フロキアの英雄譚
江乃本広夢
第1話 英雄に憧れる少年
ロルクは大地に体を預け、空を見上げている。青々と茂った短い草がどこまでも広がる高原に、乾いた風が吹き抜ける。フロキアの大地の北に位置するこの一帯が『コルマー高原』と呼ばれていることは、白髪の牧師さまが教えてくれた。北は険しい山、南は獣の住む林に囲まれ、他には草と羊と湖しか無い退屈な場所だが、ロルクはこの風は好きだ。ここじゃない遠くの空気を運んできてくれる気がするから。
どこからか馴染みのある柔らかい声が聞こえてくる。ロルクは体を起こし、傍らの剣を腰に結び直し、辺りを見渡した。
高原の一角に村の子どもたちが集まり、黒い法衣に身を包んだ若い女性の話を熱心に聞いている。彼女がその牧師さまだ。黒い装いなので腰まで伸びる白い頭髪がなおさら目立つ。
村の皆から牧師さまと呼ばれ親しまれている彼女は、ふもとのカーナの町の教会に所属している。時折こうして学校のないコルマーの子どもたちのために、わざわざこっちまでやってきて青空教室を開いてくれる。授業を受ける子どもたちの年齢は大体五歳から一〇歳。ロルクも六年前までお世話になった。それにしても牧師さまは、昔とちっとも変わらない。
「フロキア歴六三八年から六九〇年、このおよそ五十年の間、『フロキアの四災厄』と呼ばれる、フロキアの平和を揺るがす大きな四つの災いが起こりました」
今日は歴史の授業らしい。内容が気になり、ロルクは青空教室に近づいてみる。
「ではその四災厄の最初、今から三百年昔のフロキア歴六三八年、何があったか、どなたかご存知ですか?」
子どもたちは答えないが、無理もない。こんな田舎暮らしでは、外の世界の歴史など知らぬまま育ってしまう。牧師さまもそれを分かってはいるのだろうが、これが彼女の教育方針なのだ。どんな授業でも、新しいことを教える前に、一度子どもたちに質問として投げかける。
牧師さまは子どもたちの顔を見渡し、発言が無いことを確認すると、続きを語り始める。
「……はい、では六三八年に起きたことですが――」
「南の海から蛮族がやってきて、大きな戦争になりました。戦争は百日続いて、聖樹イグドラもこの時焼かれてしまいました。だけど、『騎士王エルドレイク』がフロキア中の人をまとめ、蛮族と戦いやつらを殲滅しました」
ロルクが横から一呼吸で全て答える。
子どもたちも牧師さまも、ぽかんとした顔でロルクを見つめる。ロルクはしまった、と思う。とうに授業を受ける歳ではないのに、つい出しゃばりすぎた。
「……さすがですね、ロルク。もうフロキア史なら私より詳しいんじゃないかしら?」
「い、いやあ……へへ」
牧師さまはちょっと呆れながらも、ロルクに微笑みかけた。牧師さまの可憐な笑顔にドキッとしてしまう。
ロルクがこの青空教室にいた頃も、牧師さまはフロキアの成り立ちと歴史について、たくさんのことを教えてくれた。
岩と氷と瘴気に覆われたこの世界のある場所に、命の樹イグドラが芽吹き、辺りの大地は清められ、そこにたくさんの生命が集まったこと。
やがて人間の子たちがイグドラのある大地の中心を奪い合ったこと。
争いに疲れた人間たちは、手を取り合い生きることを誓い、その折にこの地を『フロキア』と呼ぶことにしたこと。
その後もフロキアには多くの困難が待ち受ける。
特に六〇〇年代に起こった『フロキアの四災厄』と呼ばれる出来事は、蛮族の襲来、瘴気の噴出、凶星の落下、悪竜の襲撃といった災厄が五十年の間に矢継ぎ早に起こり、フロキアの存在自体が危ぶまれたという。
しかし勇敢な英雄たちが、その災厄を打ち破ってきたことで、今の私たちがあると牧師さまは語ってくれた。
ロルクはその数多く伝わる英雄譚に魅了された。英雄たちが知恵や力を振るい、襲い来る強大な脅威を打ち破る、そのスケールの大きさに憧れた。
フロキア史の授業の日はもちろん、そうでない日も、牧師さまに英雄たちの出生、足取り、その後について質問責めをし困らせた。
牧師さまがいない日は、村のジジババたちを片っ端から訪ね、日が暮れるまで英雄たちの出てくる昔話を聞いた。
青空教室を卒業した今でも、その憧れは薄れていない。
「ロルクにーちゃんすっげー」
「ロルクは未来の英雄だから、英雄のことなんでも知ってるんだよな」
「なんてったってコルマーで二番目につえーんだもんな!」
「おい! その二番目ってのやめろ!」
子どもたちがにわかにざわつき始め、授業が一時中断する。
