現代怪奇異聞譚・征伐の章

デン助

第1話

 ことの始まりは、つまるところ虐殺だった。

 それは誰かが悪意をもって仕組んだものでも、世界を動かすような大事件だったわけでもない。

 ただ災厄じみた存在が近くにいただけという偶然で、そこにいた者たちの命は虫けらのように奪われていく顛末になっただけの話。


 人が人としての死にかたをしない戦場。ナイフが一閃するたびにまるで鎌鼬かまいたちが通りすぎるかのごとく、不可視の切断が行使されて夥しい血飛沫と人命が散っていく。戦闘と呼ぶにはあまりに一方的で、圧倒されるばかりの光景。

 たったひとりの敵に対して、銃火器で武装した集団が何もできずに殺されていく。

 敵――蒼い影をまとうその人物は離れた場所にも斬撃を届かせた。風圧や真空の刃ともちがう。十五センチあまりの刃渡りでは到底不可解な現象がおきている。得体の知れない現象がシェルターへと続く回廊を紙のように裂き、人を、弾丸を、あらゆる一切を寄せ付けない。

 さながら竜巻。蒼い人影はフードに風貌を隠し、容姿は不明のまま――

 人間のままでは到達できない域にあって、彼は〈最強〉の名を冠する戦いの鬼であった。


 人物は怒濤の如く駆け寄る兵士達のひとりから、銃剣を持つ腕を半身はんみになって避けるとその腕を掴み、肘のあたりから寸断。血飛沫を飛ばしてあてつけるように集団の前へと放り投げた。そうして嗤う。

 逆らえばこうなると示すがごとくに。

 そしてわずかな容赦もなく並み居る兵士を切り刻む。血風が吹き荒ぶ。恐怖に強張る少女の顔へとその数滴が散った。熱い一滴が涙のように頬をつたう。

 近くで誰かが言った。絶望の余韻を滲ませて。

「人間じゃ、ない」

 暗闇のなかに銃火の瞬きで浮かび上がる惨劇から、少女はそれでも眼をそらさない。あまりの出来事に思考が止まった、唖然とした表情のまま。

「隔壁を下ろせ!」

 敵の侵攻を止めるために頑強な、厚さが十センチに届くほどの壁が通路を遮断する。それも、意味はない。

 一息の間に斬られた隔壁の切断面は鋭利過ぎて鏡のようだ。一体いかなる道理であればこうも無慈悲に、そして美しく斬れるのか。


 立ち向かう彼らとて素人ではなく、幾度もの実戦を経験してここに立っている。だがそれはあくまで〈人間〉を相手にしていたもので、今回ばかりは話がちがう。おとぎ話の怪物を相手にしているようなものだ。銃火器がまるで通用せず、誰かが通路そのものを壊して足止めせんと投げた手榴弾が炸裂し、さりとて無傷のまま迫る敵に即席のバリケードは破られて後退を余儀なくされていく。

 あのナイフは炸薬爆発さえも寸断するのだ。常識的な事象が全くと言っていいほど通じない、まるで怪異。

 そう、怪異だ。悪魔や魔人に類するものだ。そうでなければならない。アレが人間であるなど信じられるものか。

 硝煙と鉄の香り。鳴り止まない銃声と悲鳴。何かの焦げた異臭。まき散らされた臓物の臭いが鼻を突く。

 冷たい炎。命を蹂躙するこの蒼い影はそう形容するのが相応しかろう。


 発端は少女が首に提げるペンダントにある。

 敵の狙いは一族が代々守ってきた〈遺産〉だ。無論一族はこうした危機を想定して武装した集団を用意し、偽の情報を流して存在を秘匿してきていた。故に遺産を狙ってくるならばその秘密を暴ける集団、即ち大規模な情報収集能力と軍事攻撃を行える者たちだと信じて疑わなかったのだが、結果は違った。

 たったひとり。ただの一体。ぽつんと現れたネズミ一匹に歯が立たない。それを誰が予想出来ただろうか。

 蒼い影は嗤う。熾火おきびのような狂気に燃える眼光の下、三日月にも似た口元で。

「何だ、呆気ないな。〈伝承の守人〉がこの程度でどうする。ええ?」


 ――現実的に考えれば、単独でこのような真似が出来る人間は存在しない。だが、少女は知っている。あれの何たるかを。それが何によるものかを。

 一歩、また一歩。不気味なおぞましさを漂わせる敵はこの殺戮を楽しんでいるかのようですらあった。

「アレが〈戦鬼〉なの……」

 戦いの鬼――少女はそう呼ばれる人種がいるというのを知っていたが、実のところ目の当たりにしたのは初めてだった。

 戦鬼とは過去の伝説を保管し、現代に蘇らせた人間たちだ。〈真言礼装〉という、過去に生きていた誰かの名前をさずかってその力を借り受ける者たちである。言わば伝説の再現者。言霊ことだまと言われる概念がそれを可能にした。

 言霊とは言葉にこめられた力のことであり、呪術的な括りのうちに入るものだ。

 それは言ってしまえば呪いに近い。人の名とはその最たるもので、この少女をエーデル・スタインと判別するのと同じものである。

 繰り返し名を呼ばれることで言霊に力を持たせ、認識を上積みしていく。原理としてはそれだけだが、戦鬼とは無論それだけでは終わらない。

 彼らは力を持つ。過去より受け継がれた伝説に呪術的な施しを加えて加工し、異能の力を手にして現世に君臨するのだ。そうして強化された伝説は、代を重ねて積み上げられる〈名〉という呪いを付与され、彼らを人造の怪物たらしめる。

 人体の限界を超えた膂力、理解を超えた異能、そして同格の呪いによってしか傷付けられない防御力。

 つまりは〈最強〉の体現。何者も冒すことのできない過ぎ去りし伝説の再来だ。

 かつて勇名を馳せた者たちの血統……斯く在るべきと宿命付けられた彼らは、それを知る人々に〈戦鬼〉と呼称され畏怖されていた。


 少女の肩にそっと手をおく人物がいる。彼女の母だ。同じ銀髪に緩くウェーブをかけており、その下で穏やかな微笑が囁く。安心させようと努めているのだろう。恐怖ばかりが先に立つ戦場でその行いは妙に印象深かった。

 それはどこか内に秘めた強さを感じさせる微笑みだ。今は幼い少女もいつかこの親のように美しく、強く育つのだろう。

 見たこともない野戦服に身を包んでいるのは、兵たちのものを借りたのだろうか。

「エーデル、守ってあげられなくてごめんね。アレに対抗するには同じ力をぶつけなければならないけど、今の私たちに打つ手はない。残された手は一つだけ」

 戦鬼は自然発生的に生まれるのではなく、厳選された異能者たちの血族として生まれ落ちる純血種だ。そしてそれは伝承の保管を目的としている組織〈陰陽座〉に管理保護されている。

