第3話
この女は〈間合い〉を考慮していない。
刀同士を擦り合わせるようにして相手の太刀筋を逸らす。
村正は逆手に持った鞘を胸元に引き込む形で半円を描いての第二刃を放つ。その先端にある小刃が風をまとって虎の喉元を掠めていった。鋭い痛み。皮一枚。赤い筋が
本来、武芸者に限らず武器を持った戦士というのは自分の〈間合い〉を持つ。これは、要は武器の届く距離を差す概念である。
その場から一挙動で届かせられる必殺の距離。つまり武芸者同士の死合とは、武器や佇まいからその間合いを測り、それが届くか届かないかのところでギリギリの攻防をするものである。
卓越した武芸者ならば確実に仕留められるとさえ語る、絶対的な自分の距離。村正はその死線――こちらの間合いを一辺の躊躇もなく踏み越える。決して虎が侮られている訳ではない。この女は。
「お前、自分の命が惜しくないのか!?」
我が身を省みていない。だから武芸者としてその間合いを意識している虎からすれば、マトモな手段の通じる相手ではないということ。
どんなに無知でも、武器を構えて殺気立つ武士の間合いに自ら足を踏み入れる人間はいない。肌に感じる圧が近付く事を躊躇わせるのだ。人の防衛本能がそうさせる。だが村正はなおも虎への肉迫を止めない。どこか悦んだ様子の笑みさえ口辺に乗せて。
「命が惜しいなら、最初から剣など持たぬ道を選んでいたさ」
村正がいる距離は虎の間合いだ。だがここに至ってなお、彼女を仕留められないのには理由がある。虎が村正の姿に――その紅い振袖へと眼の焦点を合わせる。すると、ジワリと
幻惑効果だ。これがあるから虎は先ほどから苦戦を強いられ、相手の攻撃を刃物で流すのにも誤差が生じている。およそ戦闘において距離の見誤りというのは、それがどんなに些細なものでも死に直結する。なので正確な距離が測れない現状ではより大きく動いて回避する必要があり、それが相手に一歩譲る形となっていた。
虎が意を決する。村正の足を踏みつけようとするものの、事前に読まれて横へと逃げられる。距離は詰まっている。既に刃物より先に肘や膝が到達する距離。視線が交叉。椿の匂い。体の位置が入れ替わる。斜め下からすくい上げるような一撃。膝狙い。剣の横腹で受ける。鋼が鳴る。そのままひるがえして押し込むように首を狙われた。刀身が顔の前で交叉している。力比べで負けることはないが、まだどんな奥の手があるか知れない。一度弾いて距離を取った。虎は脇に構えて、村正が下段で刃をちらつかせた。
紅色の唇から感心したような言が放たれる。
「やるなぁ、風来坊。その剣、誰に習った?」
肩で息をする虎は、それを隠す余裕もない。限界に近い集中力を維持しなければここまで拮抗出来なかった。加えて生死を分かつ緊張感が疲労の度合いを倍増しにする。
「答える、義理は、ない」
まるで自然体のまま村正は言葉を重ねる。この手の死合に慣れているのだろう。
「そう邪険にするな、こちらはようやく火が点いてきたところだ。普通、武士の死合とはそう長く続かないものでな。読みが冴えている場合なぞは瞬き程度の時間で終わることもある。だからこれだけ打ち合ってなおも息があるお前は、間違いなく
ぎり、と歯を鳴らす。この女を超えるにはこちらも命を賭ける必要がある。否、それは解りきっていたはずだ。命を捨てる覚悟は剣の道を選んだ時から決まっている。この虎が歩むのは修羅の道であるが故。
虎は刀を納める。鞘を握る左手から先程よりいっそう激しい雷光が迸った。
バイラル・ホーンの稲光を宿す一太刀は居合い斬りの形で放たれる。
麒麟と呼ばれし幻獣は稲妻を司る力を持っていた。それを人が操れる形に落とし込み、平時は形を持たない概念として虎の体内に存在させている。
そして一度解放されれば肉体を突き破って具現化され、持ち主に凄まじい雷の加護を与えるのだ。これはその一つの形。鍛錬の果てに虎が編み出した、魔的な速度に指先をかけた一撃。
〈封じる者〉――その言葉に嘘偽りなく。己の内に封じていた稲妻の怪異を具現させる。
鞘と刀身に別の性質を持った雷が宿る。その反作用によって繰り出される決死の一刀。
「往くぞ、村正」
その圧倒的な速度故に反動も大きい。腕と肩、加えて強烈な雷撃を発することによる消耗は仕留めきれなければ命はない、諸刃の剣だ。だがそれは同時に、自らの命を天秤に掛けた先に勝利を喚ぶ必殺必勝の剣であった。
