかし井上聞多はその名に誇りを持ち、明治維新まで『聞多』(ぶんた)という百姓のような響きを持つ名を名乗り続けた。
文久二年春浅い指月城の掘割に架かる石橋を、井上聞多は一足ごとに肩を押し出すように前屈みに急ぎ足で渡った。それは江戸表に出府した高杉たち松陰門下が品川の土蔵相模に流連して『尊皇攘夷』議論に花を咲かせているとの噂を小耳に挟んだからだ。そうと知ると矢も楯も堪らず登城して、藩主毛利敬親に脱藩を申し出た。
「なぜ脱藩したいのか」と藩主が尋ねると「尊攘をやる者とは脱藩をするものでござります」と、およそ理屈にならない言辞を弄した。
「そうか。それなら、脱藩するが良い」と、毛利敬親は笑って応えたという。
藩主の許諾を得ると井上聞多はその日のうちに国を後にして江戸へ向かったが、重役たちは「井上聞多の儀、いかが取り計らいましょうや」と藩主に聞いた。文字通りの脱藩なら追討の者を差し向けて、井上聞多を斬り捨てに処さなければならない。だが問いかけた重役に対して、毛利敬親は肥満した肉厚の右手を顔の前でヒラヒラと団扇のように振って、
「ナニ、江戸表へ遊学を申し付ける、とでもしておけ」と言ったという。
これまでも吉田寅次郎や高杉晋作も脱藩騒動を盛大にやらかしている。しかしついぞ藩は脱藩者へ追討の刺客を放ったことはない。藩は彼らの勝手な出奔を藩命による遊学と処してきた。その前例に倣って井上聞多の場合も遊学としたに過ぎなかった。
幕藩体制の根幹をなすものとして、三百諸侯は諸法度を厳守していた。統制を乱す者には厳罰で臨むのを常としたが、毛利敬親の長州藩は若者に寛大だった。それはほとんど奇跡的だった。重役たちは若者たちに大人の態度で常に接して、決して前途有為な芽を摘むことはしなかった。そうした自由闊達な毛利敬親の長州藩に志士たちは生まれ育った。
ただすべての物事には光があれば影がある。毛利敬親の治世は身分にかかわらず能力ある者にとっては僥倖だが、既得権を侵される無能な上士たちにとっては地獄だ。奔放な人材登用に危機感を募らせ、抜擢された下士たちに反感を抱く者も少なくなかった。
身分制度を楯に上士たちが敷居を高くしている中で、井上馨は人材登用令により中間から藩士に登用された伊藤博文たちとも初対面から蟠りなく親交を結んだ。それは身分に囚われず人物を見抜く慧眼によるものだが往々にして誤解を招きかねない。しかも開明さだけでなく豪胆さを兼ね備えた厄介な性格はあえて李下で冠を正し、平気で火中の栗を拾うところがあった。金銭面でも大身出自に特有な公私の区別のない鷹揚さはなにかにつけて伊藤博文をやきもきさせた。政敵にとってこれほど隙だらけの政治家も珍しかった。
「井上さんは筑豊炭鉱の某社に肩入れされているようですが、」
と、気配りの伊藤博文が心配顔に聞いた。
鹿鳴館だけでは不足と思ったのか、井上馨は渋沢栄一と大倉喜八郎を説き伏せて昨年十一月三日に鹿鳴館の隣に帝国ホテルを建てた。その趣旨は鹿鳴館で舞踏会に興じた西洋列強の駐在員たちをそのまま西洋旅籠に宿泊させるためだ。そうすれば日本の近代化をより良く知らしめることができると考えた。文明開化した日本を欧米人に理解してもらうには高邁な理屈よりも、子供じみて即物的なモノを見せる方が手っ取り早いのだ、と。
だが舞踏会という露骨な欧米化策に反感が高まり、井上馨の命を狙う国粋主義者が日本刀を振り回す事件が起きたりした。新聞でも即物的な欧化策を推進する紙のように薄っぺらな人物だと酷評されたりしたが、井上馨はそうした中傷を微塵も意に介さなかった。
やったのは欧化策だけではない。井上馨は殖産興業にも尽力した。
積極的に起業を援助して実業家たちとの親交を取り結び便宜を図った。そうした動きは政界で一際目立つため井上馨は私腹を肥やしているとか、官業払下げに関与して賄賂を受け取ったなどと新聞や政敵から事毎に叩かれた。だが実のところ、井上馨が尽力した殖産興業も、伊藤博文が明治五年に富岡製糸官営工場を建設したのが発端だった。その前年に仏国から日本政府に製糸工場建設の共同投資を持ち掛けられて、伊藤博文は即座に断っている。明治日本が独立自尊を貫くには、国内の産業資本形成こそが喫緊の課題だった。
「俊輔は相変わらず早耳じゃのう。栄鉱社への投資周旋話を渋沢栄一から聞いたンか」
と、心外そうに顔を歪めたが「まあ、ええじゃろう」と頷いた。
俊輔とは伊藤博文のことだ。伊藤博文は元々『利助』という名だったが、松下村塾に入門して間もなく俊輔に改名した。それは『利』という文字を松陰先生が最も嫌っていると高杉晋作が暗に諭して、名を変えるように勧めたからだ。その折に高杉晋作が『俊輔』という名を示し、伊藤博文は高杉晋作の勧めに応じて即座に改名した。明治維新後に名乗った『博文』もその時に高杉晋作が漢籍から採って示した名の一つだった。
「俊輔と儂は維新前に周布さんや桂さんや村田さんたちの骨折りで英国へ密留学した。西洋を実際に自分の目で見て機械仕掛けの文明開化ぶりに驚いたものじゃ。西洋諸国と対等に伍していくには富国強兵を断行せねばならぬと学んだ。まずは徳川幕府が欧米諸国と締結した不平等条約を改定せねばならぬ。そのために日本が文明国にならねばならぬし、文明開化した日本を欧米諸国に知らしめねばならぬ。鹿鳴館を建てて喧々囂々たる非難を浴び国粋主義者に襲撃されたが、やっとここに到り日本外交の眼目としてきた治外法権の撤廃と関税自主権の確立に目星がつき、小林君や陸奥君たちの働きで何とかなりそうだ。だが、それでもまだまだ奮励努力して日本は国力を蓄え軍備を整えねばならぬ。西洋列強が畏れるほどになれば、日本は欧米列強から蚕食されず無用な戦争に巻き込まれないで済む」
力強くそう言って、井上馨は寂しそうに笑った。
井上馨は伊藤博文たちと文久三年五月から翌元治元年六月にかけて英国へ蜜留学している。だから西洋とはいかなるものかを膚で知っていた。西洋人の理解を得るには具体的な形で表わすことだ。日本外交のために鹿鳴館などという大道具仕掛けの洋館を造って、夜ごと西洋の盆踊りをすることなぞ何でもない。ただ国内には直截的な欧化政策に無理解な輩が余りに多すぎて、井上馨を寂しい思いに追いやっていた。
まさしく井上馨は毛利敬親の長州藩が製造した逸材の一人だ。毛利敬親・長州藩の特異性は融通無碍な人材登用と学問の奨励だった。彼らは命懸けの密留学により逸早く産業革命の英国を知り後の活躍の大きな糧となった。幕末の長州藩は表向きでは『尊攘』の総本家の顔をして脱藩浪士を支援しつつ、裏では秘かに藩の若者を英国へ蜜留学させるという離れ業をやる破天荒なところがあった。
「随分昔のことだが、西郷南洲が儂のことを「三井の番頭さん」とぬかしおった。殖産興業を進めるには実業界を興し大資本をこの国に育てなければならぬというに」
と言って、井上馨は伊藤博文の杞憂を笑い飛ばした。
