小指の色

宇苅つい

小指の色

■■1


 スドウさんと仲良くなったのは、小学一年の初夏である。毎日いっしょに遊んだのに、不思議と下の名は覚えていない。切れ長の勝ち気そうな目も、ほんのちょっとだけ上を向いた可愛らしいだんごっ鼻も、その鼻の頭にいつも浮いていた汗のツブさえ忘れないのに、そこだけがすこんと記憶のザルからこぼれている。


 スドウさんは私のことを「いくちゃん」と名前で呼んでくれていた。でも、私はというと、ずっと「スドウさん」だった。だから名字だけしか記憶に残らなかったのだと思う。私は謂われもないケジメから、無意識にそんな線引きをしていたのだ。スドウさんは私にとって「イレギュラー」な女の子だった。




「あらまぁ、スドウさんやなかね」


 母の声に私も玄関まで走り出てみたら、本当にスドウさんがうちに遊びに来ていて、もの凄くびっくりしたことがある。


 スドウさんはそれまでにも、もう何度かうちに遊びに来たことがあったから、来ること自体はそう驚いたことじゃあなかったのだ。なのに、どうしてそんなに驚いたかというと、つまりやって来た時間である。あの日、スドウさんが来たのはもう夜も九時近くで、私はとっくにお風呂を済ませてイチゴ模様のパジャマに着替えて、母といっしょにNHKの時代劇を観ていた。父はまだ帰っていなかった。父に似ているという理由で当時母のご贔屓だった俳優演じるお侍がブンと刀を振り下ろすと、切られた男はもんどり打って地に伏した。画面が三日月の浮かぶ夜空に切り替わる。薄々とした白い月。その月の下に、立ちつくす男と横たわる男の影がある。切った方が泣いていて、切られた方が微笑っていた。月がゆっくりと雲間の中に入っていく。



「ねぇ、お母さん。どうして勝った人が泣いてるの?」

「このお侍さんは、勝ちたくなんてなかったとよ」

 じゃあ、切られた人の方が実は勝ったということなのかな。死ぬのはやっぱり負けじゃないの。切られたら絶対痛いのに。

「うーん?」

 よく分からなかった。その時、ピンポンが鳴ったのだ。




 私と母は一瞬顔を見合わせた。夜に鳴るピンポンはなんだか怖い。私の家の前の道を照らす外灯はどれもみんな薄暗かった。それらの乏しい光には蛾が数匹たかっていて地面で影が踊っているのだ。そんな夜道をずっと歩いて来る人はきっと影が普通より長い。真っ黒の影をビューンと伸ばして通りの向かい側からピンポンを押すかも。小さな私はお化けだの人攫いだのをまだ一緒くたにして漠然とだが信じていた。


「こんな時間にだいやろうねぇ」

 呟きながら母が腰を上げた。「良いトコなのに」と不満げだった。お父さん似の俳優がテレビにアップで映っている。暖簾の向こう側からは、しぶしぶ立って行った母が玄関ドアを開ける気配。そして声。


「あらまぁ、スドウさんやなかね。どうしたと?」

「おばちゃん、郁ちゃんはるね? 遊びたか」

 思わず立ち上がった私の姿を暖簾越しに見つけたスドウさんが、「あ、おった!」と、嬉しそうに母の横を擦り抜けてうちに上がり込んできた。脱いだ靴の片方が弾みをつけて後ろに飛んで、ドアに当って横倒しに落ちる。走ってきたのか、息をはぁはぁと弾ませていた。