名を第一秘剣・
村正はそれを見てもまだ余裕を崩さない。
「決死の一太刀か。面白い。参れ」
鞘を捨て、両手で刀を握ると正眼に構えた。何かある。村正の奥の手だろう。だが臆するな、退けば死ぬ。勝利は前にのみ存在する。
前へ。ただ前へ。疾走する稲妻は何人にも止められぬ刹那の瞬き。先に放ったのは虎。咆哮とともに雷光がひた走る。一直線に村正へ。踏み込みさえも一瞬。全身に稲妻をまとい、大気をも焼き尽くす豪雷の化身。迎え撃つ村正は、握る剣が一本ではないと錯覚させるような驚嘆すべき剣技で対峙する。その速さは卓絶の境地に至り、稲妻をも凌駕した。
上段、袈裟、横薙ぎ。その三つの角度で相手を確実に仕留める、まさしく魔道の剣。
一つ一つが既に一瞬。よりも短い刹那の時間、よりなお細い
ぎらつく殺意を乗せて村正の一撃目が迫る。受け止めれば刀身を折られるほどの威力を備えた豪剣だ。破滅的な速度のさなかで身を捩り、かろうじてそれを避ける。
だが続く第二の刃が袈裟斬りの形で襲い掛かった。一撃目を避けたその隙を狙う一刀。
虎は崩れた体勢のままに秘剣を放つ。威力も速度も大きく落ち込むが、女の細首を断つには事足りると断じて。そこへ滑り込んでくるのは必殺の横薙ぎ、ほぼ同時、不可避の三撃目。袈裟斬りで仕留めきれなかった相手を確実に仕留めるものだ。二刀目を防いだ相手だからこそ防げない、刹那の間にめまぐるしく交錯する死のせめぎ合い。
もはや魔技と言って差し支えない。まさに技巧の極致、人間離れした悪鬼の所業。
これを、秘剣・
決着は互いがすれ違う一瞬で決まった。
村正は無傷。悠々と振り返る刀の怪物。対して膝を着く虎の有様を見て、エーデルが小さく悲鳴を漏らした。滴る血に、虎は今にも倒れ込もうとする体を必死で支える。
「凌いだな。我が秘剣を」
射貫くような視線は村正から。その剣を放つ以上は勝負を決める腹積もりだったのだろう。自信を大きく傷つけられた。だが同時に、秘剣に応じてなお息がある相手への尊敬も抱かざるを得ない。
「見事だったぞ、風来坊。今の一合、ほんのわずかでも躊躇すれば命を絶っていた。しかしお前の勇ましさが必殺の剣を浅手に抑えた。並の腕では出来ぬことだ」
「何故、止めを刺さない? まだ俺は死んでいないぞ。まだ終わっていない!」
それに返される言葉は冷ややかだ。
「寝言は寝て言え。今お前を突き動かしているものは何だ? 仕事の義務感か、単なる勝負への拘りか? そんな生温い感情で戦う相手の命を奪ったところで何の益もない」
恐らくは彼を認めたが故のことなのだろう。この少女は何かを伝えたがっているようだった。それは、少女が戦いの向こうに勝利とはちがう、別の何かを求めているように虎には思われた。
「良いか。この村正には美学がある。殺人鬼になろうが、悪鬼に墜ちようが決して譲れぬ一線だ。闘争の果てに得る勝利と血には互いの全てが込められていなければならぬ。だがお前はどうだ風来坊。ただ命を賭ける場を探し求めていただけではないか。そんなものは少し剣を合わせれば解る。手前は〈死にたがり〉の命など欲しくはない。死を否定するが故に戦うからこそ命は輝く。だからこそ殺す価値があるのだ」
言葉が詰まり、返答に窮した虎は口を引き結んだ。心中を看破され、返す言葉も浮かんでこない。そう、虎は死合うさなかに己を省みない勝利を求め、死を覚悟して諸刃の秘剣を放った。それは命を投げ捨てる行為に等しい。村正が糾弾しているのはそこだ。〈やすやすと命を賭ける〉虎の行いは、武芸者にとって恥ずべき行為。死を寄せ付けない生への執着こそが剣士の歩むべき道であると、少女はどこか憧れるように口にした。
「お前のそれは手前のような修羅が進む魔道だ。人間であるお前が歩んでいい道ではない。お前は、こんな場所で死ぬことを望むのか? もしそうなら――」
憤怒も露わに、村正は信条に反した者へと冷厳な視線を据えた。
「ふざけるなよ。お前は剣士でも陰陽師でもない。ただの死にたがりだ。生きる意志のない人間などただの木偶人形にすぎぬ」
虎は
「お前に何が解る、