そもそも私腹を肥やす前に、井上馨の概念に公私の区別がない。いや『私』がなかったという方が正しい。彼が生まれ育った湯田の広大な敷地からして井上家のものではない。屋敷は藩主から拝領したもので、いつ取り上げられても不平の一つ零すものではない。たとえ私財を蓄えたところで「腹を切れ」と藩主から一言賜れば直ちに切腹しなければならない。武士とは取り乱すことなくいつでも死ぬべき時に死ぬように、幼少期から苛酷なまでに躾けられている。そして生涯、井上馨は一人前の男とはそうしたものだと思っていた。
ただ私欲がないということでは伊藤博文も人後に落ちない。蓄財して政界に派閥を作ったり、権勢を恣にしようという欲とは無縁だった。
「それにしても品川大井町の伊藤邸の有様は酷いぞ。張出した玄関軒や馬車寄がないのはまだしも、せめて洋館に建て替えたらどうだ。古ぼけた大きな長屋に大勢の書生を居候させて、まるで馬関吉田にあった奇兵隊の屯所のようではないか」
と言って、井上馨は大袈裟に慨嘆してみせた。
井上馨の屋敷は多度津藩京極家の江戸屋敷を購入し洋館に改築したもので、広大な敷地に立派な和風庭園が広がっている。外務卿在任中は連夜のように欧米諸国の駐日大使を招いて歓待したが、それと比べるまでもなく伊藤博文の屋敷は初代総理大臣を務めた者の屋敷にしては余りにもみすぼらしい。しかも住処に関して無頓着なのか、伊藤博文に一向にボロ屋敷を気に病む様子はない。ただ井上馨が「何とかしろ」と別の意味合いでいうのが分からないでもなかった。妻の梅子は女子を何人か産んだものの嫡男に恵まれなかったため、伊藤博文は井上馨の甥を養嗣子に迎えていた。
「吉田の屯所とは云い得て妙じゃ。奇兵隊か、懐かしいのう。僕は軍監だったが」
と、山縣有朋が天井を見上げて懐古するように目を細めた。
足軽の倅に過ぎなかった山縣有朋の人生は奇兵隊で軍監になったことから拓けた。それも松陰の同門奇兵隊総督・高杉晋作により抜擢されたものだったが。
「そういえば、奇兵隊で同じく軍監だった白井翁が一昨日から当家に逗留していなさる。明日にでも山縣さんや井上さんの屋敷を巡るように伝えてよろしいでしょうか」
と、伊藤博文は山縣有朋を揶揄するような眼差しで見た。
すると「白井翁はいかん」と、山縣有朋が苦々しそうに吐き捨てた。
白井翁とは白井小助のことだ。郷里周防柳井の郊外田布呂木に隠棲して素行と号している。当時すでに七十近い老人だった。暮らし向きが不如意になると上京して、維新政府で栄達している旧知の家々を無心して巡り歩くのを習いとしていた。
「俺を卑怯者と罵り、こともあろうに用便したケツを家内に拭かせる始末だ」
と、山縣有朋は忌々しそうに顔を歪めた。
白井小助は文政九年に長州藩家老浦家の兵法家の嫡男として生まれた。学識と見識に優れ指導力もあったが、維新政府で活躍するにはいささか生まれるのが早過ぎた。
文久二年六月に高杉晋作が藩公の許しを得て馬関に奇兵隊を創設した折、白井小助も山縣有朋と同時期に入隊し新兵の教練に当たった。齢は白井小助の方が二十から上で兵法家として洋式砲術や銃陣を佐久間象山などから正式に学んでいる。山縣有朋の上役に就いてしかるべきだが、奇兵隊総督高杉晋作は松下村塾出身の山縣有朋と同列の軍監に留めた。
白井小助は別名『周南の独眼竜』と呼ばれている。それは元治元年八月の四ヶ国連合艦隊との戦争で応戦していた折、手にしたゲベール銃が暴発して右眼を吹き飛ばしたからだ。
出血が激しく一時は危うかったが、なんとか命を取りとめた。だが戦列を離れたために功山寺挙兵から始まる一連の内訌戦に参戦していない。山縣有朋が慶応元年一月六日からの藩内戦争で奇兵隊総督として勝利し、それ以降の出世の足掛かりを得たのに対して、白井小助は傷養生のために周防柳井郊外の阿月へ隠棲して時流に乗り損ねたといえる。
傷が癒えると白井小助は郷里熊毛郡の岩城山に第二奇兵隊を組織し、第二次征長戦争で周防大島に上陸した三千余の幕府軍を相手に約三百の兵で奮戦して撃退した。
戊辰戦争では奇兵隊参謀として北陸から奥羽へ転戦して輝かしい戦歴を上げている。ただ河合継之助の長岡藩と戦った朝日山総攻撃で山縣隊が遅れたため、先鋒として突撃した時山隊が激しい集中攻撃にあって隊長の時山直八をはじめ隊士のほとんどが戦死した。そのことを以て「山縣は憶病者だ」と白井小助は方々で吹聴した。維新後に山縣有朋が重職に就いてからも白井小助は以前と変わらず罵り続けた。
「白井翁は苦手だ。朝日山総攻撃で俺が七つを七時と勘違いしたから遅れたと、何度説明しても「山縣小介は卑怯者だ」と大声で罵倒する。あの御仁の前では俺の面目もあったものではない。掛りや路銀などは僕が持つから、伊藤君なんとか相手してくれんか」
と言って山縣有朋が頭を下げる姿に、一同は腹を抱えた。
「帝国議会初の総理大臣が田舎の爺に手を焼くとはな。これだから世の中は面白い」
と、井上馨は手を打って笑い転げた。
それを見て、山縣有朋は鼻白んだように口をへの字に曲げた。
無欲な者は始末に悪い。欲深い者はその欲を梃に懐柔できる。しかし無欲な者には道理で説くしかない。だが説く者に道理があれば良いが、世間には道理のない場合が往々にしてある。その場合は潔くシャッポを脱いで頭を下げるしかない。無欲の者の前では自分が何者であろうと、たとえ内閣総理大臣であろうと道理以外は大して意味を持たない。
経歴や資質からいえば白井小助は帝国陸軍にあって山縣有朋と肩を並べていてもおかしくない。しかし白井小助がそれを拒む。かつて山縣有朋が陸軍に誘ったが「皆が立身出世しては野山に仆れた仲間たちに顔向けができまい」と痛いことを言って、用意した陸軍大佐の肩書には見向きもしなかった。そんな白井小助にある種の負い目を感じているのは山縣有朋一人だけではなかった。
「実は、屋敷の書生たちの多くは白井翁の紹介です」と、伊藤博文は遠慮がちに言った。
「その大半が維新前後に命を落とした諸隊士の遺児や縁者たちです」
と続ける伊藤博文の言葉を聞くと、井上馨たちは驚いたように目を見張った。
「そうだったのか。上京してきた者たちの暮らしの面倒を見た上に学校まで行かせては貧乏するのも道理だ。俊輔の困窮ぶりは病気のような芸者遊びが原因だろうと思っていたが、大勢の書生まで抱え込んでいてはのう、なるほど屋敷の造作にまで手が回らぬはずだ」
と、井上馨は得心したように大きく頷いた。
初代総理大臣を務めた男の、嘘のような貧乏暮らしの逸話がいくつか残っている。
朝鮮総督として赴任する前に、天皇陛下は伊藤公を屋敷に訪問したいと侍従に漏らされた。日本の初代総理大臣を屋敷に訪問して長年に亘る労をねぎらいたい、とお漏らしになったため、さっそく侍従が段取りのために伊藤の屋敷を秘かに訪れて驚いたという。
確かに敷地は広く建屋も大きいが、大きいというだけで江戸時代の裏長屋さながらの陋屋だった。その報告を聞いて、天皇陛下はご訪問を取りやめられたという。訪問されれば却って伊藤博文に気を遣わせることになりかねないと思われたからだ。
