第2話 高原狼
ロルクは踏み固められた道に沿って、ある程度林の中まで入り込んだが、まだ父の姿は見えない。一人で行動していると聞いたから、そんなに深いところまで潜ってはいないと思っていたのだが。狼にやられてヤツらの腹の中、なんてことは父に限ってありえない。
おそらくそのまま一人でふもとの方まで降りたのだろう。
それならばこちらも後を追おうと、道を進もうとした時だった。
「――――!」
どこか遠くの方から、誰かの叫び声が聞こえた。
ロルクは声のした方へ駆け出した。
見通しの悪い林道だが、見回り役を託されてから六年間歩き続けた道だ。方向感覚は六年の間に体に染み付いていて、どこを通ればどこに出るかもはっきり分かる。
道を外れ、声のもとへ最短距離で突っ切って行く。
「だ、だれかあああ!」
今度ははっきりと聞こえる。ロルクは腰の剣に手をかけ、声のした茂みの向こうへ飛び込んだ。
そこにいたのは、地面にへたり込む眼鏡の若い男と、それを囲む六頭の高原狼だった。
「うおおおおお!」
ロルクは剣を抜き、雄叫びを上げながら高原狼の円陣の中へ突っ込み、手近な一頭に斬りかかった。
突然の大声と新たな人間の出現に狼たちは怯み、抵抗する間もなくその一頭は斬り伏せられた。
他の高原狼は仲間が斬られると同時に円陣を崩し、ひときわ大きい一頭の狼の周りへ集まった。
その隙にロルクはすかさず男の元へ駆け寄る。
「おい、立てるな? 大丈夫か」
「た、たすけ、おお、おおか、狼が」
男は息も絶え絶えにすがり付いてくる。着ている安っぽいコートは葉や泥で汚れ、なおさらみすぼらしく見える。この身なりからすると、明らかに旅慣れた者ではないだろう。
高原狼たちの方は、五頭で陣を組むように集まり、逃げる様子はない。
普段なら一頭目を斬り伏せた時点で、他も散り散りになって逃げるものだが、逆にこちらを見据え身を低く落とし、今にも飛びかかろうとしている。
特に気になるのが中心の一頭だ。高原狼はただでさえ成人男性ほどの大きさなのに、こいつは他の倍はありそうだ。毛皮も褐色の他とは違い、黒く染まっている。そしてその一頭だけ姿勢を変えず、真っ直ぐ立ったままロルクたちの方を見つめている。
こんな高原狼は今まで見たことがない。嫌な予感がする。
「落ち着いて息を整えろ。オレが合図をしたらすぐ逃げるんだ」
ロルクは男にそう伝えると、状況を察したのか男は無言で頷いた。
ロルクはこれだけの数を同時に一人で相手したことはまだ無かった。一頭目は不意打ちで倒すことができたが、次からはそうはいかない。
だけれど、これを全て一人で仕留めれば、父の横に並べるかもしれない。そんな思いがロルクの中で募っていた。
これは皆を見返すまたとないチャンスなのでは。二番手扱いはこれまで。英雄に憧れるなら、これくらいやれなくては。
危機的状況とは裏腹にロルクの血は騒いでいた。
高原狼たちはまだロルクたちの様子を窺っている。
ロルクは剣を握り直し、ひとつ大きく深呼吸をした。
「走れっ!」
短く叫ぶ。それを聞いて眼鏡の男はすぐに後ろの方へ逃げていく。