言葉とは裏腹に、この村正という少女は妙に人間臭い。先の信条という言葉を吟味すれば、要は対等な立場での立ち会いを望んでいるということだ。自ら戦う意志がない者の命は奪わない。
だからこれは帳尻合わせだと少女は言葉を結んだ。村正がエーデルへと詰め寄る。
「よく見ておけよ風来坊。これはお前の失態だ。もはや刀神会の目的など知ったことではない。遺産など知るものか。自らの命を軽んじるということがどういう結果を生むか、とくと知れ」
妖刀がぎらりと閃きを放つ。エーデルは身が竦んで動けない。剣の怪物が自分を殺そうと歩いてきている。紅色の双瞳を爛々と光らせて。
「死に鈍感な者が死を扱えば、そこには悲劇しか待っていない。故にこの童女はお前のせいで死ぬ。お前が軽んじた命の末路、その眼に焼き付けておけ」
待て、と言ったところで止まるような相手ではない。足元も定まらず、駆け寄ることも難しい。
逃げろと眼で訴える。だがエーデルはあろうことかそれを見返し、首を振った。
何故。諦めるのか。お前は何かをしたかったのではないのか。一族の遺産を守りたかったのではないのか。否、違う、そうではない。確かにエーデルが命を落とせば、もう遺産を動かせる人間はいない。それは間違いなく遺産を守ることに繋がるだろう。だがそれでいいのか。それは間違っているのではないか。お前の命はここで捨てていいものなのか。
「止、め、ろ……」
まだ少女の命は消えていない。まだ助けられる。まだ守れる。まだ、戦う意味が存在する。
「――止めろぉぉおおおっ!」
何かが内側から体を突き動かす。動ける。間に合う。秘剣の反動で角の力は使えず、右腕はとうに限界を超えて関節が悲鳴を上げても、まだ。筋肉の筋は伸び、断裂している箇所があっても、それに目もくれず虎が吠えた。
激痛に喘ぐのは飽きている。絶望などとうの昔に知っている。命を賭けるという意味を決して軽んじているわけではない。そうしなければ守れないなら、そうする他に手段がないだけ。
――驚愕と回避とは同時だった。
異質な風鳴り。ぞっとするほどの殺意がこもった、そう、これはエーデルが元いた場所を蹂躙した……
悪夢のような切断の具現――
村正は左。虎は走る勢いそのままに。もう体は半分ほど言うことを聞かないような状態だったが、転がるようにして回避できた。
二人の間に走った、不可視の斬撃。その威力を裏付ける道路上を横断するほどの巨大な亀裂。その切断面は鏡のごとく。
背筋を凍りつかせる殺意もあわせて、新たな闖入者の驚異を推し量るには充分だった。
「くっ、これは……」
「何者だ」
「ナンだよ。今さらひとり増えても、別にいいだろ?」
村正の誰何に答える声はフェンスの上から。エーデルは自分を背にかばう虎の肩越しにその主を見て、身を強張らせる。
「竜巻……!」
応じるように、フードの男。
「おう。逃げ出したお前を捕まえろって命令でな。しかし相手が出来損ないと戦鬼狩りか。面白い取り合わせだ」
ここに来て、最強の鬼が現れた。その事実だけでエーデルの心は折れかかる。
かつてまざまざと見せつけられた。あの圧倒的な力を。命を蹂躙するありさまを。
幸いにも村正が引き起こした事態によって、周囲で逃げ惑っていた人間は相当に離れていった。ここでまた惨劇が繰り返されるようなことはあるまいが、エーデルとしては虎の身が心配だ。
見れば体に力がなく、荒い呼吸を繰り返している。失血の量も多い。
「出来損ない、だと……」
いたくプライドを傷つけられたか、虎が反応した。
「そうだろうよ。話くらいは聞いてるぜ、出来損ないの死にぞこない。まあ今回お前に用はねえ」
竜巻は戦鬼狩り、村正を見やる。
「剣神・村正。お前、相当強いらしいがよ。まさか格下を狩り回って満足してるわけはねえよなぁ?」
飄々とした物言いながら、その眼には獲物を逃さない意思がこめられていた。村正は剣呑さを隠さずに応じる。
「無粋な。死合に水を差すなど……せっかくの立ち合いが台無しだ」
「立ち合い? そんな程度の低いのとやりあうのを立ち合いと呼ぶなよ。それにそいつをやられちゃ、連れてきた俺の立場がねえしな」
「いいや、手前は殺すと言った。その邪魔は何人にもさせぬ」
竜巻は離れた場所からでも斬撃を届かせる異能を持つ。対して村正に遠間での武器はないようだが、竜巻は頭上の有利を捨てて同じ高速道路上に降り立った。
