トドメオカマシ

紀舟

トドメオカマシ

私がその押しピンの奇妙な性質に気づいたのは偶然だった。

 頭部がプラスチック製で赤く、針が通常より長いそれは、しかし、見た目では何の変哲もなく、買ってからしばらくはその真の性能を知ることはなかった。


 ある日、私はいつものように明日の予定を書いたメモ用紙を、壁に掛けたコルクボードに貼り付けていた。

 携帯電話のあるこのご時世、携帯のスケジュール機能を使えばいいじゃないか、と祐司なんかには言われるけれど、私には画面を開き能動的に自分の未来を確認するよりも、目についた時、受動的に触れるほうが、自分の生活が満たされているようで好きだった。


 10:00~ 知子と待ち合わせ(渋谷)

 18:00~ 祐司と食事(恵比寿)


 祐司との食事の予定を貼ろうとしたその時、一匹の青い蝶が私とコルクボードの間を横切った。

 蝶は予定メモの周りを飛びしきり逃げようとしない。私もそれほど気にならなかったので、そのままピンを押して貼り付けた。

 すると、不思議なことが起こった。

 押しピンの針が蝶の影を縫い止めたのだ。

 蝶は縫い止められた影のことなど気にもとめず、ひらひらと何処かへ飛んで行ってしまった。

 後には蝶の影だけが、針を刺されて残された。

 影は羽根を開いたり閉じたりをその場で繰り返すだけで、飛び立とうとしない。動けないようだった。

 これは影を縫い止めるピンなのかしら。

 私は試しに蝶の影の隣にマグカップを翳し、ピンを押し付けた。マグカップの影は蝶の影と同様にカップの形のまま、そこに留まった。

 私は面白くなって、色々なものを留めた。

 はさみ、鉛筆。ヘッドフォンは少し遠ざけて影を小さくして留める。青色の琉球ガラスのグラスは青い 影が出来、綺麗だった。

 私は香水瓶の影も留めようした。

 キラキラした香水瓶は青いグラスのように綺麗な影が出来るだろうと思ったのだ。

 しかし私はそこで失敗してしまった。

 蓋が緩んでいたのに蓋の部分を持ってしまい、香水瓶が落下したのだ。慌ててキャッチしようとしたが間に合わなかった。

 香水の液体がボードと床に降りかかり、私は前のめりにボードに手をついた。

 ボードに液体のシミが出来、手をついた時にそのシミの中心に押しピンが刺さった。

 私はすぐに雑巾を持ってきて拭いた。床の液体は拭いてすぐに蒸発したが、ボードのシミは拭いてもシミが取れず、いつまでたっても蒸発しないで残っていた。鼻を近づけてみると、香りもフワッと香る。

 シミはやはり何日も残っていた。香りもそのままだった。


 数日後、裕司が家に来た。


 11:00〜 仕事打ち合わせ


「紗季」

 仕事の予定メモを貼ろうとボードの前に立った時、裕司に後ろから抱きしめられた。

「紗季、愛してるよ」

 押しピンを刺す。

「私もよ、裕司」

 その日、裕司は泊まらずに帰って行った。

 夜、寝る前に予定を確認するために、ボードの前に再び立った。

 メモ用紙を撫でる。

 と、何処からか声がした。

「紗季、愛してるよ」

 それは裕司の声だった。

 だが、辺りを見回しても裕司はいない。玄関にも、その外にも誰もいなかった。

 もう一度、メモ用紙の前に立ち、そして、撫でる。

「紗季、愛してるよ」

 それは、昼間のあの言葉だった。

 押しピンが裕司の声、言葉を留めていたのだ。

 私はそこで気がついた。

 この押しピンは影だけではなく、形のないもの全てを刺し留めることができると。

「紗季、愛してるよ」

 私はもう一度、撫でた。



「なんか、声が出にくいんだよね」

「風邪?」

「いや、そういうわけじゃないみたいなんだけど」

 久しぶりに裕司が家に来た。

 ここ数日、誘っても予定が入っているからと言って断られていた。


 14:30〜知子と待ち合わせ(新宿)


「まだ、コルクボードなんか使ってるのか」

 背後から抱きしめられた。

「う、うん」

 抱きしめられたが、今日は愛の言葉はなかった。

 その代わり、知らない花のような香水の香りがした。

 その日も裕司は泊まらず帰って行った。

 玄関で、またね、とお別れをして扉を閉めようとした時、蝶が横たわっているのが目に入った。動かない蝶は何処かで見たことがあるような気がした。そして影がなかった。


 さらに数日たったある日裕司が、話がしたい、と家に来た。

 来たはいいが、私も裕司も何も喋らなかった。

 しかし、私も裕司も何が言いたいか、お互いに分かっていた。

 最近では会えば喧嘩ばかりしていた。理由はあの知らない香水。

 裕司の心は私から離れようとしていた。

 でも、私は裕司を諦めきれなかった。

「裕司、そこに立ってくれる?」

「ここ、か?」

 先に口を開いたのは私だった。

 答えた裕司の声はガサガサとざらついていた。

 コルクボードの前に裕司を立たせる。そして――

「な、にをするんだ!」

 押しピンを振り上げ、裕司の胸を刺した。

 何処かに行ってしまうなら、留めておこう。

 この押しピンは何でも刺して留めておけるのだから。

 影も液体も香りも声も言葉も留めておけるのなら、彼の心も留めておける筈だ。


 テーブルの上のマグカップがその時、音もなく崩れ砂と化した。マグカップには影がなかった。

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トドメオカマシ 紀舟 @highrat01

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