我が世の春

まらといは・の

我が世の春









「心配するな」伯父はよくいっていた、「どうせみんな裏目に出るんだから」。


『エリア・カザン自伝』









今更言うまでもないことだが改めて言う。安倍晋三は卑怯者である。

憲法九条を変えたくて、でもまともにやるには国会議員の三分の二以上の賛成が必要で大変だから「三分の二」を「二分の一」に減らそうと画策したり(二〇一三年)、それがあえなく失敗すると九条はそのまま手を付けず条文解釈を変えてしまえと閣議で決定したり(二〇一四年)。

どちらも卑怯者ならではの手口である。

卑怯者は卑怯者らしく、政権四年間の延命のためだけに解散総選挙を行い(同年)、自動的に投票所に出向いて「自民党」と書くような、蒙昧の自覚なき昆虫的有権者のお蔭で、勝った。

勝ってますます我が世の春を謳歌する卑怯者。

そういえば、第二次大戦中の日本のふるまいを国会で問われた安倍が「侵略の定義は定まっていない」(ので、ボクは日本の仕業を侵略とは呼ばない)と答える一幕が以前(二〇一三年)あった。

これもまた、実を言うと卑怯者にしかできない答弁である。なぜか。安倍は東京裁判を否定しているにも関わらず、東京裁判を利用したことになるからである。

東京裁判否定論者のよって立つところは①勝者が敗者を ②事後法により裁くことの理不尽 と、③侵略は犯罪だが自衛戦争は犯罪ではない。太平洋戦争は日本の自衛戦争である。よって日本が裁かれるいわれはない である。

確かに理不尽な①と②は措くとして、③。

③を主張する人間は、当然否定しなければならないものをもう一つ持つ。それは、東京裁判成立の背景をなすパリ不戦条約(一九二八年)である。

「もう戦争はしません」というパリ不戦条約の、日本は署名国なのに戦争をした、これは違法だというのが東京裁判の根拠の一つ。

ただ、パリ不戦条約の交渉当時、「自衛戦争は例外とすべし」との相談は綿密になされた。各帝国主義大国にとって植民地等の「海外権益」防衛は自衛だからである。

現在の視点からすれば「海外権益」なんて発想自体、他国侵略以外の何物でもないが、そこは一九二八年という時代、そんな先見の明はむしろ異様だ。従って「何が侵略か」など、定義はおろか議論の俎上にも乗せられない。というより、侵略が常識の帝国主義にとっては、そもそも定義のしようがない。

安倍は「侵略の定義は定まっていない」と言った。

それは「侵略」について定義しないパリ不戦条約を前提とする発言である。パリ不戦条約を前提とすることはつまり、パリ不戦条約の政治的表現としての東京裁判を認めることである。

東京裁判を認めない安倍が、自分に都合のいいところに限り東京裁判を「利用している」というのはこの意味だ。

ただ「利用」は意図的ではない。本人は気づいていない。安倍の無意識が安倍をして東京裁判を「利用させた」というのが真相である。

だから、安倍のこの無意識を「狡猾」と呼ぶのは尊称に過ぎる。「猿知恵」でも褒め過ぎだ。卑怯者は無意識のうちにも卑怯な思考をする、ただそれだけのことである。


人は喧嘩しても時間を経れば「今思うと自分も悪かった」的な自省ができる生き物である。

それと同様、時代が成熟し、物の見方が成長すれば、例えば拷問や肉刑や人種差別や人身売買や奴隷労働等は「悪」だったと、人類は分かるようになる。

帝国主義の論理が「悪」だったというのもまた、今では文明社会が共有する認識、すでに地球規模の常識である。その段階において「侵略の定義は定まっていない」と発言すればそれは、時代とともに成熟できず、物の見方を成長させ得なかった発言者のIQが奈辺にあるのかを白状したに等しい。

皇軍兵士が中国やフィリピンで演じた酸鼻極まる場面、その膨大な記憶と記録、厳然たる事実の群れ、に囲まれてなお「侵略の定義は定まっていない」(のでボクは日本の行為を侵略とは思わない)と、一国の首相が、しかも国会で口にする。

この破廉恥は、非常識を通り越して不道徳である。そして、破廉恥な不道徳者は「変態」と呼ばれる。然り、安倍晋三は変態なのだ。

戦後衆院選史上、先の選挙は最低の投票率だった。その中を投票所までわざわざ出向き、「自民党」と書いて変態安倍を喜ばせた有権者はおよそ二種に分かれる。積極的支持層と昆虫的無思考層。前者は安倍と同種の変態であり、後者は有害昆虫である。

変態と害虫は、せっかく成長・成熟した時代をじわじわと浸食し退化させる。そして完全変態害虫は、我が世の退化を謳歌する。


ついでの話。日本国憲法九条は、パリ不戦条約と似ている。それはつまり、わが憲法規範は国際法に担保されているということで、日本国憲法のスケールの大きさがよく分かる。

ところが、竹田恒泰なる矮人の小さな目には、同じことが逆に映るらしい。「日本国憲法はパリ不戦条約のコピペ!(だからダメ)」と、鬼の首でも取ったようだ。

では竹田は、権利の章典、独立宣言、人権宣言等の崇高な精神を受け継いだ法律もすべて「コピペ!」と否定するのか。或いは「大日本憲法はプロシア憲法のコピペ!」「現行民法はナポレオン法典のコピペ!」とも?

