第6話

 黒猫の幽は幸せだった。野良暮らしだった昔と違い、毎日のんびり家の中で、真由香に可愛がられている。病院での検査は楽しくなかったけれど、毎日美味しい食べ物を貰え、好きなだけ撫でられたり膝に乗って甘えたり、そのまま寝たり出来た。

 時々外が恋しいような気もするけれど、まあいいや、と思っていた。真由香は幽を外へ出さない代わりに、外の景色を見せてくれる。以前の住まいとレイアウトの似た、けれどずっと遠い場所で、真由香と幽は暮らしていた。サッシ戸の先には、ベランダと、広い眺めがあった。遠くに海が見える、小高い丘の上のマンションだ。

 以前と違うことがもうひとつ、幽はサッシ戸のあるリビング以外も、家中好きなように出入りできた。毎朝毎晩、全ての部屋を確認して歩くのが幽の日課になった。

「あ、ダメ幽、」

 水を飲む幽を真由香が止める。幽は顔を上げた。

「それは仏様の水なのに。……しょうがない子ね、いっそ水飲み場兼用にしましょうか」

 幽は何のことか分からなかったが、真由香が頭を撫でてくれたので嬉しかった。

 真由香は幽を撫でながら、仏壇の遺影を見た。先の震災で命を落とした家族が、そこに写っていた。真由香は眺めながら、悲しいような、それでてどこかホッとしたような顔をした。手が止まったことに気付いて、幽がニャアと啼いた。真由香はハッとして、また幽を見て撫でた。幽は喉を鳴らし、やがて背中を見せて座り始めた。真由香は少し戸惑ったが、ゆっくりとゆっくりと、あの撫で方で幽を撫でた。

 震災後、家族と家を失った真由香は、しばらく仮設住宅で暮らしていた。保険その他の手続きが終わり、何とか暮らしの目処が立ったころ、幽と再会した。真由香は確信していたが、念のため別の医院へ移ったかかりつけ医を探して診て貰い、幽に間違いないことを確認した。

 幽は帰ってきたのだ。九つ目の命を、燃え尽きさせることなく、願いを叶えてくれた。


「ねえ幽、」

 真由香はしばしば口にした。

「大好きよ。ずっと傍にいてね」

 言葉の意味は分からない。けれど、柔らかく包み込むような穏やかなその言葉は、幽をいつも温かい気持ちにした。

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九度目の願い 群青更紗 @gunjyo_sarasa

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