男の動きに反応して、高原狼たちのうち二頭が後を追おうと走りだした。
「うおおおおおっ!!」
ロルクは雄叫びを上げながら、左の一頭に正面から突っ込んでいく。相手はこれに怯み、一瞬動きが止まる。ロルクはこの隙を見逃さず、剣を直上から振り下ろし狼の頭を叩き割る。
その横をもう一頭が通り抜ける。これをみすみす見逃す訳はない。ロルクはすかさず懐のナイフを投げつける。
ナイフは高原狼の後ろ足に刺さり、バランスを崩した狼は地面に転倒する。ロルクはすぐに距離を詰め、狼の首に剣を突き刺し息の根を止める。残り三頭。
ロルクは控えていた高原狼の方へ向き直ると、すでに二頭が向かってきていた。
一頭はロルクの喉元を、もう一頭は腕を目掛けて跳びかかってくる。
ロルクはすぐさま腰を低く落とし、体重を乗せ剣を正面へ突き出す。
跳びかかってきた勢いを利用し、腕を狙ってきた方を顎から深々と串刺しにする。
もう一頭はロルクの頭上を掠め、ロルクの背後に着地する。頭上を跳び越えた一頭はすぐさま体制を整え、無防備な背中に跳びかかろうとする。
ロルクの剣は狼に深々と突き刺さり、簡単には抜けない。ロルクは剣を放棄し、足元の死体に突き刺さったままのナイフに跳びついた。
同時に背後からも地面を蹴る音が聞こえる。ロルクはナイフを掴むと、すぐに横薙ぎに振り払った。
ナイフは高原狼の鼻先を浅く斬りつける。それに高原狼は怯み、突進の勢いが殺される。
ロルクはすぐさま高原狼に組み付き、高原狼の頭に全体重を掛け、地面に押さえつける。最大の武器である牙を封じられた狼は、いち早く拘束から逃れようと暴れだす。
「くそっ、じっと、してろっ!」
ロルクはその首元にナイフを突き刺し、一気に引く。気道と動脈を絶たれた高原狼は、すぐに大人しくなった。残りは一頭。
ロルクは頬に付いた返り血を拭い、少し離れた場所にいる最後の黒い狼を見据える。彼は仲間の死体を静かに見つめている。
アレは最初から一歩も動かず、仲間が斬られていく様子をただじっと見ていた。今だって仲間が押さえつけられているうちに襲いかかれば、終わっていたかもしれないというのに。
黒い高原狼の双眼がロルクの目を捉える。その瞬間、ロルクは汗が一気に吹き出し、手足が強張った。そんな感覚に陥るのは、初めて高原狼狩りをした時以来だった。不意打ちに怯んだ一頭目の高原狼も、こんな気分だったのだろうか。
剣を回収する隙は無い。手持ちの得物は頼りないナイフが一振りのみ。これでどうやってアレとやり合うか。
ロルクは隙を見せぬようゆっくりと腰を落とし、ナイフを体の正面に握り、構えを作っていく。黒い狼はまだ、動く様子はない。
アレの呼吸が読めない。いやむしろ、呼吸すらしていないのかもしれない。そう思えるほど、微動だにしないのだ。しかし下手に動けば命はない。本能がそれだけを教えてくれる。
不意に、あいつが腰を深く落とした。そう認識した次の瞬間、矢のような早さでこっちに突っ込んできた。
目に見える大きさ以上のものが迫っていると錯覚する。その気迫に瞬き一つできない。ドッドッと耳に響くのは、オレの心臓の鼓動かヤツの足音か。
――敵わない!