どうやら竹田は「法の淵源」という言葉を知らないらしい。知らずにいて、「コピペ!コピペ!」「オボカタる」「オボった」と、自撮り動画ではしゃいでいる姿は、痛々しいを通り越して哀れである。


                  *


俗に中二病という。

「拗ねる」「ひがむ」「愛に飢える」を「中二病」と一括りにするのは語彙の短絡であって好かないが、確かに「中二病の定義は定まっていない」。

ウィキペディアでは「症例」として「『因数分解(本当は中三で履修─引用者)が何の役に立つのか?』『大人は汚い』と言い出す」「本当の親友を探そうとする」「洋楽を聴き始める」「旨くもないコーヒーを飲み始める」「売れたバンドを『売れる前から知っている』とムキになる」「やればできると思っている」「母親に対して激昂して『プライバシーを尊重してくれ』などと言い出す」「社会の勉強をある程度して、歴史に詳しくなると『アメリカって汚いよな』と急に言い出す」等が挙げられていて笑えるが、私の中二病「定義」はおよそ次のようなものだ。

本当は「誰もあなたのことを抑圧していない」のに「大人」から抑圧されていると錯覚し、本当は「誰もあなたの自由を奪っていない」のに「大人」から自由を奪われていると被害者意識を持ち、自己憐憫に長け、本当は「誰もあなたなんか、そもそも見てすらいない」のが実情なのに「見られている感」満載でハリネズミのように「武装」し、大人からちょっと何か言われれば即座に「攻撃とみなし」て北朝鮮的(!)に反応する過剰な自意識を指して言う言葉だと。


最近は、戦時中の日本に関する書物や映像に対し、過敏過剰に反応する日本人中二病患者が増えつつある。

例えば、太平洋戦争を描いた米テレビシリーズ『ザ・パシフィック』(トム・ハンクス、スティーブン・スピルバーグ製作 二〇一〇年)へのAmazonのレビューがその症例。

「このシリーズを観る際には、まるで狩猟の対象として殺されていく日本人の姿を直視できる覚悟が必要です。(中略)日本兵は、鼠のように隠れ逃げまどい、虫けらのように殺されていくだけです。こんな虫けらのような存在、そして素手で立ち向かってくる弱すぎる日本人を相手として、アメリカ兵の苦悩、恋愛、友情、人間ドラマを描かれてもまったく説得力がありません。なので物語としてはとても弱いです。2014/5/12 投稿者 システムマン」

「どれも日本軍が出てくるアメリカの戦争映画は、常に日本人が単細胞のサルのごとく人種差別的に描かれいる(ママ)。特に武器を持たぬ日本兵を慰めものにして、からかいながら急所を外して数発の弾を撃ち込み、死んでゆく兵士を見て喜んでいる米兵達の姿は、この一連の戦争ドラマの独善的な我田引水の製作陣の程度の低さを露呈している。いかにも事実で客観的に戦争を映画に表現しているという傲慢さや奢り高ぶりが垣間見えるシーンだ。日本人ならこんなものに感心して見入ってしまうのを恥じるがいい。もっと太平洋戦争を勉強してください。日本人としての戦争に対する独自の考えをもってもらいたい。いかにも日本人の残虐性と後進性が強調されて、勝って当たり前の敵をなぶり殺しにするという感覚だ。随所に独善的偏見が潜在するが、目を見張る物量的圧倒感で矛盾を気付かせずに物語を強引に引っ張っていく感がある。これも念の入ったドラマ作りだか(ママ)、結局この偏見から逃れていない。最初から姿を現したとたん、機銃掃射の連射に向かって馬鹿のように突進して撃たれて死んでいく兵隊どもはもはや組織的戦略の軍隊ではない。よくこんなものが公平な視点での戦争描写といえるのか。期待するのが無理ですが、いかにも記録映画的な色彩を与え、史実であるかのように巧妙に作り上げているから始末が悪い。トムハンクスもスピルバーグも結局アメリカの大衆だけを意識して、アメリカ軍部や政界におもねる映画を大金を叩いて製作したということだろう。良く分からないくせに全て分かったように描くなと言いたい。戦争の教育を受けていない日本人は、無意識にアメリカ崇拝に陶酔しているので、有難く見入ってしまうのだろう。戦争に負けたとはいえ、まったく情けないことです。2013/9/29投稿者 批評家」

「このドラマの最大の功績は米兵の日本人差別を赤裸々に表現したところです。ジャップは虫けら扱いです。一方で米軍兵士は一人死んだだけで英雄扱いに祭り上げる。この究極の落差が戦争の真実を伝えていると思います。ただドラマ自体はくそつまらんと言ってもいいでしょう。寝小便の話やプレイボーイがツンデレ女口説き落とす話などどーでもいい話に多くの時間をかけます。戦闘シーンに多くの予算を使ってるのは明らかですが、最初のガダルカナル戦などは夜襲のみで画面が真っ暗で声と銃弾の音だけで機関銃の曳光弾が光ってるのが分かるくらいで、しかも一つ1つ(ママ)のカットが1~2秒と短く何が起こってるのかわかりづらい。(中略)ジャップの死体から金歯を抜き取るやつがいてナイフで口を切り裂いて取り出す。そのうち息のあるジャップを手足バタバタしたまま口を切り裂くやつまで現れる。頭が上半分吹っ飛んだジャップの頭の中に小石を投げ込み血がポチャンと飛び散る遊びに興じるやつまでいる。とにかくアメリカの正義がよく分かる映画です。これがイラク戦争でもベトナム戦争でも同じくアメリカの正義の戦争です。世界中の人に見てもらいたい。この腐った連中(アメリカ人)の蛮行をぜひ皆にみてもらいたい。また一方で沖縄戦における原作に無い日本人の赤ちゃん抱いた母親の自爆トラップなど日本人を歪曲することも忘れていません。原作自体がアメリカ人による自画自賛であるわけだからそこにさらに日本人歪曲を付け加えるとはよくやったものだといわざるを得ない。2011/12/23投稿者 ゴリ」


