それは小さな魔法のように

あだがわ にな

(あるいは、MOJOの奇跡)

 伊勢丹前のサイゼリアは、ミーティングをするのにすっかりお馴染みの場所となっている。

 どんよりと曇った七月の湿度には、フル稼働している冷房もかなわない。顔周りに張り付く髪がツカサの苛立ちを二倍にも三倍にも膨らめた。

 彼女のグラスは空だったが、ドリンクを取りに行くだけの気力ももう無い。爪先でグラスをパチンと弾いて、ツカサは小さく溜息をついた。


 もう、何もかもが腹立たしい。

 

 大学卒業から六年間、一緒にプロデビューを目指して励ましあってきたメンバー達が、皆沈痛な面持ちで黙り込んでいる。

 これじゃあまるで葬式みたいだ。

 「夢見る自分はここで死んだ」ってか? 笑えねぇよ。クソったれ。


「何とか言ってよ」


 バンッとツカサの細い手指が、安っぽいテーブルを叩く。


「何なの。次のオーディション、エントリーしないって」


 曲目だってもう決めていた。レコード会社が主催する、一年に一回のかなり大きなオーディションだ。

 ギターのソロだって、この間皆でアイディアを出し合ったばかりだというのに、どうして急にそんなことを。

 ツカサは大体そんなようなことを、声を荒げながら言った。


「……急に、じゃねぇよ」


 ドラムスでリーダーの裕二が、歯切れの悪い口調で吐き出す。


「――限界まで、って走ってきたけどよ。もう限界超えてんだ。少なくとも、俺ら三人は」


 裕二の目はいつまでも逸らされたままだ。昇も康隆も、ツカサと視線を合わせようとしなかった。


「……このオーディション出るの何度目だと思ってんだ」


 ベースの昇が、唸るような声と共に煙草の煙を吐き出す。


「六度目」


 ツカサが憮然としてそう返すと、今度は昇の無骨な手がテーブルを叩く。


「そうだ! 六度目だ!」


 彼は元々気性が荒かったが、こんな風に怒鳴る男では無い筈だった。

 少なくともツカサはそう思っていた。

 昇の声は震えている。

 そんな昇を見るのも、彼女は初めてだった。


「その間ずっとフリーターでよ。俺らもう二十八だぞ! わかってんのか!」

「じゃあ諦めんの?」


 昇の言葉に、ツカサは間髪入れず切り返す。

 彼がメンバーの誰よりも負けず嫌いだということを知っているからだ。


「それは……!」


 昇は案の定言葉に詰まったようだった。

 そして何故か伺うように裕二の顔を見る。

 裕二は昇に向かってコクリと頷いてから、


「いい。俺が話す」


と重々しく告げた。


「……美香が妊娠した」

 裕二が口にしたのは、彼が大学時代から交際している女性の名前だった。

 ツカサも彼女とは親しくしている。

 いつもにこにこしていて、感じのいい女の子だ。


「結婚することにしたよ。まぁ、いずれはそうするつもりだったが。これからは、家族を支えていかなきゃならねぇんだ」

「……」

「今の状態じゃ飯もろくに食わせてやれねぇ。そんなんじゃ、駄目だろ。父親としても、旦那としても」


 ツカサは何も言えなかった。

 何かを言いたい気持ちが胸の中をぐるぐる渦巻いているのに、うまく言葉にできない。

 ただ、やるせなかった。

 やりきれなくて、悔しくて、まだ目の前の事実がうまく認められなかった。

 いくら言葉を重ねたって、彼らの気持ちが戻ってくるわけではないのに、彼女はそれでも何かを告げようとした。


「でも……でも……っ!」


 結果的にその二文字だけが彼女の口から零れ落ちる。

 ギターの康孝が、苦々しい口調で言った。


「――女にはわかんねぇよ」


 その言葉を聞いた瞬間、ツカサは目の前にある誰のものともわからないグラスの中身を、康隆の顔に向かってぶちまけていた。


 「ツカサ!」とか「てめぇ!」とか言っている聞き慣れた声が、誰のものなのかもよくわからない。完全に頭に血が昇っていた。


「その女と六年組んでたのはどいつだよっ!」


 ツカサはそう吐き捨てて、財布から取り出した千円札をテーブルに叩きつけた。

 鞄を引っ掴み、メンバーの静止の声も聞かず、店を飛び出す。