後に朝鮮総督伊藤博文はハルピンの駅頭で凶弾に仆れ六十九年の生涯を閉じる。明治政府は元勲の死に際して国葬を以て弔意を表すことにした。だが困ったことに葬列は二頭立て馬車で伊藤邸から出るのが決まりだが、屋敷にそうした車回しもしかるべき玄関もなかった。政府は急遽国葬の支度金を伊藤家に二千円支給して屋敷の改築をさせている。
「戊辰の役に勝利し凱旋した隊士たちを明治政府は弊衣のように捨て去った、と白井翁は怒っておられる。諸隊兵士たちに何ら報いることなく武装解除と解隊令を発した。隊士たちが反発するのは当たり前だが、反発した兵たちを山口藩政府軍は柳井田関門で殲滅したと怒っておられる」と、伊藤博文は井上馨の立場を慮るように遠慮がちに言った。
「酒が入ると同じ話の繰り返しです。明治政府で立身栄達した者は良い。しかし戦功を顧みられることもなく、反乱軍として汚名にまみれて処刑された隊士たちはどうなる。奴等の犠牲の上にお前たちのイマがあるのを忘れるな、と涙を流しながら申される」
静かな口調で、伊藤博文は白井小助の口惜しい思いを伝えた。
命を擲って戊辰戦争に出征した勇猛果敢な諸隊士たちも戦乱が治まれば無用の長物だ。しかも明治初年の山口藩に三千名を超える規模にまで膨れ上がる諸隊兵士を養う財政力はない。やむなく山口藩は武装解除と解散令を発した。しかし諸隊は解散するどころか憤怒の抗議文を藩政府に叩きつけ、武器を手に脱走する兵が相次いだ。年の瀬には脱走兵が二千を超え、山口近郊で徒党を組むに到って藩政府は恐怖に慄いた。
年が明けて藩から容易ならざる事態の報せに、急遽山口へ帰った木戸考允と井上馨は脱走兵の鎮撫と武装解除に当たった。だが脱走兵たちは頑なに要求を撤回せず、ついに二月八日未明に木戸・井上率いる藩政府軍と反乱軍は小郡郊外の柳井田関門を挟んで衝突した。
木戸も井上も藩士の出自で彼らが率いる藩政府軍の兵も元藩士たちだが、脱走兵たちは百姓町人の次三男からなる元諸隊の隊士たちだ。藩政府軍が圧倒的な火器により苛烈な攻撃で蹴散らしてもそれほど痛痒を感じなかったとしても不思議ではない。
しかし白井小助の立場は異なる。隊士たちの命を守るため最後まで奇兵隊参謀として働き、山口政府の諸隊解除命令に従って武装解除をすべく諭し、除隊後の隊士たち一人ひとりの暮らしが立つように奔走していた。
「なぜあれほど完膚なきまでに追撃し、捕えた大勢の兵たちを極刑に処したのだ、と酒が入られると繰り言のように大声で叱られています」と、伊藤博文は淡々と語った。
他の二人は苦笑したが、井上馨は沈痛な面持ちに腕を組んで黙り込んだ。
山口藩兵を率いて反乱軍鎮圧の陣頭指揮を執った井上馨の胸中は複雑だ。確かに明治維新が成ったのは隊士たちの働きがあればこそだが、彼らの横暴を聞き入れていては維新政府の財政が持たない。共に戦った仲間に銃口を向ける非情さや身勝手さは承知した上で、そうした理屈を百も承知の上で「それならどうしろというンだ」と開き直らざるを得ない。
だが白井小助を叱り飛ばすことは出来ない。白井小助は軍幹部として藩政府の命に従うように兵を説得し、騒乱鎮静後は山縣たちの用意したあらゆる官職を固辞し、独り郷里に隠棲して手許不如意となるや東京に出てきては旧知の屋敷を無心して歩く。厄介な存在だが、維新の立役者の一人として誰も邪険に出来なかった。
明治三十三年に白井小助は孤高のまま故郷の庵で七十七歳の生涯を閉じる。周防田布呂木の丘に立つ自然石の白井小助顕彰碑に刻まれた碑文は山縣有朋によるものだ。
ちなみに高杉晋作の記念館『東行庵』の境内に立つ顕彰碑『動如雷電發如風雨衆目駭然莫敢正視爲以非我東行高杉君…(動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し。衆目駭然として敢えて正視するものなし、これ我が東行高杉君に非ずや…)』の書き出しから始まる高名な碑文は伊藤博文が亡くなる一月前の明治四十二年九月に記したものだ。二年後の五月二十日に吉田の東行庵で開催された『東行顕彰碑除幕式』には亡き伊藤博文に代わり、喜寿を過ぎた井上馨が老体に鞭打って新橋から下関まで直通急行列車でおよそ二十九時間も揺られて駆けつけ、初夏の炎天下二時間に及ぶ万感胸に迫る大追悼演説を行っている。
白井翁の奔放な逸話に大笑した後、真顔に戻った伊藤博文は隣の品川弥二郎を見た。
「一昨年に独逸から帰国してから、京の吉田に「尊攘堂」を建てたと聞いたが」
と言って、感心したような眼差しで微笑んだ。
問われた品川弥二郎は驚いたように伊藤博文を見詰めた。
「はあ、伊藤さんはお耳が早い。元々「尊攘堂」は松陰先生が尊攘に殉じた人たちの慰霊堂を京の地に建てたいと願っておられたものです。その志を入江九一が継ごうとしたが、御存じのように九一は久坂玄瑞と共に蛤御門の変で自害して果てた。自分は僥倖にも生き長らえ維新政府で官職を得ている。よって、せめては九一の遺志を継いで仲間たちの…」
と、品川弥二郎は声を詰まらせた。
日本初の軍歌といわれる『トコトンヤレ節』は品川弥二郎の作詞で「松陰を死罪に処した徳川幕府をとことんやっつけろ」というものだ。優しい風貌に似ず、いかに烈しい気性を内に秘めていたかが窺える。曲をつけたのは村田蔵六だったといわれている。
「白井翁の気持ちは良く分かります。明治の御代になって二十有余年、既に高杉さんの名を知る者も少なくなっています。ましてや戦野に仆れた者たちの顕彰を僕たちがやらなくて誰がやるのでしょうか」と、穏やかな品川弥二郎にしては珍しくが語気を強くした。
皆は驚いたように品川弥二郎を見た。そして大きく頷いた。自分たちがやらないで誰がやるのか。誰が維新の途上に仆れた志士たちを顕彰し遺族の名誉を回復するというのか。
「生きて明治の御代を迎えた僕らが無名のまま仆れた者たちを顕彰し、名誉回復しなければならぬ定めがあるようだのう」と、誰からともなく低い呟きが洩れた。
ギヤマンの窓ガラスを水滴が滑り落ちて桟を流れた。三條實美を偲び喪に服す夜の過ごし方として、これほど相応しい集いはなかったかも知れない。鳥居坂の井上馨邸に、時が静かに流れていた。
それから二ヶ月後のある春の宵、品川弥二郎の私邸に井上馨から電話があった。
「三條卿の国葬の夜に儂の家で話したことだがのう」と、井上馨は唐突に話し始めた。
「心に引っかかる男が一人おる。弥二郎は所郁太郎という名を知らぬか」
井上馨は万事が自分の気分で話を進める。だから井上馨の気持ちを忖度するまで生半可な返答が出来ない。
「所郁太郎なら良く存じています。彼の最期を看取ったのは近所の女房で身の回りを世話していたお菊と、所の縁戚で従者だった長屋丁輔と、それに諸隊の同僚として出向いた僕と寺内寿三郎と土屋良策の三人です。所郁太郎は内訌戦の戦友で、忘れられない御仁です」