書き手が書き手なのでどれも悪文なのは仕方ないとして、その内容は気の毒なほど主観的、ナイーヴにもほどがある(ちなみにナイーヴとは「幼稚」「世間知らず」。「繊細」の意味に取るのは和製英語)。

『ザ・パシフィック』は元海兵隊員の複数の手記が原作。その一つである『ペリリュー・沖縄戦記』(講談社)はドラマ鑑賞後に私も読んだが、劇中エピソードの一つ一つが創作ではなく、それぞれ原作の忠実な再現場面だったのかと感心した次第。

また、ガダルカナルの死屍累々シーンが一木支隊全滅の有名な写真とそっくりなことに驚き、沖縄女性が「お願いします」をちゃんと沖縄方言で「うにげいさびら」と言う場面では瞠目し、さらに日本兵が米兵を「毛唐!」と罵り、米兵が日本兵を「slant-eyed monkeys(吊り目の猿)」と蔑み、捕虜の前でウホウホと猿の真似をするに至っては、日米間あの当時当たり前の差別意識がきちんと映像化されている!と感動した。リアルとはこのことである。

また、前シリーズ『バンド・オブ・ブラザース』(二〇〇一年)のドイツ兵もそうだったが、『ザ・パシフィック』の日本兵の言葉に英語字幕はつかない。即ちアメリカの観客は、現場の米兵同様にドイツ兵や日本兵の言っていることが分からない。ここで、敵兵への感情移入を観客は遮断される。彼我のイデオロギーがぶつかり合う相互絶滅戦をテーマにする以上、この配慮は欠かせない。スピルバーグはそこまで周到なのだ。さすがである。

ところが先のナイーヴな投稿者たちは、画面の米兵が日本兵を憎んだり蔑んだりしたら、それはスピルバーグが日本を憎み蔑んでいるのだと受け取る。劇中登場人物と製作者の区別がつかない、このリテラシーのなさは特筆に値する。

「誰も日本をからかっていない」のに「からかわれた」と錯覚し「見下された」と被害者意識を持ち、勝手に傷つき、過剰に反応する中二病。


ところで、『軍旗はためく下に』(一九七二年)という映画がある。深作欣二が『トラ・トラ・トラ・』(『トラ・トラ・トラ!』ではない。70ミリ大画面に映し出されるタイトルは『トラ・トラ・トラ・』)のギャラで撮った作品で、『仁義なき戦い』の前年にあたる。

一九七二年、私は中二。「アメリカって汚いよな」と言い、「勉強はやればできる」とは全く思わず自分はアホの範疇だと進んで思い込み低偏差値の群れに交わり、不良と暴力に憧れ、けれど喧嘩は弱く、「旨くもないコーヒーを飲み」、そして同時に映画に目覚め、片っ端から観、「洋楽(映画のサントラ盤)を聴き」「売れた女優を『売れる前から知っている』とムキに」なり、現在に至るまでに約四千本の作品を鑑賞した。

でも『軍旗はためく下に』はリアルタイムでは観ておらず、観たのはだいぶあと。しかし、当時から評判が高かったのは覚えている。

一九七二年は戦後二十七年。戦争体験者の方が人口の多数派である。当時の観客は「ああ、これが戦争の現実だ」と思い、『軍旗はためく下に』を「真に迫る名作」と位置付けた。その内容は、日本兵の敵前逃亡、上官殺害、捕虜虐殺、飢えた果ての人肉食い。

さて、二〇一五年は戦後七十年。戦争体験者が人口の少数派の世の中、『軍旗はためく下に』を大々的にリバイバル上映したら、昨今の中二病日本人はどんな症状を呈するか。

「日本軍があんなだったはずがない」「描かれているのは全部嘘だ」「日本人ならこんなものに感心して見入ってしまうのを恥じるがいい」「もっと太平洋戦争を勉強してください」「日本人として戦争に対する独自の考えをもってもらいたい」と激昂し、挙げ句「『軍旗はためく下に』は自虐だ! 反日だ! 売国的映画だ!」と狂うだろう。

アメリカ人に中二病があるのかは知らないが、『ジャンゴ 繋がれざる者』(奴隷制)や『ソルジャーブルー』(先住民虐殺)に「自虐だ反米だ」と激昂するようなのは社会から相手にされない。ドイツ人やユダヤ人も同じで、『戦場のピアニスト』(ユダヤ人処分・ユダヤ人の対独協力)を観て屈辱と感じるのは、今時いたとしても極少数派である。奴隷制も先住民虐殺もユダヤ人処分も同胞裏切りも事実と、彼らはとっくにわきまえているからである。それと比べて日本人の中二病患者は、そもそもわきまえるべき知識を持たず、そのことを恥じないほど自分に甘い。

