Chapter 2.聖庁の猟犬


「最後に確認したいのだが、中身は見ていないだろうね。」


 依頼主である伯爵は、机の上の封書に手を伸ばしながら念を押す。その目はどろんと濁っている。まなじりの皺は濃く、膿が浮き出ているようにも見えた。何らかの眼病か。


「依頼主との約束は守ります。」


 おれは毅然と答える。果たすべき約束は果たしたのだ。この陰鬱な館から一刻も早く去りたくてたまらない。

 封書と引き換えに、机に差し出された布袋は、中身の金貨の重みにぐったりとしている。


「それでは、私はこれで失礼いたします。」


 おれは袋に手を伸ばす。袋の口を縛る朱色の組紐に手をかけると、その手首を伯爵が掴んだ。思いがけない力強さに、おれは顔をしかめる。


「もうひとつ、頼みたいことがあるのだ。」


 眼前の初老の男は、紳士然とした皮を脱ぎ捨て、何か得体の知れない獣のような様子を漂わせている。みりみりと骨が軋む音を聞きながら、たまらず頷く。

 嫌な予感がしたんだ、と心の内で毒づきながら、おれはこの依頼を受けたことを後悔し始めていた。



 Chapter 2. 聖庁の猟犬



 翌日、九頭龍不人くずりゅうふひとはヴァレンタイン家の別宅を訪ねていた。

 明朝にそちらへ準備して来るように、と言い残してフランベルジェは去っていったからだ。誓って接吻以上のことはしていない。


 それにしても領主家の御家騒動に、自ら飛び込んでいくことになるとは思わなかったが、あの状況でフランベルジェに協力しないのは、愚策に思われた。

 店については、しばらく新規の受注を止めて、後処理をホルンに任せてきた。下手をすると当分は帰ることができなくなるかもしれない。


 今のおれは地味な外套に、革の胸当てを纏った冒険者風の姿である。

 そうしてアーカム市街地の郊外、未開拓地の森に至る手前にある、赤煉瓦の屋敷にやってきた。

 本来領主が住まう市街地を見下ろす丘上の本館とは違い、小ぢんまりとした印象である。とはいえ手入れは行き届いており、二階建ての洋館としては上質のものに思えた。


 獅子頭のドアノッカーを叩くと、山羊の獣人従者が出迎えてくれた。

 リボンタイが朱色のところを見ると、兄のル・ゲーリックだろう。ゲーリックによれば、この屋敷はもともとヴァレンタイン家の書庫のようなものだったのだという。

 

 通された応接間に、アルマ嬢と、紺のタイを締めた弟山羊従者、ル・シャールの姿があった。アルマ嬢は昨日の令嬢風のドレス姿ではなく、簡素なエプロンをつけたメイド服であった。

 おれの姿を認めると、アルマは椅子から飛び降りて、ぺこり、と頭を下げた。


「昨日は失礼をいたしました、フヒト様。急のことで気持ちがいっぱいで。」

「ご安心ください、アルマ嬢。私はすでに事情には通じております。」


 アルマはそれを聞くと、驚いたように口の前に手を当ててみせた。子どもにしてはできた口上だ。貴族の長女の役を演じさせようというのだから、聡い子なのだろう。

 

 おれは手土産の砂糖菓子をシャールに渡し、いくつかをアルマに直接分けてやった。


「私の旧い故郷の菓子で、金平糖というのです。アルマ嬢。」


 アルマは、コンペイトウ、と呟くと、口に入れることなく、掌に乗せた星形の砂糖菓子を転がしていた。

 女性の柔らかな手を、菓子のような、と形容した詩人がいたが、全くだ。素直に愛らしいと称賛したくなる娘だな、完璧じゃないか。


「私にもいただけるかね、フヒトよ。」


 背後からかかった声は、フランベルジェのものだ。

 振り向くと、そこには笑顔の彼女の姿があった。赤いローブを短く詰めて、動きやすく仕立てた装いである。


「もちろんでございます、夫人。」


 商人として対応しようとすると、ゲーリックがそれを押しとどめた。ル兄弟はその場に跪くと、恭しくおれを見上げる。


「フヒト殿、いやフヒト様。すでに我らは運命を共にする身、そのようなお心遣いはご無用です。何より、事が成った暁には、あなた様は奥様と同じく我らの主となられるお方にございます。」


