第2話

 エーデルは肌を騒がせる帯電した空気に身を竦ませた。

 赤い少年、虎の一振りを受けて右腕を失くした槍使いは、低い呻きの後にぎらつく瞳で刀使いを睨みつける。

 血飛沫が床を叩く。その湿った音にエーデルは顔を青くし、直視を避けた。

「成る程な……確かに速い。小童と侮ったか。この借りは必ず返すぞ」

 槍使いの怨嗟。対する虎は揺らがぬ意志を面に浮かべ、胸を張って返す。

「我が一刀とて安くはない。受けてなお、その程度で済んだことを誇りに思えよ、槍の又左」

 自信を滲ませる返答に眉を顰め、黒い槍使いは大きく跳んで背後に跳び退くと、そのまま闇の中へと姿を消した。虎は薄暗い照明に照らされた朱色の痕跡に眼を落とす。斬り落とされた腕から鮮烈なまでの紅花が咲いている。

 

 虎の左肘に見える角には未だ収まらぬ電撃があった。乾いた破裂音を響かせる、エーデルには到底想像のつかない白い何かだ。

 電気を放つ器官は人体に脳しかないが、これはそうした〈生きるために必要な器官〉ではない。明らかに攻撃的な意図を持った、後付けのものである。その背中に恐る恐る声をかけた。

「あの……ありがとうございます。助かりました」

 刀を鞘に納めた少年は、戦いの気構えを解いたのか幾分柔らかい顔つきで向きなおる。

「大事ないか? 来る途中に渋滞があってな。遅れたのはそういうわけだ。まあ、勘弁してくれ」

 短い金髪をたてがみの如く逆立たせた風貌は、正しく虎を思わせる雄雄しさがある。

 言動とそれらから彼女が見て取った虎という人物は、どうにも年齢に似つかわしくない老成した内面を感じさせた。

 座り込んだままの彼女へと虎が手を差し伸べる。

「立てるか? ここ最近の街中は物騒だ。色々問いたい旨はあろうが、まずは場所を移そう」

 エーデルは、戸惑いながらもその手を取った。

 

    *    *    *


 夜の高速道路に、一つの赤いテールランプが長く尾を引く。無骨なフォルムの大型バイクに跨った虎はゴーグルの下に愉しげな笑みを浮かべ、背中にしがみ付くエーデルに向かって声を張り上げた。

「どうだ、ここの風は気持ち良かろう! 加えて頭の上に朧月夜とくれば、心が躍る風趣ふうしゅだろうよ!」

 交通の主幹とされる環状線で低く重い排気音を奏でるバイクは、風を押し退けながら速度を上げていく。エーデルは初めての自動二輪に悲鳴をあげているが、それは耳元を覆う風音に掻き消されて虎にはあまり届かない。長い銀髪が風に煽られて靡いている。

 このバイクには外装が殆どなく、エンジン部分が剥き出しで搭乗者はもろに風を受けるネイキッドというタイプのものだ。しかも大排気量でパワフルな加速をしてみせる大型、地を這う銀のボディフレームは見る者に厳つい雰囲気を与えてくる。

 赤と白のツートンカラーが特徴の、CB750というものだ。

 一瞬で景色が後ろに流れていくスピードは、もはや免停覚悟の速度違反に違いない。

 エーデルは眼も開けていられない風圧に負けじと声を張り上げた。会話するには向かない状況でも、言わずにはいられないこともある。

「と、飛ばしすぎじゃないですか!? 速度落として下さい! こんなの常識外れです!」

「ナナハンに乗るのは初めてか!? はっはぁ、ならば尚更痛快であろう!」

「い、いやあああ! 話を聞いて下さい! 降ろしてぇ!」

 虎の言葉を切り裂くエーデルの悲鳴は、虚しく背後に流れていく。

「そういえばまだ自己紹介をしておらんかったな! この俺は虎之助とらのすけという。陰陽座に雇われている、まあ一介の何でも屋だ。失せ物探しから人殺しまで、金さえ貰えればどんな依頼でも請け負うぞ。おい、ちゃんと聞いているのか、ちんちくりん!」