「あんね、お母ちゃんとお父ちゃんがね、夫婦ゲンカしよっとさ。取っ組み合

うて、物は投げるし皿は割れるし、もう付き合いきれんけん逃げて来たとよ。おばちゃん、そいけんでしばらくおらせて」

 明るい子どもらしい声が、おおよそ子どもらしくない台詞を言った。あっけらかんとあけすけにされて、こちらはあっけにとられてしまう。私と母はまたまた顔を見合わせる。


「郁ちゃん、もうパジャマば着とっと?」

 スドウさんは私と母の困惑も余所に、どっかりと腰を落ち着けてしまう。

「まぁだ九時ばい」

彼女は普段着姿で、なぜかランドセルまで背負っていた。まるで今から学校に行くのだ、とでもいうみたいに。

「郁ちゃん、郁ちゃん。良かもんばやっけん」

 ランドセルを降ろして、逆さにしてひっくり返す。ちゃんとカギが閉まっていないランドセルのフタは赤いベロみたいにべーっと飛び出し、中身を全部ぶちまけた。

「お父ちゃんがパチンコで取ってきたと。いっぱいあるよー」

 ドサドサっと畳の上に落ちたのは、板チョコの山と、リカちゃん人形が一体。お姫様の白いドレスを着ている。他にも人形のお洋服が幾つも。

「前のケンカの時、踏んで破かれたけん、リカちゃんだけは持ってきたとよ」

 スドウさんはニカッと笑うとお人形の髪をなぜた。



■■2



 スドウさんは、小学校で初めてできたお友達だ。私は入学してすぐ、入院したのだ。それで手術をして、おなかに大きな縫い目ができた。退院して二ヶ月ぶりに学校に戻った時、私はクラスメートにとって見知らぬ女の子になっていた。公立の小学校はみな近隣の子ばかりで、「見知らぬ」なんてそんな大げさなものではないんだけれど、二ヶ月のブランクは大きかった。もうクラスには仲良しの大小の塊がそこかしこに出来ていて、私はそのどれにも入り込めずにいたのである。給食の後、一人だけ沢山の薬を飲んでいるのもみんなには特別に映ったみたい。種類が多いので間違えるといけないからと担任の先生がいちいち手渡ししてくれる。私は錠剤やカプセルや粉末のお薬を牛乳で飲み込む。


「よう粉の薬なんて飲めるねー。あたしダメだよ。ブホってなるもん」

 そう声を掛けてくれたのがスドウさん。

「私も最初は飲めなかったと。でも、毎日飲むから慣れちゃった」

「毎日! わー、絶対ヤだ。あたしやったら飲んだフリして全部押し入れの隙間に隠すよぅー」

 そういうズルを思いつかなかった私が、「フリするの?」と言うと、傍に居た先生が、「コラ」と叱った。

「ダメでしょ。病気が治らないでしょ」


「だって郁ちゃん、もう元気じゃん。ちゃんと学校に来とるもん」

 ねー郁ちゃん、と横から首に抱きつかれた。元からすごく仲良しだったお友だちがするみたいに。私はその時初めて彼女の名札を見た。スドウさんの名字を覚えた。クラスメートの全員をまだ見知れていなかったのは、実は私の方だった。




 私の家は小学校からゆっくり歩いても十分と掛からぬ距離だったけど、スドウさんの家は倍以上掛かった。川向こうの小さく入り組んだ商店街。商店と言ってもお昼から開いているお店はまばらで、そのほとんどが飲み屋さん。あとはパチンコ屋さんとか、果物屋さんとか、なぜだかポツネンとある薬局とか。スドウさんの家はその裏路地に回って行って、錆びだらけの鉄の階段をカンカン登った二階にあった。玄関のすぐ横が台所。靴箱の横にはビール瓶がケースごと置かれている。空の瓶ばかりが目立っている。


 初めて会った日のスドウさんのお母さんは大きな花柄プリントのノースリーブを着ていた。私がスドウさんに促されて、うちに上がる時、脱いだ靴を揃えて、「お邪魔します」と挨拶したら、パーマの掛かった赤い髪を撫でつけながら、

「やー、躾のよか子じゃなかねー。コラ、あんたもちょっとは真似せんばね」

 スドウさんの頭を小突いた。スドウさんはヘヘーっと笑いながら冷蔵庫を開けて、「ジュース飲むよ」と言った。二つのコップに氷を入れて、緑色の粉を入れて、水道のお水をジョボジョボ注いだ。それを菜箸でかき回して私にくれた。

