第7話 鏡の前

 それからは深い断絶があった。とても長い時間が経過した。少なくとも私自身はそう感じていた。しかし、それは絶対的な時間ではなかった。私が思うほど世界は進んでいなかったのだ。気がついた私は再び床屋の椅子の上にいた。今度は今まで感じた形容し難い違和感がない。聞えてくるラジオの音声は聞き覚えのあるタレントの声であり、リクエストでかかったのはヒット中のアイドルグループの元気のいい曲だ。


 私は自分が元の世界に戻ったことを直感した。そこはかとない安堵感に包まれた。無愛想でお調子者と勝手に思い込んでいた理容師が慈愛を含んだ笑顔で微笑んで、


「ご主人、結構疲れていらっしゃいますね。すっかり寝込んでしまわれまして、こっちは仕事になりませんでさ」

「それはすまない。とんだ営業妨害だね」

「いや、運よく、いやウチにとっては最悪なんですがね、まだ後の客が来ないんで・・・。しばらく営業停止、いや、なんのことはない・・・休憩させていただいておりましたよ」

「本当にすまない。・・・ところでどのくらい私は寝ていたんだろう」

「どのくらいっておっしゃるとそりゃとてもとても長いと思いますよ。何しろ、ご主人の小学生時代からすっかり風格のあるご老人になるまでの長い歳月が流れたのですから」

「ど、どうして、それを知っているの。あれは夢ではなかったのか」

「いや、長年この仕事をやっているとお客さんの寝顔を見るだけでどんな夢を見ていらっしゃるのか分かるんですよ」

 どこかで聞いたことがある言葉だったが、いまは思い出せなかった。

「いや、ご主人はきっと疲れていらっしゃるんでさ。そういう時もありますよ。人生の中にはね。そういう時は、・・・どうぞ髪を切りにいらしてくだせえ。ウチにはそんなことしか言えませんがね」

「ありがとう。そう言ってくださるだけで嬉しいよ。実はね、昨晩、ちょっと・・・」

「おっと・・・。その先は結構、夫婦喧嘩を喰わねえのは犬だけじゃありませんよ」

「なんでもお見通しなんだな」

「長年この仕事やってると・・・」

「分かってしまうんだな」

私が笑うと、理容師の親父もそれより大きな声で笑った。


「はい、できましたよ」

 突然耳元で大きな声がした。はっと目を覚ますと床屋の親父が感情の読み取りにくい、ある種職人気質の表情で突っ立ている。

「ああ、どうもありがとう。先ほどは・・・」

と言いかけて止めた。親父は相変わらず仏頂面のままである。私はこの親父と夫婦喧嘩を見抜いた親父とが別人である事を瞬時に悟ったからだ。ブラシをかけてもらいながら、自分が長い長い夢を見たことを納得しようとしていた。御代を払うと親父はいつものように、やや大きな声で、

「ありがとうございました」

と独特の調子で言った。私がガラス戸を押して出ようとした時、理容師が声をかけてきた。

「お客さん、ちょっと疲れていますね。なに、長年この仕事やっていると分かるんですよ」

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鏡の前 斉藤小門 @site3216

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