第5話

 真由香の話は終わったようだった。幽はしばらく姿勢を正したまま真由香を見つめていたが、やがて思い切り伸びをした。今までのパターンと、ちょっと違ったけれど、まあいいや――幽は気楽に考えていた。この後こそ、撫でられる。いつもと違う、あの特別な撫でられ方をする。しかし、真由香は動かない。正座したまま、幽を見つめたままだ。幽は少し不安になった。そしてその不安が、真由香の憂いを帯びた瞳にあると捉えた幽は真由香に擦り寄った。

 ニャーン、と、いつも以上に甘えた声を出しながら、頭を背中を脇腹を、真由香に擦り付ける。真由香の膝に乗せられた手のひらの下に、頭を潜り込ませる。撫でて、撫でて、いつものように。呼んで、呼んで、いつものように。笑って、笑って、いつものように。

 真由香はポカンと幽を見つめ、幽にされるがままになっていた。やがて幽は真由香の手のひらの下を、何度も何度も摺り抜けた。一度、二度、三度、四度、

 ダメ!」

 真由香が手を離した。幽は突然の叫びに驚き、思わずサッシ戸へと走った。

「幽!

 その名を呼ばれ、幽は止まった。振り向くと、真由香が真っ青な顔で立っていた。真由香は幽に近付こうとし、幽は咄嗟に逃げ出そうとした。幽が身を縮めたのを見て、真由香は足を止め、その場にしゃがんだ。

「――おいで、幽」

 穏やかに呼ばれて、幽は恐るおそる近付いた。真由香が差し出した指を嗅ぎ、やがて頭を擦り付けた。

 「ごめんね幽、」

 真由香が言った。

 「分かって、あなたを喪いたくないのよ。――それとも、それでも、願いを運んでくれるの」

 幽に人間の言葉は分からない。けれど、真由香の穏やかな声を聞くのは好きだった。真由香の笑顔が好きだった。真由香が笑ってくれるなら、何でもしたかった。

 「……だったら、託すわ」

 真由香は静かに言い、幽を抱き上げ、背中を自分に向けた。幽はあの撫でられ方が来るのだと理解し、大人しく背を向けた。

 真由香が撫で始めた。一度、二度、三度、

 「どうかあなたが、私の願いを叶え、

 四度、五度、六度、

 「必ず、あなたのままで、」

 七度、八度、

 「戻ってきますように」

 九度。――撫で終わった。幽は立ち上がり、伸びをしてサッシ戸に向かった。真由香が開けると、幽はタッと飛び出した。

 「幽、」

 真由香に呼ばれ、幽は振り向いた。

 「お願いよ、絶対、ぜったい、戻ってきてちょうだい」

 幽はニャアと啼いた。そして、何度も何度も使ってきた小屋の上に乗って毛繕いをし、塀に飛び乗るとそのまま外へと走った。


 翌日、幽は真由香の元へ来なかった。

 真由香も幽を待たなかった。待てなかった。

 前日深夜、大規模な地震が起きていた。真由香と幽たちの過ごしたあの部屋は、跡形もなく崩れていた。

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