「サイダー、好かん?」

 真緑色の飲み物はコップの中でシュワシュワしていた。縁に緑の粉が少し残って濃い緑のだまになってる。


 奥の部屋に見える窓には洗濯物が沢山干されていて、その所為で夏の午後だというのに、家の中は薄暗かった。そして、とても蒸し暑かった。

「毎日毎日、暑かねぇー」

 スドウさんのお母さんはテレビの前にゴロンと寝転がった。私とスドウさんはその横で一緒にお人形遊びをした。扇風機が首を振りながら生ぬるい部屋の空気をかき回している。横になったお母さんの服の端からブラジャーの紐が垂れ下がって見えている。私はその紐を何度もこっそり盗み見した。部屋の様子もチラチラと見た。押し入れの破れがデパートのチラシを花型に切った紙で貼って隠してあった。部屋の隅にはティッシュペーパーの丸めたのが転がっている。


「サイダー、もっと飲む?」

 お人形の着せ替えの終わったスドウさんが私に訊いた。「うん」と答えた。夕方になって帰る時、「また遊びに来て」と言われた。私はそれにも「うん」と答えた。スドウさんのお母さんも立ってきて、「この子と仲良ぅしてやってよね」と言われたので、大きく頷いて「はい」と答えた。


 帰りの道は、最初は歩いていたんだけれど、だんだん早足になって、いつの間にか駆け足になった。見送ってくれたおばさんの肩からは、やっぱりブラの紐が垂れていた。なんだか胸がドキドキしていた。不思議な感じ。見知らぬ感じ。パチンコ屋さんの店内からは大音量の音楽が通りの先まで漏れ出している。どんどん走れと言われてる、そんな感じ。


 家に帰ってから、スドウさんのおうちで粉のサイダーを飲んだと報告したら、夕食の用意をしていたお母さんは、

「ああ、だから郁子の舌はうっすら緑になってるとねぇ」と言った。「仲良しのクラスメートが出来て良かったね」とも。その肩にはきちんとアイロンの掛けられたエプロンの白い紐があった。お母さんはにっこり笑った。



■■3



 私とスドウさんはすっかり仲良しになっていた。スドウさんも私の家に遊びに来たし、私もしょっちゅうお邪魔した。スドウさんのお父さんは週末でない日の昼間にも時折家に居る時があった。工場の業務縮小だそうだ。家にいるおじさんはいつもステテコ姿だった。胡座あぐらをかいてタバコを吸う。いつも同じ場所に座っていて、その周囲の畳には点々とタバコの焼きコゲがある。スドウさんのお母さんはいつもおじさんの方に足を向けて寝転んでる。そうしてテレビをぼんやり観ている。


 おじさんが、「おい、麦茶」と言うと、おばさんが立って持ってくる。それが、「おい、ビール!」の時があって、そうするとおばさんはおじさんの太ももの辺りをゴンと蹴る。「真っ昼間っからなんてね!」と言いながら、やっぱりちゃんと冷蔵庫から取ってくる。自分の分もコップ一杯必ず注ぐ。枝豆のおつまみがあった日は、小皿に取り分けてお人形遊びをする私たちの横にも置いてくれた。私とスドウさんは一緒に食べた。