と、品川弥二郎はそつなくこたえた。
内訌戦とは功山寺決起の勝利により触発された奇兵隊をはじめとする諸隊が萩政府と決戦の意を固めて馬関と萩の中間地点に当たる絵堂・太田まで進軍し、そこで慶応元年一月六日から迎え撃つ長州藩正規軍と数次に亘り戦った内戦のことだ。
「明治二年に京都霊山に維新に殉じた者が祭られたのは承知しているが、郷里大垣での扱いがどうなっているのか気になってのう」と、井上馨が聞いた。
「確か所郁太郎は赤坂宿の造酒屋の四男で、医師の所家へ養子に入ったと聞いていますが」
と、品川弥二郎は記憶をたどるように答えた。
品川弥二郎は御楯隊で所郁太郎は遊撃隊と隊は異にしたが、二人とも参謀を勤めていた。慶応元年の内訌戦当時、諸隊幹部会議で幾度となく顔を合わせている。
そもそも遊撃隊とは長州藩の豪傑来嶋又兵衛が組織した軍で、数ある諸隊の中でも奇兵隊と双璧をなす精鋭だった。しかし蛤御門の変で先頭を駆けて繰り返し突撃したため来嶋又兵衛をはじめ、六百を数えていた兵の大半が戦死してしまった。
壊滅状態となった遊撃隊の総督に長州藩士石川小五郎が就任し、脱藩浪士に入隊を呼びかけた。京都にいた脱藩浪士たちは唯一の拠り所だった長州藩邸を失ったため、彼らはこぞって遊撃隊に入隊し二百名を超える大部隊になった。土佐藩から命を狙われた脱藩浪士中岡慎太郎が長州藩へ逃げ込み、一時期身を潜めたのも遊撃隊だった。
「明治二年、維新前に斃れた志士たちを京都霊山に祭る際、所郁太郎の遺髪や遺墨などを奉納したのは長屋丁輔だったと記憶していますが。遊撃隊に加わる以前は確か周布政之助様が京藩邸の医院総督に抜擢されたお方で、文久三年の御所の政変で長藩へ落ちられる三條卿の侍医を周布様に命じられ、三條卿の御一行に随伴して長藩へ来られたはずです」
と品川弥二郎は八歳年上の井上馨に遠慮勝ちに言った。
「おお、まさしくその通りじゃ」
徐々に、井上馨の脳裏に維新前夜の騒然とした長州藩の記憶が甦ってきた。
「内訌戦で遊撃隊総督は石川小五郎で所郁太郎は参謀でした。僕は太田市之進が総督を務める御楯隊で山田顕義と共に参謀を務めていましたから良く存じています。その所郁太郎が井上さんと何か」と、品川弥二郎は聞いた。
「儂の命の恩人じゃ。元治元年九月二十五日の夜、山口から湯田へ帰る途中の袖解橋で椋梨籐太の倅たちに待ち伏せられ闇討ちされたことがある。儂は瀕死の重傷を負ったが、その折に何処からか駆けつけてきて、畳針を鈍して曲げて作った縫合針で十三ヶ所に及ぶ斬り傷を五十余針も縫って助けてくれた」
そう言って、井上馨はしばし絶句した。往事のことが鮮やかに脳裏に甦った。
「所郁太郎は内訌戦に勝利した後、幕府が決めた長州討伐軍の芸州口への侵攻に備えるために、周防高森の通化寺へ転進した遊撃隊へ高杉晋作と共に檄を飛ばしに行って戻った直後に俄かの病で吉城郡の借家で没したと聞かされておる。しかし所郁太郎の郷里で彼がどのように顕彰されているのか詳らかには知らぬ。ひとつ調べてくれぬか」
と、井上馨は同期仲間の最年少で無冠の品川弥二郎に所郁太郎の調査を依頼した。
しかし品川弥二郎が暇だったわけではない。明治政府で品川弥二郎は主として内務省畑を歩き、これまでにもドイツ公使となってドイツ勤務も経験している。長州閥出身の官僚として多忙な日々を送っていたが、そうした事情をおくびにも出さず「何とかやってみましょう」と承諾した。
品川弥二郎はさっそく美濃岐阜県庁へ人を遣って調べさせた。簡単に親戚縁者の居所は判明するものと思っていた。が、手掛かりは一向に得られなかった。
岐阜大垣は譜代大名大垣藩の地だ。いわば所郁太郎は藩に背いて尊攘運動に身を投じ、幕府と敵対する長州藩に協力した。その累は親族に及び血縁者たちは地を追われ散り散りになっていた。縁者探しは暗礁に乗り上げてしまった。一月も経つと事の深刻さを認識し、品川弥二郎はやむなく井上馨に依頼された一件が不首尾に終わったことを告げて詫びた。
「岐阜県議会に大垣から出て、議長を勤めている金森吉三郎と申す者に縷々調査を願ってきましたが、捗々しい結果が得られませんでした」
と、品川弥二郎は所郁太郎の親戚縁者を探し出すのがかなり困難だと報告した。
井上馨は受話器を掴んだまま「うむ」と呻いた。無理もなかろう、所郁太郎が郷里を出奔してから既に四半世紀も経っている。縁者が大垣藩から様々な迫害に遭って散り散りになったとしたら、郷里を探しても見つけられないかもしれない。
品川弥二郎は引き続き調査することを約したが、それから間もなく五月に成立した松方義正内閣で内務大臣に任命された。初入閣の慶事には違いないが、井上馨からの依頼一件は頓挫せざるを得なくなった。天保十四年生まれの品川弥二郎は当時四十七歳で、これから政治家としての前途洋々たる明るい未来が拓けていた。品川弥二郎が井上馨の恩人探しに付き合う暇はなくなったが、依頼した本人も日々の雑事に忙殺され顕彰の件どころではなかった。ただ折に触れて所郁太郎のことが思い出されてならなかった。
五月下旬の梅雨模様のまま煙るように暮れた夜に、鳥居坂の屋敷を渋沢栄一が訪れた。
用件は格別なことでなく、以前に渋沢栄一の求めに応じて投資家を紹介したことに対する御礼だった。それは今年の初に渋沢栄一が筑豊炭鉱の再興のために投資家を紹介して欲しいと井上馨に依頼し、しかるべき投資家としてかつての主家毛利広徳を紹介したものだ。毛利家も井上馨の紹介なら是非もないと応じて投資し、筑豊炭鉱は見事に再興した。
その報告を一通り聞き終えると、今度はお返しに井上馨は自分の依頼を聞けと所郁太郎顕彰の一件を持ち出した。品川弥二郎が岐阜政界に働きかけたが捗々しい成果を得られなかった経過を告げると、しばらく考え込んでから渋沢栄一は顔を上げ、
「そのような話なら、どうでしょう。ひとつ岐阜県の地方新聞に広報記事を掲載されては。それも一度では見落とすかもしれませんから続けて数日間掲載しては」と、知恵を出した。
「なるほど、新聞に告知を出すとは名案だ。さっそく知る限りの岐阜地方の新聞に、所郁太郎の親戚縁者を探す記事を掲載してもらえんか」と言って、井上馨は頭を下げた。
実業家・渋沢栄一の動きは早かった。
六月の初旬から全国紙の岐阜県大垣版はもとより、創刊間もない大垣地方紙の扶桑新聞や新愛知や大垣通信、岐阜日日新聞などに手配して「所郁太郎の縁者の消息を求む」との告知記事を数日間掲載した。ちなみに岐阜新聞の前身岐阜日々新聞には六月七日と六月三十日と七月一日とその翌日の七月二日に告知記事を掲載している。
すると読者から様々な情報が各新聞社に寄せられ、それを渋沢栄一が懇意にしている名古屋の実業家が取り纏めて報告してくれた。
まず所郁太郎の妻『たつ』や娘の生存が確かめられた。待ちに待った報せに井上馨は手を打って喜んだが、男子に恵まれなかったと聞いて落胆ぶりを隠せなかった。
