Chapter 3.監獄の暗闘
乗馬は
貴族学院に在籍した当時、他の子弟はすでに乗馬の作法に通じていたが、おれは10歳から入学したために猛烈な訓練を受けることになった。ようやく
ところが、寿命の極端に短いヒトの軍には、騎馬兵という兵科自体がなかった。
騎乗技術に限ることではないが、習得に年月のかかる技能を身に着けた者が、教練する側に立つ頃には亡くなってしまうからだ。
それでもヒトが今日まで生き延びてきたのは、教皇庁の力によるものだ。教皇庁はヒトの組織である。
そこまでやって、ようやくヒトは滅ぼされることなく今日まで命脈を保ってきた。
ティンダロス監獄も、もとは数多の策謀の一つなのだろう。
収監権の真の標的はヒトではない。
大陸通貨の流通し始めた頃、統一王の破門に伴って群雄割拠の時代が始まった。
だが、何らかの事情で計画は頓挫し、その存在を忘れられてきた。
「間モナク見エル村落ニ、馬ヲ預ケテハイカガデショウカ、
おれの左腕に縫い付けられた『口』が慇懃に口をきく。
ゆったりと並足で進んでいく馬上。左腕に目をやると、自分の色白の皮膚よりも、少しばかり黒ずんで盛り上がった部位がある。皮紙は直接おれの左腕に癒着し、血から供給される魔素を動力として動いている。
そして、かつて空白だった吏官名の場所には、
Chapter 3. 監獄の暗闘
一通り槌で殴り倒されて『口』が沈黙した後、フランベルジェは「調教する」と言って羊皮紙を持って地下室へと移った。
後で聞いた話だが、あの棘槌は聖別された銀合金で作られており、
数時間後、戻ってきた『口』はおれを
地下室で何があったのかは、聞いていない。
「ル」兄弟は半壊した応接間の清掃にかかっていたが、視線をやると俯いて目を反らされてしまった。
アルマ嬢は初めて見るフランベルジェの激昂に恐れおののき、
「わ、私は形式上婚姻を結んだとしても、フヒト様と不貞などいたしません、絶対です…。」
と、涙目で謎の宣誓を行っていた。
戻ってきたフランベルジェは、にんまりと笑って、おれの左腕に『口』を仮移植した。裏地を打って張り替えたという皮紙は吸いつくように馴染み、慎ましく血を吸いあげて名を綴った。
「契約者認証ヲ完了イタシマシタ。シカシナガラ、
口上に不満げなフランベルジェの表情に、恐れの感情を抱いたのか、左腕の表皮にモゾモゾと隠れるように動く何かを感じる。
一体、何をされたんだこいつは。
「ヲ、ヲマチクダサイ。モウ一度試シマス。」
結果は変わらず、左腕に『口』がビクビクと痙攣する様子が伝わってくる。
哀れに思っていると、耳の裏の辺りから直接声が聞こえてきた。
(
どうやらこの懇願は、おれにしか聞こえていないようだ。
「いいだろう、おれが現地に行けばいいんだな?」
その言葉を聞いて即座にフランベルジェが反対する。
「罠かもしれない。自律意思を持っている
意思を持つ
だが、今回は少しでも情報を引き出す目的で『口』の自我を残した状態で調教したとフランベルジェは説明した。
ふるふると『口』が震えながら懺悔の言葉を漏らす。
「ワ、ワタシハ愚カニモ
触手に貫通された掌は医療用の肉種を埋め、継ぎ目をタバコで焼いて貼り付けた。鎮痛と造血作用のある薬草を混ぜた紙巻き煙草は、携帯に便利だ。味を楽しむ類のものではないが、煙を呑む。以前から何度もやってきた処置なだけに、すでに違和感はない。
(ワタシハ惡ヒ、
などと震え声で嘆願されて、やられた恨みよりも、哀れに思う気持ちが勝ってきた。
◇
今、おれは『口』の案内でティンダロス監獄を目指している。
フランベルジェは本宅に軟禁したベルク翁と交渉するため、アーカムを離れることができず、おれは一人で旅路に出た。
あくまでも無理はせず、必要とあらば応援を要請するように、ということだった。
早朝に出立し、馬の並足で半日かけて、市街から北部への道路を進み、未開拓地との境界にある村に馬を預けた。
村人にティンダロスについて尋ねてみると、要領を得ない答えしか返ってこない。どうも彼らは開拓民で、ここは新興の村らしい。