鴻上尚史が言う。

「最近は『あなたは今のままでいい』『ありのままで価値がある』と自分を無条件に肯定してくれる本が売れています(SMAPのオンリーワン以来?─引用者)。それは『何もしなくても日本人だから最高の存在』と訴える超保守的な人々の考えに通じます」(『朝日新聞』2014.12.17)

「地道に考え、知恵を積み重ねれば『日本人でいるだけで素晴らしい』という論理は受け入れがたい」(鴻上)がしかし、日本の中二病患者には積み重ねるべき知恵がそもそもない。

そして、民度の低さも知識の貧困も「このままでいいよ」と甘やかされる患者たちは中二生ではない、大人である。

満足に本を読めず、ネットを漁り、気に入るものは無批判に取り込み、気に入らないものには拒絶反応を示す。

知識は一向に増えず、頑固さだけが強化され、例えば次のような「結論」に辿り着く。

「歴史の勉強は暗記ばかりだった。サイトを見て、自分の頭で考えることができるようになった」(同紙2014.12.10)。この中二病患者は「在特会の立ち上げ当初から会員の横浜市内の男性契約社員(40)」(同)。

私の診断。

「患者にとって、まともな本はどれも『教科書の暗記もの』を思い出させるので苦痛。患者は好みに合うサイトだけを見、他人が考えた話を鵜呑みにして『自分の頭で考えることができた』と錯覚し、『すべてを理解した』と甚だしい誤解に陥る。本当に『自分の頭で考える』には、難しかろうが何だろうが、とにかく事実を知らなければ始まらないのに、患者にはそれが分からない。よって処方箋、なし」

この病気は命にかかわらない(逆に中二病で死んだら凄い)が、大人の中二病は治らない。

患者はそのままに老い、若い患者が後から続く。一億総中二病の夜明けは近い。


                  *


次世代の党。A級戦犯平沼麒一郎の養子・赴夫が党首で、二〇一四年に日本維新の会から分かれてできた極右政党である。「男女平等は、絶対に実現し得ない、反道徳の妄想です」(『朝日新聞』2014.12.20)などの暴言を売りにする。ちなみに今のは杉田水脈(みお)。女性である。

衆院選(同年)の直前、「党として慰安婦を巡る問題に取り組んできました。選挙でも訴えますか」と記者に問われ、平沼はこう答えている。

「街頭でもアピールしやすいんだ。ネットでも圧倒的に支持されているようです。この層を引きつけることは大事です」(同紙2014.11.29)

「慰安婦問題はでっち上げ。ネトウヨを大事にしなければならない」という訳だが、実際に「在日特権を許さない市民の会(在特会)」の初代会長・桜井誠が「『小選挙区、比例ともに次世代に一票を投じてきました』とツイートするなど、右寄りのネット世論に浸透したようでもあった」(同紙2014.12.20)。

変態安倍派は次世代支持者とほぼ重なるが、選挙で両方は選べない。また昆虫的無思考層は、次世代の党などそもそも知らない。まだしもまともな有権者は、棄権するか、少なくとも「在日の生活保護受給率は日本人の八倍」などと「トンデモデマ」を流す次世代の党には寄りつかない。結果は大敗。十九あった議席をたったの二にまで減らした。当選したのは平沼とあと一人。杉田も落ちた。

ちなみに「在日の生活保護受給率云々」は在特会の主張の一つでもある。


在特会は「在日の生活保護受給率」以外にも「国民年金で優遇」「通名使用や特別永住が許されている」等を取り上げ、「それらは特権だ」「許せない」と騒ぐ。

在日韓国朝鮮人が生活保護や年金で優遇されている事実はなく、通名使用や特別永住が許可されるには「彼らは元日本人」という理由がある訳だが、それらは今は措く。いや、措くというより百歩も二百歩も譲って構わない、「優遇されており、理由のない特権を享受している」として、非難を正論とする在特会の精神構造の話である。

子どもはよく「あの先生、ずるい。Aちゃんだけをひいきする」と訴える。そのとき私は、その子にこう尋ねる。

「そのひいきで君は損をしたのか?」

損をしたのなら、大人の私が先生に、君に代わって文句を言ってあげる。しかし「損をしていない」のなら「『ずるい』は出来の悪い人間が口にする言葉だ。みっともないからやめなさい」と諭す。

誰かが優遇されることで自分が不利益を被るなら戦わねばならない。しかしそうでないならば、何を戦う道理があるか。

人がいい目にあったら「いいなあ」程度は構わない。問題はその次である。「よかったね」と祝うか。それとも「ひいきだ」「ずるい」と拗ねるのか。前者は貴人の精神構造が言わせるセリフ、後者は奴隷根性のルサンチマンである。

「在日は特権を享受している」「ひいきだ」「許せない」は「あの先生、ずるい」と同一の論理、まさに子どもの僻みである。「在日優遇分は税金だ」といって、「それではそのせいであなたの財布から具体的に何円が減ったのか」と問われて答えられる在特会会員はまずいない。

在特会の主張は僻みであり、僻みは恥ずかしいことである。僻みを口にすればその人物の程度が知れる。

ところが在特会は、己れの主張がまさか僻みと気づかない。逆に「立派な意見だ」と自信満々、その行動に酔い痴れている。また、国際社会から叩かれる在特会のヘイトスピーチを「とはいえ表現の自由とも関わりがある問題」(同紙2014.12.10)と、変態安倍は消極的に援護する。