「美濃は赤坂宿の造酒屋の矢橋亦一と「さい」の四男だったと分かったものの今は店を畳んでいます。何しろ大垣藩は譜代の名家だっため、所郁太郎が尊攘派に加わったことで厳しく咎められたようです」
渋沢栄一の電話による報告に井上馨は「うむ」と呻くようにこたえた。
「十一歳の折に西方村の所伊織という医師の養子になっています。そこで医家を継ぐべく近在の医師の許へ勉学に通っていますが、そうしたことは今後おいおい調べれば」
――分かることだ、と渋沢栄一が手短に説明した。
「遺族にさっそく会って他の親族のことも詳しく聞くべし」
と、井上は壁の送話口に頭を下げて渋沢栄一に頼みこんだ。
まずは縁戚縁者の行方を探して所郁太郎の家名再興と顕彰を行わなければ井上馨の面目が立たない。報告では『たつ』は再婚していて所郁太郎との縁は切れているようだが、娘の『す免』は結婚後も所姓を名乗っているという。
一旦電話を切ったものの、井上馨は居ても立ってもいられなくなった。壁に戻したばかりの受話器を取り、送話口に噛みつく勢いで交換嬢に「渋沢栄一」と叫んだ。
「明日にでも美濃へ行きたい。なんとか段取っちゃもらえんか」
電話口に出た渋沢栄一に井上馨は懇願した。
しかし明日に美濃へ行ったところで、相手には相手の都合がある。井上馨が美濃で所郁太郎の足跡をたどるにせよ、所郁太郎の縁者と会うにせよ、相手にはそれなりの支度というものがあるし都合がある。
「慌ててはいけません。急に餅は撞けませんから。まずは餅米を蒸して捏ねなければなりません。岐阜県会議長の金森吉三郎氏と連絡を取っていますから、しばしお待ちを」
実務家らしい理詰めの口調で、渋沢栄一は井上馨を窘めた。
実のところ新聞告知後も所郁太郎の縁者の消息はなかなか掴めなかった。大垣藩は譜代の名門で尊攘派に身を投じた所郁太郎の親族に対する詮議は厳しいものがあったようだ。そのため彼らは住み慣れた地を離れ散り散りになっていた。藩から酷い仕打ちを受けた記憶は維新後二十四年経った今も容易に消え去るものではないようだ。
ただ所郁太郎の縁者は養子先の所家だけではない。生家の矢橋家縁者の行方も探し求めなければならない。が、矢橋家も所郁太郎の実家として咎めを受けて、亦一の次の代を以て造酒屋は暖簾を下ろし、縁者一族は赤坂宿から立ち退いていた。
西方村が大垣藩預かりの幕領だったため上洛した所郁太郎本人にも謀反人として追及の手が及び、親族に対して所郁太郎を探索すべきとの命が下された。そのため所家は村人を何人か雇って京へ遣り所郁太郎に帰郷を説くも「妻子を呼び寄せて一緒に京で暮らしたい」との意向を示したという。
そうした探索費用などもすべて所家持ちだったため養家は困窮し、しかも幕府に反逆する謀反人を出した家として戸籍を抹消され、西方村から立ち退かざるを得なくなった。西方村を追放されて何処へ行ったのか、杳として行方は分からなかった。
そうした経緯を知るにつけて、井上馨は所幾太郎が長州藩とかかわりを持ち尊攘派に身を投じたばかりに、養家のみならず生家までにも累が及んでいることに心を痛めた。理不尽な仕打ちを腹立たしく思うと同時に、所郁太郎の遺族の心労を思わずにはいられなかった。必然的に井上馨は所郁太郎の顕彰のみならず、所家の再興をすべく決意した。
七月に入ると所郁太郎の縁者たちの消息が次第に詳しく分かって来た。
所郁太郎は入塾した適塾で抜群の学才を示し、短期間で塾頭になっている。適塾の学問は蘭方医学のみならず究理学から洋式兵学、さらには社会思想哲学までと広範囲にわたっていた。それらをオランダの原書で読み、輪番で塾生に説明し質問に応えるという学習方法を採った。緒方洪庵は塾生たちの議論が原書から外れた場合のみ助言したという。
後に所郁太郎が尊攘派に身を投じることになる思想の原型は適塾時代に培われたといわれている。所郁太郎が入塾した当時に塾頭だった長州藩の伊藤慎蔵と既知を得たことから広く天下を知ることになったという。時代こそ異なるが適塾の塾頭といえば福沢諭吉や村田蔵六なども務め、彼らのその後の活躍と照らし合わせれば、所郁太郎が彼らに勝るとも劣らない資質を持ち合わせた人物だったことが窺える。
しかし所郁太郎が適塾で学んだのは一年半と極めて短い期間だった。緒方洪庵は幕府のたっての要請を受け容れて江戸へ下ることとなり適塾が閉じられたからだ。やむなく所郁太郎は養父の強い意向に従って養家の西方村へ戻った。そして娘のたつと祝言を挙げた。
所郁太郎は一年ばかり西方村の村医者として穏やかな日々を過ごしている。しかしたつが身籠ったのを知ると養子として最低限の役目を終えたとして、医学修行を京で続けたいと養父に願い出た。
所郁太郎は適塾時代に塾仲間とアジアに進出している欧米と日本のあり方を議論するうちに「尊攘」に強く共鳴した。同時に適塾で西洋の書物を紐解けば紐解くほど日本の国家としての遅れに気付かされ、清国がアヘン戦争などにより欧米列強に蚕食されている現実に危機感を覚えた。そうした中にあって長州藩だけが国家としての日本の危機を認識して「攘夷」を唱え、天下の尊攘浪士たちの拠所となっているのを知った。そこで長州藩京藩邸の近くに診療所を開業すれば長州藩の人たちだけでなく、広く「尊攘」派の人物と知り合えるのではないかと秘かに考えた。
もちろん養父は郁太郎に西方村で村医者として家業に勤しむことを願った。上洛には大反対だったが、所郁太郎が故郷西方を出奔してでも上洛する覚悟だと知って、ついに折れた。ただ条件として自分の弟の孫に当たる長屋丁輔を従者として連れて行くように命じた。
翌文久三年二月たつは女児を出産して名をす免と名付けた。だが所郁太郎は妻の出産後に一度も帰郷することなく、その年の八月には七卿とともに長州藩へ下っている。そのため終生我が子の顔を見ることはなかった。
「存命であれば娘は三十前か。それで妻のたつの所在は判明したのか」
と、井上馨は急き込んで聞いた。
送話機の向こうで返答を逡巡していたが「それが、」と、渋沢栄一は言葉を濁した。
「所郁太郎亡き後、他家へ再婚して行き、いまさら世間に出ることを憚っているようです」
渋沢栄一がそう言うと、井上馨は「そうか」と落胆したように呟いた。
この国には未だに未亡人などという嫌な言葉が残っている。明治時代の世間は二夫に見えた女に対して想像できないほど極めて冷ややかだった。
「それで、す免なる娘はいずこにおる」と、井上馨は再び声を弾ませた。
たつを顕彰会の役員に引っ張り出すことを諦めて、郁太郎の娘に希望をつないだ。
「す免なる者は所家の家名を守るべく婚姻後も「所」姓を名乗っているようです。しかし西方の屋敷跡は桑畑となり、す免も仕事を求めて製糸業の盛んな群馬県へ移ったようです」
と、渋沢栄一の声は沈んだままだった。
井上馨のみならず渋沢栄一も捗々しくない縁者探しに気落ちしたようだ。