「オマエ達はさっきからムシムシずーっと人形遊びばっかしとっとの。部屋の隅っこで楽しかとね?」

 テレビがCMになった時、振り返ったおじさんが訊いてきた。

「楽しかばい」

 スドウさんが即答する。おじさんが四つん這いでこっちに来た。

「こがん小さか人形でも、いっちょ前にパンツば履いとっとやもんなぁ」

「当たり前たい」

 おじさんの手がお人形を逆さにすると、白いお姫様ドレスはぱっとめくれた。二本の棒みたいに足がにょっきり露わになる。

「返して!」 スドウさんがお人形を奪い返す。




「スドウさんはお人形さんのお洋服が沢山あっていいなぁ」

「郁ちゃんもいっぱい本やぬいぐるみば持っとるたいね」

「ぬいぐるみは、入院した時にお見舞いに貰ったとやもん。どれもあんまり好きじゃない」

 ウサギやクマちゃんのぬいぐるみなんて、子どもっぽすぎると思うのだ。

「なんね、郁ちゃんは病気やったと?」

 おじさんが訊いた。

「郁ちゃんは手術ばしたったい。おなかばいっぱい切って、大変やったとよ」

「なんてね。手術てね、大事おおごとたい!」

 こがん小さかとに可哀想かー。女の子とに可哀想かなぁ。痛かったとやろうなぁ。

 おじさんは、いきなり私を抱きしめてきた。ぐりぐりと頭を胸に押しつけられる。おじさんの汗の臭いがした。タバコの匂いもきつかった。

「俺はダメっさー。小さか子の病気はほんなこつ悲しかー」

 びっくりした。おじさんは涙声だった。

「もう、お父ちゃんは飲めばすぐ泣き上戸になっとやけん。ほら、郁ちゃんがムサかおじちゃんに抱きつかれて暑苦しかーって言いよるばい」


 おばさんが、笑いながらおじさんを私から引き剥がした。おじさんの手は毛むくじゃらで、汗でベタベタしていて、ちょっとだけ気持ち悪かったけど、頭を撫でてくれた手の平は大きくて、ごつごつしていて、なんか良かった。おじさんの顔はとても陽に焼けていた。薬局の前に置かれたオレンジ色のゾウさんみたい。あのゾウは「サトちゃん」って言うんだそうだ。ゾウは好きだ。ゾウのぬいぐるみなら欲しいかな。



■■4



 スドウさんが、夜、うちに来た時のことに話を戻す。

 テレビは時代劇の放送を終えて、ニュース番組に変わっていた。

「スドウさん、ここに来てるってお母さんは知っとらすと?」 母が訊ねる。

「知るもんねー」

 こっそり抜け出して来たとやもん。チョコを頬張ったスドウさんが答える。スドウさんは私にもチョコをくれたが、その時お母さんを覗ったら、お母さんも私を見ていて小さく首を振ったので、チョコには手を伸ばさなかった。ウチではお三時以外のおやつは禁止だ。大体、もうとっくに歯も磨いた後だったし。

「それじゃあ、親御さんはきっと心配しとらすよ。いやぁ、どうしようかしら」

 お母さんの目は壁の時計とカーテンを引いた窓の方を何度も交互に往復する。「お父さん、早く帰って来てくれんかしら」小さく独り言みたいに呟いた。


「なーん。心配なんかしとらんよ。まぁだ取っ組み合いばしよっとやろ。お母ちゃんメチャクチャ怒っとったもん。お父ちゃんはボカーンってグーで殴られよったもん」

「また、一体どうして……」

 母が頬を手に当てて、困ったようにまた呟く。

「あんね、おばちゃん」

 そこで、スドウさんはにんまりと笑った。ナイショの話をするみたいに、ちょいちょいと招くように手を動かす。そのくせ自分の方が母にぐっと顔を寄せると、チョコのくっついた指先を四本曲げた。小学生らしい幼い五指のうち、小指だけをピンと立てる。

「お父ちゃんにね、のおると」

 そいでお母ちゃんがおカンムリ。そう言って、クククっと可笑しそうに笑う。


 お母さんは目を大きく見開いてスドウさんを見た。私もびっくりしてスドウさんを見た。なんだか今のスドウさんは大人の女の人みたいだった。お母さんのスドウさんを見る目もいつもと全然違っていた。夜の外灯にたかる蛾を見る時の目に似ている。私もお母さんも茶色の大きな蛾が怖い。




 電話を掛けても誰も出ず、お母さんはとにかくスドウさんを家まで送って行くことにした。

「お宅に行ってみて、ご両親がいないようなら、また戻ってくればいいから。その時はうちの住所と電話番号を書いたメモを残して……えーっと、そうだ。お父さんにも書き置きして出なくっちゃ」