「ち、ちんちくりんじゃありませんっ!」

 眼に涙を浮かべて抗議するものの、虎には腰にしっかり回された両腕がどうにも細く、小枝のようで頼りなく思われた。

「報告書にもあったが、まさか遺産の担い手がこのような子供とはな」

 虎の疑問も無理はない。戦鬼や陰陽師にも若い世代は多いものの、エーデルのような幼い年代というは殆どいない。

「わ、私一人で逃げてきたわけじゃないんです。いろんな人達が手を貸してくれて……」

「ほう、成る程。確かにコランダムは悪評をよく聞く。人々の反感を買うことも多い。奴の〈依頼〉もそのあたりが関係していそうだな」

 手馴れた様子でギアダウンし、エンジンの回転数をぐっとあげて前に並ぶ自動車を抜き去っていく。その強靭な加速にエーデルは体が後ろに持っていかれそうになる。

 軽々と数輌追い越し、あっという間に後ろへ置き去られる自動車の群れを眺めて、速度に慣れてきていたエーデルはどこか胸がすく思いを感じた。

 虎の「痛快」という言葉が頭を過ぎる。

 たった数秒で自分を取り巻くものを遥か後方に抜き去り、自分は更に前へと進んでいく。並み居る障害をものともしないその姿勢は、彼女に〈強さ〉というものを考えさせた。

 エーデル自身に戦う力はない。捕われていたビルから逃げられたのも、あの槍使いを退けられたのも、他の誰かの助成があってのことだ。

 故に強さへの劣等感がある。だが、この鋼の心臓を持つ鉄の獣は仮初ながら彼女のそれを一時満たしてくれた。開放感や充足感、スリル。そういったものが齎す、一種の「自由感」だ。

 慣れてきたおかげで、無理やり乗せられた最初よりは幾分落ち着いた心持ちで虎に問いかける。

 相も変わらずスピードを出し過ぎる運転手だが、それは〈この状況なら誰にも聞かれる心配がない〉ということなのかも知れなかった。

「あの、依頼で助けてくれたのは解るのですが。あなたは私と遺産をどうするつもりですか?」

「ああ、何故か助けた後のことまでは決められておらんのだ。持ち帰れとは言うものの場所を指定されておらぬでな。さて、どうしたものか。その遺産については、なぁ。このおれとしては動かぬガラクタにどうして皆がそこまで執心するのか理解に苦しむ」

 過去に一度の起動を最後として、黄昏の遺産は封印され隠され続けてきた。その折りにかけられた封印というのが〈御子〉という存在である。そして世代を重ねる毎に御子の力は弱まり、遺産を動かすことが難しくなっていった。

 そうして今の御子になり、黄昏の遺産を動かす力を完全に失った――そんな噂がまことしやかに囁かれ、興味を失われていったのも無理はない顛末だろう。

 虎としてはそんなものを手に入れても意味が無いと、無関心を崩さない。

 そういえば、と言葉を続ける。

「お前の方こそその遺産について何かアテはあるのか?」

「はい。このペンダントについて知識のある、永倉ながくらという博士がいると聞いてます。私はその人に会わなければなりません」

 言葉にして思い出すのはシャルルというメイドの安否だが、今となっては生死を確認するのは難しい。生きていて欲しいと胸中で祈る。

 虎はそんなことなどつゆ知らず、首だけで振り向いた。

「もしや永倉源内ながくら・げんない教授か? 成る程、確かにあやつならば遺産について解らぬことはあるまい」

「お知り合いなんですか?」

「腐れ縁よ! ひとまず急ぐとしよう、しっかり掴まっておれよ!」

 右手のアクセルを捻り込む。即座、高回転域に突入したエンジンは百を超える馬力によって総重量二百キロ超の車体、その前輪を浮き上がらせた。

 それを腕で無理やり路面に押さえつけ、虎はバイクを走らせる。エーデルは頭に被る銀色のハーフヘルメットが脱げないことを祈り、せめて転げ落ちないようにと腕に力を込めた。


