忍び音

九藤 朋

忍び音

 僕の名前は音ノ瀬秀一郎。

 言葉に宿る意味と音色・コトノハを操る音ノ瀬一族の、分家の人間だ。

 子供の頃から、想う相手は変わらない。

 

 音ノ瀬家・現当主である音ノ瀬ことさん。


 悲しくて美しい、僕の従姉だ。

 幼少時、彼女に苛められていた時から、もう好きだった。

 苛めと言っても親戚の子供同士の、気安い戯れのようなもので。

 彼女が本当の意味で僕を苛むことだけは決してなかった。

 底意地の悪い苛めっ子は他にいた。

 僕が大切にしていると知っていながら、ことさんから貰ったクレヨンを取り上げようとしたり。

 弱虫だった僕も、その時ばかりは頑張って抵抗したものだ。

 酷く殴られ、たんこぶが出来ても手放さず、とうとう僕は暴力から自分の宝を守り抜いたのだ。


 それはもう、誇らしかった。

 弱い自分が負けないで守れた、その事実が、輝くぐらいに。


 ことさんは、そんな僕を不思議そうに見て、口では莫迦だと言いながら、たんこぶに水で濡らして絞ったタオルをそっと当ててくれた。

 ぶっきらぼうで優しい年上の女の子を、僕は好ましく思い憧れていた。


 ぶっきらぼうで優しいだけでなく、どこか大人びた、分別ある面立ちや言動が、僕の目には神秘的とも映った。

 

 その性分がどんな経緯で育まれたかを、成長すると共に察せられるようになった僕の胸は、痛ましさを感じた。


 コトノハの使い手は恐るべき存在である。

 時により、良薬、或いは毒薬と成り得るコトノハを処方し、相手に服用させる。

 人の心の核に触れてしまうのだ。

 古くより連綿と続いてきた音ノ瀬家には、使う力に比例した業がある。

 深くて重い。

 そして本家唯一の子供であったことさんは、歴代最高峰のコトノハの使い手と目されて育った。

 

 温もりより厳しさを強いられたのだ。



 現在、痛ましいことさんは、純米大吟醸の酒瓶を横に、本家の庭の桜に見入ってほろ酔い加減の上機嫌だ。南部鉄器の香炉に焚かれた月桃香が漂う中、桔梗柄の浴衣に、ぞんざいに羽織を引っ掛け片膝を立て、不敬を承知で評するならやや親父臭い。


 親父臭いが、ほんのり染まった桜色の頬は匂やかだ。

 ここにも花が在ると感じる。

 春の宵の風が、釣忍に下がる風鈴を鳴らす。


 チリーン


 黒い烏が、紫紅仄めかす闇を飛翔する。


「いや、美味い。秀一郎さんも遠慮なくどうぞ」


 そう言って酒を、眩しい黄金色の切子細工の、円筒形の盃に注がれる。

 純米大吟醸は、僕の手土産なのだが。


「ありがとうございます。いただきます」


 にこやかに、ことさんは奈良漬と胡瓜の浅漬けを交互にぽりぽり齧っている。

 白く細い指先が無造作に漬物を摘まむ。

 生成り色の、僕には名の解らぬ焼き物の皿に盛られた、奈良漬の茶と浅漬けの緑が瑞々しく映えている。

 漬物を指で摘まむ割りに、ことさんは美意識に拘る。

 肴のチョイスはいつも渋い訳でなく、基本、ことさんは肴に出来る物なら何でも酒に合わせてしまう。先日は林檎とチョコレートを日本酒に合わせていた。


 柔軟な発想が大事ですよ、秀一郎さん、と言って。

 どうも大雑把な人だな、と時々思うが、もう慣れている。


 本家の家に植わる桜の樹は少し痩せている。

 ある時期を境に、そのようになった。

 この家からことさん以外の人間が消えた日。

 ことさんの人生の分岐点。

 僕の、僕らの人生の分岐点を境に。


 それでも巡る春に綻ぶ桜の美しさ。


 蕾膨らませ、綻び、開き、舞う。


 舞う―――――――。



 舞ってくれ。

 孤高の人の心を慰めてくれ。



 待ってくれ。

 散り急がないでくれ。

 細い肩に重過ぎる荷を負う人に、しばしの憩いと安らぎをもたらしてくれ。



 僕には出来ないから。



 鳴る釣忍。忍ぶ音の―――――――。


 ことさんの心に未だ住まう面影を知っているから。

 離れても、きっと彼女は彼を忘れていない。

 まだ想っている。

 それは桜ではなく桔梗の花のように。

 仄かな微熱であっても、一途に変わらぬ想い。


 ことさんの頬は桜色、鼻梁は透き通るような雪白で、閉ざされた唇は紅梅めいている。

 朧がかった酔眼は、けれど清凛として花を見上げている。

 斜め上に、花の天蓋を向く上睫。


 桜の花びらはほとんど白い。

 花芯や顎は赤い。


 白と赤。

 今ここにいない男性を連想させる色彩が、彼女に降り掛かる。

 髪に、頬に、肩に。



 チリーン



 花の天蓋を仰ぐことさんの、心の守り人。


 狡いよ、聖君。


 遠くにいる君が彼女を易々と攫ってしまう。


 黄金色の切子硝子の凹凸が僕の掌に刻まれる前に、僕は注がれた酒を呷った。


「ことさん。僕を貴方の伴侶に、本家の婿養子にしていただけませんか?」


 酒が臓腑に沁み入るのを感じながら、黄金色に視線を落としたままで切り出す。

 何度も口にしたコトノハだ。

 所謂プロポーズ、求愛を口に出しても恥じない自分になる為に、努力を積み重ねてきた。

 昔は弱虫で泣き虫だった僕だが、現在ではそれなりに、自分に自信を持っている。

 だから徒な処方はせず、いつも直截に、ことさんに求愛する。

 そしていつも、けんもほろろに断られている。

 共に背負う、許しを得られない。


 今回も、と思ったが。


 沈黙が長いので顔を上げると、ことさんが僕を見ていた。

 花でなく。

 どきり、と鼓動が鳴る。


 高嶺の花に不意に振り向かれ、たじろぐ気分だ。


 その嫋やかな花の表情を、何と言い表せば良いのだろう。

 痛みを堪えるような、痛むまいとするような、悲しいような。

 種々の感情を抱えながらも、透徹として。


 やがてことさんの瞳は、ひら、ひら、と舞う桜の花びらに向けられた。


 花が花を見る。


 また戻ってしまった、と僕の胸が寂しさを訴えた。

 降り頻る花の世界に彼女は独り佇んでいる。


「…すみません。秀一郎さん」


 夜桜華やぐ空間に響くコトノハ。

 僕にこれ以上、何が言える?

 虚空の吹き曝しに独り在ることを、選び続ける人に。




 ただ花を見るしか出来ない。

 釣忍が、また泣いた。


 

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忍び音 九藤 朋 @kudou

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