 お化粧したり薄い上着をはおったり、パタパタと動き回るお母さん。スドウさんもお人形とチョコをランドセルに詰め直している。私も急いで服を着替えた。夜に一人でお留守番なんてイヤだもの。時計の針はもうとっくに寝る時間を過ぎていて、だから少し眠かったけど、私は靴を履いて外に出た。お母さんと手を繋いだ。お母さんはもう一方の手をスドウさんとも繋いだ。お母さんを真ん中にして、私たちは夜の町を歩いた。


「スドウさんのお家は○○町だったね」

「おばちゃん、あたし一人でも帰れるとばい」

 スドウさんは手を繋いだまま、母を見上げた。

「ダメよ。子どもがね、一人で出歩いていい時間じゃないの」

 キュッと母の握る手が強くなった。夜の町を歩いても、お母さんと一緒だから怖くなかった。スドウさんは元から怖くなさそうだった。橋を渡って入り組んだ商店街に差し掛かる。昼に見るのとうって変わって飲み屋街は陽気だった。赤い看板やピンクのネオンがチカチカしている。縄暖簾の店からは、板前さんが帳場で働く姿が見える。


「どっち?」と訊かれて、子ども二人で同じ方向を指差した。スドウさんの家はあの薬局の奥である。他の店と同様、薬局が夜になっても開いていたので、私は「このお店の人、何時に寝てるんだろう?」なんてちょっと思った。

 下から見上げると、スドウさんの家の窓にはちゃんと明かりが点いていた。

「あ、もうケンカしよらんごたる」

 スドウさんがランドセルを揺らして階段を駆け上がっていく。



■■5



「なん。オマエは何時ん間に消えとったとや。静かかけん、もう寝とっとやろうと思うとれば」

 スドウさんのお父さんの声がした。

「お父ちゃんもお母ちゃんも二人してケンカばっかしするけんたい。寝とうしても、うるそうして眠れるもんやろ! そいけん、郁ちゃんちに逃げたったい」

「郁ちゃん? なんてね? 下の薬局のばあちゃんトコに行っとったとじゃなかったとや?」

 そこで、おじさんはドアの外にいる私とお母さんに気がついたらしかった。

「おばちゃんに送って貰うたったい。郁ちゃんもおっとよ」

「や、こりゃあ……」

 恐縮したように頭を下げる。母が手短に事情を説明すると、更にペコペコと頭を下げた。


「おい、オマエも出てきて謝らんか。余所の奥さんにご迷惑ば掛けとっとぞ」

 奥の部屋から気配がした。ふすまが開いて、スドウさんのお母さんが顔を出す。泣きはらした目が腫れぼったく潤んでいる。お化粧のマスカラが禿げていて、頬には黒い筋があった。

「みっともなくしてて、すいません。郁ちゃん、ごめんね。おばちゃんのこと、嫌わんで」

 語尾は掠れて、涙声になった。

「まぁた泣かんと。オマエはいちいちせからしか」

「あの、私たちにより、先ずお嬢さんに謝ってあげて下さい。小学生が夜遅くに、うちまで走って来たんですよ」

 お母さんがそう言うと、おばさんはまた泣き出して、おじさんはもっと沢山頭を下げた。スドウさんはいつの間にかパジャマに着替えてしまっていた。「ふわわー」とアクビをしている。アクビをしながら粉サイダーを作っている。

「お父ちゃんとお母ちゃんのケンカはいつもの事たい。あたし慣れとるもん。どーもなか」

 大人三人が押し黙った。なんだか凄く気まずい感じで、私は母の後ろでなるだけ体を小さくしていた。私が縮こまっている分、スドウさんが大きく見えた。




 帰り道はタクシーを捕まえた。後部席に乗り込むと、お母さんは私の肩に回した手をポンポンと二回叩いた。

「眠いでしょう。すぐに着くけど、寝てていいよ」

 お父さんももう帰ってるやろうね。お風呂急いで沸かし直ししなきゃね。

「うん……」

 私は眠かった。お母さんの肩に凭れて目を閉じる。夜のタクシーは昼のタクシーと違う匂いがしていた。時々鳴るウィンカーの音もどこか違う。夜は夜の気配がする。大人の世界。子どもが一人も居ない場所。