 即ち、日本の限られた家にしか生まれない。

 だが、同じ存在だからこそ単騎での暴走を抑えられ、互いが互いを監視するというシステムによって抑止される。

「逃げなさい。その遺産は悪用されれば世界を滅ぼしかねない力を持っている。あなたはここを生き延びて、それをより良い方向で使う術を見つけなさい。力に善悪はない。スタインの遺産は、使い方次第で世界を救うことも出来るの。それを、忘れないで」

 覚悟を秘めた言葉に、硬直していた思考が一気に迸る。感情があふれ出す。

 この母は、ここで死ぬつもりなのだ。

「お母さん。待って、一緒に逃げよう」

 エーデルはまだ十四歳。一人で生き延びるのは不安で、逃げようにもどう逃げればいいのか解らない。だけど母と一緒なら。

 そんな想いのこめられた縋るような眼差しに優しく頭を振って、母は言いつける。

「大丈夫よ。その〈遺産〉がある限り、あなただけは殺されない」

 エーデルの持つ遺産もまた、あの怪物が持つナイフと同じ……いや、それを超える力が秘められている。

 一族のみが知る真実として言い伝えられてきたその力は、戦鬼が逸話の力を借り受けるのに対して〈伝説そのものを呼び覚ます〉というもの。

 記録された伝承の再生……それは〈神話の再演〉すらも可能とされている。御子であるエーデルを依り代として神霊を降ろし〈終末予言〉を成就させると言われている。

 いかに戦鬼が人を逸脱した怪物であろうと神話の化身は下せない。ろうで出来た翼がやがて溶かされ落ちるように。

 言うなれば天敵。それ故に怪物は手中に収めようとここを襲ったに違いない。

「遺産はあなたを選んだ。辛い道になるだろうけど、あなたはあなたらしく生きて。力は力でしかない。使う者の心一つなのよ」

 まだ幼い我が子に背負わせるにはあまりに重い宿命だろう。母はそれを解っていて少女に遺産を与えたのだ。

 母親としては失格だろう。エーデルを御子として、信仰の対象として奉り上げる手伝いをしたのだから。

 出来るなら普通の子としての人生を送って欲しかった――それが母親の口癖だったのを、少女は今になって想い出す。

 そして、選ばれてしまった子供にそんな常道は歩めないことをいつも言葉にしないまま悔やんでいた。

「お母さん!」

 涙混じりの悲痛な叫びもその耳には届かない。子を守る為に戦うことを決意した母親は、彼女を庇うように立ったからだ。

 人と争うことをせず、ただ祈る事だけに人生を費やしてきた母親が戦うために立っている。

 構えた小銃も撃たずに降ろす。元より撃ち方も知らないのだ。安全装置が外れていない。

 だが彼女に臆した様子はない。諦めた顔でも、恐怖に慄く表情でもなく。それを不思議に思ったか、蒼い怪物が目前で歩みを止めた。

 残ったのは母親と子供一人。ここから逆転する策はどう足掻いても存在しない。

 母親が両手を広げる。ここから先は通さないと告げるように。

 その背中を、エーデルはきっと忘れることはないだろう。

 

 そうして、母も例外なく怪物に殺された。

 抵抗は許されなかった。母が眼の前で胴体から真っ二つにされ、そんな意志は消え失せていたからだ。

 銃は及ばず、爆弾さえも意味がない。そんな相手に立ち向かう手段を少女が持ち合わせている筈もなかった。

 何が、とも、何を、とも問うことなく。ただ少女は怪物を直視する。

「あなたは、誰ですか」

 震える喉でそう問いを発するのもやっとだ。冷徹な眼差しが怪物から放たれ、足が竦んでしまう。

 さりとて怪物はそれも意に介さず、己の用件のみを告げた。声調から少年のようだ。

「お前がエーデル・スタイン……〈祈る者プレイヤー〉だな? ついてきてもらうぞ」

 ただ、生かされたということだけは理解できた。

 間近で炎の燻る音。死屍累々、死山血河の惨憺たる有様。立ち込める異臭に吐き気を覚える地獄絵図。

 それは全て、自分を守る為に死んでいった者たちの亡骸だ。今のエーデルは彼らの死の上に成り立っている。

 ならば悲しんでいる暇はない。戸惑うことも後回しにして、エーデルは立たねばならない。

 その光景が、自分に〈生きろ〉と言っているような気がしたからだ。


「一つだけ教えて下さい。あなたの名前を」

 恨みをこめた眼差しを向けられ、興が乗ったらしい怪物は心底愉快そうに答えた。

「俺は〈竜巻たつまき〉だ。よく覚えておけよ、スタインの女」

 聞いたことがある。戦鬼の中には人物の名に限られない変種が存在すると。

 彼もまたそうなのだろう。名の内に〈竜〉を授かる怪異の化身。人であることを止めた怪物。

〈竜巻〉という現象を人が駆逐することは叶わない。それは災害の名である故に。

「忘れません。決して」

 いつか倒すべき敵として、エーデルはその名を深く心に刻み込んだ。

 胸に灯る殺意の炎へと、いつかその名をくべる為に。


    *    *    *


 エーデルが連れてこられたのは白い部屋だった。それなりに広く清潔感もある客室。並んでいる調度品の類いは一目で高級だと解る意匠。どうやら向こうはエーデルが妙な真似をしないと思い込んでいるようだ。ベッドにテーブル、椅子は二脚。外を眺める窓もある。方眼状の鉄格子がガラスの外にはめられているものの、気になって景色はと覗き込む。

 見たこともない建物が眼下にならんでいる。元々エーデルは高山地方に住んでいたので部屋から見渡せるのは緑の山々のみだったので、新鮮な景色に感動を覚えるところなのだろうが……母親を目の前で殺されてそのショックも抜けきらない今の彼女には無理な話だ。

 まだ、泣くことは許されない。悲しみをぐっと胸のうちに押し込む。自分は単なる子供ではない。泣いていいのは、あの光景と向き合えるようになってからだ。

 弱いところは誰にも見せない、と唇を引き結ぶ。

 そうしているとノックもされずに自動で扉が開いた。現れたのは少女で、年はエーデルより二つかそこら上という程度だろう。

「やあ、ご機嫌いかがかなスタイン嬢。どうやら下の者が手荒い真似を働いたそうだね」

 長い黒髪によく似合う清廉な白いドレス。無駄な飾りなどはないものの、決して地味でもなく主人をより可憐に引き立たせている。整った鼻梁にスレンダーな体型。その面差しとは裏腹に言動は大人びている。淑やかな風貌を裏切るのは眼差しに覗く悪意の兆し。