そこに牧師さまの強めの咳払いが響く。
「ロルク、勉強熱心なのは立派です。ですが、お仕事をほっ放り出すのは感心しませんよ」
「あ……いや、だからこうして高原狼が出ないか見回りを」
「こんなところまで出ませんよ。高原狼ならいつも通り林の方へ行けばいいでしょう」
「いや、林なら父さんとダインが……」
ロルクは一応言い訳をするが、だんだん冷たくなってくる牧師さまの表情に気圧され、言葉も力を無くしていく。
牧師さまは基本的に温厚だが規律には厳しい人だ。こうなると引き下がらない。
「……はい」
授業の内容も気になるところだが、ここは諦めることにした。
「お前らもまじめに勉学に励めよ―」
ロルクは踵を返し、林の方へ向かう。背中越しに軽く手を振ってやると、後ろから「バイバイ」「頑張って」と子どもたちの見送る声が聞こえた。
*
ロルクの仕事は高原の羊の見張りと、周辺の見回りだ。
たまにはぐれた羊を狙って高原狼という獣が現れる。高原狼はこのコルマー一帯に生息する狼で、普通の狼よりも大きい。よく育ったものは成人男性ほどの大きさになる。知能も高い。
もし高原狼を見つけたら、すぐに仕留めなければならない。追い払うだけではダメで、できる限り追いかけて殺さなくてはいけない。
もし逃がしてしまえば、高原狼はその時の仲間と相手の数や立ち位置、足元や天候の状況に至るまで記憶し、次は更に逃げやすい条件を学習しようとする。学習を重ねた高原狼ほど厄介なものはない。
そこで仕留めた高原狼の死体を、村の端に吊るしておく。これはコルマーの風習だ。
長く続けられてきたこの風習のおかげで、コルマーの高原狼は人を恐れ、むやみにあちらからは襲ってこない。
それでもカーナの町とコルマーの村を繋ぐ林道は特に高原狼が多く潜んでいて、一人で行動していると飢えた高原狼に襲われかねない。なので見張り役はふもとと村を行き来する人の護衛をやったり、知らずに一人で入り込んだ旅人がいないか、見回りもやったりする。
ただ村には羊以外大したものはないので、ここを往来する人は、牧師さまとわずかな行商人の他にはほとんどいないのだが。
*
林道の入り口の見張り小屋の側で、ひとりの大柄な男がこちらに手を降っている。
「おういロルク、ちょっと来てくれ」
見張り役仲間のダインだ。がっしりした体格、浅黒い肌、短く刈った黒髪。暑苦しい外見の彼は、昔からよくロルクの話し相手になってくれる、兄貴分のような存在だ。
兄貴分といえど、狼狩りに関してはロルクのほうが上手だ。子どもたちが言ったように、ロルクはこの村で二番目に強いのだ。
ロルクは呼び掛けに応じ、ダインの元へ小走りに向かい、何かと尋ねる。
「丁度いいとこに来たな、腹が減ったんでウチで飯を食ってくる。ここ代わってくれ」
あまりにしょうもない頼みに肩の力が抜ける。
「なんで弁当持ってきてないんだよ」
「あったかい飯の方が旨いだろ? 最近妹も腕を上げてきてな」
「そんくらいのことで家に……」
「お前だってどうせさっきまでサボってたんだろ」
痛いところを突かれる。ロルクはもう何も言い返さない。
「はいはい分かったよ……あれ、ダイン一人だけ?」
普通林道の見回りは二人一組で行動するのだが、そこにいたのは彼一人だけ。小屋の方も一瞥するが、中にも誰もいない。
「ああ、林の方にリアガンさんが残ってるよ」
「げ、父さんかよ……」
そのリアガンというのが、ロルクの父であり、村で一番強い男である。一人で林をうろつくなんて自殺行為でしかないけど、彼なら高原狼ごとき、屁でもないだろう。しかし、
「オレと父さんがここにいちゃ、戦力過剰じゃないのか?」
「それもそうだが、今年は狼のやつらエサに困ってないみたいで、林から外に出てこないからな。村の方はサボるくらい暇だったろ? 山の方も何か出るとは思えないし、とりあえずここだけ見とけば問題無いだろ」
楽観的な男だ。コルマーの平和は一応はロルクたちに託されているというのに。
「とにかくここは任せた! 飯済ませたらまた戻るからよ!」
ダインはロルクの背中を叩くと、さっさと村の方へ行ってしまった。
「まったく……」
ロルクは溜め息を付き、林道の入り口の方に振り返る。気乗りはしないが、仕事はしなければ。ひとまず父と合流するために、林道の中へ足を踏み入れた。
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