江戸時代はいうに及ばず、昭和も先の大戦終了まで「家」は嫡男相続が基本だった。家名存続のために養子をとるにしても戸主は男子と決まっていた。それが実子とはいえ女では家名安泰とは云い難い。
「儂たちは尊攘だ倒幕だと命懸で東奔西走していたが、その陰で所郁太郎の血族や縁者には大層迷惑を掛けたようだのう」
と、井上馨も気落ちしたように溜息をついた。
「ここは所郁太郎の生家矢橋家の血縁者を所家の養子として「家」を興すのも一つの方法かと」と、渋沢栄一が提案した。
所家の再興は井上馨も願っていたが、生家の者を立てるのは何も突拍子もない話ではない。家名存続のために生家から養子を迎えることは普通に行われていた。
「確か所郁太郎は矢橋亦一の四男だったと聞いている。それなら矢橋亦一の親族に適当な人物がいるに違いない。是非とも医業を学ばせて、所家の養子として再興したいものだ」
井上馨は乗り気になり、矢橋家の縁者を探して欲しいと渋沢栄一に頼んだ。
秋風が立ち始めた九月も末の夜半、井上馨邸に品川弥二郎から電話があった。
「新聞広告を出すとは。さすがに実業家の知恵は違いますね」
と、ひとしきり渋沢栄一を褒めた後、思い出したかのように、
「僕の記憶では所郁太郎の従者を勤めていた長屋丁輔は矢橋家の縁者です。所郁太郎は井上さんが袖解橋で児玉愛二郎たちから襲撃される一月前から、彼は不穏な動きを察知して僕に書き送っています。『志士仁人效命秋 狂夫何事漫優遊 此身不向馬関死 携妓東山対酒桜』という漢詩に託した文を僕に届けたのも長屋丁輔でした」
と、品川弥二郎は井上遭難の裏話を打ち明けた。
確かに英国密留学から帰国した井上聞多は尊攘派からも佐幕派からも命を狙われる存在だった。藩内の両派に「井上斬るべし」との声が満ちていたのは知っている。しかし、それに怯んでいては何事も達成できないと井上は笑い飛ばしていた。
尊攘派にあっても所郁太郎は「井上斬るべし」とはならなかった。所郁太郎には適塾で学んだ世界的な広い視野を持つ見識があり、七卿落ちに公家たちの従医という立場もあった。もちろん尊攘派にとっては三條卿たちこそが彼らの拠って立つ旗印であり、三條實美たちの命を守らなければならないという悲壮なまでの義務感に包まれていた。
なぜ井上遭難の際に所郁太郎が忽然と井上家に現れたのか。それは所郁太郎が湯田温泉宿にいたからだ。それも一人ではない。三條實美とともに松田屋の一室に潜んでいた。
本来なら公卿たちは遊撃隊や御楯隊などの諸隊に守られて三田尻長州藩別邸『大観楼』に滞在しているはずだった。しかし三條卿は所郁太郎と数名の隊士に守られて湯田の松田屋にいた。もちろん他の遊撃隊士のように井上聞多を斬るために潜んでいたのではない。
三條實美たちは政事堂の動きを探りにきていた。長州藩討伐令を発した幕府に対して、長州藩は椋梨籐太を頭目とする佐幕派の「徹底恭順」派が主導権を握るのか、それとも一人で「武備恭順」を唱える井上聞多が藩を牛耳るのか、に三条卿たちの命運もかかっている。藩士からなる正規軍・撰鋒隊の隊士の間には七卿たちを斬ってしまえという暴論すら渦巻いていたため、三條卿たちも命を賭けた隠密行動だった。長州藩がどうなるのかがここ数日の御前会議の趨勢にかかっていた。それは自分たちの運命でもあった。
九月二十五日に朝から日暮れまで政事堂で行われた御前会議で佐幕派と尊攘派が激論を戦わせた。居並ぶ藩士の中で『武備恭順』を唱えるのは井上聞多ただ一人だった。英国から命懸で帰国した盟友・伊藤俊輔は四ヶ国連合艦隊との和睦条件の一つ損害賠償金を各国公使と取決める交渉役の通事として横浜へ出向いていたし、高杉晋作は先の脱藩騒動から捕えられ座敷牢に軟禁されていた。そのため井上聞多は一人で「幕府に全面降伏すべきでない」と吼え続けて、大広間に雁首を揃えた「徹底恭順」派の重役たちを蹴散らした。その日は結論の出ないまま日が暮れ、翌二十六日は藩士の末席まで総参集を命じて散会となった。毛利敬親は「武備恭順」に傾いていたといわれている。
井上聞多が政事堂を後にしたのは暮れ五つを過ぎていた。大門を出ようとすると、政事堂に留まってはどうかと井上聞多に忠告する者があった。石州街道の傍の円龍寺辺りに不穏な連中がいるというのだ。円龍寺とは撰鋒隊が分宿している寺の一つだった。しかし井上聞多は「俺も腕には多少の覚えがあるから大丈夫だ」と聞き流した。
政事堂の中川原から湯田の井上邸まで一里余りの道のりだ。大門を出ると一の坂川沿いに坂を下り、早間田を抜けて阿部橋の袂から小郡と津和野・益田を結ぶ石州街道に到り右折して小郡方面に向かう。井上聞多は下男浅吉の差し出す提灯の明かりを頼りに先を歩いた。友人が忠告した円龍寺門前を何事もなく通り過ぎてやや安堵した。しかし湯田まで七町ばかりの袖解橋に差し掛かった折に、暗闇から声を掛けられた。
「井上か」との短い問いかけに、井上聞多は「そうだ」と短く答えて鯉口を切り柄に手を添えた。相手が斬りかかってくれば居合に胴を分断する構えを取るつもりだった。しかし井上聞多が足場を固め腰を落とす前に、不意に背後から袈裟に斬りつけられた。「卑怯者」と叫ぶ間もなく、次に立ちはだかった者が唐竹割に斬りつけて来た。背後からの斬撃に体が右前に泳ぎ、唐竹割に斬りつけて来た刃が首筋を外れて肩口から肋骨の表面を削った。
それから後は何処をどう斬られたか分からない。三人の刺客がそれぞれが見境もなく刃を振り下ろしてきた。井上聞多は棒立のまま斬撃を浴びて堪らず膝から崩れた。
「浅吉、逃げろ」と井上聞多が叫ぶと、浅吉は提灯を投げ捨てて湯田へと駈け出した。
倒れると刺客の一人が胴を両断すべく刃を振り下ろしてきた。しかし「ガッ」と火花が散って鉄が鉄を食む匂いがした。偶然にも倒れた時に背に回った脇差が振り下ろした刃を受けていた。それがなければ胴は分断されて井上聞多は絶命したはずだ。
止めを刺すべく刺客が体ごと刃を井上聞多の心ノ臓を目がけて突いてきた。井上聞多は迅速の突きに身をかわすことも出来ず、必殺の一撃を胸に受けて目が眩むほどの衝撃を受けた。死を覚悟したが、幸いにも懐の銅鏡が刃を受け止めていた。それは京都祇園で懇ろになった芸者からもらったものだった。
次々と繰り出される突きを躱して地面を転がるうちに、井上聞多は道から一間ばかりの下の畑へ転がり落ちた。重傷を負った井上聞多は必死になって這い、茄子畑の中を農家へ向かった。井上聞多の後を追うように刺客たちも道から畑へ飛び下りて来た。
井上聞多は息を殺して畝に潜んだ。浅吉が一刻も早く家人を連れて引き返して来ることを願った。刺客たちは声を掛け合って井上聞多の行方を探していたが、暗闇に諦めたのか早々に引き揚げた。やっとのことで明かりを頼りに這って農家にたどりつき、力なく破れ腰高障子を叩いた。
その家は井上家に出入りしている桑原という名の百姓家だった。家人は殺気に満ちた叫びを聞いて家の中に潜んでいたが、人の気配に戸を開けると顔見知りの井上聞多が血塗れで転がっているのに驚いた。