 スドウさんはその中を一人でうちまで歩いてきたんだ。赤いランドセルいっぱいにチョコレートとお人形を詰め込んで。

「……あの子と郁子は同い年で、まだ六歳なのよねぇ」

 お母さんの呟きが聞こえた気がした。ほぅーっと吐く吐息が私の髪に掛かった。



■■6



 翌日はちょうど病院の定期検診の日だったので、私は学校をお休みした。病院から戻ると、玄関前には大きなスイカが置かれていた。赤と白のビニール紐を編んだネットに入っている、丸のままのスイカだ。ネットにメモが挟んである。

「留守中にスドウさんのお母さんが来たみたい」

 メモを読んで母が言った。

「昨日のお詫びにって、こんな大きいスイカを持って来て下さったとよ。こんな暑い日にね、重かったやろうにね。居なくて悪いことしたね」 よっこいしょ、とスイカを抱えて家に入る。

「弱ったねぇ、こんなに大きなの冷蔵庫に入りきらんねぇ。半分お隣に持って行こうか? でも……」

 切ったスイカをちょっとつまみ食いして、

「よく熟れてて美味しい。お隣にやるの、惜しかねぇ」

 お母さんは私にもスイカの切れ端をくれた。冷えてはいないけど、美味しかった。


「……ねぇ、お母さん」

「なぁん?」

「今からね、スドウさんちに……遊びに行って来てもいい?」

 お母さんのスイカにラップをする手が止まった。

「んー……」

「ダメ?」

 私はスドウさんのお母さんを思い浮かべた。

「おばちゃんのこと、嫌わんで」 って泣いていたおばさん。下着の紐がだらしなく見えているおばさん。でも、きっとスドウさんのことが大好きなおばさん。そうじゃなければ、こんな大きなスイカは炎天下の中、持って来れないだろうと思う。

 うちのお母さんとスドウさんのお母さんは全然違う人だけど、でも、どちらも「お母さん」なんだと思う。

「……郁子」

「はい」

「お母さんね、今、すごく困ってるの」

「え?」

「『ダメ』ってお母さん言いたいの」

 スドウさんは郁子のお友だちには、ちょっと大人び過ぎかなぁって。

「……」

「でも、そんなのダメとよねぇ。親として」

 お母さんが決めちゃったら、いけんよねぇ。




 私はそれからもスドウさんと一緒に遊んだ。スドウさんの家にも行ったし、スドウさんもうちに来た。

 スドウさんは新しいリカちゃんのドレスを買って貰っていた。

「夫婦ゲンカした後でお父ちゃんにおねだりすると、すぅぐうてくれると」

 スドウさんはキシシシと笑った。うちではおもちゃは誕生日とクリスマス、年二回だけって決まっている。羨ましいな、とちょっと思う。でも、スドウさんの持っているお人形の服の数だけおじさんとおばさんがケンカしてるんだとしたら……。やっぱり、おねだりできなくても良い。


 もうじき、夏休みに入るという頃、スドウさんはおたふく風邪で数日学校をお休みした。私はおたふく風邪はもうやっていたから、お母さんにお願いしてカスタードプリンを作って貰った。箱に詰めてリボンも掛けて、それを持ってお見舞いに行く。

 カンカン階段を上がったら、おばさんが戸口で出迎えてくれた。

「あら、郁ちゃん。お見舞いに来てくれたと? ありがとねぇ」

 プリン? 郁ちゃんのお母さんが作りなさったと? いやー、凄かねぇ。美味しそうやねぇ。

 おばさんがプリンを褒めちぎってくれる。奥の部屋に寝ているスドウさんがこっちに手を振ってきた。

「郁ちゃーん」

「スドウさん、具合どう?」

「死ぬー」

 顔痛いー、喉痛いー、この部屋暑いー、アイス食べたいー、退屈で死ぬー!

