私は悪いことなど何一つしていないのです

悠井すみれ

私は悪いことなど何一つしていないのです

 何と美しい、雲一つない青空でしょう。

 最後の日にこの晴天に恵まれるとは、神様が私のために天国の門を開けて待ってくださっているのではないでしょうか。

 あら、死を命じられた者が天の国に入るつもりなのかと、驚いていらっしゃいますか。


 この高い塔の上にいてさえ聞こえます。人々の笑い声、陽気な歌や音楽が。何のお祝いでしょうか――などと言うのは白々しいですね。存じております。あの人たちは私が死ぬのが嬉しいのです。

 良き父であり良き母、あるいは国を守る兵士であり地を耕す農夫であるはずの人たち。国王陛下の大切な民であるはずの人たちが、一人の女の死に浮かれ騒ぐとは何と悲しいことでしょうか。


 あの人たちは何も知らないのですから仕方のないこととは思います。あの人たちにとって私は稀代の悪女、大淫婦、災いをもたらす魔女。悪が成敗されると信じているとなれば、あのお祭り騒ぎも無理はないことかもしれません。


 司祭様、あなた様にはこの私はどのように映っているのでしょうか。

 傾国の美女など程遠い、凡庸な女だと意外に思っていらっしゃいますか?

 無害を装うのが手管かと、警戒なさっていらっしゃるのですか?

 神様に仕えるお方には、私の本当の姿が見えるものと信じているのですが。


 闇を恐れる者には、風の音が死霊の叫びに聞こえます。

 夜を恐れる者には、蝋燭の火に踊る影が悪魔の手招きに見えます。

 私を恐れる方々は、実際にないものを私の中に見出して恐れているのです。自分自身が作り出したものだなどとは気付かずに。


 心を落ち着けて考えてください。

 私が真実謀に長けて狡猾な女ならば、このような境遇に陥る前にどこか遠国へ逃れているはずではありませんか。

 私が真実悪魔か邪神か、なにか忌まわしいものと取引をして怪しい術を行うならば、鴉か蝙蝠にでも化身してここから逃れているはずではありませんか。


 ですが、司祭様。現実の私はあなた様のお目に映る通りの女です。か弱く愚かな、けれど真っ直ぐな女です。正直に申し上げて、私はなぜこのようなことになったか分かりません。


 私は悪いことなど何一つしていないのです。


 ですから、司祭様。これから申し上げるのは決して罪の告白などではございません。

 私という哀れで無力な女、反逆者として無辜の罪を着せられた女が本当は何を考えていたかを聞いていただきたいのです。




 私が生まれたのは、豊かな森と美しい湖を臨む片田舎です。

 実家はさして裕福ではありませんでしたが、両親は私を慈しんでくれました。

 父母が教えてくれた人を疑わないこと、欺かないこと、偽らないことなどは――短いものではありますが――生涯を通して私の信条となっております。


 娘時代は男の子に混じって遊ぶのが好きで、よく髪を乱したりドレスを汚したりして叱られたものです。このそばかすは、帽子もかぶらず乗馬や釣り――信じていただけますか? これでも魚を捌くことができますのよ――に興じていたからです。


 宝石の代わりに野の花を摘んで髪に飾り、宝物といえば鳥の羽や川で拾った光る石。

 そんな跳ね返りが地位も名誉もある夫に望まれて嫁ぎ、後には陛下のお目にまで留まったのは、身に余る僥倖でございます。それは、私の――何と言いますか――田舎娘の純朴さのようなものが、嘘に満ちた世界に疲れた方々に好ましく映ったのではないか、と思っております。