 シャールが言葉を継ぐ。


「僭越ではございますが、申し上げさせていただきます。あなた様が東方宣教軍クルセイドよりお帰りになられる日を、奥様は心よりお待ち申し上げていたのです。それは我らも同じ。セレファイス戦役の英雄に仕えられることは望外の喜びにございます。」


 ル兄弟の忠誠心の告白とともに、さりげなく衝撃のカミングアウトがなされた。考えてみればル兄弟はサーヴル家からフランベルジェの侍従役としてついてきていたな。フランベルジェの心情についても通じているのは納得できる。


「フラン、君は…。」


 ちらとフランベルジェを見れば、顔を背けられてしまった。おれもまさか、こんな話が待っているとは思っていなかった。

 アルマがいじっていた金平糖を掌に握りこんで言った。


「あの、フヒト様。私はどうなっても構わないので、フランベルジェ様を助けてあげてください。」


 いじらしい、それでいて自分の領分を越えたことを言わない。ちょっと完璧すぎて引くぐらい完璧な子どもだな、アルマ嬢。

 おれは嘆息する。どうやら甘受していた「ほどほど」の日常って奴が終わったのだろう。


「約束していた物は持ってきた。『地図』だ。聖都の図書館にも所蔵されてない、正真正銘掛け値なしの≪探索者エクスプローラー≫の地図だよ。」


 おれの言葉に、フランベルジェは安堵の息をつく。

 広げられた真っ白な上質紙には、等高線まで刻まれた精緻な地図が描かれていた。今は亡き勇者の残した遺品レリック)だ。


 ただ歩くだけだが、分身を無限に生み出す≪幻影ファントム≫。

 他者の思念を読み取り、送信する≪思念術サイコメトラー≫。

 想像を実体化させる≪投影者プリンター≫。

 幻影の歩いた経験を、思念で統合し、最高級用紙へと焼き入れた想像を実体化させる。

 

 もはや地図というよりも、三次元映像を強引に航空写真のように写しこんだようなものだ。この世界の技術では再現できない、勇者三人のギフテッドを複合した超常の産物である。


「利用するような真似をしてすまない。計画には、これが必要不可欠なんだ。」


 二度とは開くまいと思っていた商館二階の最奥にある隠し金庫には、勇者の遺品レリックが保管されていた。

 教皇庁によって回収されたものもあったが、おれが今日まで秘匿していた物も多い。


 中央大陸全土をカバーした大地図の一点を指して、フランベルジェが言う。


「ここだ、この位置の詳細な地図が見たい。」

「Nの19だな。」


 数字とアルファベットを組み合わせて区分けされた地図は、何十枚にも分けて大地図から中地図、小地図へと細分化されている。

 フランベルジェはボロボロの手帳を何度も見返しながら、小地図をなぞり、ある一角を睨んでいた。そこには何やら円柱状の塔のようなものが記されている。

 

 うわ言のように呟きを繰り返しながら、彼女は確信したように顔をあげた。


「ティンダロス…実在したのか。いや、していてもらわねば困るのだが。しかし、これで勝算が出てきたよ。この手帳だけでは全く所在地がわからなかった。」


 フランベルジェによれば、ティンダロスはアーカム北部の山奥にかつてあったとされる寒村の名だという。ヴァレンタイン家が統治する以前、そこにあったものは、ティンダロス監獄という私的収容所だった。


「領主が私的に監獄を持つというのは珍しいことではない。実際、現在のアーカム領にも法を犯したものを裁くまで拘置するための獄はある。だが、このティンダロス監獄が特別なのは、教皇庁から収監権を与えられていたということなのだよ。」


 そう言うと、フランベルジェは懐から、一枚の封書を取り出した。

 随分と古い、教皇庁の璽が蝋押しされていた跡がある。黄ばんだ紙の端々が黒く染まっているのは、まさか血ではないだろうか。

 何とも嫌な印象がする。


ベルクの書棚をあらためていたら、こいつが出てきたよ。中身は何だと思う。」


 言うと、『アルマには刺激が強すぎるから』という理由でシャールを伴って退室させた。


「フヒトは霊腑レイフを持っているし、何よりギフテッドに守られているから問題ないが、弱い者には毒だろうからね。」


 ゲーリックはどこからか、銀の箸を持ってきて、それを聖別された水で清めている。フランベルジェは箸を受け取ると、封書の中身を慎重につまみ出した。

 