 虎が道中で語ったのは陰陽座についてだった。かつて平安時代に存在した陰陽連という術者集団に端を発する組織であるという。これは時代の正史から外れ、陰ながら人々を怪異より守ってきた集団である。関わる者は例外なく怪異について学び、対抗策を従えて社会に放たれ、陰に日向にそうと知られることなく活動してきた歴史を持つ。

 かくいう虎もこの法則に則って仕事を請け負い、人々を助ける役割の一端を担っている。

 闘争から闘争へと渡り歩く戦鬼オーガ……陰陽師という立場でありながら、虎という少年はその怪異を打倒することを目的としていた。

 

 そんなことは今のエーデルには知る由もない、移動を続けるバイクの背中でなおも疑問を口に乗せる。

「あの、さっきの角……みたいなものって何なんですか? ああいうのも征伐武装ヴァンキッシュ・ウェポンに含まれるんですか」

 エーデルが思うに、虎の角は征伐武装に勝るとも劣らないものだった。戦鬼に一歩譲るという陰陽師でいながら、虎が持つ力は前田利家や竜巻に匹敵するのではないか。

「否である。そもそも征伐武装とは戦鬼のように霊覚クオリアル・コードを持った者にしか使えぬ魔的な礼装だ。この俺のように肉体の一部を外科手術で改造した場合とは異なるものよ」

「外科手術……」

「うむ。この角はバイラル・ホーンという。感染呪術に分類されるものでな、この角が宿す呪いを意図的に発動出来るよう教育されたのだ。昔話によくあるであろう、藁人形に五寸釘を刺すと相手に呪いをかけられる、人の影に杭を打ち込むと動けなくなる、などというようなアレだ。言葉にすると抽象的だが、概要は一種の宗教染みた思考様式であるな。まあ実際、こうした媒体は神の憑依体だという見方もある。八百万やおよろずは知っているか?」

 エーデルが頷く。

「日本では様々なものに神が宿るという教えがあると聞いています。土地神信仰だとか」

「ふん。神など、人の心の中にしか居ないというのにな」

 そこで一旦言葉を区切る。沈黙を風だけが切り裂いていく。

「……これはな、落雷と共に現れるという幻の獣、麒麟キリンと呼ばれる化生の角らしい。我々陰陽師は〈封じる者〉、即ち戦鬼を抑える人間だ。俺のように怪異そのものを内に封じている輩は他におらぬ」

「何故、そんなことを?」

「それは無論――」

 そこで、虎は異変に気付いて言葉を切る。

 前方、突如として爆発。暗夜に紅蓮の花が咲き、後続の車輌が次々と足を止めていく。

「何だ……?」

 虎も同じように減速をかける。同時、道路を占領する車の群れから前が見えるようにその間へとバイクを滑り込ませた。

 唐突に発生した渋滞は追突事故も誘発する。事実、車のぶつかる音は一度や二度では済まなかった。最初の爆発はタンクローリーでも横転したのかと思ったが、ここは直線。それは考えにくい。

 噴煙の燻る現場まではおよそ百メートルほど。そして虎はその時、確かに見た。

 燃え盛る火炎を背にして、こちらを見る一人の少女を。


 先回りした追手か。アレを避けて通るのは難しい。こちらを見据えてから一度も視線を外していない。

 ならばあの爆発、そして二次的に発生したこの渋滞はこちらを足止めさせるものか。

 だが、状況はそう悪くない。これだけ車が密集していれば、こちらがつけ入る隙も生まれる。例えば路肩を通り抜けてやり過ごすことも……

 しかし、虎の考えは甘かった。あの相手をしてそんな常道、通じる道理はどこにもない。

 一歩、着物の少女がこちらへと歩を進めた。その際に右手から振るわれた斬撃の数は、遠間からでも視認不可能なほどの密度だった。一拍遅れて大気が弾けるような鋭い音と共に、人体と車体もろとも細切れにされた。驚愕よりも畏怖が先走る。

