後
あいつが死んだと聞いた明くる日の今日、僕は制服を着たけど学校には行かなかった。生まれて初めてサボり、ってやつを経験した。今までなんだかすごいことのように感じていたけど、やってみれば大したことないんだな、と思った。
あいつの家を見つけた。見つけるまでに同級生にも何人か会った。会う顔どれも脱力していて、その全身であいつの死を悲しんでいるように見えた。自転車に乗った僕はそいつらを見つけるたびに漕ぐスピードを上げた。それでもたまにしつこく叫ぶように話しかけてくる奴がいて、そっちもお葬式行くの?なんて聞いてくる。いや、僕は関係ないから、大変だったね。って慰めるように返すとそいつらは大抵満足したように涙を流した。なにも知らないくせに。僕はその涙が心底不快だった。
あいつの家の周りには狭い道が通っていた。そしてそこを通る人の目を避けるように石の塀に囲われている。僕はその塀に寄りかかって、しばらく家の正面ではなく横にじっとしていた。この塀の向こうには、あいつがいる。中身がどこかへ消えて身体だけになったあいつの姿を想像しようとして、やめた。
焼却炉の一件から、僕たちは言葉を交わすことが増えるどころかむしろ減っていった。
同じクラスとはいえ、美化委員になるまでは顔もおぼろげな存在だったぐらいなので、以前から仲良く話す事はなかった。委員会の仕事で校内を回っても、二人とも上辺だけの会話に意味を見いだせなくなり黙って作業をこなす事が多くなった。それでも僕たちは当番の日には必ず二人だった。どちらかが欠ける事は無く、毎回二人でひとつずつゴミ袋をもって並んで歩いた。気まずい、なんて感情は湧かない。あいつとの沈黙は無なのだ。僕とあいつ、二人がいる。それだけの無の世界。それで、たまに前のように焼却炉に火を付けたりもした。片方が勝手に燃やし始めることもあったし、なんの示し合わせも無く二人で準備をして燃やす事もあった。どちらの場合も大抵は無言で行われる。そして、どちらの場合も必ず二人で火が燃え尽きるまで煙を眺め続けるのだった。
「何者にもなりたくない」
何度目かのごみ捨て場であいつは僕にそう告白した。詳しいこと、その言葉の意図はあいつは何も口にせず、ただその一言だけをつぶやいた。僕も別に何も聞かなかった。だって僕はやっぱりなんだかあいつの言葉にしっくりときてしまったから。
友達になったら理解しなきゃいけない。恋人になれば一番に思わなければいけない。親には素直で無知な子供でいなきゃいけない。みんなが想像するキャラってやつを演じなければ、変な顔をされて取り残される。
あいつが堪え難かったのは、きっとそういうことだった。
僕には何者でもないよ。
何度目かの煙を眺めたとき、僕もそう告げた。あいつへの慰めのためではない。心の底でもやもやとしていた気持ちがやっと言葉になって、そのままついに口に出てしまった。そんな感じだった。ちらり、とあいつの方を見る。あいつも僕の方を見ようとした瞬間だったようで、思いがけなく見つめ合った僕らは数秒そのまま、それからまた目を逸らして煙を見た。
「……そっちも、何者でもないよ」
そこから火が消えるまで何も言葉はなかった。僕はたまにあいつを盗み見た。あいつからの視線も時々、感じた気がした。
家の塀にもたれかかってぼんやりしていると、少し遠くに男が立っているのに気付く。僕と同じようにどこぞの家の塀に寄り掛かり、タバコを咥えてこちらをじっと見ている。目が合うと僕の方へと歩いてきて、にこりと作ったようにキレイに笑う。何者かになりきる、あいつの笑顔とよく似ていた。
君、あいつの友達?