「お客様!」


 すれ違ったウェイトレスの咎めるような声が、ツカサの苛立ちを更に煽った。

 ピンポン、ピンポン。

 センサーに反応しただけの電子音が、追い立てるようにツカサの退店を促す。

 何もかもがむかついて、大きくロゴの書いてあるガラス戸に体当たりするようにして店を飛び出した。




 外はすっかり暗くなっていて、風にあたれば少し肌寒いくらいだ。

 ツカサは剥きだしの二の腕をそっとさすって辺りを見回した。

 そういえば今日は金曜日だ。ほろ酔い気分の学生やサラリーマンが、げらげらと大きな声をあげながら道端で笑っている。


「……何してんだろ、私」


 そう呟いたツカサの声を聞くひとも、答えるひともいなかった。

 チクショウ。

 悔しさに唇を噛んだら、皮が剥けたような感触がした。血の味はしなかった。


 いつも馬鹿ばっかりやっているけれど、いい音を出す、最高の仲間だった。

 そりゃあ照れ臭いから言葉にはしなかったけれど、ツカサはずっとそう思っていたのだ。

 その仲間があんなに思い詰めるまで苦しんでいたことに、ツカサはまるで気付くことができなかった。

 そんな自分にはバンドどころか、人の思いをのせた歌を歌う資格だって、きっと無いだろう。

 握った拳がふるりと震えた。

 気を抜くと嗚咽が漏れてしまいそうだったので、更に強く爪を食い込ませる。


「わっ、降ってきたよ!」


 通りの向こう側でたむろしていた学生達がそう叫んだかと思うと、頭や頬に水滴が落ちてきた。

 にわか雨かと思ったら、どうやら予想以上に雨脚が強そうだ。

 みるみるうちに辺りは濡れたアスファルト特有の癖のある匂いに満たされる。

 傘を持っていなかったツカサはできるだけアーケードの下を選んで歩いたが、それでもすぐにずぶ濡れになってしまった。


 こんなツイていない夜に、五百円もする傘を買って家に帰るだけなんて馬鹿馬鹿しい。


 ツカサだって生活を切り詰めて、切り詰めて、ここまでやってきたのだ。

 彼女は普段近所の牛丼屋でアルバイトをしている。メインはもっぱら深夜勤だ。 短時間である程度の額が稼げるそのバイトは、ツカサの生命線でもあった。


『――女にはわかんねぇよ』


 康孝の言葉が脳裏をちらつく。確かにツカサは女だ。

 そして今のところ背負う家庭も家族も無い。それでもわかりあいたいと思うのは、単なるエゴにすぎないのだろうか。


 気が付くと、ツカサの足は歩くことをやめていた。幸いここはひと気の無い軒下だ。少し雨宿りさせてもらおうと、手近な壁にもたれかかる。


 気が付かないうちに呉服町通りから裏道へ迷い込んだようだ。見慣れない、古びた建物がそこかしこにある。

 ツカサが今もたれかかっている場所は、どうやら飲食店らしい。

 雰囲気からしてバーか何かだろう。

 こじんまりとしているが、雰囲気のよさそうな店だった。


「――あ」


 ツカサは思わず声をあげる。店内から漏れ聞こえてくる音楽に聞き覚えがあった。

 インストゥルメンタルにアレンジされていたが、この旋律にのるはずだった歌を、彼女は確かに知っている。知っている筈なのに、あとちょっとのところで出てこない。それがひどくもどかしくて、喉元をかきむしりたくなる衝動に襲われた。


 『中に入ってもっとよく聞けば思い出せるかもしれない』という期待が、一瞬ツカサの頭をよぎる。

 いやいや、と眉間に皺を寄せて打ち消してみても、その感情は消えなかった。

 重厚感溢れる佇まいのこの店。

 普段のツカサなら「何だか高そう」という理由で足を踏み入れようとはしなかっただろう。

 しかし、今日くらいは何となく、こういうところで飲んでみるのも悪くはない気がした。


 意を決したツカサがギィッという音をたてて扉を開ける。中からはオレンジ色の薄明かりが柔らかく漏れ出てきた。

 まず視界に飛び込んできたのは、ツカサの正面にあたる場所で上品にグラスを傾ける老婦人だ。

 そしてその傍らには、スタッフらしい若い男性の姿がある。更にその向こう、店の一番奥では、白髪混じりの男性が今まさにクラシックギターの弦をつまびいているところだった。