軍馬を見たのも初めて、ということで預かる間の餌はどうすれば、お屋根のあるところへお泊めしなければ、と畏まった対応をされてしまった。握らせた金と砂糖菓子が随分と効いたようだ。
目的地に近い村であれば、何らかの情報が得られるかもと期待していたが、空振りしたのは仕方ない。
村人が昼食をいかがでしょう、と勧めてくるのを、急ぎの用務であるため、と丁重に断って、監獄塔を目指すために徒歩で村を出る。
もしも一両日帰らなければ、手数だが領主夫人様のところへ遣いを出してもらいたい、と言伝しておいた。
遠方に見える峰の形と、≪地図≫に映し出された姿を照らし合わせて山間の道へと入っていく。
獣道と大差ない、踏み固められただけの道だが、普段村人が薪などを取る際に入る生活路と聞いた。枝木が打たれているために視界は確保されているが、夜間に道を外れて迷い込めば帰って来れなさそうだ。
次第に深まる森を分け入っていく。夜通しの行軍に比べれば、楽なものだ。
しばらく歩いていくと、黒土に混じって、明らかに人の手の入った木材の端が落ちていた。拾い上げてみると、真っ黒に炭化している。
この近くに人里があったのか。木々の隙間に見える山嶺を仰いでも、≪地図≫の方角と合致する。
だが、何か奇妙な違和感がある。奥深い山歩きに特有な感覚といえなくもないが、どれだけの時間が経ったのか曖昧だ。
≪
「
『口』はおれの違和感を補足するように伝えてくる。言葉を発していないにも関わらず、あたかも思念を読んでいるかのような助言だ。
血を与えたことで、おれと生体遺物の間に
「具体的に、どういった類のものかわかるか。」
「
この現象のために、
つまり先客がいる。そして、その何者かは村人が現地に来ないように認識阻害系の魔法を行使している。
一度アーカムに戻って、応援を連れてくるべきか?
否、今の段階では情報が少なすぎる。少なくとも、相手が何者なのかくらいは確かめておきたい。
おれは敢えて踏み固められた道を外れる。
身を屈め、峰の姿だけを頼って進んでいく。勾配の厳しい方へと進路をとる。黒土を指先にとって、首筋から順に、汗腺に塗りながら登っていく。汗の匂いを風下に届けぬようにする配慮だ。
やがて日が傾き始める。おれは久しく忘れていた感覚に、口許を緩ませていた。
◇
日が暮れて、夜の帳が下りた。
おれは≪地図≫の監獄塔の位置するであろう場所を直線では目指さず、山の尾根まで登ってから下る経路を選んだ。
眼下には根元から崩れた塔と、ずいぶん前に焼け落ちた村の跡がある。傍には天幕が張られ、周囲に明々と
天幕の入り口には見張りの男が二名立っていた。
気になるのは監獄と思われていた塔が崩れていることだ。円柱状の塔の内部は、上方から丸見えだが、どうも地下へと続く階段があるらしい。
幕舎と同じく塔の入り口にも二名の男が立っており、さらに数名の男が周囲を巡回しているのが見える。
随分と厳重な警備だ。
男たちの服装はバラバラだが、概ね一般的な革鎧で、徽章などから所属を特定することは難しい。しかし皆訓練された動きで油断している様子も無い。見える範囲で全てでもないだろう。
恐らくあの幕舎が野営設備になっているだろうから、騒げば中から応援が出てくる可能性がある。
おれは剣士ではない。戦役の英雄と持ち上げられると、むしろ後ろめたい思いがする。
正面きって剣を振るったのは黒衣の騎士との対決が最初で最後だ。あれも本来は左手と剣に仕込んだ毒で仕留めるつもりだったのに、突然の豪雨で洗い流され、まともな剣闘を挑む羽目になった。
そして貴族学院で学んだ剣術は王の剣。徹頭徹尾、自らの身を守るための剣術だ。それも身についたとはいえない。師範には邪道と評された。
もっとも、おれが戦役の中で本当に磨いたのは全く別の技術だった。
巡回の男たちを、歩哨の視界を離れた者から順に仕留めていく。
闇夜に融けて、黒々と塗料を塗られた針が飛ぶ。極細の針がぴん、と首筋に刺さると、しばらくの間を置いて昏倒する。