 スドウさんはおなかに掛けたタオルケットを蹴飛ばして、足をバタバタ暴れている。

「もう、こん子は。熱の引いたと思うたら、もう退屈退屈ってうるそうして」

 うん。まだほっぺは腫れてるけど、元気そうだ。良かった。



■■7



 おばさんはそれから、お買い物に出掛けて行った。

「良かったら、相手ばしとってやって」 と頼まれたので、私は敷かれたお布団の横に座った。スドウさんといっしょにプリンを食べる。

「郁ちゃん、郁ちゃん」

 スドウさんが布団からずり上がって、部屋の角っこから私を手招きした。タンスの隅に手を差し込む。綿埃と一緒にお薬が幾つか出てきた。

「ほらね。こうやって隠すとよ」

 スドウさんがキシシと嗤う。どうやら、おたふく風邪のお薬は「飲んだフリ」されてしまったらしい。またタンスの奥へと戻される。

「ちゃんと飲まないと治らんよ」

「治っさ。真面目にお医者さんの言うこときいてるなんて、バカんごたる」

「……」

 確かにスドウさんの風邪は治りかけてるみたいなので、私はそのまま黙ってしまった。私ってバカかなぁ。そうかなぁ。いいのかなぁ。


 私は話題を変えようと思った。ちょうどスドウさんの指先が目に留まった。彼女の小指の爪が赤い。

「スドウさん、それってマニキュア?」

「うん。お母ちゃんがつけよる時に、あたしにも塗ってーって言うたら、小指だけねって塗ってくれたと」

 そう言えば、おばさんの指先も同じ色をしてたと思う。スドウさんの小さな爪にちょっぴり塗られたマニキュアは凄く可愛らしかった。




「そう言えばさ」

「うん?」

「スドウさん、前にってしたでしょう?」

 私は自分の小指を立てて、あの日のスドウさんの真似をする。「お父ちゃんにね、のおると」って言った時の彼女の真似。


「あれって、どういう意味なの?」

 スドウさんは何故か突然、大爆笑した。

「なーん、郁ちゃんはそんな事も知らんとね」

 わー、笑うとほっぺの痛か。スドウさんはほっぺたを両手で押さえる。なら笑わなけりゃいいのに。私は横でむすくれる。

 スドウさんは「ピッ」と赤い爪の小指を立てた。あの日みたいに意味深に顔を寄せて囁いてくる。

「あんねぇ、これは愛人のこと」

「アイジン」

 私は復唱する。

「女の人。お母ちゃんじゃないぜんぜん余所の女の人。……分かる?」

「う、ん」

 私は頷く。

「あとね、スベタとか」

「すべた?」

 また難しい言葉が出てきた。私は思わず首をひねる。

「符丁なんよ。これは」


 スドウさんは学校の先生みたいに、オホンとわざとらしい咳払いをすると、

「いいですか? ちゃんと聞いてて下さいね。テストに出ますよ」と言った。自分の指を差しながら私に向かって授業をする。

「小指がオンナで、親指はオトコ」

「……」

っても言うとよ」

「イロ?」

「うん」

「何色の色?」

「……」

 スドウさんは眉を顰めると、信じられないというように私の顔をじっと見た。「あーあ」と言った。

「郁ちゃんって、ダメやんなぁ」



■■8



 私は、その日からもうスドウさんの家には行かなくなった。

「郁ちゃんって、ダメやんなぁ」 そう言ったスドウさんの顔がバカにされたみたいで凄く腹立たしかったからってこともある。

 だんだん他のクラスメートの子達とも仲良くなり始めてたってこともある。


 でも、本当の一番の理由は、スドウさんが怖くなってしまったから。お母さんが言ってたようにスドウさんは大人なのだ。私よりもずっとずっと。そうして、私はまだずっと子どものままでいたいのだ。スドウさんみたいに夜の暗い道なんか独りでスタスタ歩きたくないのだ。夜は安全なお家のベッドでお父さんとお母さんに守られてぬくぬくと眠っていたいのだ。私はスドウさんに線引きをした。これ以上深みに行っては取り返しのつかないことになる。そういう類の線引きである。スドウさんは怖い。スドウさんは危ない。スドウさんの傍には、まだ私の知らない秘密の事が多すぎる。