 ドア越しにはわからなかった生音の迫力が、ツカサの肌をざわりと粟立たせる。

 繊細な指遣いに、その男性がとても腕のいいギタリストであることが知れた。

 ツカサはその指先が紡ぎだす圧倒的な音の質量に、思わずその場へ立ち尽くしてしまう。


「いらっしゃいませ。よろしければこちらをお使い下さい」


 若いスタッフの一言で、ツカサははたと我に返った。

 彼は真っ白なタオルをツカサに差し出しながら、優しく微笑んでいる。


「すみません。有難うございます」


 行き届いた気遣いに小さくなりながら礼を言って、ツカサは身体にまとわりつく水分を拭った。


「可愛らしいお客様がいらっしゃって嬉しいわ。よろしければお隣いかが?」


 先客である老婦人はそう言ってツカサを歓迎し、無邪気な子供のように微笑みかける。


 いきなりの誘いに戸惑ったが、婦人があんまりにも人懐っこく笑うので、何となく断り損ねてしまった。


「じゃあ、お邪魔します」


と隣に腰かけると、婦人は満足気ににっこり笑う。


「これも何かのご縁だから、一杯ご馳走させて頂戴」


 とびきりの笑顔でそう言われて、思わず頷いてしまった。

 婦人は男性スタッフを手招くと、一言二言注文を告げる。男性は微笑みながら頷き、そのまま店の奥へと消えていった。

 しばしの沈黙が、二人を柔らかく包み込む。

 ツカサはその間、店内に響くギターの音色に神経を集中させていた。

 

 そう、ここ。サビの部分のこの盛り上がり。

 いい感じにハイトーンが突き抜けて、とても気持ちの良い曲だった筈だ。

 五本の弦が奏でる伸びやかな音色に合わせて、ツカサは今にも歌いだしそうな自分を抑えるのに必死だった。


 ギタリストの男性はこちらを見ることもなく、ただ一心不乱に曲を奏でている。

 ああ、このひとは、心の底から音楽を愛しているんだ、とツカサは感慨に近いものをおぼえた。

 本当に大切なものに触れている楽しみが、その音色には溢れんばかりに込められていたのだ。


「――貴女は、どうしてここへ?」


 婦人が沈黙を破って、ツカサにそう問いかけた。彼女はシャンパングラスを手元に引き寄せながら、丸い瞳でツカサをじっと見つめる。


「どうして、というと」


 婦人のシャンパンがやわらかい泡をたてる様を眺めながらツカサは聞き返した。


「あらごめんなさい。そういうことを聞きたくなる顔をしていたから、つい。……気を悪くしたかしら」


 心配そうに尋ねられて、ツカサはすぐに、


「いえ、そういうわけでは」


と首を振って見せた。


「ならよかったわ」


 屈託のない婦人の笑顔に、自然とツカサの口元も柔らかく緩む。


 不思議な雰囲気をもったひとだ。周りの人間も自然と笑顔にしてしまうような、独特の華やかさが彼女にはある。


「――お待たせしました」


 先ほどの男性スタッフが、そう言ってツカサの前に一つのグラスを運んできた。

 透明に見える液体の中に、弾けるソーダと緑の葉が踊っている。これは……ミントだろうか?


「モヒートはお好きかしら?」


 婦人が問いかけてきた名前をツカサは知らなかったが、恐らくそういうカクテルなのだろう。鮮やかな緑の彩りに引き寄せられるようにそろそろと手を伸ばし、グラスに口をつけた。


「……美味しい」


 一口飲み込んで、思わずそう呟く。鼻孔を突き抜けるように広がるミントの香りが、癖になりそうだった。後を追いかけてくる柑橘の風味もいい。そうか、これはモヒートというのか。ツカサは心の中でそっとその名前を繰り返した。


「そう! ならよかった」

「ハナエさんのチョイス、正解でしたね」


 二人は悪戯が成功した子供のように笑い合いながら続ける。


「モヒート、という名前はスペインにある宗教の『MOJO』という言葉に由来しているそうですよ」

「『MOJO』って言葉には、『魔法をかける』っていう意味があるの」


 とっておきの秘密を教えるようにそう言ったハナエさんは、ツカサの目の前で人差し指をくるくる回して笑った。


「私、貴女にちょっと魔法をかけてみたくなったのよ」


 満面の笑みを浮かべたハナエさんは、くるりと後ろを振り返り、店の奥に向かって声を張り上げる。


「ちょっと、源一郎君! こっちに来てくれないかしら」


 少し考えてから、ようやく彼女が声をかけたのがギタリストの男性であることを理解した。そこから察するに、どうやらハナエさんと源一郎さんは以前からの知り合いのようだ。


「なんだよハナエちゃん、今いいところだったのに」


 源一郎さんのその言葉は、ツカサの推測を裏付ける。


「いいからいいから! ちょっと来て頂戴!」


 ハナエさんに呼び立てられるがままに、源一郎さんは演奏を止めツカサ達の元へ歩み寄ってくる。手の中に渋い色味のクラシックギターを握り込んだまま、彼はハナエさんの隣の席へ腰掛けた。