ロルクはとっさに横に跳び退いた。しかし黒い狼はその瞬間首を大きく横薙ぎし、ロルクの体に思い切りぶつけてきた。
「ぐああっ!」
大きな体格はそれだけで充分な武器になる。重い体当たりに構えていたナイフは弾手から離れ、ロルクは後ろに大きくたたらを踏む。
さらに高原狼は前脚を振り下ろしてきた。これもすんでのところで身を引くが、頬に狼の鋭い爪がかすり、熱い感覚が迸る。
バランスを崩しかけたところへの追い打ちで、体制を立て直せず尻もちを付いてしまう。ナイフも失った、完全に無防備だ。素手でどうにかなる訳もない。
黒い高原狼は身震いをし、ロルクを正面に見据えた。文字通り目と鼻の先だ。生暖かい吐息がオレの顔に吹きかかる。
巨大な狼のおぞましく巨大な顎が開かれる。
ロルクは死を覚悟し、目をつぶった。その瞬間、
「グオオオオオオオオオウ!!!」
凄まじい叫び声が林の中に響いた。目を開けると、黒い高原狼の右目に深々と剣が突き刺さっていた。その剣は、先程放棄したはずのロルクの剣だった。
「グオオオウ!! グワアアアウ!!」
黒い高原狼は苦しそうに悶えている。
その懐に何かが突っ込み、鈍く光る一閃が黒い高原狼の首を下から大きく薙いだ。
一瞬の出来事だった。
黒い高原狼の首がごとりと地面に落ち、頭を失った巨大な体躯は、どさりと地面に倒れ伏した。
「今年は高原狼の様子がおかしいと思ったら、やはり魔獣化しているヤツがいたか」
巨大な狼を仕留めた男は長剣を腰に収めると、転がっている狼の頭からも剣を引き抜き、その柄をロルクに差し出した。
「危なかったな、ロルク」
「……ちょっと油断しただけだよ……父さん」
頭髪には白いものが目立ち始め、外見には老いも感じられるが、その身のこなしから衰えは一切感じさせない。
ロルクの父、リアガン。コルマー随一の実力者だ。悔しいけど、やはり認めざるをえない、とロルクは思う。
ロルクは剣を受け取り、血を拭き取り腰に収める。
「あっち! あっちです!」
遠くから声がする。ダインとさっきの眼鏡の男がこっちに走ってきていた。
「ああリアガンさん、ロルクも! 無事みたいで……ってなんだこりゃ!」
近くまで来たダインは、すぐ側の見たこともない大きな狼の死体に驚いた。
「魔獣化した高原狼だ。瘴気に身を冒されすぎた獣がこうなる。近頃高原狼が林から出てこなかったのも、こいつが原因だろう。こいつに従って力を蓄えていたんだな。魔獣なんてこんなところには現れないと思っていたが……」
リアガンは黒い高原狼の死体を注意深く観察しながら答える。
「すぐにこいつを焼くぞ。このまま放っておいて、他の獣にこいつ肉を食われると、そいつも魔獣化するからな」
「わ、わかった」
「オレも手伝うよ」
「お前は戦いの後で疲れているだろう。休んでおけ」
ロルクは除け者にされた気分になる。けれども、初めて一人で六頭の高原狼を相手にして、死にかける目にも遭って、肉体的にも精神的にも疲れていたのは確かだ。お言葉に甘えて座って見ていることにした。
リアガンとダインは火が林に回らないよう、死体の周りの地面を掘り起こし始める。そんな中、眼鏡の男がよそよそしくロルクのもとに近づいてきた。
「あの、先程はありがとうございます。何とお礼を申し上げれば……」
「礼なら父さんに言いなよ。あれを倒したのも父さんだ」
「それはそれは、あの巨大な狼を……しかし、私をあの場から救い出してくれたのは貴方です。貴方は紛れも無い私の命の恩人です。ですから、まずは貴方にお礼を」
眼鏡の男は手を差し伸べてきた。
「あ、うん……」
ロルクもここまで感謝されると悪い気はしない。とりあえず握手に応じておく。すると眼鏡の男は何かに気づいたか、
「あ!」
と大きな声を出した。
「貴方、顔に怪我してるじゃありませんか!」
「これくらいかすり傷だよ、なんてことないって」
「いけません! 獣につけられた傷は放っておくと悪い病気になるんです! 私には応急手当の心得もあるので、ここはお任せください!」
いらないといくら断ってもしつこく食い下がってくるから、ロルクは大人しく手当てを受けることにした。
そこに、リアガンが声をかけてくる。
「腕試しをしたい気持ちも分からんではないが、自分の実力を見誤るな。死ぬところだたんだぞ」
「……あいつ以外はいい調子だったんだ」
「魔獣はひとりで相手していいものじゃない」
「…………」
自分はひとりでやったくせに。その言葉は飲み込んでおく。父が別格ことはよくわかっているから。
「……だが、お前はひとりの人間を救った。よくやった」
そう言って、リアガンは再び作業に戻る。説教だけに終わると思いきや、まさか褒める言葉を口にするなんて。
でもやっぱり、悔しい。ロルクもまた、救われた側の人間だったから。
フロキアの英雄譚 江乃本広夢 @enohiro
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