さっそく近所の者に声をかけ、井上聞多を畚に乗せて担ぎあげた。刺客たちがまだ近くにいるのではないかと心配だったが、全身を斬り刻まれた井上聞多は虫の息だ。一刻の猶予もならない状況に桑原たちは畚を担いで石州街道を湯田の高田へ向かって駆け出した。
運び込まれた井上聞多を見て、さっそく家人は近所の名高い医師を呼んだ。それも二人も。しかし、二人とも井上聞多を見るなり首を横に振った。
井上聞多は「助からないものなら首を刎ねてくれ」と兄に首を刎ねる手真似した。全身を切り刻まれた激痛から一刻も早く逃れたいと切望した。それなら、と兄は差料を手にして立ち上がった。すると母親が井上聞多の上に身を投げた。
「聞多を斬るのなら私も一緒に斬って下され。生きちょる者を殺すことはなかろう」
と、母親は泣き叫んだ。
そうした修羅場の井上邸に所郁太郎が訪れた。
所郁太郎は三條實美と松田屋に潜んで政事堂の御前会議の帰趨を窺いに出した者が帰って来るのを待っていた。事と次第によっては諸隊とともに藩政府に対峙すべきか、と最悪の事態も考えなければならなかった。
そうした折、突然湯田の街が騒がしくなった。井上聞多が刺客に襲われたという。
「なんでも、呼ばれた長野昌英様も日野宗春様も匙を投げられたそうな」
と、松田屋の仲居が教えてくれた。
所郁太郎は日野宗春という医師を知らなかったが、長野昌英は京以来の旧知の間柄だった。長野昌英は長崎の松本良順やポンペの許で学び、コレラ疫学などを藩に持ち帰った優秀な長州藩医だった。しかし元々は所郁太郎の養父と同じ漢方医で、傷口を針で縫合するなどという外科術を持ち合わせていないことは容易に想像がついた。
三條卿に断って、所郁太郎はものの一町と離れていない井上邸へ駆けつけた。
所郁太郎は井上聞多を台所の配膳台に移すと、全身十三ヶ所に及ぶ斬り傷を子細に改めた。幸いなことに内臓に達する傷や頸動脈などを切断するなどの致命傷は見当たらなかった。ただ血を失い過ぎていることと、傷口から菌が入り込む破傷風が心配された。
傷口に焼酎を注ぎ込むように丁寧に泥を洗い落とし殺菌した。それから西洋医学書で見た記憶を頼りに針を百匁蝋燭の炎で炙って焼鈍し、鋭角に曲げて縫合針を作った。
長野昌英を助手に縫合を始めたが、もちろん麻酔はない。井上聞多は激痛の余り「殺せ」と泣き喚き何度か気を失った。縫合は五十余針を数え、手術は一刻以上に及んだ。
「維新後に刺客の頭目・児玉愛二郎から詫びとして儂を斬った関兼延を貰ったが」
と言って、井上馨は屈託なく笑った。
豪放磊落な井上馨は維新後に刺客たちと面会し和解していた。
「まさしく井上さんが遭難された夜から、高杉さんが十二月十五日に功山寺で挙兵するまでが長州藩の瀬戸際でした。あの折に所郁太郎さんが近くいなくて、井上さんが絶命していたら維新は遠のいていたでしょう」と、品川弥二郎は述懐した。
井上聞多の生死と維新の成就とはあまり関係ないだろうが、当時が長州藩の瀬戸際だったのは確かだ。それは長州藩の瀬戸際だけではなかった。壊滅状態の尊攘派が息を吹き返して『回天』の倒幕へ日本が歩み出すか否かの瀬戸際でもあった。
井上聞多の遭難により長州藩は「徹底恭順」派が主導権を握り、蛤御門へ出兵した三家老に切腹を申し付け、四参謀を斬首に処した。そして尊攘派政務役八名を捕縛して萩郊外の獄へ投じた。その措置は仮借なく迅速なもので、「徹底恭順」派は主だった「武備恭順」派を根絶やしにしたつもりだった。しかし彼らは高杉晋作を討ち漏らすという大失態を犯していた。
伊藤俊輔は井上遭難直後に横浜から山口に帰ってきた。艦船で横浜へ出向いたのは四ヶ国公使と馬関戦争の賠償交渉のためだった。伊藤俊輔は通事として同行したが、正使は横浜沖の船から降りず、賠償交渉に出向いた副使たちも雲を衝く外国公使たちの尊大な振る舞いに言葉を失っていた。結局、四ヶ国公使たちとの交渉は伊藤俊輔が行い「攘夷宣誓の幕命により長州藩は攘夷戦争を実施したに過ぎず、百万㌦の賠償金は幕府に請求されたし」という主張を頑強に繰り返して、ついに四ヶ国の公使たちに受け入れさせた。実際に徳川幕府は四ヶ国に対して明治維新まで賠償金を少しずつ分割で支払っている。
復命後に井上聞多遭難を聞かされると、さっそく瀕死の井上聞多を見舞った。その枕元で伊藤俊輔は号泣したという。息も絶え絶えに井上聞多から「山口は危険だ、馬関へ帰れ」と言われ、伊藤俊輔は政事堂門前でうろうろしていた力士隊に「飯を食わせてやるからついて来い」と誘って、力士たちを自身の用心棒にして馬関へ帰った。
当時、高杉晋作は菊屋町の自宅座敷牢に軟禁されていたが、井上遭難の報を耳にするや神官に変装して萩から脱出した。山口に現れると井上聞多を見舞って「俺は逃げるぜ」と言葉を残して長州藩から姿をくらました。俗論派(高杉は「徹底恭順」派を俗論派と呼んでいた)ごとき連中に殺されてたまるか、と嘯いたという。
椋梨籐太たちの「徹底恭順」派が藩政を牛耳ると、藩主毛利敬親ともども藩庁を山口の政事堂から萩城へ移した。それにより山口は撰鋒隊の制圧下におかれ、三條實美卿たちや諸隊に対する反発も強まった。蛤御門の変や馬関戦争など長州藩に災いをもたらしたのは尊攘派で、その尊攘派が大義名分のお神輿と担ぐ公家たちを斬ってしまえという叫ぶ者たちも出る始末だった。不測の事態を恐れた諸隊は防府や山口から馬関へ退くことにした。もちろん所郁太郎が参謀を務める遊撃隊も品川弥二郎が参謀を務める御楯隊も、三條卿たちを護るようにして馬関へと移動した。
間もなく井上聞多は奇跡的に恢復した。しかし杖を頼って立てるようになると撰鋒隊に囚われて山口の寺に幽閉された。もしも井上聞多が傷を負ってなければ、おそらく捕縛され山口の刑場へ引っ立てられて処刑されただろう。
師走に入ると噂が馬関に流れた。萩政府が諸隊に「武装解除令」や「解散令」を出すのではないかとの噂だ。「徹底恭順」派が牛耳る萩政府は幕府が求めるなら藩主毛利敬親も隠居させようと考えている。自分たちのためなら何をやるか解らない連中だ。奇兵隊総督赤根武人は諸隊の代表として萩政府に諸隊存続を願い出て、何度も萩へ足を運んだ。
しかし諸藩の中でも遊撃隊だけが異なっていた。隊が解散になったら脱藩浪士たちは何処へ帰るというのか。脱藩は死罪が定めだ、今更おめおめと帰藩は出来ない。三條卿たちと同様に諸藩脱藩浪士たちは藩政府の「諸隊解散令」を受け容れるわけにはいかなかった。
師走十日過ぎに「高杉が馬関に帰っている」との噂が秘かに流れた。
高杉晋作は「諸隊解散令」の噂を聞きつけて逃亡先の九州から帰って来た。
諸隊が解散すれば長州藩は平凡な外様大名の一つに成り下がってしまう。松陰が命を賭して唱えた「尊攘」から「倒幕」への思いは永遠に消え去る。なんとしてでも藩政を「俗論派」から奪還しなければならない。