「この娘が源一郎君のギターに夢中だったから、これは紹介しなくちゃあと思ってね」


 そう言ってウィンクしたハナエさんが、ツカサに向き直る。


「うちのバンドのギタリスト、井坂源一郎君。なかなかいい腕してるでしょ?」


 そう紹介された源一郎さんは、照れている様子だったが満更でもなさそうだ。二人の仲睦まじい様子はとても微笑ましかったが、それよりもツカサはハナエさんの放った一言の方が気になっていた。


「バンド……? ハナエさん達、バンドやってるんですか?」

「ええ。ジャズを少しね。たまにこの店でライヴをしたりもするのよ」


 そう言って微笑むハナエさんと、やっぱり照れ臭そうな源一郎さん。


 二人の姿に、バンドメンバーと自分のそれがぼんやりだぶって見える。けれど、目の前の楽しそうな二人と、いさかいあう自分達とでは、どうしたってうまく重ならない。それが悲しかった。グラスを握るツカサの指先に、ぎゅっと少しだけ力がこもる。


 そんなツカサをしばらく見つめていたハナエさんは少しだけ目を細めると、源一郎さんに向き直って彼の肩をぽんと叩いた。


「源一郎君、さっきの曲、もう一回演って頂戴。ここで。すごく聞きたいの」

「ええ、ここでかい? 椅子の高さが合わないんだがなぁ」

「いいから!」


 そんなやりとりをした後、ハナエさんがツカサの方を振り向く。


「貴女も聞きたいわよね?」


 それは返ってくる答えを確信した問いだった。ツカサは少し躊躇った後、真剣な表情でこっくりと頷く。


「じゃあ決まりね!」


 ハナエさんがそう言うと、源一郎さんはついに観念したように、ギターを胸元に抱え直した。


 ポロン、とつまびかれた弦が、柔らかい音色で鳴る。


 すぐにそれらは重なり合い、心地良い和音を奏でだした。滑らかな指さばきと、じんと染み入るようなアルペジオに、すぐさまツカサは魅了される。


 たん、たんたん。


 気が付けばリズムに合わせて、ツカサの指がテーブルを軽く叩いていた。それに次いで、主旋律を彼女の鼻歌が追う。柔らかくて優しい、けれどもどこか力強さを感じさせるメロディライン。


「あら」


 ハナエさんがそれに気付いて、ツカサの鼻歌をハミングで追いかける。狭い店内が、いつの間にか三人の奏でる音楽に満たされていた。


 何だか懐かしいこのメロディが誰のものだったのか、あと少し、あと少しで思い出せそうな気がする。


 ツカサはおもむろに立ち上がると深く深く呼吸をする。次に待ち受けるのは二番のサビ。あの、美しいハイトーンを出す為に、力いっぱい息を吸い込んだ。


 いつの間にかハミングを止めたハナエさんは、リズムに合わせて身体を揺らしながら目を閉じる。源一郎さんは優しく微笑みながら、今度はツカサのことを真っ直ぐに見ていた。


 歌っているうちに、メロディが、詞が、身体の奥から湧き上がってくるようだ。細かいフレーズやアレンジさえも、今まで忘れていたことが嘘のように、自然に思い起こせた。ツカサはぎゅっと自分の両手を握りしめる。身体の奥底から湧き上がってくるそれを吐き出す術を、ツカサは歌以外に知らなかった。


 そう、この曲の命題は希望。まだ不確かな可能性を虹にたとえた、優しいけれど力強いナンバーだ。


 突き抜けるハイトーン、染み入るようなビブラート。ツカサが音楽の楽しさに毎日ときめいていた学生時代、一世を風靡したあの曲だ。学校の帰り道、ヘッドホンをして、人目も気にせずに大声で歌って歩いた。あの毎日を、どうして忘れていられたんだろう。