「刀使いか!」

 街灯を照り返してなおも白く輝く刀身は紛れもない名刀の証。それが群れなす車を通り抜けるたび、まるで解体されるように刻まれていく。明らかに刀身よりも長い鋼鉄の塊を当然のように寸断して。

 あれほどの真似が出来るとは、相手は戦鬼か。だが、十二宗家が誇る戦の鬼はそれだけに有名であり、こんな暴挙を許される道理はない。

 戦鬼は強大な力を持っている半面、陰陽座もその扱いには注意を払っているからだ。それが戦鬼同士の相互監視と陰陽師。

 特に陰陽師と戦鬼の関係は、単独で敵わないのなら複数でかかれば良いという単純なものだが、それだけに強力である。よって戦鬼も無秩序な振る舞いは出来ず、単なる戦闘のシステムとして管理されてきた。

 戦鬼は十二宗家の象徴たる存在だが、あまりにも逸脱した行為を取り続ければ首のすげ替えが行われる。その際は各宗家に所属する陰陽師達によって討伐され、次の象徴を選定する儀に入る。

 だからこそ、こうした不遜で身勝手な行いは制されてきた。ならばあの少女は戦鬼ではなく。

「一体、何者だ」

 交戦は不可避と考え、虎はバイクを降りて前に進み出た。

 だが、異質な風切り音に一瞬背後を振り返る。

「――知りたいか?」

 虎の反応は完全に遅れた。一瞬の内に眼前へと現れた、着物姿の少女。

 最初に感じたのは異常なほどに冷たい肌触りの空気。そして鼻に届く血臭。

 大気が弾けるような鋭い音。女が最初にいた位置からここまでに並んでいた車輌の群れ、都合百メートル。それら全てが一切合切切り裂かれ、全くの同時に崩れ落ちていく。

 エーデルはその異様な光景に思わず口元を手で覆った。比べて虎は押し黙ったまま女を見据える。

 その女――刀を携え、首だけで振り返る様子は妖艶な魔性を感じさせる。活動写真の女優のようだ。

 年の頃は虎と同じくらいだろう。新雪のような白い肌に妖しさを纏い、眦には意志の強さを宿らせる。

 その薄紅色の唇が言葉を紡いだ。

「若いな。お前が遺産の運び手か。成る程、活力に満ちている」

 実際にしたわけでもない舌なめずりがどうしてか見えるようだ。この女は紛れもない妖気を放っている。虎も警戒して身構えた。

「手前は村正。戦鬼を狩る者だ。お前のような陰陽師も例外なく、な」

 からん、と音が鳴る。村正と名乗る少女が履いている女物の下駄だった。

 刹那のうちに背後を取られた。そして刀で鋼鉄を切り落とす所業。加えて、ぞっとするほどの魔的な美貌。

「追手にしては随分と派手な振る舞いだな」

 虎の問いに村正は嬉しげに双眸を細めた。

「追手?」

 からん。また一歩距離が詰まる。

「寝言は寝て言え。手前は内輪揉めの絶えないような下らぬ組織に組したつもりはない。聞いたことはないか。〈刀神会〉の名を」

 これに反応したのはエーデルのほうだった。あの当主と呼ばれた少女の話にあった名前だ。

「そうか、お前が音に聞く〈戦鬼狩り〉だな。だが、何故其の方が遺産を狙う?」

「然もあらん。遺産が引き起こすのはイクシードの範疇を超えた魔法のような奇跡。それによって世界は怪異を思い出す。その遺産を奪い合って引き起こされる闘争……実に愉快であろう? 武芸者の技は闘争の場でこそ輝くものだと思わぬか?」