 それは一見すると黄ばんだ羊皮紙だった。表面には薄っすらと文字らしきものが書かれているものの、判読するのは難しい。

 フランベルジェはペーパーナイフで自身の指先を刺し、羊皮紙に対して血を垂らす。


 粘りを帯びた赤い糸が、ほっそりとした指先を伝い、土色の紙面に降りた。途端に紙の表面が、さざ波を打って血の糸を飲み込んでいく。先ほどまで薄く頼りなかった文字は、今や血色に輝き、浮き出た血管のように脈打っている。


「生きているのか?」


 フランベルジェは首肯した。

 隣に控えるゲーリックが、抑え気味の声で警告する。


「触れる際には、十分にご注意してください。フヒト様なら大丈夫でしょうが、並みの者なら指が腐れ落ちます。」


 ひらひらと掌を振って見せるゲーリックの指先には、血のにじむ包帯が巻かれていた。治療は十分に行ったから大丈夫だ、とはいうが痛々しい。


 おれは慎重に内容を読み進めていく。

 羊皮紙に書かれていたのは『教皇庁はティンダロスの自治を尊重し、その長を行刑吏官に任じ、特別の収監権を与える』旨だった。

 

 フランベルジェは文章の最後を銀箸の先でトントンと叩く。書類の末尾には八代前の教皇猊下の御名が自筆らしく記されている。

 そしてその手前に、不自然な空白があった。


「そもそも収監権とは?」

「元は王政時代に成立していた古い慣習法だよ。端的に言えば、借金が返せなくなった人間を捕まえて監獄に入れてしまう権利だ。こんなふうに明文化されたものは他には見たことがない。どうやら教皇庁はティンダロスの住人に収監権を与え、聖庁の猟犬として使っていた時代があったようだね。」


 闇金ウラシマ君かよ。

 教皇庁直下の異端審問官よりも、よほど世俗寄りの教務である。


「無茶苦茶だな、そんなものどこの領地でも受け入れられないだろう。」

「そうだな。大陸を統一する王権の衰微した今の時代に、こんなものを認める領主がいたら、その領地から住人は一人残らずいなくなる。」


 教皇庁のお墨付き債権回収業者の権利書とは、非常に危険な匂いのする遺物だ。時代に取り残されてカビが生えている上に、数多の人間の血と怨嗟を啜っている。


「問題は、この空白だ。本来は吏官の任を賜るものの名をここに記すのだろうが、なぜか空白になっている。」

「こう、新しく上から書き込めないのか?」


 フランベルジェはゆっくりと頭を振る。


「すでに試したのだがな、その箇所だけ血を吸わないのだよ。聖別した筆では拒絶されるのだが、それ以外のものでは腐れ落ちてしまってな。」

「試してみても?」


 そう言いながら、おれは皮紙に指を近づける。よもや直接触れるとは思っていなかったのか、フランベルジェが息を飲む様子が伝わってきた。

 触れるか触れないかの間際、表面がブルブルと震え波打ちだす。

 

 おれは指を止め、その様子を見守っていた。

 微かな波は次第に盛り上がり、燃え上がる野火のごとく激しさを増していく。皮脂が焼けるような臭気とともに、紙面が受肉し、病的な青さの唇が現れた。


「アア゛イィア゛ア゛…よぐネだでえ゛゛…。」


 金属を掻き毟るような聞くものの正気を削り取る、声とも叫びともつかない響きが発せられた。一言を吐くたびに見え隠れする歯茎からは血と膿が溢れ、腐臭を放つ。

 剥きだしの乱杭歯は、垂れ落ちる青い体液を帯びてぬらぬらと光っている。

 先ほどまで羊皮紙に見えたそれは、今や冒涜的な言葉を発する化け物となっていた。


 叫びを受けて、周囲にいたおれ達の体は反射的に硬直してしまっていた。瞬時に≪健康ヴァイタリティ≫が機能し、耐性が生まれるとともに金縛りが解ける。


「ハら゛がへつだね゛え゛えええええエィエィエエエエエ!!!!」


 喚き声とともに、『口』は噛み合わない上下の歯を勢いよく叩き合わせて威嚇音を鳴らす。ガヂンガヂンと音が鳴るたびに、腐り落ちた歯茎から圧し出された膿が周囲に飛び散り、見るからに高級そうな絨毯を溶かしていく。