 見下すような、嘲るような。本人にそんな意志はないとしても相手にそう思わせる圧力があった。

「あなたは?」

 問いかけると、少女は長い髪を肩に流して正面からエーデルを見据えてきた。

「かけていい?」

 椅子に座って良いか、ということなのだろうが、エーデルの返事もまたずに腰掛ける。どこぞのお嬢様らしく身なりがいいだけに腹の探り合いに慣れているような、底知れない部分があった。

 会話の主導権を握る術に長けているのだ。性格的に合わなそうな予感がして、エーデルは気が重くなる。

「ボクが誰かというより、ここがどこかって方が気になるんじゃない?」

 見透かすような眼差しに内心で動揺し、拳を作ってそれに耐えた。

「ええ、確かに。聞かせてもらえますか」

「ここは日本だよ。地方都市だけどね。君のいた場所からはだいぶ遠いね。〈竜巻〉は遠方の紛争地帯に好んで足を運ぶ悪い癖がある。今回はそれが災いしたようだ」

 黒髪の少女はテーブルの下で足を組み、手を重ねてその甲に顎を乗せた。見透かすような眼差しに気後れしそうになる。

「落ち着いてるように見えるけど。大丈夫?」

「そう見えるだけです」

 言う通り、エーデルの内心にはマグマのような葛藤がある。出来るなら眼の前の少女に詰め寄ってやりたいのを必死に抑え込んでいるのだ。

 エーデルは十四歳という年齢にしては理性が強いほうで、そのあたりはまだ弁えていた。母の躾けが良かったせいだろう。

 想い出しそうになる光景を頭から追い出し、先を続ける。ここで相手のペースに乗せられてはいけない。日本に連れてこられてしまっては頼るアテも何もないのだ。

「そしてここは〈陰陽座〉だ。妙な真似はしないように。身よりのない君一人消すなんてわけもない」

 どきりとする。唐突に黒髪の少女が眼光に冷たいものを乗せたからだ。

 冷徹な女王。そう思わせる風格を備えた彼女は一体何者なのか。

「陰陽座……私に何をさせるつもりなんですか?」

「さて、どうしたものかなぁ」

 打って変わって困ったような声音で仰け反り、頭の後ろで手を組む。雰囲気を和らげる為の作った所作なのか、それとも生来の気ままさ故のものなのか。

 少女の印象は二転三転。掴めない雲にも似たものがあった。

「実のところ、君を連れてこさせたのは陰陽座のなかでも〈五大老〉と呼ばれる人たちの勝手な指示でね。ボクとしては君に何かさせようなんて思ってないんだ。遺産にも興味はないし」

「興味が、ない?」

「うん。五大老の年寄りたちは〈たまたま近くにいた〉から竜巻を向かわせたに近いよ。まさかこうもうまく運ぶとは思ってなかっただろう。スタインの秘宝はどこをどう探っても眉唾ものの都市伝説しか出てこないからね。今ごろ慌ててるんじゃないかな」

 いい気味だ――そう言わんばかりにほくそ笑む黒髪の少女。

「たまたま……? 偶然近くにいただけだから、あの人は私の母を殺したのですか?」

 これには憤りも限界を超えそうだった。偶然で家族を奪われてはたまったものではない。

 窘めるように黒髪の少女が言葉を重ねた。

「まあ最後まで聞きなよ。五大老の指示はあくまで調査だったらしい。だけど頼む相手が悪かったのさ。あの竜巻って奴は戦鬼のなかでも特に血に餓えていてね。ボクたちの言うことなんてまるで聞いちゃくれない。困ったものさ」

 やれやれ、と肩を竦める。そんな動作も今のエーデルには腹立たしい。

「あの竜巻という人も戦鬼なのですか? 戦鬼とは一体何なんです? 私を守ってくれていた人たちを、母を、何も殺す必要はなかったはずです!」

 怒りを覗かせるエーデルを見て、悪意の少女は眼を瞑ってうなだれた。

「まあねえ。ボクの管轄じゃないから何とも言えないけど、戦鬼を御するというのも難しくてね。彼らは一騎当千のワンマンアーミーだ。常日頃からその力を発揮する場所を探している。なかでも〈竜巻〉はその気が強い。いつも強い相手を求めている」

「戦鬼というのは、過去に存在した人物の伝説を保管している人たちと聞きました。それが何故自ら戦いの場を求めるのですか?」

 最初に見た限りでは高圧的な人物かと思いきや、きちんとエーデルの質問に答えるあたりまだ話の通用する相手のようだ。

 彼女が指を鳴らすと、今度は給仕係が様々なものを乗せたカートを押して入室してきた。

「喉が渇いたね。何か飲む? ボクはコーヒーで」

 もてなしを受けるほど知った仲ではない。何が入っているかも解らない飲み物に口をつける気にはならなかった。

 エーデルの態度からそれを見て取った少女がまたも肩を竦める。

「まあ、最初からすんなり話が出来るとは思ってなかったけど。今回の件にボクは無関係だよ。さっきも言った通り下の者が勝手にやっただけで、正直君がここに居ると色々とまずいくらいさ」

 下の者、ということは少女がそれなりに上の立場だという話になるが、そのあたりはひとまず後で聞くとして、いられると困るというのはどうにも聞き流せない。

「まずい? じゃあ出ていけと? それはずいぶん勝手な話ですね」

 今にも牙を剥きそうな態度だ。だが確かに目の前の少女が意図してエーデルを連れてきたわけではない以上、組織としては何かしらの不都合がどこかに生まれているのだろう。

 例えば、遺産を利用しようとする者たちがエーデルに接触する機を窺っている、などだ。

「とはいえスタイン嬢。君もこのままここにいることを望んでいないと思うけど?」

「確かにその通りです。ですが右も左も解らない異国の土地に放り出されて、どうしろと言うのですか!」

「一時間後に下の階で小火ボヤ騒ぎが起きる」

 さらりと言い放たれ、それの意味するところがすぐには理解出来なかった。

 意地の悪そうな笑みでコーヒーカップに口をつけ、黒髪の少女はこう続ける。

「その混乱に乗じてレジスタンスが侵入してくる。小火騒ぎはこの階まで届く予定。そういう筋書きだよ……うわ苦。ちょっと、ボクがコーヒー飲む時は砂糖多めにしてって言ったじゃん」

 エーデルとしては調子が狂う。大事な話の最中に……だが、それも会話の主導権を握る術なのか。

「申し訳ありません、ご当主」

「これスプーン五杯くらいじゃない? 倍は入れてよ、これじゃ飲めない」

 今、聞き捨てならないことを聞いた気がする。給仕係は確かに〈ご当主〉と言った。ならばこの少女が、陰陽座のトップに君臨するという〈安倍晴明〉ということになるのではないか。