「朝鮮大学があるから小平の治安が悪化した!」は与太。「パチンコ経営者はほぼ半島系だ!」は「だから何?」という次元。そんな話に旭日旗や日章旗を掲げて群がる在特会の日本人は、日本人の最も劣った部分と括られる。

ところがこの部分は千や万もいて、我が世の劣化を謳歌している。今の日本に粗悪な人間は斯様に多いとよく分かる。

白井聡が話す。

「『日本人は12歳の少年のようなものだ』。占領軍の総司令官だったマッカーサーは米国へ帰国後、こう言いました。では、戦後69年を迎えた今の日本人は、いったい何歳なのでしょうか。このところの『日本人の名誉』『日本人の誇り』を声高に言い立てるヒステリックな言論状況を見ていると、成長するどころか退行し『イヤイヤ期』と呼ばれる第1次反抗期を生きているのではないかという感じを覚えます。中国や韓国は文句ばかりで生意気だからイヤ。米国も最近冷たいからイヤ。批判する人はみんなイヤ。自分はなんにも悪くない」(同紙2014.12.20)

第一次反抗期を迎えるのは二、三歳。中二病どころではなかったということか。


ついでの話。

レイシストをしばき隊等、在特会に対抗する側のプラカード「日本の恥=在特会」「ヘイトやめろ」「仲良くしようぜ(韓国と─引用者)」は真っ当だ。

しかし「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「韓国≠悪 韓国=敵(悪くなくても敵─引用者)よって殺せ」に対するには、真っ当過ぎて武装にならない。

ここはむしろ「在特会を日本から叩き出せ」「在特会=悪=敵 よって殺せ」「桜井誠は人間のクズ」「桜井誠を殺せ」「在特会会員大虐殺」くらいがちょうどいい。

下品には下品の土俵に上がり、下品の分かる言葉で攻撃せよ。説得や和解ではない。不毛を目的とし、このような者どもとは永遠に敵対せよ。私の流儀である。


                  *


シンガポールのセントーサ島。巨大なマーライオンが睥睨する遊園地の一画に、シンガポール史をたどる蝋人形館がある。

日本軍支配下「昭南島」のコーナーでは、背の低い「slant-eyed (吊り目)」の日本兵が英兵に銃剣を突き付けている。これを見る日本人観光客はどう思うか。

一、不快に思う。二、何も思わない。

私はそのどちらでもない。「日本はさすがだ」という感慨を催す。どういうことか。

日本の戦争加害、日本の侵略性を表す展示は、裏を返せば「日本はそれだけの事業ができた国」という意味になる。「さすが」とはそのことだ。

人類史上最大の事件である第二次世界大戦の主役で、北米本土(バンクーバー、サンタバーバラ、アストリア)を砲撃し、アジア大陸から南太平洋全域、アリューシャン列島からさてはシドニーやマダガスカルへも戦いに赴き、パナマ運河を潜水空母で攻撃しようとまでした日本の戦争規模はすさまじい。こんなことのできる国が凄くない訳がない。

それに負けたとはいえ、米軍は日本打倒までに四年もかかった。日本が凄くない訳がない。

日本についての展示や映像に、被害国や米国のバイアスがかかっていればいるほど、つまり日本に対する恐怖や憎しみの色が濃いほど、彼らをしてそれほど畏怖させた日本という国に、私は「さすがだ」と感じ入る。そう、日本は超一流の帝国主義国家だったのだ。

侵略は超一流の帝国主義国家にしかできない。同じく一流の人物は、侵略を侵略と潔く認める。

侵略を認めず、そうすることを「自虐」と罵る手合いは人間が二流である。例えば石原慎太郎。

「あの戦争は侵略じゃない。資源を断たれたら東南アジアに展開せざるを得ない。あの戦争を侵略戦争だと規定するのは自虐だ。歴史をもっと勉強しろ。植民地支配は、近世になってから白人は全部やったじゃないか」が口癖だ。

石原の人物二流性は次の二点。

先ずは「侵略=悪」という彼の前提である。

石原は「侵略=悪」に日本があてはめられるのを嫌う。しかし「侵略=悪」は、戦後民主主義の中で「左側」が培ってきた価値観である。石原は、自らが敵と看做してやまない「左側」の価値観で物を考えていることになるが、本人はそのことに気づいていない。これが一点目。

次は「資源を断たれたら東南アジアに展開せざるを得ない」論。

一九四一年当時の常識ではもちろんそうである。「資源を断たれたら云々」は当時としては「自衛」である。だがそれは時代の縛り。現在の視点からすれば次の如し。「東南アジア側からしましては日本の事情など知ったことではありません。勝手にやって来て暴れられれば、それは当然ながら侵略です」

歴史の共時性と通時性。前者は「その時代独特のコモンセンス」、後者は「時代を超えてあてはまるコモンセンス」。

石原は前者しか分からない。石原は一九四一年当時の常識から抜け出せない。「歴史をもっと勉強しろ」の石原だが、本人こそ不勉強にもほどがある。時代とともに成熟できず、物の見方を成長させ得なかった石原が、変態安倍の同類なのは言を俟たない。