 先ほどまで口腔の内に収まっていた舌が伸び、でろり、と口もとを撫でた。


「ぼマエ、うま゛ぞうダダダだ。」


 無いはずの目が、おれを見ている気がした。

 それまで声を発することもできずにいたゲーリックが、短い悲鳴をあげる。彼の視線を追って、おれも気づいてしまった。

 乱杭歯の表面に、無数の目が開いている。貝類の生身をグチャグチャに掻き混ぜたような、濁った目が、ぎょるぎょると忙しなく視線を彷徨わせる。


 その時、部屋の扉を勢い良く開け、シャールが飛び込んできた。


「何事ですか、お嬢様!」


 彼らにとっても、この事態は想定外だったのだろう。だが、タイミングが悪かった。

 『口』は開かれた扉、シャールの陰から覗き込むアルマの姿を認めて、興奮したように威嚇音を激しくする。


「ざきニおま゛えにずる゛よよおおおおおオオオオ!!!!」


 一際大きく叫びをあげると、舌が天井に届くほどの長さにまで伸びた。

 もはや舌というよりも触手と呼んで差し支えない、怪物の手が緩慢な動作でゆらりと宙を薙いだかと思うと、急加速しアルマに向けて殺到した。

 触手の先端は鉄槍の穂先のように鋭く、少女を刺し貫こうとする。その場にいるものは、叫び声に魂を奪われたように硬直し身動きを取れない。


 ただ一人、九頭龍不人おれを除いては。


 唾液に濡れ光る、触手が走る直線上に左手を伸ばす。鋭く尖った舌先が、掌を貫通した。それでも勢いは止まることがない。

 おれは左手を握りこみ、逆の手で舌の根元を押さえ込んだ。怪物の体液に触れた部分から激痛がせり上がってくる。


「ぼ、ぼ、ぼ、ぼま゛えの血血血血、うんま゛゛ヒヒヒヒぃぃぃぃ。」


 手の皮が溶けた時点で、相手の体液に対する免疫が構成された。激痛を堪え、触手の勢いを殺そうと、さらに腕に力を加える。

 だが『口』は勢いを増して喚きをあげる。


「に、に、に゛まひじタ!!!!!」


 舌の根元がぱっくりと割れて、二本目の触手が生えだした。

 二枚舌、二枚舌ってか、この糞野郎。

 触手は血の味に悦びを覚えたようにのたうち、そして、おれの胴体に狙いを定めて二本目の槍が撃ち出された。


「うううううううう゛ん゛まままままいいい『ドグシャっ!!』ぃぃい?」


 肉の弾ける音とともに、『口』の叫びが止んだ。羊皮紙の上、受肉し盛り上がった唇に、銀の棘槌がめり込んでいる。

 その柄を握るのはフランベルジェだ。


 彼女は手を止めることなく、槌を振り上げ、勢いよく振り下ろす。

 振り下ろされた棘槌が、羊皮紙の乗った机ごと叩き潰した。破砕した机の脚が絨毯を破り、床板を突き抜け、怪物は無数の破片に串刺しにされる。

 『口』は、なおも叫びをあげようとするが、フランベルジェは容赦なく槌を振り下ろす。


「私の絨毯を焼いたな。」


 槌を振り下ろす。


「私の侍女を狙ったな。」


 槌を振り下ろす。


「私の、私の…私の!」


 槌を振り下ろす!


「貴様ごときが啜っていい血ではない、それは!私の、だ!」


 槌を!振り下ろす!!


「何年待ったと!思って!いるんだ!」


 槌を振り下ろす。

 槌を振り下ろす、

 槌を振り下ろす、

 槌を振り下ろす、

 槌を振り下ろす、

 槌を振り下ろす、槌を!槌を!槌を!槌を!!


「私のフヒトだ!」


 槌を振り下ろす!!!!


 一際力強い一撃とともに、槌が隕石のごとく床板を粉々に砕き陥没させた。

 静寂、そして窓から差し込む光が舞い上がった埃に反射し、幻想的な雰囲気を作る。

 その光の向こうには槌の柄を両手で突き立て、頬を上気させたフランベルジェの姿があった。






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