 土御門家の血を継ぎ、戦鬼たちの頂点に立つ最強の〈鬼〉

 何故。自分とそう年の変わらない女の子がどうしてそんな。

 いや、それならば確かに納得がいく。彼女がいの一番にここを訪れた理由。エーデルに逃げ道となるシナリオを開かしたわけが。

 エーデルは遺産の御子。もし陰陽座の誰かが遺産と御子を同時に手に入れたとしたら、状況は大きく変わるだろう。

「陰陽座のなかで派閥争いがある……そういうことですか」

 例えば、安倍晴明がエーデルを手中に収めたとすれば、それをきっかけに戦鬼を差し向ける理由になる。

 当主であるこの少女を抹殺し、自分こそが組織を束ねる器だと示す。そうした謀略は、組織の中では珍しい話ではない。

 そう、戦鬼とは戦いの鬼。その中でも心無い者たちが組織を牛耳るとなれば、それこそ戦争すら起きかねない。

 陰陽座とは社会の裏でひっそりと、という組織ではない。表沙汰にこそならないが、戦鬼とはあの竜巻のように戦力として破格の性能を備えたワンマンアーミー。そんなものを世界各地の紛争地帯に傭兵として貸し出せば容易に戦況を覆す、ただ一人で爆撃機のように戦術兵器じみた戦功を確約させるもの。それによって戦局をコントロールすることも可能だろう。

 即ち、戦争のコントロール。それは世界を思いのままに動かすのと同義だ。

 戦争を起こし、拡げ、国と人を取捨選択する……それは、あの虐殺がまた繰り返されるということ。

 そう考えれば成る程、エーデルがここに居続けるのはよくない。

 だがそれだけでもあるまい。〈戦鬼〉という存在を重用する陰陽座は、一体何の目的で今も現代に存在している?

「あなたたちは何故、危険分子である戦鬼を隔離せずに使っているのですか?」

 少女がコーヒーカップを傾ける。陶器の触れ合う音がした。

「ああ、そのこと。ボクたちが古代から続く〈ある者〉と戦っているからだよ。戦鬼という〈真言礼装〉の襲名は元々そのためのものだ」

「ある者、とは?」

「彼らは〈刀神会〉と名乗っている。昔からある武器の名を借り受け、その由来を体現する人間たちさ。まあ戦鬼のそれを真似してるってことなんだけど、これがどうも厄介でね。たぶん呪術か何かを使ってるんだろう。〈竜巻〉とかと同じく、これまた〈人間じゃない〉」

「あの人と、同じ……」

「随分な酔狂だと思うけどね。なかには妖刀とかあやかしの名前を借りてる奴らもいる。彼らは紛うことなき怪物だ。戦鬼みたいな〈お役目〉じゃない、そう成りたくて成った人たち。いや成り果ててしまった人たちかな? まあつまり、頭からつま先まで徹頭徹尾、怪異そのものなのさ」

 〈刀神会〉は人を殺したくて殺している。ただ目的もなく、その手段だけを行使する――

 それはつまり、戦う為だけに終始した存在ということ。だがそれは、戦鬼と何が違う?

「何ですか、それ……意味が解りません。自分たちだけで戦っていればいいじゃないですか」

「そうだろうそうだろう。ボクだって解らない。しかしこれが困ったことに、君という存在が陰陽座に転がり込んできたことで彼らに目的ができてしまったんだよね」

「目的……? 私が……どうして?」

「〈遺産〉だよ」

 黒髪の少女が指を差すのは、エーデルの首に提げられたペンダントだ。

「それもまた、古より続く曰く付きの物品だ。即ちその名を受けることで彼らのような怪物は〈遺産そのもの〉へと変化するだろう。恐らくはそれが目的だ」

「人が、遺産になるというのですか!?」

「何、元々は彼らの使っている武器も遺産に違いはないよ。魔剣に聖剣、聖槍に魔槍……それらの由来は明らかだし、名から弱点も推測出来るけどね」

 少女が片目を瞑り、窺うようにエーデルを見た。

「まあそんな怪物共が君を狙ってる訳なんだけど。けどけど。君の遺産。たぶん名前ないよね?」

 ――至極あっさりと。たった一目見ただけで、得体の知れない少女は〈黄昏の遺産〉の正体をこうして見抜いたのだった。


 黒髪の少女が立ち去って数十分。約束の時間にほど近い頃合い。

 室内にはエーデルと、何故か給仕係が残っている。メイドとしてのエプロンドレスに赤いカチューシャをしていて、見たところ二十歳に届くか届かないかという年齢のようだ。

 気になって声をかけるものの、応答は無機的で感情の色が薄い。先ほど着替えるようにと言われた時から思っていたが、どうもこのメイドは職務に徹する余り、そういう態度を取るようだった。

 とはいえ合点がいかない部分がある。何故自分のサイズにぴったりと合う服がこの場所にあったのかだ。今のエーデルは白いブラウスに袖のない黒のベスト、下はシェパードチェックの膝丈スカートである。返り血のついたものよりよほどレディらしい装いだ。首元にゆったり結ばれた赤いリボンなどは個人的に好感触のポイントだった。

 ひとまずそれは置いておくとして、メイドのほうへと探りを入れる。

「あの、どうして残ったんですか?」

「ご当主にそう命じられておりますので。ご用の際はなんなりとお申し付け下さい」

 そう一礼されてしまっては不躾に出て行けとも言いづらい。どうせならこの機会にと幾つか質問を重ねた。

「あなたも〈戦鬼〉だったりするのですか? ボディガードのような」

「いいえ。私は戦鬼ではなく〈陰陽師〉としての修練を積ませて頂いております。有事の際に要人の方々を守れるようにとのことです」

「陰陽師? 何をする人なのですか」

「符術によって人払いをしたり、呪術によって怪奇難物を封じたりといったものが役目となります」

 それと、と思いだしたように付け加える。艶やかなショートボブがさらりと揺れた。

「戦鬼を御する役割も含まれますね。そのために我々は〈封じる者〉と呼ばれたりもします」

「戦鬼を封じる……そんなことが可能なのですか?」

 にわかには信じがたい話だ。それが本当なら竜巻を勝手にさせているはずがない。

「ええ。しかし戦鬼のお歴々に直接手を下すことは緊急時以外禁じられております。戦鬼とはそれぞれが宗家という一族の頭目であらせられる為、迂闊な対処は家同士の無用な軋轢を生むのです。どうかご理解頂きたく」