男の倒れ込む音をさせぬように、素早く地面との間に腕を滑り込ませる。目を剥いた死相の顔を一撫でし、瞼を閉じさせた。
これを三度繰り返した。死体はその場へ寝かせたままだ。
巡回を始末し、天幕の裏手を確保した。
幕の一部を慎重に割き、そこから柔らかな管を挿し込んでいく。管のこちら側にあるのは揮発性の高い猛毒を封印した瓶である。
数分すると、中から聞こえていた寝息が二つ、呻いて痙攣し始めたと思うと、静かになった。
呻き声が表の歩哨に伝わったらしい。内の異様を察して入り込んでくる。
幕の内に充満した毒を無防備に吸い込んだらしく、咳き込む声を印に、折りたたみ式の手槍を突き込む。無論、槍の穂先には強烈な弛緩毒が塗ってある。
意味にならない掠れた呻きが、細く啼いた。
さらに一人、入り込んできた歩哨の位置を確認し、引いた槍を再度突き込む。
夜の森の静けさに、掠れた悲鳴が響いていく。
塔の階段を守っていた男たちも、幕の内へ入ってきた。
同じようにガスを吸い込み、まともに動けないところを順に突く。
おれは裏手に陣取って幕越しに毒を盛るだけの仕事しかしていない。もはや動く者は誰もいない。
おれは寝袋の中で毒を吸って倒れている男に猿轡をかませ、寝袋ごと縄で巻いていく。
幕の外へ引きずりだすと、自分には不要な気付け薬を鼻先に浴びせた。
口許に泡を吹き目を剥いている男を、数度殴りつける。
朦朧としながらも意識を取り戻したものの、事態を飲み込めずに、きょとんとしている男の目を覚まさせるために、鉄針を篝火で熱して寝袋越しに刺していく。
むうむうと呻く男の目が恐怖に染まっていくのを確認し、声を出さぬように言い含める。刃の厚いナイフを喉元に当てながら、猿轡を解いてやる。
尋問の時間だ。あくまで手短に、数分しか時間をかけるつもりは無い。
結局外にいる連中は兵士くずれの雇われでしかなかった。食うに困って盗賊に身を落すか、と迷っていたところ雇われて、二ヶ月前から、この山中に篭っているらしい。雇用主は金払いのいい少女だというが、地下室にこもってここ二日ほどは出てきていない、という。塔の中には入ったことがない、それ以上は知らない、と言うので、喉を裂いて幕舎の中に投げ込んだ。
すでに皮膚が赤く変色し始めていたのを見れば、毒に致死量暴露したことは間違いないから、いずれ死んだに違いない。
結局有用な情報は得られなかった。雇用主が少女、というのが引っかかる。おそらく魔法を行使していたのは、その人物だろうが、相手の増援もこれ以上は無さそうだ。
このまま地下室に侵入しよう。
おれは崩れ落ちた監獄塔の螺旋階段を地下へと降りていく。石造りの階段は歳月を感じさせるものの未だに堅牢であると主張してくる。
「
『口』は暗闘の間、一言も喋らなかった。余計なことを言わない、というのは評価したい。
おれの好意的な評価を感じてか、嬉しげに『口』が身をよじらせた。どうにもこの
壁の燭台から火を取り、燃料充填式のランタンを灯す。
螺旋は暗く、奈落は深い。湿気と夜の底冷えが肌にまとわりつくなかで、
闇の底に降りていくと、真っ直ぐな廊下が伸びていた。
突き当たりの木戸に耳を当てる。
注意深く聞いていると、無数のすすり泣きが届いてくる。そして、重い何かが石畳の床を這いずる音。戸の向こうには、最低限の灯りが灯されているらしい。
おれはゆっくりと、木戸に手をかけ、力を込める。ずりずりと押し開きながら、中の様子を伺うが、動いているものは無い。戸の向こうにも、真っ直ぐな廊下が伸びており、左右を鉄格子で仕切った獄が備えられている。一つだけではない。長い地下廊下は、左右に無数の獄を携えていた。
壁に添えられた燭台の頼りない光では、獄の闇を照らし切ることはできない。明かりの届かない暗闇の中で、声にならない声が床を這い、幾つもの「肉」が身をよじっている。
石畳が擦り切れたように引かれた血の帯が、この場所で行われている行為がいかに酸鼻を極めるものか物語っていた。