変態石原は、二〇一四年の衆院選に次世代の党からわざと比例名簿最下位で出、落選。「さんざん我が世の春を謳歌したからもういい」と、余生を平穏に貪る気でいるのだろう。


                  *


「日本は蒋介石により戦争に引きずり込まれた」「蒋介石はコミンテルンに動かされていた」「張作霖爆殺事件はコミンテルンの仕業」「ルーズベルトは政権内のコミンテルンのスパイに動かされた」「ルーズベルトの罠にはまり日本は真珠湾を攻撃」「日本が相手国の承認なしで進軍したことはない」「日本は侵略などしていない」「アジア諸国は大東亜戦争を肯定的に評価している」

二〇〇八年のいわゆる「田母神論文」である。これのせいで、田母神俊雄は航空幕僚長をクビになった。

田母神はその後、都知事選(二〇一四年)に立候補し落選。ただそのとき、四位とはいえ六十一万票を獲得。それで調子に乗った田母神は同年の衆院選に東京十二区から立候補(次世代の党)。しかし四万票しか取れず同区四候補中の最下位であえなく落選。


人を騙すのに全力を注いだ、見事な悪戯が世の中にはある。

例えば、南太平洋の小島に、逆立ち状態になって鼻で歩行する小動物がいたが、アメリカの水爆実験によって島もろとも消滅した、そう説く『鼻行類』という書物は動物学専門書の体裁を整え、見る者を徹底的に騙す。著者の「ハラルト・シュテュンプケ」が何者なのかは、今もって分からない。

或いは、革マル派が唱える「酒鬼薔薇事件はCIAの謀略」説。悪戯だか本気だか定かでないが、このバカげた説も彼らの本を読むと真に迫っていて、思わず信じそうになるらしい。現に「これは真実だ」と思い込んだ人を一人、私は間接的に知っている。

他にも「水棲人類説」「イエスキリスト日本渡来説」「9・11米国自作自演説」「宮崎勤冤罪説」等、どれも手が込んでいて、真贋見抜く眼力さえあればいちいち笑える。

ところが、田母神珍説は全く笑えない。本人が大真面目なのに、一瞥してすぐに贋物と分かるからである。

唐沢俊一が書く。

「世の中には荒唐無稽な主張を展開する『トンデモ本』があふれている。私は、トンデモ本を研究する『と学会』会員として、数多くのトンデモ本を読んできたが、田母神論文にはトンデモ陰謀論の典型的なパターンが表れているように感じる。(中略)都合のいい俗説を検証もせずに取り出し、整合性も考えずにつぎはぎにしている。自説の正当性を証明するプロセスをすっ飛ばす。一次資料を参照せず、『だれだれの本に書いてある』という二次資料の引用しかない。(中略)これはすべてトンデモ陰謀論者の特徴だ」(『朝日新聞』2008.11.13)

ところが、である。幹部自衛官の中では「田母神論文のどこが悪いんでしょうか」「理不尽な批判を受けている理由が分からない」(同紙2008.11.11)と擁護する声が目立つというのである。

身内だから庇うのか。そればかりではなく、問題は別にもあるようだ。

「幹部自衛官は、防衛大学校のほか、昇進にあわせて陸海空別の幹部候補生学校や幹部学校、統幕学校などで『戦史』としての歴史を学ぶ。しかし(中略)扱うのは作戦や戦術など事例研究が中心で、史実の評価にほとんど踏みこんでいない」(同紙)。自衛官への教育に原因があるという訳だ。

だが、これだけ情報が溢れる世の中、無知はもはや学校の、ではなく本人のせいである。

それに、情報の玉石混淆が見分けられないのは本人の成育歴のせいである。読書量が圧倒的に少ないまま年を重ねれば当然そうなる。

また、「幹部の仲間うちの会話やメールでは、『歴史論争の一方の側の主張なのに、それをけしからんという方がおかしい。思想統制につながる』といった内容のやりとりも盛んに交わされている」(同紙)ともいうが、これはアメリカのキリスト教右派を思い出させる。

「天地創造は事実。進化論を学校で教えるなら創造論も、宗教の時間じゃなく、歴史や生物の時間に教えるべきだ」、というのがキリスト教右派。

進化論は科学だが創造論は虚構。創造論は架空のお話で、進化論は客観的現象を記述した理論。異次元の二つを同じ土俵に並べ、「進化論が生命論争の一方の側の主張であるなら、創造論だって一方の側の主張(というよりこちらが真理)」として憚らない蒙昧がキリスト教右派、インテリジェント・デザイン信者である。

「田母神説は歴史論争の一方の側の主張」とする幹部自衛官はこれと同じだ。田母神珍説が歴史学の通説と伍すはずがないのを、知識が乏しいので理解できない。

そういえば、CBSの合衆国世論調査では、回答者の「44%が『人間は最近一万年以内に神が創造した』と答えた」(同紙2006.5.9)という。

単純に合衆国国民三億人の44%だとすれば、日本の人口とほぼ同数のアメリカ人が、我が世のトンデモ説=創造論を謳歌していることになる。


意見を異にして対立しそうな気配になると、「和をもって貴しとなせ」が刷り込まれた日本人は、喧嘩を未然に避けようとする。今も変わらないが、このごろは、内容がちょっと昔とは異なる。