「派閥争いはどうやら根深いようですね」

 給仕係はその言葉を受けて眼を伏せた。

「……此度の災難、エーデル様のご心痛は相当なものとお見受けします。ですが戦鬼の全てが〈竜巻〉様のように自分本位で動いている訳ではありません。なかには戦鬼としての役目を憂い、陰陽座を飛び出した方もいらっしゃいます」

「つまり嫌になって……そういうのは認められるのですか?」

「それが〈十二宗家〉頭領としての判断ならば。ですが、家を捨ててもその名は呪いのように付いて回ります。陰陽座の庇護から離れ、人間として生きようとしても日向は歩けません。我々は日陰者であります故」

「宿命、みたいなものですか。その、陰陽座から離れた戦鬼というのは?」

 エーデルとしては今後の道しるべとなる重要な事柄だ。ここを出たら接触してみるのもいい。

 だがその考えを見透かしていたかのように、給仕係は双眸を細めた。

「……その方は〈武蔵坊弁慶〉様であらせられます。ご当主は既に依頼を出しておられますので、どうかもうしばらくご辛抱を」

「依頼、ですか」 

 行動を読まれていたのか。これでは掌の上だ。

 否、エーデルを匿うのに最も最適な役回りがその人物しかいなかったということだろう。

 恐らくは小火騒ぎに乗じるレジスタンスの騒ぎはその隠れ蓑。エーデルを逃がし、戦鬼の下へ導くための。

 とはいえ、今はそれに乗るしかない。ここを出て、自らが為すべきことを見極めるためにもだ。


 というのも、エーデルはここに至り自分の動機に疑問を感じていたのだ。

 母を殺されたことは確かに許せない。だが、復讐を果たすことで母は喜ぶのか。

 戦鬼を単なる一戦力として、道具にする――その在り方は陰陽座と向きを同じくするものだ。竜巻を駆り立てて母を殺した連中と何も変わらない。それは、果たして正しいことか?

 否である。あの場所で自分を守ってくれた人たちはそんなことを決して望みはすまい。同じような光景をエーデルが生み出すなどもっての外だ。

 竜巻への恨みを忘れることなどしてやらないが、怒りに我を忘れて本質を見失うようではただの子供でしかない。

 そしてエーデル・スタインは遺産の御子。ただの子供ではいられなかった人間だ。

「有事の際にはスタイン様をお守りし〈最も安全な場所〉へと導くよう仰せつかっております。どうかご安心を」

 給仕係の意味ありげな視線を受け、エーデルは神妙に頷いた。


 告げられた時間を少し過ぎた頃、足下が揺れる感覚を覚えた。慌ただしい気配が階下から伝わってくる。

「これは、本当に小火なのですか?」

 小火で揺れるというのは想像しにくい。

 室内で待機していた給仕係――メイドの名はシャルルと聞いた。彼女が遠くを見るような眼で推測を口にする。

「この振動は……恐らく〈イクシード〉が用いられたかと」

「イクシード?」

「戦鬼、及び陰陽師が持つ異能の力です。私共に詳細は知らされておりませんが、レジスタンスに同じ力を使える存在がいたのかも知れません」

「異能の力……戦鬼でなくてもそれは使えるものなのですか?」

「陰陽師のそれは戦鬼と同格です。総戦力で言えば〈真言礼装〉の差で大きく水をあけられておりますが、イクシードのみならば対等と言えましょう」

「敵にも陰陽師が……」

「はい。これは憶測ですが〈あの男〉の手下でしょう。エーデル様はこちらへ。非常用のエレベータを使って地下から脱出します」

 促されて室内を出る。階下の気配に動じる人間はいないのか、廊下に人通りはない。或いは初めからこのフロアに人がいなかったのかという無機的な空気さえ感じる。

「〈あの男〉って誰なんですか?」

「古今東西の遺産を知る人間です。スタインの遺産についても何か掴んでいるやも知れません。だからこそご当主の誘いに乗ったのだと思われます」

「この遺産についても……!?」

「いずれ会うことになるでしょう。〈永倉源内〉教授に」

 エーデルがその名を噛み締めるのと、走る二人の背中に声がかかったのは同時だった。


「どこへ行くつもりだ」

 思わず足を止めて振り返る。そこに居たのは黒ずくめの男――右手に長大な槍を持っていて、それはどうにもこの場にそぐわぬ印象だ。

 かつ、と靴音。メイドがエーデルの前に進み出た。

「これは前田様。ここはご当主のみがお使いになるフロアの筈ですが、何故この場へ?」

 前田と呼ばれた人物はズボンにワイシャツという漆黒の装い――そして双眸にも昏い意志が垣間見える細身の男だった。

 否、この男は真実人間か。身に纏う異質な空気は常人のそれとは異なるものだ。この前田という男もまた――

「タイミングが良過ぎたからな。恐らくは清明が手引きをしたのだろう。目的はスタインの娘を逃がすこと……違うか?」

「私はメイド故、詳しいことは存じ上げません。ただ言われた指示をこなすのみです」

「よく言う。ならばその女を渡せ」

 徐々に剣呑さを放ち始める場の空気に、エーデルは数歩後ずさった。

「このシャルルはご当主付きのメイドでありますれば。そのご命令は聞けません」

 前田という男が槍を構える。気配が硬質な肌触りでもって頬を過ぎていく。

 殺気だった気の流れが吹き付けてくる、闘争の空気。

「メイド風情がよく言った。〈戦鬼〉と事を構える意味、お前ならば知っていような」

 シャルルがエーデルにだけ聞こえる声で囁く。

「あの方は前田利家まえだ・としいえ様……十三代目〈槍の又左〉を襲名された方です。一度矛を交えれば私とて無事では済みません。どうかこの先はお一人で」

 その切羽詰まった声音がエーデルの不安を倍増しにする。こうも容易く反旗を翻せるのか。この陰陽座という組織は、組織として何かが決定的に欠落しているように思えた。

 少女の知る派閥争いなどとは一線を画したできごとに、ただ戸惑うばかり。

「で、でも、あの。こんな……仲間同士でこんなことが、」

「それが陰陽座です。互いが互いを監視するというのはこういうことなのです。彼らは力のみが全ての存在。己の意見は実力で押し通す。だからこそ陰陽師は必要になりますが故」

