変面
なつのあゆみ
第1話
変面
中華街の喧騒から逃げる。路地裏の隙間にある、中華屋に入り込む。元は赤い看板が煤けている寂れた飯屋だ。隅っこのテーブルを陣取り、もやのような汚れがこびりついたグラスに、酒を注いで飲む。喉を焼くような不味さ。餃子は箸で持ち上げると、二つに割れた。油の味しかしない。
俺は扉に背を向けている。ビニールの破けた丸椅子の座り心地の悪さと、無愛想な中年女の店員は、妙に俺を安心させた。レジの横に飾られた埃っぽい赤いバラの造花や、壁に貼り付けられた黄ばんだ御品書きは、俺のために用意されたように思う。
中年女はカウンター席で頬杖をつき、小さなテレビを見ている。俺の存在など、少しも気にかけていない様子だ。
俺は酒を少しずつ口に含み、ゆっくりと飲み込む。テレビのぼそぼそとした音に耳を傾け、ふう、と息を吐く。何の気なしに溜息をついたのは、久しぶりだった。自分の息の大きさに驚き、コップをテーブルに置く。
中年女の店員は、テレビを見続けている。
溜息ぐらい、ついたって良いのだ。俺しか客のいない、しけた中華屋だ。いくらでも息を吐いていいんだ。
「やぁ、おじさん。随分と暗い顔をしているねぇ。どうしたんだい?」
若者の声が、すぐ傍でした。俺は身構え、横を見た。
若い男がにこにこと笑って、いつの間にか俺の隣に座っている。紺色のカンフー服を着て、平べったいカンフー靴を履いている。
この店の店員か?
いつ、俺の隣に座りやがった。
「ああ、ごめんよ、急に声をかけたりして。おじさんがあんまりにも落ち込んだ様子だからさ、気になって」
男は微笑を消し、俺をじっと眺める。
切れ長の目で、鼻筋が通り、唇の薄い整った顔だ。まだ十代の面影を残した若々しさと、世馴れたような物言いが不釣合いだ。
「いや、構わないが。背中丸めて、昼間から酒浴びてる男に話しかけるとは、酔狂だな」
俺は若者を鼻で笑った。
「うん、そうかもね」
若者は、笑う。
人懐っこい子供のような笑顔に、ふと気を許してしまいそうになる。俺は背筋を伸ばし、若者から少し離れた。
「おじさん、嫌なことがあったんだろう?」
テーブルに肘をつき、俺の方に体を向けて若者は言った。
「ああ、あったさ。毎日、嫌なことばかりだ。だからこうして、飲んでいる。おまえは毎日、若さを持て余して暇なんだろう」
俺は再び背を丸め、若者から目をそらす。
「わかったら、向こうに行ってくれ。俺は一人で飲みたいんだ」
俺はしっし、と若者を追っ払う。
「おじさんこそ、退屈なんだろう」
若者は俺から離れていかなかった。よりいっそう馴れ馴れしい口調で言い、笑い声を上げた。
「なんだと?」
「嫌なことばかりの毎日と、退屈は一緒さ。心がうきうきと浮かれない限り、心は退屈で死んでいってしまうよ、おじさん」
若者を、再び見る。彼は笑わずに、俺をじっと見つめている。頭の裏を見透かされたような、嫌な気持ちになった。
「僕がひとつ、芸を見せてやろう。おじさかんの心をわくわくさせるような、とっておきの奴さ。久しぶりに心臓をドキドキさせてやろう」
若者は歌うように言って、白い歯を見せて笑った。
俺はぐいっと酒を飲みこむ。カッと喉の奥が熱くなった。
「ふん、変な奴だな。小銭をせびりに来た大道芸人か何かか?」
「まあ、そのようなものさ。だけど小銭はいらないよ」
「札の方か?」
「いいや、おじさんが心底驚いた顔、それを頂きたいだけさ」
「ますます変だ」
「うん、変だよ。おじさん、変面って知ってるかい?」
「ああ、あの、顔がころころと変わる芸だな」
「そう。あれをお見せしよう。僕の芸はとびっきり、それは目を見張るものさ。いつもはお金をもらうんだけどね、落ち込んでいるおじさんのため、特別にタダで見せてやろう」
若者はにんまりと笑う。
俺はいささか、気が緩んで酔ったのだろうか。店員の中年女は、俺にも若者にも構わず、テレビを見ている。間近にいる若者の気配がふと遠く感じられた。
「そうか、俺はラッキーだな。見せてもらおうじゃないか」
俺は笑った。干からびた葉っぱをぶちまけたみたいな音がした。
「とくと、ご覧あれ」
若者が、顔を片手で隠す。さっと顔の表面を手でぬぐうような動作をした。手をどけると、さっきとは違う顔になっていた。
のっぺりと整った顔から、眉が太く目がぎょろりと大きい、男の顔になった。輪郭も厳めしく、顎に長い髭が生えている。
ほう、と俺は控えめに驚く。
変面、は仮面を次々と変える芸ではなかったか。大きな目玉には艶があり、広がった毛穴まで生々しい。
二つの目玉が、左右にぎょろぎょろと動く。
その顔は手で覆われ、さっと拭われる。
細面の、麗しい美女になった。桃色の唇で長い睫に光を乗せている。微笑みながら、美女は消える。
次に表われたのは、皺で目が埋もれた老婆だ。にっと笑うと、歯がなかった。けけけ、としゃがれた声で笑い、老婆は消えた。
皺は消えて、凛々しい男の顔となった。映画スターのように力のある目で俺を見る。さっと手でスターはかき消され、あどけない少女の顔となった。くりくりとした目で店内を見渡し、怯えたような顔を俺の記憶に残し、消えた。