男はそう言って僕の隣に立つ。独特の煙の匂いに喉がムズムズ疼く。
ずっとそこにいるけど、なんでなの?顔を見にきてくれたならいそいで中に……
黙り続ける僕に男は常に口角を上げてこちらを見ていた。その笑顔は、よくよく見ると途中出会ったクラスの奴らと同じような脱力が見える。ピンと伸びた背筋に、皺一つない喪服。外面に気を使う、あいつとよく似ている。嫌だな、そう思って、心が少しヒヤリとした。
友達なんかじゃ、ない。
自分の声にはっとする。低くて、上擦ってちぐはぐな、初めて聞く声色だった。なぜか僕はそれにひどく胸が痛んで、目の前の男にすみません、と謝ってから自転車に跨った。
しかし、ペダルを踏んでも前に進むことは叶わなかった。男が自転車の荷台に両手でしがみついて離さなかったから。
やっと、見つけた。
振り返ると、男はそう言って笑っていた。ように見えた。もしかしたら泣きそうだったのかもしれない。それくらい、歪んで不揃いな笑顔だった。あいつのそれとよく似ていて、ああ、この人はあいつと同じ血を持っている、とはっきり感じられた。感じて、なんだか胸がぎゅっとした。
僕は男の車の助手席にいた。小さなかなり古い、けれど手入れが行き届いた軽自動車。田舎の舗装されていない道を走るものだから、ガタガタと揺れも音も最悪の乗り心地だった。
男はあいつの兄だと名乗った。普通の兄弟姉妹よりも歳が離れていたからあいつが可愛くて仕方がなかったのだと笑った。笑って、もっと可愛く無くなってから別れるもんだと思ってたのに、なんてポツリと口にした。それからなにも誰も言葉を発しなかった。車だけがガタガタとうるさく、静けさを埋めた。
車が止まったのは山、というには低すぎる、けれども地上とは差があるところに存在する建物の前だった。それはたくさんの木に囲われ、長い長い煙突が一本だけ伸びているのが印象的だった。
ちょっと待っててね、また戻るから。
男はそう言って車から降り、建物の前にまばらに集まっていた人々の中に紛れていった。みんなみんな喪服を着ている。あいつのためにみんな真っ黒だ。そしてあいつはというと、きっと僕より先にこの場所に来ていた。長い長い煙突、その一番近くに停められた真っ黒な車。あいつはあれに乗って来たのだろう。霊柩車。そしてここは火葬場。あいつはとうとう、身体すらも形をなくす。
男が帰ってくるまではしばらく時間があって、僕は少しうとうとしてきた。瞼が重く重く降りてくる。けれど僕は人の車で寝るなんて、とその重力に抵抗し続ける。目の前が暗くなって、明るくなって、暗くなって。そんなことを繰り返していると、ふっと、あいつの顔が見えた。その瞬間、僕は何もかもどうでもよくなって素直に瞼を閉じた。
あいつと僕は焼却炉の前にいた。例の如く、その中の火はぼうぼうと燃えている。燃えすぎなくらい、ぼうぼうと。けれども不思議なことに空を見上げても煙は出ていないのだ。ただただ、火が燃えている。
「消えちゃったね」
あいつはそういって焼却炉を見つめていた。なにを言っているのか。まだこんなにも燃えているじゃないか。しかし、僕の抗議は声にはならず、あいつには伝わらない。
そうだね、帰ろう。
僕の口がひとりでに言葉を発した。ついでに足も勝手に動き、あいつを背にして歩き出す。僕の身体が、僕の意識で動かない。とても不思議で、ありえないことなのに僕はそれになんの疑問もわかない。一瞬おかしいと感じても、次の瞬間にはその違和感も馴染んで忘れてしまう。
「……ねえ、」
あいつの声がして、僕は振り返る。あいつは薄く笑って僕を見ていた。お前は夢の中でさえ、そんな笑顔しかつくれないんだね。そう思って気付く、そうか、これは夢なのかと。
「ひとつ、約束をしよう」
約束?
「心配しないで、お互いの関係を繋ぐためのものじゃない」
あいつはそう言ってまた笑った。僕はそんなこと全く考えていなかったけれど、納得したようにうん、と頷いてみせた。たしかに、約束なんて僕らの関係に一番縁遠いものであるはずだ。そうでなければならないはずだ。
「むしろ逆。ずっとこのままでいようって約束だよ」
どきりとする。あいつの顔からは笑顔が消え、ただただまっすぐに僕を見つめる視線が痛かった。
「約束だ。なんの責任も、期待もしない。お互いに、何者にもならない」
僕が息が詰まって何も言えずにいると、あいつは小指を僕に向け、そっと腕をのばした。それから、笑った。いつか見た、あの歪で、欠陥だらけの笑顔。お前はその笑顔で何度も何度も僕を苦しめるんだね。
でも、いいよ、それでも。
ずっと僕を、苦しめて。
そして僕はいつものように手を伸ばして、あいつの指に自分のを絡めた。あいつはさらにちぐはぐに笑って、「指切りげんまんだ」とわざとらしく明るく言った。
あいつの手は震えていた。僕の手はいやに冷えきっていた。お互い、知らないふりして指を切った。
——くん、起きて。
瞼を開けば、男の顔があった。あいつの姿はもう、ない。ああそうか、またあの夢だったのか。
随分苦しそうな顔をしてたけど、大丈夫?