「下らんな。イクシードはいくさのための異能だろう。それは人に秘められた力。遺産に宿るものではない」

 やれやれ、と村正が呆れた様子で首を振る。

「陰陽座は教えなんだか。手前どもの組織は遺産が引き起こす〈イクシード・クライシス〉を求めている。怪異によって怪異を喚び、怪異を以て世を支配する。全てのイクシードを超越した力がその遺産には秘められているのだ。故に代々の姫御子がそれを管理し、世に出ることのないよう隠匿してきた」

 だが、と続ける。獲物を見据える眼には殺気が宿り始めていた。

「何の利益も齎さない遺産に人々は飽きていた。伝承が廃れて以降、遺産を守る一族はどこかに隠れ潜んでその慣習を守り続けてきたのだ。もう二度と動かないというデマカセまで振りまいてな」

 かつては時の為政者にまで影響力を持っていたと言われる一族――エーデル・スタインはその末裔。

 現代に取り残された最後の姫御子。

「であればこそ、手前どもは世に知らしめる必要があるのだ。怪異はここに在ると。忘れることなど許さぬと。我々は〈忘れ去られた伝説〉などではないと。生きた怪物なのだと!」

 病巣――そうとしか言えぬ狂気の昂ぶりを以て、その女は虎の前に立っていた。

村正は切れ長の双眼に昏く冷徹な光を宿す。計り知れない狂気の疼きを滲ませて、漆黒の眼差しを虎へと据えていた。

「そういうわけだ。スタインの娘はもらっていく。大人しく引き渡せば良し。でなければ……」

 大気が緊張して張り詰める。その風体を見て、虎は成る程と内心で納得した。

 確かにこの女ならば戦鬼を屠るという所業もやってのけるかも知れない。吹き付けてくる殺意は常人とは思えない冷酷さを伴っている。

 戦場に身を置く者のみが纏う空気を、村正は自然に放っているのだ。

「未だ誰も触れたことのない戦鬼狩り。相手にとって不足はない。俺の前に立つ障害は斬って捨てるのみ」

 左手の肘先から先刻に見れた角が突き出す。稲妻を操るバイラル・ホーンだ。村正はそれに興味深そうに斜に構えて視線を投げる。

 ねじくれた爪痕を残しては消える雷光。今日は風が強い。朧月夜も今や深海のような曇天。

「これはこれは。お前、人造の陰陽師か。初めて見たぞ」

「女は斬らぬ主義だが、もはやお前を女とは思わん。化け物は化け物らしく死んでいけ」

 これを聞いた村正はさも面白そうに鼻を鳴らした。

「愉快、愉快。そう来なくてはな。では始めよう。手前が満足するまで死ぬなよ、風来坊」

 ――正面から風が吹く。思いの他勢いの強いそれに少しの間目を細めた。

 改めて村正を見る。しかし今や目前の少女は先ほどとはまるで様子が違っていた。双眸を鮮血色に染め、おぞましさを増してそこに在る。艶やかな薔薇色の振袖には菊や紫陽花あじさいの模様があしらわれ、浮世離れした美しささえ感じさせる風采。

 佇まいに関して言えば、清澄な気配を纏う楚々とした少女だ。芙蓉ふようのかんばせに百合の佇まい。薔薇の袖――だがそのたおやかな印象を裏切る、濡れた刃の日本刀。

 熟れた石楠花しゃくなげにも似た色の双眸が虎を見る。見る。見て、嗤う。

 女が言った。黒い一条縛りを揺らして、鈴を転がすような声。

「女と思わぬのは正解だ。手前は一匹の鬼。冥府魔道に堕ちた、ただの悪鬼よ」

 下駄が、ころりとまた一つ距離を詰めた。

 ぞくりと肌が粟立つ。殺意の質が先と違っている。どす黒い感情がその歩みに乗っていた。

 頭の中で警鐘が鳴る。眼の色を変えたこの女は〈やばい〉と。理屈ではなく本能で。証拠もなく感覚がそう告げる。虎は左手で持つ刀をすぐさま抜き放った。

 冷や汗が頬を伝う。底知れない驚異を感じさせるこの人物は真実人間か。戦鬼狩りに殺されたものは数知れず――どれほどの腕なのか、理解できたものは過たず命を絶たれて噂だけがまことしやかに囁かれる、正真正銘の正体不明。