不意におれの視線と、腰に提げたランタンの光線が一致し、檻の中の「肉」を直視させた。ぎりと奥歯を噛みしめて、声をあげそうになる己を押さえつける。
それはもはや人体の
回廊は長く、おれは最奥を目指して進む。左右から健やかな肉体を妬み欲する怨嗟が、あるいは苦痛を分かち合おうとする嘆きが絶え間なく響き渡る。
獄の最奥、赤錆の浮いた鉄扉。生きる者の精神を砥石にかける石畳の終着点に、おれは手をかける。
香草の香りが、鼻をくすぐる。その香気の毒気の無さにおれは面食らってしまった。
開いた扉の内側には、手入れされた煉瓦造りのキッチンが用意され、使い込まれた様子の大小様々な鍋が壁にかけられている。
正面に向けた視線を、素早く左右に振り向ける。自分の他には誰もいない。
左手には火をくべたままの竈、そして大人が一抱えするほどの寸胴の鍋が沸き上がっているのが見える。
右手の光景が、おれを現実に呼び戻す。壁に繋がれた鎖と革の拘束具、腕ほどもある巨大な鉈、鋸、槌、
監獄だなどと、とんでもない。ここは間違いなく「屠殺場」だ。何よりこの有様は、拷問でも懲罰でもなく、嗜好のための、楽しみのための場所であることが伺えた。おれの中に蓄積された「澱」のような経験が警鐘を鳴らしている。
そのときだった。右手の屠殺場の奥から、か細い声がしたのは。
「会長…ですか…。」
幼い、聞き知った声。未だ呼ばれ慣れなかった「会長」という呼称に、おれはびくりと反応する。声のした方に素早く視線を向けると、鎖に繋がれた全裸の
ホルンの身体は棒で打たれた痕が無数に走り、幾本かの赤黒い筋が浮き上がっている。
おれは外套を肩から脱ぎながら、彼女に無言で駆けより、傷ついた体を覆う。跪き、身振りで言葉を出さぬように指示しながら、手足の戒めを解きにかかる。
おれがここに来ることがバレていたのか。ホルンは人質として攫われてきたのか。
ここでおれは違和感に気付く。ホルンとは今朝商会で会ったはずだ。商会の事後の処理を確かに任せたのだ。
目の前にいるホルンは、厳しい責めにあって、少なくとも一日は置かれたような汚れがある。
肌が粟立つ感覚に、おれの手が止まる。憔悴しきった様子のホルンが、おれの異変に気付いたのか、か細い声をかけてくる。
「会長、うしろ…。」
彼女の言葉に、おれは弾かれたように振り向く。何かが近づいてくる気配は無かったが、察知し損ねたか。
焦りが首筋を駆け、見逃すまいと眼球を忙しく動かすが、そこには何もなかった。
「ホルン、何もいないぞ…ッッッ。」
ざくり、と革鎧を貫通して、鈍く輝く突剣がおれの胸から生えていた。
凄まじい勢いで気道に血がせり上がり、口腔を満たしていく。衝撃に身を翻せぬまま、首だけを捩じって、おれは自分の見たものを疑った。
ホルン、だった何かは塩漬けで水を抜かれたように萎れ、人皮の着ぐるみのようになっていた。
女の手には容赦なく力がこもり、更に深く突剣を捻じ込もうとしてくる。アームガードに備えられた棘が傷口の肉をえぐり広げてくる。
≪
暗器の類を仕込んだ外套を、思わず
おれは腹を裂かれる覚悟で、いつか見た記憶にあるカンフー映画のように脚を後方に振り上げ、突剣の握り手を蹴り上げる。
女の手が跳ね上げられ、剣の柄を離した。
腹に剣を刺したまま、おれは勢いよく石畳を転がり、今や姿を現した敵と対峙する。
萎れた肉塊はぐじゅりと不定形の水袋へと形を変えて、女の腕の本体へと吸い込まれていく。
無機物的な美しさを全身から発する女。腰まで伸びた黒髪、黒曜石を嵌め込んだような黒眼、白く輝く肢体を惜しげもなく披露する女を、おれは知っていた。
「は、は、ハハハハッ、温くなったねえ、九頭龍君。」
おれと同じ
「
どぷり、と、腹からこぼれ落ちていく
九頭龍不人は勇者だった。 Suzukisan @Suzukisan_3211
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