男は心配したように僕を見る。
ああ、大丈夫です。ちょっと昔にあったことを夢に見て、昔って言っても最近なんですけど、……ずっとずっと夢に出るんです。どうすれば良かったのか、わからないことが、ずっと。
そこまで言って我に返る。ほぼ初対面の男に何を言っているのか。すみません、変なこと言っちゃって。僕がそう言うと、男は少し苦い顔をして笑った。
……いや、驚いたよ。最近、俺も全く同じような状態なんだ。だから、君を捜してたんだ。
え、と声を漏らした僕に背を向け、男は車から降りる。それから僕にもそうするよう手招きをして誘った。
外に出ると少し空気が冷たく感じた。思わず身震いして辺りを見回す。まだ真っ黒な人間が何人かいる。けれど、さっきよりも減ったような。
空を見ててほしい。あの、煙突の方だよ。
男に促され、僕は空を見上げる。色を無くした白んだ空。長い長い煙突。周りに茂る木々が揺れていた。おいで、おいで。
似ている。あの焼却炉。僕とあいつの唯一のつながり。
足りないのは、ああ、そうだよ。足りないのは、お前と煙だった。でも、だからって。
煙突の先から、煙が見えた。想像していたよりも、焼却炉で見ていたよりも、もっともっと白くて、綺麗な煙。
だからって、お前が煙にならなくったって良いじゃないか。
「あいつ、言ってたんだ。死んだら、煙を君に見せてほしいって」
男の声が急にはっきりと聞こえた。あいつがいなくなってから、だれの声も
「でも連絡先も知らないっていうから、そんなやつどうやって探すんだって聞いたらあいつ、笑って言うんだ。君は絶対に家に来るって。自信満々にさ。それで、他の同級生とは違うだろうからすぐにわかるからって。なんでそんな自信あるんだ、って聞いたらさ、あいつ、"だってあいつが死んだら自分もそうするから"って。俺はそれを笑い飛ばして、何言ってんだって、そもそもどうしてお前が俺より先に死ぬんだって、あいつの話を冗談にして終わらせたんだ。……だって本当に死ぬなんて、思わないじゃないか。……さっき言ってた最近見る夢って、これのこと。ごめんね、急に連れ出して」
男の言葉が耳から体内に入って蓄積されていく。僕の身体は熱く、重く、じりじりとしびれて感覚を少しずつ失って、動けず、何も出来ず、ただ男の声とあいつの水蒸気を見つめる事しか出来ない。
「……謝りついでに、君に、ひとつだけ聞きたい。あいつにそこまで言わせるのに友達でもない君は、何者なんだ?」
僕は。そう口にした瞬間、いろんな風景が脳裏を駆け巡った。ごみ捨て場のネットの緑色、黒い煙、持ち出したライター、長い煙突、あいつの眉毛、歪な笑顔、ぎこちない指切り。
今この風景をすべて男に見せてやれたら、伝わるのに。そう思った。けれど、これを知るのは僕だけでいいとも思った。もし知らせられるなら、あいつだけでいい、とも思った。
「……何者でもないんです。僕も。あいつも。お互いに」
けど。僕は続ける。あいつの煙。上に昇って霞んで、消えていくあいつを見て。
「だからこそ、きっと、僕たちは他に変わりのない存在だったんです」
本当は知っていたんだ。
あの約束をした時点で、いや、きっともっと前から、僕にとって、あいつを何者でもない存在なんかには出来なかったって。あいつは何者にもなりたくないって言ってたけど、僕自身もそうだと思ったけど、違ったんだ。
きっと、僕が本当に欲しかったのは、何者でもない自分じゃない。何者でもないって言ってくれた、お前だったんだ。
お前は気付いていただろうか。僕と同じ気持ちでいたのだろうか。それともこんな思われ方は迷惑だって言ったかな。
確かめる方法は、もう、何も無い。
男と僕は、それから何も言わずに煙を見続けた。風はない。あいつはまっすぐ、昇っていく。全てがあいつを受け入れ、まっすぐまっすぐ昇っていく。そして、ついに
男は納骨も一緒に行くか、と僕を誘った。僕は、いいです、自転車も乗せて来てもらったし、自分で帰りますって言って、ひとりで山らしきものから自転車に乗ってカラカラとさせながら帰った。
ごめんね、僕は僕にとって何者かになってしまったあいつに謝罪する。でも、もういいだろう。だってお前、もう僕がいなくても、何者でもなくなってしまったから。
その帰り、僕は初めてあいつの死を思って、泣いた。
煙るあいつは、 加科タオ @ka47
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