 ツカサは目を閉じて、腹の前においた拳を固く握りしめたまま、その曲を歌い上げた。


 閉じた瞼の奥で、ひたすら旋律を追いかける。逃しそうになっても、置いていきそうになっても、彼女はそれを必死で捕まえた。掴んだ手の中から、暴れて逃げ出

しそうになった瞬間もあった。それでもツカサは歌い続ける。自分の不確かな可能性を。今にも滲んで消えてしまいそうな、夢の懸け橋を。


 すぅ、と息をつくと、次の瞬間大きな拍手が起こっていた。

 ツカサは脱力して椅子に座り込み、


「すみません、いきなり」


と頭を垂れる。


「とんでもない。……すごく素敵な歌声だったわ」


 ハナエさんはそう言って、本当に、今にもとろけてしまいそうな柔らかい顔で笑って見せた。


「貴女、歌が好きなのね」


 彼女の発した言葉に、ツカサは一瞬押し黙る。

 まっさらな心の中で、改めて音楽と対峙した時に、ツカサはその問いに対する答えを一つしかもたなかった。込み上げる感情のままに、ツカサは満面の笑みで、


「はい。……大好きです」


と答えた。今にも走り出しそうな感情をぎゅっと閉じ込めた、簡潔で、しかし重みのある一言だった。


「それにしてもいい声だ。よかったらうちのバンドで一緒に演らないかい?」


 源一郎さんがそう言ってツカサを見上げる。


 その瞬間、裕二の仏頂面が、昇の馬鹿笑いが、康隆のへの字に曲がった唇がツカサの脳裏にはっきりと浮かぶ。まだ、彼らを諦めたくない。その思いがはっきりと、ツカサの中に浮き上がった。


「いいえ。――私にも、仲間がいますから」


 はっきりとそう答えるツカサに、源一郎さんは、


「あーあ、振られちまった」


と肩をすくめる。


「当たり前じゃない。こんな若い娘ナンパしようってのが悪いのよ」


 ハナエさんはそう言って、からかうように源一郎さんを肘で小突いた。

 二人はけらけらと子供のように声をあげて笑い、ツカサもいつの間にかそれにつられて小さな笑みを浮かべていた。


 楽しい時間だった。でも楽しいばかりではいられないことにも気がついた。


「……そろそろ、帰らなきゃ」


 立ち上がったツカサの背筋は、しゃんと真っ直ぐ伸びている。瞳は、自分の歩いていく方向を正しく見つめていた。静かで何物にも揺らがない、強い光が彼女の行く先を確かに照らしている。


「またいつでもおいでなさいな」


 ハナエさんはそう言って笑う。


「待ってるよ」


 源一郎さんもにこやかに手を振った。


「はい。……また来ます」


 何かに迷った時、負けそうになった時、ツカサはここを思い出すだろう。

 そして迷わずに走り続けている間にも、この場所を忘れることなんて無い筈だ。


「……あ、雨、あがってる」


 皆に見送られて店の外に出たツカサは、湿った夜の空気を吸い込みながら空を見上げる。


 ビルの隙間に覗く夜空は先ほどまでの曇天が嘘のように晴れあがり、いつもは見えないような小さな星々までもが明るく瞬いていた。


「まるで魔法みたい」


 ハナエさんは本当に魔法使いだったのだろうかと一瞬疑ってから、そんな自分の考えが可笑しくて苦笑する。数時間前の自分だったら、こんな風に笑うことなんてできなかっただろう。この店での出会いが、ツカサを確かに変えてくれた。


 しんとした夜の空気が、火照った体を静かに冷やす。ツカサは携帯電話を取り出して、現在の時刻を確認した。午後十一時半。今からなら、少し眠ることができる。


 今夜はきちんと心と身体を休めて、朝になったらもう一度メンバーに電話をしよう。「まだ、みんなと一緒にやりたい」って、自分の気持ちを正直に伝えなくてはならない。意地を張ったり拗ねたりしても、それは意味の無いことだってわかったから。


 もし彼らの気持ちが変わらなくても、ちゃんと笑顔で、今までのお礼を言わなくちゃ。裕二にはちゃんと、お祝いの言葉を添えて。そうだ、美香ちゃんにもメールしよう。


 腹筋をして、ボイトレもして、勿論牛丼屋のシフトだってちゃんとこなさなければならない。やるべきことは山ほどあった。立ち止まっている暇なんて、無いのだ。


「……ありがとうございました」


 ツカサはそう言って、街角に佇むその店に深々と礼をした。


 そして一歩、また一歩と歩き始める。


 彼女のブーツがアスファルトを踏みしめる音が、小気味よく辺りに響いた。水たまりに突っ込んだ左足が、溜まった雨水を勢いよく蹴り上げる。もう、迷ったりなんかしない。凛とした強い瞳は、揺らぐことなくもう前だけを見ていた。

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