 上に翻意ありと見ればすぐさま牙を剥く……こうも物騒な組織などエーデルは聞いたことがない。

 だがこうした行動に出てくるということは、何かしら目的があるのは間違いないだろう。

 まず、エーデルはそれを問うことにした。

「前田さんと言いましたね。あなたはこの遺産をどう扱うおつもりですか?」

 意外そうな表情でほんの少しだけ返答に間が開く。エーデルはその間にエレベータが待つ通路の先へと走れるよう体勢を低くした。

「……そのペンダント、黄昏の遺産トワイライト・レガシーは失われた人間の命を蘇らせる万能の器だと聞く」

 これに驚いたのはエーデル本人だ。彼女は遺産にそんな力があるなどと聞いたことがない。

「そんなものは出来ません! それはあなた方の願望や妄想ではないのですか!」

「否。スタインの伝説は聞いている。無銘の遺産……それは未だ〈定義の不確かな器〉であり、使う者によって様々な形を取るらしいではないか」

「な、何を言っているんです……!? これは〈終末予言〉を告げる、破壊の力のはずです!」

「〈それ〉を〈そう〉と定義すれば、であろう? それが真実、人の願望を掬い上げる万能の利器ならば、死人の軍隊も死んだ家族との再会も果たせるのではないか?」

 それは御子であるエーデルには出来ない発想だ。試そうとさえ思わなかった。単なる予言成就の道具としか伝えられていなかったからだ。遺産を一度も使ったことがない故に、ざわつく胸騒ぎを無視できない。

 そう。この遺産が男の言う通りのものだという可能性がどうしても捨てきれない。

「使い手が与える〈名〉によって姿を変える遺産だそうだ。それが本当かどうか試したがっているのは、決して俺だけではあるまいよ」

 はっと気付かされて前を見る。この男に遺産を奪われたら一体何が引き起こされるか解ったものではない。亡者の軍団など洒落にもならない。

 だがそこで、目の前に立つシャルルが前田の意図を見透かすように告げた。

「お目当ては〈イクシード・クライシス〉でございましょうか。超常の乱用によって常理を乱された世界はいずれ崩壊を迎えるという」

「ふん、五大老の年寄り共が言う〈辻褄合わせの破綻〉か? あんなものは世迷い言だ。よもや信じている馬鹿がいるとはな」

 決して狭くはないが、槍のような長柄を振り回すには不向きな廊下で軽々と得物を振り回す。矛先で周囲の空間を測ったのだということに気付いたのは、この場でシャルルだけだ。

「元々、イクシードの力は人には過ぎたものです。我々陰陽座はそれを理解し、世の中が支障なく流れるよう計らう組織の筈でありますれば。前田様にエーデル様と遺産を渡す訳には参りません」

「ではどうする、メイド。ここは地上五十階。大企業コランダムの保有する高層ビルだ。何の権限もない分際でどう逃げるというのだ?」

「その物言い……もしや企業側と手を組んだのですか!」

「左様。だがそれも一時のこと。用が済めば切り捨てるのみよ」

「十二宗家の戦鬼が飼い慣らされて何としますか! やはりここは退けません、エーデル様、お急ぎ下さい」

 空気の張り詰める度合いが増していくのを肌で感じながらも、エーデルはシャルルを気遣わざるを得ない。

 相手は戦いの鬼。あの竜巻と同類だ。先に話した通り、メイドがどれほど戦えるとしても戦鬼に敵うものではあるまい。

「でも、まともにやり合ったら負けちゃうんじゃ……」

「あの槍をどうにか出来れば、こちらにも勝機がありますれば」

 前田の構える長柄を見る。長さは五メートル前後……射程で有利は取れそうにない。

「槍……あの武器は何か特別なのですか?」

「エーデル様はご覧になりませんでしたか。竜巻の〈ナイフ〉を」

 忘れる訳がない――そう口に出す前に、シャルルは言葉を続けた。

「戦鬼の真言礼装とは人並み外れた膂力と防御力のみに終始するものではありません。ああした武器を扱う資格も含まれているのです。彼らが単騎で戦場を駆けることの出来る根拠は大部分がそれに拠りますれば。名を〈征伐武装せいばつぶそう〉と呼び習わしてございます」

「と、とにかく、何とか出来るんですか!?」

「やれなければここで果てるのみです」

 言い終わるよりも早く、シャルルは右手を素早く振った。同時に目前を幾筋もの細い光が走る。

 よく眼を懲らしてみると、幾本もの線だった。それが蜘蛛の巣のように何条も張り巡らされている。糸はシャルルの指先――いつの間にか着けていたグローブからのもの。

 これにより、シャルルの背後から先へは進めなくなった。

 前田利家もまた、得物の矛先をメイドへと突きつける。その矛が二叉に開き、隠されていた第二刃が露出。通気が悪い筈の締め切った廊下に風が生まれ始めた。急激な気圧変化が引き起こされる。

鋼糸こうしか。時間を稼ぐつもりなのだろうが、この俺を前にして悠長だな」

 シャルルの端正な顔に冷や汗が浮かぶ。背後の網――敵はこれを一撃で突破する腹積りなのだ。

 あの槍の征伐武装が及ぼす破壊は広範囲に及ぶ。恐らく廊下は床も壁も一まとめに周囲数メートルは抉り取られるだろう。外壁は丸ごと消し飛ぶかも知れない。それだけの突破力を発揮するものだ。

 槍の征伐武装〈風切りぼうき〉――又左が持つ槍に風が集まり、そのもの一つの刃を為していく。渦巻く風の収束に歪む情景、穂先に象られる風の矛。いっそ凶悪なほどに吹き荒れ始めた暴風は、屋内だというのにシャルルとエーデルに眼を開けていることを許さないほど。

 この矛はその本性を投擲によって発揮する。収束された風量を投げることで一斉に解放し、意図的な風の暴走を引き起こすのだ。これによる無軌道で無秩序な破壊は数ある征伐武装のなかでもとりわけ強襲に秀でた性能を発揮する。

 いかんせん鋼の糸で防ぎきれるものではない――シャルルは攻撃の機を窺いつつもエーデルを急かした。

「急いで下さい! その先を右です! 早く!」

 このまま迷っていても邪魔になる。エーデルは言われるままに走り出した。


「唯一の好機を逃したな、女」 

 風切り箒の弱点とはつまり、その風を集め切る時間にこそある。発射前のミサイルと同じで、一度放たれれば止める術も回避する術もない。よって打たれる前の無防備なところを狙うのが当然の摂理。