 風の戦鬼を下す虎をしてそこまで警戒させる何かが、この少女にはあった。

 ――直前まで気付かなかった。気付けないほど自然な動作だった。動きの起こりを消した、言ってしまえば暗殺術に近い性質の打ち込みを正面から浴びせてくる。虎はすんでのところで横っ飛びにかわした。風切り音に肌が粟立つ。

 息が詰まる。圧迫感さえ伴う空気に気圧され、こちらから攻めることを躊躇わされた。攻守は変わらず、村正が逆袈裟さかげさに放つ一刀は冷え冷えと冴え、今度こそ避けることを許さない。

 刀の横腹でいなすのが定石だが、虎の武芸者としての嗅覚が危険を告げる。踏み込んできた村正の右足――その膝がちょうど振り上げれば虎の腹に入る位置。これを見過ごせば蹴りからたたみかけられるに違いない。武芸者というのはそうした手管も持ち合わせている。肉体がそのもの一つの刃物。

 簡単な理屈だ。敵の体勢を崩したところへ追撃すれば安全に主導権を握ることができる。これはその駆け引きの一端。

 かと言ってそれに怯え、後ろに退けば更なる優位性を譲ることになる。距離が詰まればそれだけ体勢を崩す手段も増えるのだ。一つ下手を打てばそれが致命的な失策になりかねない。

 咄嗟の判断。左腕から突きだしている角。荒れ狂う雷の嵐が村正を怯ませた。警戒に集中の度合いを増した眼差し。虎は一歩退いて距離を保ったが、それで終わらない。嗤いの兆候を顔に浮かばせ、村正は左手につかんでいる鞘を虎に向ける。先端のこじりから数センチほどの刃物が飛び出す。不意を突いて相手を殺す暗殺用の武装、暗器だ。

「くっ!」

 首を背けて斜め下からの軌道から逃れる。こちらの反応は遅かれど動きは見えた。敵わない相手ではない。だが。

 攻守、尚も変わらず。

 村正が距離を詰めて薙ぎ払いを仕掛けてくる。これ以上下がるのは悪手と判断、刀身で受け止めた。食い縛った歯の間から吐息が漏れる。耳朶に刺さる鋼のいななきは、さながら虎徹の悲鳴を聞いているようだ。村正、笑みを崩さずに。

「どうした、風来坊。攻めが甘いな」

 左手の鞘。鐺の刃物から繰り出される刺突を避けることも出来ず、なお防げずに虎の右肩から血飛沫の華が咲く。

「ぐああ!」

 短槍にもなる鞘に驚きを隠せない。あれは剣術の枠に囚われない、邪剣のたぐいだ。

 正面からこうも堂々と不意打ってくるなど常道の剣術からすればおよそ考えられない逸脱した行為。二刀一対。加えて両手で打ち返す虎の刀を片手で受け止める様からして〈真言礼装〉による加護は宗家の戦鬼に匹敵するほどだろう。

 村正。その名は恐るべき妖刀としての加護。

 この女、過去の人間ではなく刀そのものとしての呪いを帯びている。


 そこで、村正はどうしてか距離を離した。あろうことか鐺の刃に付いた虎の血を舐めて味わっている。唇の端から一筋流れた。紅の瞳に宿る狂気の光がその輝きを一際増す。

「手前は吸血症ヴァンパイアフィリアでな。人の血を嗜好する、どうしようもない悪鬼なのさ」

 怖気をふるう妖艶さ、おぞましさ、そして例えようもない破滅的な美しさ。

「さあ、続けよう。その棘のようなものをまだ十全に生かしていなかろう。まだだ、まだ死ぬな。手前はまだ満足していない」

 滲む手汗。虎は戦慄しつつも、この女を打倒する方法に頭を巡らせた。

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