伝え聞く大学のゼミの現場である。「相手の言い分を『そういう意見もある』と認めよう。人はそれぞれ違うから。対立した相手を論破しようとするのは民主主義に反する。多様性を尊重しよう」という「配慮」が見え、徹底的な議論にならないというのだ。

これは無意識の「和をもって」ではない。「多様な意見を尊重し合おう」という積極的確信である。

認めてはならない、あり得てはいけない「考え」や「意見」、全力を傾けて粉砕すべき「物の見方」が、この世には確実にある。科学的に解明された事実、角度をいかに変えても違って見えようはずのない事実を「否定すること」は、まさにそれである。

先の大学生たちはきっと「相手の意見を尊重しなさい」「『言い負かす』のはルール違反」「みんな仲良くしなさい」を幼い頃から聞かされ続けたのだろう。それを一度も疑わずに成育したのだろう。そんな彼らなら、田母神説も「そういう見方・意見もあっていい」、なぜなら「人はそれぞれ違うから」と言うだろう。幹部自衛官や米キリスト教右派とはまた違う、蒙昧のサンプルである。


ところで、子どもはよく「『○○ちゃんは性格悪い』ってみんな言ってるよ」と口にする。

それでは「みんな」とは誰なのか。問い詰めれば大概、その子の仲間、多くてせいぜい二、三人というのがオチである。二、三人を「みんな」と言いたがるのは「数の力は自分を正当化する」という計算が子どもなりに働くからだ。

田母神の「張作霖爆殺事件はコミンテルンの仕業という説が最近では有力になってきている」(根拠は示さない)は、「張作霖爆殺事件はコミンテルンの仕業という説を最近ではみんなが言っている」と換言でき、つまりが先の子どもの心理と同じである。

このように田母神「論文」は子どもの発想で書かれたもの。それを分かって読めば、田母神の児童性が浮き彫りにされて笑えるかもしれない。


都知事選の六十一万人、衆院選の四万人は田母神の「何」に入れたのか、私に知る由はないけれど、選挙カーの田母神をテレビで見た日韓ハーフが言った。

「田母神俊雄は朝鮮人みたいな顔だねえ」

「韓流ドラマが多過ぎ」なるフジテレビ抗議デモの参加者であり、トム・クルーズ似を自称する(と、どこかで読んだ記憶がある)田母神に聞かせたら、結構な嫌がらせになるだろう。


                  *


一九四五年まで、朝鮮は日本だった。

そこが国土の一部である以上、支配者日本は建設的にふるまう。無慈悲・過酷ではあったろうが、破壊的ではない。宗主国が植民地を破壊してどうするのだ。

当時の朝鮮人は日本国民である。ゆえに、日本軍が朝鮮人女性を強制連行し、従軍慰安婦になれと強要したとすれば、それは「日本軍が日本人に行った」のと同義である。

日本軍は、そのようなことはまず行わない。そもそも行う必要がない。なぜなら売春業務はシステムとしてきちんと動いているからである。軍がわざわざ女狩りに手間をかけなくても、朝鮮人の売春斡旋業者に依頼すれば済む(この意味で、もちろん軍は慰安婦集めに関与はしている)。

そして、例えば地方の貧しい村から女を仕入れる際、業者が甘言を弄したり強制的に連行したりの場面は当然あっただろう。その想像は不自然ではない。

また、連れてこられたのは幼女は論外、少女は稀有。それらは性交不能の未成熟者として忌避される。よって、ソウルの日本大使館前や米国内の公園に設置された「あどけなく清楚な少女慰安婦像」は事実を反映しないフィクション、何を表すものでもないただの虚像である。

かたやオランダ領インドネシア。敵国オランダの女性たちを、泣き叫ぶのも構わず無理やり連行し慰安婦にした白馬事件。あるいは占領地フィリピン・レイテ島での女狩り。これらは朝鮮人慰安婦の話より、強制性がはっきりしていて分かり易い。朴裕河は「朝鮮の女は軍需品。占領地や敵地の女は戦利品」とまとめるが、その通りである。


さて。

一九八〇年代、吉田清治なる人物が「朝鮮で数百人の女を奴隷狩り的に捕まえた」と「証言」。それを『朝日新聞』が報道(一九九一年)。また、植村隆記者が金学順元慰安婦の告白を元に署名記事を二本発表(同年)。その後、吉田の話は嘘と判明。なのに『朝日』は記事の訂正を怠る。年月が経過。最近の右傾化社会の風当たりが強くなり、『朝日』は記事を取り消して謝罪(二〇一四年)。ところがそれは謝罪というより言い訳。池上彰が紙面で批判すると掲載不可に。そのことでよけいに叩かれ、とうとう社長が辞任。

一方、植村元記者は「吉田証言」と無関係にも関わらず「慰安婦捏造記者」としてバッシング。勤務する北星学園大学には脅迫状や脅迫電話。曰く「植村を解雇しなければ学生を痛めつける」「爆破する」。電話の犯人(六十代)は間もなく逮捕。しかしネットでの植村攻撃は続く。十七歳になる娘の写真もアップされ、「自殺するまで追い込む」と、例によって盛り上がり中。

国会では変態安倍が「一連の虚報で日本が貶められた」「世界から誤解された」としたり顔。夏には戦後七十年の変態談話を出そうと大張り切り。

売れるなら何でも書く嫌韓ジャーナリズムの代表二誌は『週刊文春』『週刊新潮』。植村が名誉棄損で前者を訴えれば、後者は「植村は日本の名誉を棄損した」という変態安倍的記事を掲載。