「…………」

 それを見抜けなかった時点でシャルルの敗北は揺るがない。前田利家の自信は揺るぎない。

 直後、爆発じみた風の解放によってビルの外壁は数十メートルに渡って内側から吹き飛んだ。


    *    *    *


 エレベータが大きく揺れる。エーデルはバランスを崩し、小さく悲鳴をあげて尻餅をついた。

「戦鬼……これが、戦鬼の戦い」

 余波を感じた程度でしかないが、凄まじさはそれだけで端的に解るほど圧倒的だった。

「あの人と同じ……」

 竜巻にしても、あの前田にしても、もう人間の域ではどうにもならないレベルの戦闘能力なのは疑う余地もない。

 恐るべきは陰陽座だ。よくもこんな怪物を十二人も集めているものである。そしてそれを率いるのは安倍晴明……あの黒髪の少女。

「逃げ切れるの……? こんな場所から」

 逃げるということが途方もなく難しいものに思えて、エーデルはへたり込んだまま膝を抱えた。


 地下一階でエレベータが止まった。

 開いた扉から出て周囲を見渡すと、どうやら駐車場のようである。

 レジスタンスという人たちはどこへいるのか――エーデル一人では車を動かすことも出来ない。シャルルというメイドは無事なのか。様々な思いが脳裏を過ぎる。とにかく出口へ足を進めるのと同時、背後で鈍い轟音が響き渡った。

 エレベータの天板を槍が貫き、床板を大きく抉って、前田利家がそこへ降り立ったのだと気付いた時にはもう遅かった。

 視線が交差。息を呑む。捕捉されている。陰陽師であるシャルルと交戦し、地上五十階の高さから飛び降りてもなお無傷のまま。

「逃がすかよ、スタインの女」

「あ……あ……」

 やはり、そうなのだ。

 戦鬼とは化外の怪物。止めるには同じ戦鬼でしか敵わぬ埒外の怪異。

 もう――もう、逃げられない。

 もう嫌だと叫びたい。

 何故自分がこんな目に。どうしてそこまで遺産を求めるのか。あまりの絶望に今にも膝が折れそうだった。

 或いは、ペンダントを投げ捨てて脇目も振らずに走り出せば助かるのかも知れない。

 けれど、それは出来ない。母の想いを裏切ることだけは絶対にしてはならない。

 ふわりと風が過ぎる。眼前、前田利家との距離は十メートル余りにあって既に射程内なのだ。

 エーデルの喉へと風が食らいつく。手も足もとうに自由の効かない、実体を持たない風の拘束。

「傷付けるなという命令は受けていない。動けば肉が裂けるぞ」

 遺産がある限り殺されることはない――そんな安心、一体誰が保証したのか?

 この男は容赦なくエーデルを追い詰めるつもりだ。獲物を狙う鋭い眼光には一かけらの躊躇もない。

「わ、私を、殺すつもりですか」

「お前に刃向かう意志があればな。そもそもまともに動くかどうかも解らぬものを本気で当てには出来ん。都合良く利用出来れば良しというだけ……あまり手間取らせるなよ。殺すぞ」

 ブラフには思えない。この男は本気だ――そう思わせるに足る、黒瞳に込められた殺意。

「う……ぅ、」

 どうしようもなく痛感する。自分は無力だ。この相手を前にして、刃向かう意志も持てない小さな人間なのだと。

 涙が溢れる。エーデルには勇気も、己が拠って立つ信念もない。幾ら遺産の御子とは言ってもその実、自分一人では何も出来ずにいる、ただの子供だったのか。

 言いなりになるなどまっぴら御免だ。けれど死ぬ覚悟もない。立ち向かう力もない。それが金縛りのようにエーデルを立ち竦ませる。

「協力するならば良し。でなくば首を貰う。さあ、どうする?」

 これは取引や譲歩の類いではない。エーデルの心を折る為の質問だ。お前に選択の余地などないと突きつけるための。

 首に掛けられた風の環がじわじわと狭まる。絶望が胸を塗り潰していく。

 もう折れてしまってもいい――ここを生き延びればまだ手段はあるかも知れない――逆らいがたい誘惑が脳裏で囁いている。


 それを真っ向から否定する、一輌の力強い排気音が轟いた。

 男の注意がそちらに逸れ、風の戒めが緩んだ。エーデルも音のする方へと首を向ける。

 それは出入り口から現れた。闇を切り取るライトの光と、テールランプの尾を引く赤。

 バイクだ。それも大きい。搭乗者はと見れば袖や腰に見えるベルトの金具に闇の中でも一際眩しく金色が覗く。

 天然のものか、金髪は鳥の巣のように刺々しい。風防用のゴーグルをしていて面貌は判然としないが、腰に差したものがこの場に割り込む闖入者だと言葉なく告げている。

「間に合ったか」

 口の中だけで呟く声は若い。その少年は二人の間目掛けて車体を横滑りさせ、タイヤの焼ける焦げ臭い匂いを立ち上らせて停止した。

 派手な赤いコート。そして猛禽を思わせる鋭い眉雪。エーデルは知る由もないが、この少年もまた若干十七歳にして陰陽師となった者である。

 愉快げな微笑の兆しを口辺に乗せて、赤い少年がエーデルを見た。精悍な顔立ちだがどこか年不相応な貫禄がある。

「ほう、お前が依頼の。悪いな、少し遅れた」

 続けて成り行きを見ていた戦鬼の方へと首を向ける。

武蔵むさし探偵事務所、遺産を頂戴しにつかまつった。退くがいい戦鬼、どうせろくでもない手で奪ってきたのだろう。加えて子供一人に抜き身を振りかざすなど、恥を知れ」

 その宣言は絶望の淵にあったエーデルの心を僅かばかりすくい上げる。

 少年の言葉には今までに感じたことのない〈正義〉のようなものがあったからだ。

 大型二輪に跨がっていた少年がアスファルトに降り立つ。ゴーグルを外してハンドルに掛けると、悠々とした足取りで戦鬼の前へと立ちはだかった。

 その振る舞いこそ勇ましいが、果たしてこの少年はあの黒い怪物に敵うのか。そんなエーデルの疑問を察したか、赤い少年は背中越しに声をかける。

「案ずるな。あの程度、どうということはない。今のうちに自己紹介でも考えておくがいい」

 疑問も不安も一蹴して。少年は泰然自若、傍若無人にそうのたまったのだった。


 都合三人。エーデルの逡巡を置き去りにして、状況は迂闊に身動きの出来ない睨み合いへとなだれ込む。槍の男は忌々しげに舌打ちをした。

 赤いコートの少年が槍使いへと清涼な響きを投げつける。

「其の方、槍の又左またざと見受けるが相違ないか。噂には達者な槍使いと聞くが、以前からそれがまことか否か気になっていたところだ。これも何かの巡り合わせ。一つ、手合わせ願おう」