 スドウさんから離れて、もっと別の角度からクラス全体を見渡してみると、スドウさんはクラスの中でもどこか浮いた存在だった。私が他の女の子達と遊んでいる時、時々スドウさんの姿を見かけた。いつもスドウさんは一人だった。独りぼっちでそこに居た。



「最近、スドウさん来んのねぇ」

 お昼のお素麺を啜りながら、お母さんがそう言った。

「……うん」

「郁子もスドウさんちに行かないの?」

「だって……ほら、今、夏休みだし」

 私はちっとも理由になっていない返事をした。もっといろいろ訊かれるかなって思ったけど、お母さんは、「そう」と頷いただけだった。

 なんとなくお母さんがほっとしている感じがしたけど、それは私の都合の良い願望だったかもしれない。




 夏休みもそろそろ終わるという頃。夜。

 私とお母さんが一緒に時代劇を観ていたら、また玄関のチャイムが鳴った。

 そこにはスドウさん一家が立っていた。おじさんとおばさんに挟まれて、スドウさんは真ん中だった。下を向いているのでよく分からないけど、休みの間に少し背が伸びたように見えた。

「実は、私ら仕事の都合で引っ越しすることになったとです。それでご挨拶に」

 おじさんが言った。

「まぁ、それは急なことで。お引っ越し先はどちらに?」

 お母さんが訊ねると、おばさんが地名を言った。遠い県だ。

「じゃあ、転校しちゃうとねぇ。寂しくなります。……郁子、ちゃんとこっちに出て来なさい。スドウさんにご挨拶なさい」


 お母さんってば呼ばないで欲しい。私は煙みたいに消えちゃいたかった。お母さんがもう一度呼んだ。しぶしぶ出て行く。お母さんの影に隠れるように貼り付いた。その背中のエプロンの紐を握りしめる。

 久しぶりで会うおじさんは硬い表情の私に向かって陽に焼けた顔で微笑んだ。

「郁ちゃん、いつもウチの子と仲良ぉしてくれてありがとう。……ほら、オマエもきちんとお別れせぇ」

 おじさんの手がスドウさんの頭をぐしゃぐしゃっと撫で、それまでずっと俯いていたスドウさんがゆっくりと顔を上げてきた。私は睨み付けてくるだろうスドウさんの目を覚悟した。だって、「仲良く」なんてしてないもの。私、スドウさんから逃げちゃったもの。なんか酷いことを言われる?

「郁ちゃん、ありがとう。郁ちゃんと遊べて楽しかった」

 言葉に詰まった。顔を上げたスドウさんは凄く優しい顔で微笑っていたのだ。

「体に気ぃつけてね。元気にしとって」

 私は何も言えぬままグスグスとべそをかき始めた。もう、何をどうすればいいのか分からなかった。


「いやぁ、郁ちゃん。泣かんでぇや。おじちゃんまで悲しゅうなるけん」

「もう、なんね。アンタが泣きかぶってどうすっと?」

 おじさんは相変わらず泣き上戸だった。おばさんも変わらずおじさんのことを小突いていた。




 居間の点けっぱなしのテレビからは、時代劇の立ち回りの音が聞こえている。

 私はスドウさんに線引きをした。スドウさんは怖い。スドウさんは危ない。そんな謂われもないケジメから、私はスドウさんを切って捨ててしまったのだ。それが私にとって間違いだったとは思わない。でも、悲しいのだ。スドウさんが笑っていて、私なんかに「ありがとう」って言ってくれて。切った方が泣いていて、切られた方が微笑っていて……。

 あの時、テレビの中のお侍さんは自分が正しかったから。正しいのに人を傷つけてしまったから。だから、泣いたの? じゃあ、どうすれば良かったの?


「スドウさん……ごめんなさい」

 ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 すまないと思う。正しいと思う。正しい自分が謝っている。



 スドウさん、お元気ですか?

 やっぱり私はどうしても、あなたの名前を思い出すことが出来ません。

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