また、誤報が「多くの海外メディアに紹介され、ねじ曲げられた歴史を国際社会に拡散させ」「日本国と国民の国際的評価は著しく低下し、原告らを含む国民の人格や名誉が傷つけられた」として、「国内外の8749人が26日、朝日新聞社に1人あたり1万円の慰謝料と謝罪広告の掲載を求める訴訟を東京地裁に起こした」(『朝日新聞』2015.1.27)。


変態安倍、嫌韓イエロージャーナリズム、「国内外の8749人」らは、オランダやフィリピンの件に一切言及しない。

なぜか。「知っていて口を噤んでいる」「そもそも知らない」のどちらかしかないが、前者なら悪質、後者なら無知である。後者だとすれば、モノを知らないくせに、「傷ついた」と過剰反応だけは得意な中二病そのものである。

「吉田証言」「植村記事」の翌年(一九九二年)に、同じ『朝日』はオランダ人慰安婦事件を報道している。先の連中は、こちらには一切無反応である。

なぜ「吉田証言」「植村記事」同様に叩かないのか。「九二年のオランダ人慰安婦報道をそもそも知らない」「知っているが、事実があまりに明確なので叩けない」のいずれかしかない。もし後者なら、オランダ女性にやったことを片方で認めつつ、もう片方で「日本が貶められた」「世界から誤解された」と平気で言うことになるが、この感覚矛盾はもはや一種の精神障害に等しい。


年老いた韓国人元慰安婦が辛い記憶を語り出す。聞く者は胸を痛め、憤慨する。彼女は何度も語るうち、日本の極悪性を強調するほどに聞く者が喜ぶと気づく。話に尾ひれがつき、少しずつ不正確になる。やがて嘘ではないかと疑われ出す。すると今度は日本の中二病が大いに喜ぶ。

一流帝国主義国・日本の悪徳を際立たせたければ、韓国人元慰安婦はすっ込んでいた方がいい。ここはオランダに任せる方が効果的である。

「オランダのティマーマンス外相は3日、第2次世界大戦中に日本軍が占領した旧オランダ領東インド(現インドネシア)での慰安婦問題は、『強制売春そのものであることには何の疑いもない』(中略)1994年1月に、オランダ政府が公文書館で調査した結果をふまえて当時の外相が出した強制性についての報告書を根拠に『自発的な売春行為などではない』と断言」(同紙2014.10.5)

これへの反論は、ない。

反論のしようもないのである。


                  *


「イスラム国」の日本人人質殺害事件。

「テロは許さない」と言うだけで何もしないと批判された安倍は「じゃあやってやるよ!」といきなり切れ、カメラの前で「イスラム国」を日本語で罵りながら、服を脱ぎ、醜い裸体を晒し、踊り、さらに、自分が人質でもないのに「安倍を解放しろ!」と意味不明の雄たけびを上げ、それらを全部、動画にアップした。

「話が通じない相手」と言われている「イスラム国」だが、「イスラム国」は安倍を見て「日本は話が通じない相手」と呆れる。

後日、秋葉原の変態集会で、「イスラム国」に影響された日本人が自爆テロを敢行。「変態安倍と仲間たち」の汚い肉片が辺りに飛び散り、近所の人は大迷惑。

という夢を見た。


在特会の記事を最初に読んだとき、私は思った。

別に「中韓と仲良くしろ」とも願わないが、もうちょっと賢そうなことを言えと。こいつらのせいで「日本はバカだ」と世界の目に映るではないか、と。

ところが私は、少し間違えていたらしい。実は世界もバカ化の道にあるようだ。


タリバーン、アルカイダ、ジェマー・イスラミア、アブサヤフ、アルシャバブ、ボコハラム。後にいくほど識字率が下がる。

タリバーン、頭がちょっと足りバーン。

アルカイダ、知性はどこにもアルカイダ。

イスラミア、教養ジャマーなイスラミア。

アブサヤフ、幼児退行アブアブアブ。

アルシャバブ、シャバに出られぬシャブ中毒。

ボコハラム、ボコボコ鳴るよカラ頭。

アブ・バクル、ダディがバグった「イスラム国」。*アブ・バクル・バグダディは「イスラム国」のリーダー


資本主義、共産主義で陣営が対立していた前世紀の方が、まだしも賢そうだった。なぜならイデオロギーは、腐っても理論だからである。

ところが二十一世紀の世界では、神信心という理論以下のことで争い、「異教徒」を殺し自分も死ぬ。世界幼稚化の幕が開いたようである。


昨今の話題。

「成田空港反対」の古いニュース映像を見る最近の若者は、機動隊を応援!

「Japanese only」横断幕で有名な浦和レッズの応援席は旭日旗だらけ!

在特会を報じる『朝日』の記者は、無知により旭日旗を「日章旗」と書いてしまう!

NHK相撲中継のたびに画面に映る日章旗。モンゴル国旗も見かけるが、相撲場は安っぽいナショナリズムを見せびらかす場ではない! だいたい帽子を被ったままで相撲を観戦するな、脱帽せよ!


劣化した敵であるが、私は別に侮辱に飽きない。我が世の攻撃をますます謳歌する今日この頃である。


2015.2.3

参考文献  常識

引  用  『朝日新聞』のみ

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