第6話 演歌の流れる床屋
旅の宿にもどった私は急速な眠気に襲われた。シングルルームの狭い空間をごまかすように壁の一部には鏡が張られていた。もちろん映るのは自分の姿以外にない。
先ほどの赤い髪の理容師の腕はたいしたものだった。鏡の中の男は見事に調子のよかったあのころを思い出させる風貌に変わっていた。もしかしたらまたやり直せるかもしれないと思わせる内なる力がみなぎった。明日は自分の街に帰ろう。いまはそれがいい。それしかない。そして再始動だ。
妙な安堵感が私の体を癒していく。そしていつも間にか体が重たくなった。堪えられずベッドに腰掛ける。急激に襲った睡魔がおそらく体をそのまま仰向けに倒したのだろう。意識はフェイドアウトしていく。
ふと気づくと顔面に暖かさを感じた。この感触は。いろいろと考えているうちに解答はすぐに示された。暖かな湯で蒸されたタオルが何者かの手によって取り除かれたのだ。
「それじゃあ、髭剃りはじめましょうか」
年配の男の声だった。私は再び床屋の椅子に座っていたのである。
「先生は、いつも電気のかみそりですか、それとも安全かみそりですか」
理容師は確かに私のことを「先生」と呼んだ。私は先生と呼ばれるような仕事をしたことはない。ひょっとしてこの世界では私は先生なのかもしれない。あるいはこの理容師はだれにでも先生と言うのかもしれない。ここは持ち前の適応性を発揮して呼ばれるままにした。
「いつも自分でかみそりで剃ります。あのT字型のでね」
「そうですか。先生の小説の中に出てくる人ってよくひげ剃りますよね。それに床屋の場面も結構あるじゃないですか。私ども理容師仲間じゃあれが嬉しくってね」
私は自分が先生と呼ばれている理由の糸口をつかんだ気がした。どうやら先生とは小説家のことらしい。私が小説家? 私の人生にそんな経歴はない。しがない会社員だ。しかも企画に失敗して会社に損失を与え、辞職も考えているだめなサラリーマンだ。
年配の理容師は笑顔を作って私の顔に生暖かいクリームを塗り始めた。そういえば女声の演歌がずっと流れている。同じ歌手のようだ。はりのある若い声でなかなかの歌唱力だった。
クリームがなじんだのを見計らって理容師は髭剃りを始めた。こういうときは目を閉じるので自然に脳裏で思考が始まる。私は小説家なのだろうか。床屋のシーンを多く書くとはどんな小説なのだろう。理容師仲間で話題になるといえば、それは大衆小説か。しかし、私が仮に小説家だとしても、それをどうしてこの理容師は知っているのだろう。小説家の顔など多くの人は知らない。ああ、本のカバーに小説家のプロフィールが載っていることもある。あれか。次々に類推が類推を呼んだ。
「はいじゃ起こしますよ」
「ときに、ご主人。私の小説はどうだい」
私は自分の謎を解くために積極策に出た。こうなったら小説家になりきって聞くしかない。それが情報収集のためには一番の方法だ。
「そりゃ、さっきも言いましたとおり私は先生のファンでさあ。先生の小説はなんていうか人生の機微ってやつですか、それが描かれていていいね。ほら、推理小説とか恋愛小説とか、そういう派手なやつもいいですが、ああいうのは私には合わないね」
「そんなにお褒めいただくなんて。私は果報者だ」
「先生の小説で救われたって話よく聞きますよ。ほら、むかしなら落語の人情噺にみたいなものがあったんですが、今は落語もなかなか聞けないし・・・。その点、先生の小説は文庫本で五、六百円で十分楽しめますからね。私は先生の作品大体持ってますよ。申し訳ないんだが全部、文庫本ですけどね」
私の作品がそんなに世に出ているのか。そして文庫化されるほど売れているのか。私の記憶にはそのようなことはないから、これはきっと夢だろう。こんないい夢なら、覚めなくてもいいな。
「じゃあ、終りました。眼鏡をどうぞ」
私は黒縁の見慣れない眼鏡を手渡された。かなり度があるのかずっしりとした質感が合った。理容師に礼を言いながらその眼鏡をかけ、鏡を見ると愕然とした。そこには、深いしわがたたまれた白髪の老人が立っていたのである。これが私か。するとこれはもしかして私の未来の姿なのか。一度に襲ったさまざまな感情が正気を奪っていく。立ち上がったばかりの椅子に腰を落としたところまでは覚えていた。
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