若者は顔を手で覆ったまま、動かなくなった。
「さて、次は驚くと思うよ。心して」
若者は言ってから、手をどけた。
つるんと、白い。目も鼻も、口もない。
「ああ、ついにのっぺらぼうか」
俺は呆けて言う。
いっそ何もなくて、きれいだなぁ、と俺はのっぺらぼうを眺めて酒を呑む。
若者はつるんとした肌の、目があるべき場所を、指で撫でた。
切れ長の一つ目が、できた。片方もなでると、もう一対、目が出てきた。小高く鼻が出てきた。唇が出来た。
「忘れるとこだった」
若者は目の上を、すっと撫でた。細い眉毛があっという間に生えて、元の若者の顔に戻った。
ああ、と俺は呟いて顎を撫でる。
「なかなか、すごいじゃないか」
若者に拍手を送ってやった。両の掌を打ち鳴らすのは何十年ぶりかで、ぎこちない拍子だ。
「ふむ、これは金を取る価値があるな。あんた、この芸で随分と稼いでいるんじゃないか?」
ふふふ、と若者は笑って足を組む。
「まあね、ものすごく特訓した甲斐があるほどには。少しは楽しんでもらえた?」
「そうだな、しばし、時間を忘れたよ」
わが身の上をふと忘れ、のっぺらぼうに、感心した。ぼう、と頬のあたりが熱い。鼓動が踊ったのは、悪酔いのせいだけではないようだ。
俺は貧相な語彙で、若者の芸を讃えた。
若者は素直にありがとう、と喜んだ。
「だけどね、一つ、厄介なこともあるよ」
若者は神妙な顔になった。
「元の、自分の顔を忘れそうになってしまうよ」
「そうなのか」
「こうやって元の顔に戻したと思っているけれど、鏡をじぃっと見ているとね、本当にこれであっているのだろうか、と不安になってね。そんな時は、厄介さ」
若者は自分の頬をさすって、言った。
最初見た時の若者の顔と、戻った顔の違いは、俺はわからない。たとえ鼻の位置がずれていても、気付かないだろう。人の記憶は、あやふやだ。目が鋭かったような気がする、口が大きかったような気がする。人相は、記憶の中で書き換えられる。
人を殺した奴ってのは、凶悪な人相であって欲しい。そう願うのが人情ってものだ。
くくく、と俺は気がつけば笑っていた。
「どうしたんだい?」
若者が不思議そうに尋ねてくる。
「いや、そう気にすることはないと思ってね。気にし過ぎちゃいけないよ、あんた。自分の顔はこれだと自分の中で決めちまえば、誰も文句は言わないさ。たとえば君の恋人が、前の方が目が優しかった、なんてことは言うかもしれないがね」
「なるほどね。おじさん、良いこと言うね」
「いいか、顔なんて、どうでもいいのさ。年をとれば顔なんて変わる。あんたは若いからわからないだろうが、顔が変わっていくなんて、たいしたことはない。そのうち、変化に慣れるもんだ」
最初はでも、ぎょっとしたよ。
顔を洗って鏡を見たら、見知らぬ顔がある。
おまえは一体、誰なんだ。俺か、俺なのか。
「そのうち、慣れる、忘れる」
前の顔は覚えていない。その前の顔も。今の顔だって、変えれば忘れてしまうだろう。
「ふーん、そういうもんか」
若者は首をかしげた。俺は彼につられて、首を傾けた。すると血の流れが変わったのか、腹の底でぐらぐらと火鍋を焚いているような熱さを感じた。ぐらぐらぐら。
くくく、と俺は気付けば笑っている。
「かくいう俺も、変面、をしたクチさ」
え、と若者は身を乗り出して俺の顔を見る。
「ここ、皮膚が引きつっているだろう。ヤブだったのさ。整形、俺は何回もしたね」
俺は頬に、指でバツを描いてみせた。
「なんで、何回も整形したの?」
「そりゃあ、秘密さ。人生、色々あるものさ」
ぐらぐらと火鍋が煮えている。思わず、言ってしまいそうになる。秘密は煮えたぎって、あんまりにも熱いんだ。口から出してやりたくなる時が、ある。
「ふーん。おじさん、元はどんな顔だったの?」
「覚えてないね」
「じゃあ、僕が当ててあげよう。こんな顔、だったんでしょ?」
「はぁ、何を言って……」
若者を見る。
にやにや、笑ってやがる。
鋭い目、大きな鼻に赤黒い唇、四角い輪郭。
「久しぶりだな」
そいつは低い声で言った。
「忘れてくれるな、俺の顔を」
俺の声で、そいつは話しかけてくる。
よう、俺じゃないか。気安く答えられはしない。だってこの顔は、凶悪犯だ。女殺しの顔だ。
椅子から転げ落ちる、尻が痛い。くすんだグラスが割れた。店員の中年女が、じろり、と俺を睨んだ。
俺の顔が、俺に、近付いてくる。
額がぶつかってきた。
「よう、俺。顔は消えても罪は消えないぜ」
ぐらぐら燃えていた火は、消えた。火鍋の真っ赤なスープが鍋から零れ出て、女の死体が出てきた。
ああ、こんな所で。ああ、明るみに。
「おじさんの、その心底驚いた顔が見たかったのさ」
若者の勝ち誇った顔で、言った。
終
変面 なつのあゆみ @natunoayumi
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