「この俺を、出来損ないと言ったか……竜巻め!」
「虎之助さん! 大丈夫なんですか!?」
エーデルははたと眼を見開く。虎が受けていたはずの怪我はそのほとんどがすでに塞がりかけていた。
「あいにく、怪異を宿しているせいでそう簡単に死ねる体ではないのでな。とはいえ、致命傷を受ければ命を落とす。戦鬼とやりあうには、こんな体になるしかなかった」
自分も立派な化け物だという自嘲が、その言葉には込められていた。
そうしている間にも竜巻と村正は刃を交わし始める。竜巻のほうは十数センチ程度の刃渡りしかないナイフでありながら、村正の刃筋を的確に見切り、体を逸らし、避けられないと見て取ったものにだけナイフをひるがえして応じていく。
村正はと見れば、不可視の斬撃を完全に見抜いているのか、立ち位置をさまざまに変えて応戦。
時折、刃で異能の刃を弾いているのはお互いの礼装の強さが互角だからか。あれでは村正を仕留めきるには一手、足りない。
そしてそれは村正のほうも同じ。攻守が錯綜する膠着状態。
「立てますか? 虎之助さん」
こちらにしてみればチャンスだ。一度退いて態勢を立て直すのが上策だろう。そも、竜巻の異能は豪炎燃え盛る道路を周囲への配慮などおかまいなしに切り裂いて、いたずらに被害を広げている。
「問題ない。だが、このままでは俺の気が済まん!」
「落ち着いてください! このままでは巻き込まれてしまいます! 一緒に逃げましょう!」
「逃げてどうする。逃げれば今度はより確実な手で仕留めにくるぞ」
「それでも……お願いします。私を、置いていかないで……」
血気に逸る虎を落ち着かせたのは、少女の頬をつたう涙だった。
「どうして泣く?」
まだ会って間もない人間のために、この少女は泣けるのか。
虎はまだ知らない。少女が負った心の傷を。自分が原因で誰かが命を落とし、その責任をひとりで負わされ、寂しいと思う事も許されないエーデル・スタインの心の寂寞を。
「お願い、します」
「…………」
虎からすれば、敵に背を向けるなど恥でしかない。
だが決して融通がきかないという男ではない。ここで少女の顔が涙に濡れるのをよしとするほど、優しさを見失った人間ではなかった。
「解った。お前に従おう。だから、泣くな」
その後、互いの決着にのみ注力する怪物に背をむけて、二人は非常階段へと向かった。
とはいえ、その光景を怪物たちが見逃しているわけはない。互いの刃を交差させたまま、竜巻が言う。
「いいのか? お前が殺すと言ったあの女、逃げるようだぜ」
「なに、構わんさ。それに、手前が興味を持ったのは男のほうでな」
「ほう? ああいうのが趣味か?」
「下賤な。そういう話ではない。あれは強くなる。いずれ、お前よりもな」
「そいつは聞き捨てならねえな! あんな出来損ないに何ができる!」
一度大きく刃物を打ち合わせ、距離が離れた。
「呪術で強引に強化されただけの人間だ! そして、戦鬼より強い人間なんぞ存在しねえ!」
「ああしたやつは前例がない。故に未知。それは期待に繋がるという話だ。何より、勝利への執念は眼を見張るものがあった。死にたがる道を正してやれば化けるかも知れぬ」
死ぬためではなく、生きるために。それこそ村正が求めてやまぬ強敵の姿だ。
そして次の一合。秘剣を繰り出した村正の前で、竜巻はたたらを踏む。
反応どころか視認さえ許さぬ三方斬りの凶悪さは、先に虎へと繰り出したものよりさらに数段、上をいく鋭さだった。だがこれでもなお。
「てめえ、手を抜いて……!」
「疾く去ね。お前は村正の敵に値しない」
宣言はことさら冷酷。最強の戦鬼が気圧されるほどの。
捨て台詞を残して、竜巻は大きく跳躍。夜の闇へと姿を消していく。
だがこれはおかしな話だ。戦鬼狩りという狩人が、狩るべき対象を見逃す道理はどこにもない。
あるいは。あの竜巻と一戦交えるくらいになれば、死にたがりの悪い癖も治ると思ったのか。
「さて……少しばかり猶予をやるぞ、風来坊。一度とはいえ手前に触れた男。期待を裏切るなよ」
そう零す村正の首には、血を滲ませる赤い筋が一本、走っていた。
現代怪奇異聞譚・征伐の章 デン助 @dennsuke
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