輪っか

梅田 つばめ

輪っか

 ああ、どうしていつもこうなんだろう。嫌になっちゃうな。こんなことなら分かれるなんて言わなければよかった。

 寒空の下、ふと、そんな気持ちでいっぱいになる。本当は別れたくなかったし、彼のことは好きだった。

 でも、それは過去のことだし、今となってはもう再会も叶わないだろう。

 地面に触れた手は急速に熱を失っていく。ただただ、寒かった。


 遡ること数十分前の話である。私は、いつもの喫茶店で彼を待っていた。彼はいつも来るのが遅く、指定した時間にきた私はいつも本を開いて待っている。そして、私が頼んだコーヒーが無くなった頃にやっと入店してくるのだ。

 数ヶ月前から、私はすこしずつ彼と会う機会が減っていった。理由は簡単で、私が電話やメールで「会いたい」と言うと、決まって彼は「用事がある」と言ってその場が流れる。そして半年前、ようやくこぎつけた久々のデートで、私はあることに気付いた。

 彼とあった時、微かに匂いがしたのだ。私のものでは無い、とてもきれいな香水の匂いが。いつも来ているジャケットから、ラベンダーの香りが。

 いや、私の勘違いだ。そんなことはない。

 そう思って数ヶ月過ごしたが、誘っても断り続ける彼に、私の疑いは深まるばかりだった。

 そして数日前、彼にデートを断られた時、私は悟った。もう、私に興味が無いのだと。

 もう、限界だ。耐えられない。

 別れよう。

 そう思って今日、私は彼を「大事な話がある」と言ってここに呼び出したのだ。

「どうしたの? 急に」

 彼は、コーヒーが空になって五分後に現れた。

 ゆっくりと来た彼はちょっとよそよそしく、何かを隠しているのが嫌でもわかる。多分、女に会っていたのだ。電話口からも女性の声が聞こえてくるのが分かった。これはもう、間違いないだろう。

「単刀直入に言うわ。私たち、別れましょう」

 そう言うと、予想もしなかったのだろう、目の前の彼は酷く狼狽した表情に変わる。

「ち、ちょっと待ってくれ! 一体どうしたんだ急に!」

「どうした、ですって? 私が何も分かってないと思った?!」

「い、いったい何の話だ?!」

「とぼけないでよ! 最近私の誘いを断って、女の人に会ってたでしょう?!」

「いや、それは違う! 違うんだ!」

「何が違うのよ?! あなたはいっつもそう! なんでもかんでもはぐらかして、ずっと何か隠して……今日だってここに遅れて来たでしょ!!」

「い、いや、それには訳があって……」

 そう言うと彼は、顔を外へと逸らした。それを見て、私の頬を温かいものが流れる。

 そっか。それすらも言う気が無いんだ。なら、もう、知らない。どうでもいい。

 私は、彼に背を向けて出口へと向かう。

「……私、もう行くから」

「ちょ、待ってくれ! 落ち着いて話を聞いてくれ! おい――」

 そこまで聞くと喫茶店のドアが閉まり、外の喧騒も相まってか、彼の声は聞こえなくなった。

 その瞬間、私は堪えきれなくなって走り出した。目からは大量の雫が零れ落ちる。

 私の何がいけなかったんだろう? 私の何が彼の興味をそいでしまったのでろう?

 疑問は泉の様に際限なく浮かび、反対に心は深く沈んでいく。

 そうして、五分ほど走り続けただろうか。

 大通りの交差点に差し掛かった私は、遂にその時を迎える。

「危ない!!」

 誰が叫んだかは分からない。その声の方向を振り返った私は、人込みでは無く、その上にあるものに目が留まる。


 ――赤だ。


 次の瞬間、強い衝撃と共に、視界が物凄い勢いで振れた。

 それから、長い時間横になっていた気がする。正確な時間は分からない。

 ただ、今分かることは、目の前の世界が横を向いていて、私を中心に赤い液体がどんどん広がっていくということ。

 こんなことなら、彼に呼び止められ、そのまま口論になった方が良かったかもしれない。そうすれば、もしかしたらほんのちょっと嫌な思いは残るけど、今ほど悲しい気持ちにはならなかったかもしれない。

「――や! さや!!」

 声が聞こえる。聞きなれた、いつもの声。

「彩矢! 聞こえるか彩矢!!」

 べとつき、冷たくなった手が急に暖かくなる。身体が横に転がると、空と一緒に彼の顔が映った。

「彩矢!! ごめんよ彩矢!! 俺が……俺が悪いんだ……!!」

 彼の顔は逆光で見えない。しかし、彼の顔からは、大粒の光が落ちてくる。温かい、光が。

「ごめんよ、彩矢! 俺、内緒にしてたんだ! お前を驚かせようと思って……それで……!!」

 そう言うと、彼は光る輪っかを見せた。

「彩矢! 大丈夫だから! きっと大丈夫だから!!」

 そう、叫ぶ彼は、目の前まで持ってきた私の薬指に、その輪っかを入れる。そこで、私は今まで大きな勘違いをしていたのだと初めて気付いた。

 そっか。そうだったんだ。みんな私の勘違いだったんだ。

 そう、安心した途端、急激な睡魔に襲われる。もう、目も開けていられなくなってきた。

 寝る前にお礼を言わなきゃ。

 必死に喉を動かすが、声を出そうにも何故だか声が出ない。

 安心したから疲れが出たのかもしれない。

 それでも、言わなきゃ。この気持を、笑顔で伝えなきゃ。


 ――ありがとう。


 そう言って、私は深い、とても深い眠りへと着いた――。

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輪っか 梅田 つばめ @Umeda_tubame

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