元治元年十二月十五日夜、高杉晋作は三條實美が軟禁されている功山寺に挙兵した。ただし集まった兵力は伊藤俊輔率いる力士隊の約二十名と石川小五郎率いる遊撃隊有志を併せて八十数名。たったそれだけの兵で高杉晋作は長州藩に戦いを挑んだ。もちろん遊撃隊士の中に所郁太郎の姿があった。
高杉晋作は兵を率いて直ちに下関会所を襲って占拠し、翌日には精鋭十八名を率いて三田尻の海軍局を襲撃して軍艦二隻を奪った。行きがけの駄賃に中ノ関会所も制圧し、長州藩の財政基盤を形成している藩交易拠点三関会所の内二ヶ所を一両日のうちに抑えた。
高杉晋作が見事な電撃作戦を実行している間、伊藤俊輔と品川弥二郎は軍事行動に参加していない。彼らは兵員補充と糧秣確保という後方作戦を命じられた。二人は馬関近郊だけでなく山口郊外の吉敷郡まで足を延ばし、豪農たちの間を回って高杉軍への支援と糧秣の拠出、さらには軍資金の協力などを求めた。
高杉晋作の勝利により様子見を決め込んでいた奇兵隊をはじめ諸隊の空気が変わった。萩政府と話し合いをしていた赤根武人もやむなく、号令を発して萩へ進軍を開始した。
進軍を開始したものの赤根武人は萩との中間点で兵を止めた。手勢三百ほどでは三千を超える萩政府軍と戦って勝てないと絶望し、夜陰にまみれて藩外へ逃走した。赤根武人の後任として奇兵隊総督に就いたのが山縣狂介(小介)だった。
慶応元年一月六日と十日に山縣狂介は正義派総大将として絵堂・川上で萩政府軍の精鋭撰鋒隊千名と戦った。二度の激突で新式元込ゲベール銃を装備した諸隊約三百が槍刀と火縄銃で武装した撰鋒隊約千名を圧倒した。
その間、高杉晋作の指揮下遊撃隊と力士隊は馬関に足止めされていた。叫べば届きそうな海峡の対岸大里に幕軍が陣幕を張り巡らして滞陣していたからだ。高杉晋作は動こうにも動けない状況にあった。慶応元年一月十四日になって幕軍が萩政府との約定により撤退すると、高杉晋作は直ちに馬関の全軍二百を率いて山縣軍の支援へ向かった。
奇しくもその日、山縣たちは氷雨降る呑水峠で三度目の激突をしていた。まさしく泥まみれ血塗れの激戦だった。午前十時から始まった戦いは午後二時過ぎまで激闘を繰り広げた末に撰鋒隊を撃破した。高杉軍が合流したのは翌十五日で、その夜に高杉晋作の指揮により全軍で撰鋒隊の赤村陣営を攻撃した。この夜襲により撰鋒隊は壊滅し萩へ向かって敗走した。
これにより長州藩は「武備恭順」派が実権を握り倒幕へと歩み出すことになる。
「儂一人の命で歴史がどうこうなるものでもあるまい。ただ山縣や品川たちが撰鋒隊を蹴散らしていた頃、儂は山口で結成された鴻城隊の総督に担がれて、相次ぐ萩政府軍の敗戦により政事堂守備役たちが萩へ立ち退いた後に難なく押し入って占拠した。書類の散らばる政事堂を奪還した折に長州藩が維新へと踏み出したと肌で感じて震えたものだ」
と、井上馨は目を細めて述懐した。
慶応元年二月上旬に藩政府は再び山口の政事堂へ移された。以後の井上聞多は藩主の傍に出仕し、第二次征長戦争の備えに忙殺された。軍務局で軍備・軍事の総指揮を執ったのは村田蔵六(後の「大村益次郎」)だった。村田蔵六の綿密な軍事計画により、洋式武器購入には専ら伊藤俊輔が当たり、時には高杉晋作が長崎へ同行し、時には井上聞多が同行してグラバーや薩摩藩士たちと秘かに会ったりした。
所郁太郎は適塾の同門ということもあり、村田蔵六の片腕として各地に配置した軍の視察に出掛けていた。実は村田蔵六も佐波郡鋳銭司村の村医者の出自だ。青年期に国学などを学んだ経歴も似通っているが、村田蔵六は文政八年生まれで慶応元年当時には既に不惑を過ぎている。村田蔵六にとって所郁太郎は年の離れた弟のようだったのかも知れない。
慶応元年二月末、所郁太郎は高杉晋作と共に周防高森へ出掛けようとしていた。当時遊撃隊は芸州と小瀬川で国境を接する岩国藩の助成に高森の通化寺へ移動し駐屯していた。二人は遊撃隊を訪れて檄を飛ばしすつもりだったが、出かける直前に山口円正寺の陣営でにわかに激しい腹痛を覚え円正寺の前の借家に帰った。いつもと異なる激しい下痢と高熱に、所郁太郎は重篤な病に罹っていると認めざるを得なかった。
所郁太郎は医師らしく自らの症状を「腸チフス」と診断している。おそらく胸部や腹部にバラ疹が出ていたものと思われる。腸チフスは感染性が強いため所郁太郎は看病しているお菊や親しい者たちに流水による手洗いを命じた。
一時小康を得たが日を追って衰弱し、三月十二日に到って昼過ぎに容体が急変して、夕暮れには人事不省の危篤に陥った。身の回りを世話していた近所のお菊とその子文助、美濃から付従ってきた長屋丁輔、それに品川弥二郎や寺内寿三郎や土屋良策らに見守られて日没とともにこの世を去った。享年二十七歳だった。
所郁太郎の葬儀には遊撃隊員が整列して弔砲を放ち、藩主の名代が下馬して焼香した。墓は円正寺の墓地(山口市吉敷上東三輪三舞)と岐阜県赤坂妙法寺にある。
「折を見て所郁太郎の生地や養家を訪ねて岐阜へ赴きますか」
と、品川弥二郎が受話器の向こうから聞いてきた。
「おお、是非ともそうしたい。秋の美濃は良いだろうな、渋沢君と打ち合わせてくれんか」
井上馨は岐阜行きを快諾した。
宿泊所の手配や足の確保は渋沢に任せれば間違いないが、それを政治家がやるとどうしても公私混同になりかねなかった。岐阜行きがいつになるかと、井上馨は多忙な日々の中でも渋沢栄一から報告が来るのを楽しみに待っていた。
しかし突如として岐阜の旅は取り止めになった。
十月二十八日午前六時三十七分、巨大地震が美農地方を襲った。その後三日間だけでも地面が波打つような烈震四回を含む余震が七百二十回も続いた。竣工間もない東海道線の長良川鉄橋も崩落して不通となり、死者は七千二百余名を数え全壊・焼失家屋十四万二千戸余りと甚大な被害を与えた。
さっそく内務大臣品川弥二郎は被災地視察で岐阜を訪れ、県庁で被害状況を聴取した。そして明治政府は被災地支援金として岐阜県年間予算の二年半分を交付した。そうした迅速な対応も所郁太郎との特別な縁の引き合わせだったのかも知れない。
後に井上馨は矢橋家から所郁太郎の甥にあたる実兄の倅の矢橋実吉を鳥居坂の屋敷に引き取り、屋敷から東京の医学校へ通わせた。そして矢橋実吉が勉学に励み外科医になると所家を再興させた。
養家の家系ではたつの娘す免が所姓を名乗り、す免は三児を得たが成人したのは女児のすゑだけだった。すゑは生涯所姓を名乗り、婚姻後も姓を変えなかったが子に恵まれなかった。ただす免の方に夫の死後に再婚して子を得たため所家をその子が継がせた。
今では出生地の大垣市はもちろんのこと養家のあった大野町や没した山口市でも所郁太郎の顕彰会が開かれている。
ちなみに西方養家跡に建つ所郁太郎記念碑は井上馨の孫・三郎氏の支援により昭和十三年に建立されたものだ。
終わり
それからの志士たち 沖田 秀仁 @okihide
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