 赤い少年は腰にいていた刃物の柄に指を這わせ、小指から順に握り込んでいく。日本が誇る伝統的な反りを持つ刃物、刀だ。

 一方、槍の又左は言葉少なに臨戦態勢をとった。低い声で答える。

「そうだが……その奇妙なナリで探偵とは笑わせる。だが聞いたことがあるぞ。もしやお前が虎とかいう変わり種か?」

 金髪に赤いコートという出で立ちは、日陰を歩く陰陽師としては酔狂極まりない様相だ。

 だが虎と呼ばれた少年はそれこそ自ら好んでこうした派手な格好を作っている。一目でそうと解る装いは、敵に自分という存在を知らしめる目的があるのだ。

 武蔵の虎は逃げも隠れもしない。そういう意味が込められている。

「左様。この俺もようやく戦鬼の耳に入るほどになったか。ならばしかと覚えておけ。虎の爪牙は稲妻よりも速いとな。汝、この虎より逃れることは敵わぬ」

 ずらり、と鞘から抜き放ったのは闇を払うような眩い刀身。月光を照り返す清涼な地金を夜風に晒し、濃淡相成る二重刃紋を閃かせる。

「今宵の虎徹は、血に餓えているぞ」

 エーデルには目の前で唐突に開始された、刀と槍の死合を見ていることしか出来なかった。


 刃合わせの後、打ち鳴らされる鋼の快音。続く剣戟が静謐な闇を騒がせ響き渡る。迸りを見せる殺気の応酬。

 鋼が互いを弾き合う鋭い音が空気を震わせ、びりびりと肌を打つ。

 ここに至った彼女、逃げるという思考よりも死合う二人をつぶさに観察する猶予が心に生まれていた。

 興味、と言ってもいい。

 唐突に現れた赤い少年……彼こそシャルルが言っていた依頼先なのは間違いないだろう。

 運を天に任せる、という訳ではないが、彼女はあの赤い刀使いを信じてみようと考えた。


 片方、槍の又左は武器の間合いが長く、矛先を揺らめかせて牽制を混じえ、赤い少年を懐に入れさせない。清澄な構えからお手本と見紛うような鋭い突きと払いをしてのける。

 ひるがえって相手のほう、赤い少年はどうにもデタラメだった。セオリーなど端から眼中にないかの如く片手で刀を振り、それでも間一髪のところで槍を凌いで無謀さながら踏み込んでいく。

 しかしながら実力伯仲。火花が舞い飛び、駐車場の壁や通路に刻まれた戦闘痕を淡い照明が仄かに照らし出す。

 依然として拮抗。されど双方不退転。

 刀剣と槍の戦いにおいては槍側が優勢にある定まり。得物を大きく打ち合わせて距離が開く。ここで又左は誘いをかけた。

「虎よ。そのような偽物をはばかることなく振り回すどころか、あまつさえ十代目又左であるこの俺の首を取ろうなどと。お前こそ恥を知れよ、たわけが」

 刀剣の世界では、虎徹を見たら贋作と思えと言われるくらいには悪い意味で名を知られている長曽根虎徹である。

 だが虎の心中において、それは気に留めるものではなかった。

「抜かせよ槍使い。たかがそのような棒きれ一本、虎が踏み折るには容易いものだ」

 虎が一息で距離を詰める。応じるように突き出された矛に刃の横腹を合わせ、滑らせるようにして間合いを潰す。槍使いは眉一つ動かさず、佇まいを体術のそれへと移行した。鳩尾みぞおち狙いの蹴撃を左の掌で受け止める虎。そのまま捻って引き込み、槍使いの体勢を崩す。だが相手も然るものでこの黒ずくめ、ただでは転ばなかった。虎の頬を槍の突端が下から撫でていく。虎の頬に赤い筋が走る。

 視線が交叉。間合いを取って仕切り直そうとする槍使い。なおも踏み込む虎。

 一つ、二つと刃を交わして、互いの位置は入れ替わる。そこで槍使いが得物の先を沈め、一動作で首を取りにいける意を示した。

 ――今、距離を詰めれば槍使いは己の肉を斬らせてこちらの首を取りに来る。

 空気が張り詰める。武芸者同士の独特な佇まいから滲み出る気迫に、大気中の埃もおののいているようだった。

「ふん。ろくな手ほどきも受けていない木っ端かと思えば、なかなかどうして腕が立つ」

 そこで、槍の又左は座り込んだままのエーデルを眼だけで虎に示した。時折吹く風が、彼の黒いワイシャツの裾をわずかにはためかせる。

「お前の狙いもあの首飾りか。あれをどうするつもりだ」

 それには嘲笑を返す赤いコートの少年。よく見れば表情に笑みを刻んでいる。酷薄な獰猛さが覗く。それはエーデルに肉食獣の面を思わせた。

「無論。是が非でも持ち帰れとのお達しだ。しかして何をするつもりかと聞かれても、なぁ。この俺に目的などない。たかが回収任務、いつもと変わらぬ依頼された仕事でしかない」

 しかして虎のほう、矛先を沈めたままの槍使いから視線は外さない。

 じり、と距離を潰し始める虎に、黒い槍使いは苦い表情で言葉を返す。

「まともに動くかどうかも知れぬガラクタだぞ」

「承知の上よ。言っておろうが。この俺にそんなことなど関係ないとな」

 槍使いが吼える。

「ならば、やすやすと渡すわけにはいかん」

 途端、鈍い銀の矛を持つ槍が荒ぶる風を呼び始めた。黒い男を囲むように渦を巻き、逆巻く風の帯が槍に巻き付くと、そのもの一つの巨大な矛を為していく。

 虎は咆哮でそれに答える。

「応とも。槍の征伐武装、相手にとって不足はない。この虎を屠るというなら全霊を賭して迎えよう。恐れずしてかかって来い!」

 直前まで右手一本で提げていた刀に左手を添え、切先を相手にまっすぐ向ける。

 そこから上に持ち上げ、上段の構えを取った。刀を振り被った姿勢だ。

 だがこれには槍使い、驚愕を隠せず眼を見開く。虎の左下腕、その肘から服を突き破って現れたのは頂点に鋭さを持つ、まさに一本の〈角〉だったからだ。

 下腕から骨が突き出したかに見えたが、やはりよくよく見れば角というのが正しいだろう。

 雷が巻き起こる。まるで角そのものが電極であるかのように、虎の左腕は縦横無尽に捻じくれる稲妻を宿し始めた。

 先にエーデルが眼にしていた、肉食獣の如き獰猛な笑みは今や鬼の形相とも見紛うものへと変じている。

 先刻までの少年とは何かが違う。それだけは確信出来た。まるでスイッチが切り替わったかのような――

 歯を食いしばり、喉の奥から掠れた吐息を放ち。

 刺突と斬撃の交錯。一瞬のうちに勝負は決する。和弓のような撓みから解放された風の槍は、それに先んじて放たれた稲妻の疾走に的を外されて逸れていく。

 虎の爪は、槍使いの腕を一本、引き千切った。

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