 ですが、思い返せばこの僥倖こそが破滅のきっかけだったのかもしれません。


 成り上がり者はとかく人目を引きがちなもの。まして私はこのように頭も見目も十人並み、少しばかりの正直だけを美徳とする女です。

 美貌や教養、家柄を備え我こそはと思う方々にとっては、この程度の者が夫や陛下のお心を射止めるのが目障りでしかたなかったようでございます。


 ただ心のままに振舞っているだけでございます、と申し上げても、そういった方々はついに納得してくださいませんでした。

 それどころか、何か怪しげな術を使ったのだと言われる始末。思うに、魔女などという悪名はこの辺りから付けられたのかもしれません。


 嘘をつけない質だということも災いしてしまったようでした。

 他の方のように、どなたにも同じように微笑みかけたりですとか、心にもないお世辞をするりと述べたりといったことが、私にはどうしてもできなかったのです。

 たまに本当のお友達になれた方とは気を置かないお付き合いができるのですけど、それがまた人によって態度を変える、などと言われてしまって。


 ――最初は、そんなありきたりな嫉妬や誤解から始まったのです。




 人の敵意を買っていると身にしみて感じたのは、やはり夫が亡くなった時です。

 司祭様もお聞き及びでしょうか。そうですか、あの噂は俗世を離れた修道院にまで広がっているのですね。


 陛下が私を手に入れるために敢えて夫を死地に送ったのだと。そしてそれを唆したのがこの私だと。


 恐ろしい邪推です。ひどい言いがかりです。

 夫は陛下のご信頼篤い腹心でした。だからこそ危険な任務を仰せつかったのです。そして私は、夫を愛していました。必ず帰ってきてくれると信じていたからこそ夫を送り出したのです。


 あの噂は、夫を失くした悲しみにも増して私の心を引き裂きました。何よりも辛かったのは、噂を言い立てた方の中に夫の母がいたことです。

 憎むだなんてとんでもない。息子を亡くした悲しみを、最も手近な嫁にぶつける他なかったお義母様。そのご心痛はいかばかりだったでしょうか。

 ただ、私も愛する夫を失った悲しみに耐えていたのだと、ほんの少しで良いから思い至ってくださっていたら、あのようなことにはならなかったのではないかと思うと、無念でならないのです。


 これもきっとご存知なのでしょうね。お義母様やあまりに声の大きかった何人かは罪に問われました。夫に対する陛下のご信頼をも侮辱したことになるのですから。悲しいことではありますが申し開きのできないことです。

 陛下にとっても辛いご決断だったでしょうに、私を気遣って気に病まなくても良いと仰ってくださいました。あの方は、本当に優しい方なのです。


 お義母様の頑ななお心を溶かすことは、今となってはできません。私が願ってやまないのは、あの時に戻ること。そして、共に悲しむ道があったなら、と思うのです。




 それでは何故、夫の喪も明けないうちに陛下のお手を取ったか、でしょうか?

 司祭様のように厳しい戒律の世界に生きる方には人の心の機微というものがお分かりにならないのでしょうか。


 私は愛する夫を、陛下は頼りにしていた腹心を失い、心にぽっかりと穴が空いたような状態でした。同じ殿方を惜しむ者同士、傷を塞ぐために慰め合うのは自然の理というものではないでしょうか。

 世間には眉を顰める方もいる関係だということは弁えております。ですが、人の世の則というものは、心を殺してまでも守らなければならないのでしょうか。愛とは何よりも尊いものではないのですか。折れそうな心に寄り添い支えるのは、神の教えも奨励するところではありませんか。


 確かに、時に臣下は主君を諫めなければならないもの。地位や財産、時には命を賭けて諫言を行った忠臣の名は、歴史に刻まれて決して忘れられて良いものではございません。

 ですが、私は一介の女に過ぎません。法や経済を語れる訳でもなく、読書といえばお伽話がせいぜい。そもそも女とは男に劣るものだと、常に父の夫の息子の導きに従うべきと説教なさっているのは司祭様方ではありませんか。

 国民全ての父とも言うべき陛下に対して、私から申し上げることなどあろうはずがございません。




 世間の方々が、なぜ私のことを非常に悪賢く抜け目無い女のように思っていらっしゃるのか、全く当惑するばかりでございます。


 とある男爵様が私にくださった宝石は、実は恐れ多くも国のお金を横領して贖われたものだそうです。それどころか、不正を唆したのがこの私だと言われているそうです。そのお方の財産で賄える質のものでないのは誰の目にも明らかだ、というのがその根拠だとか。


 誓って申し上げますが、そのような由来のものと知っていたら私は絶対に受け取ることはいたしませんでした。

 私は他所様の台所事情を詮索したり、贈り物の値段を推し量ったりすることは卑しいことだと教わって参りましたが、違うというのでしょうか。昨今では裏の裏まで考えなくては贈り物を受け取ることもできないのでしょうか。

 このような非難を耳にすると、自分が物知らずなのが恥ずかしいのか、世間擦れしていないのを誇れば良いのか、何とも言えない気持ちになります。


 私の言葉によって無実の人が断罪されたと言われたこともあります。憂国の士を、讒言によって陥れたと。


 これもまた、いわれのないことと申し上げるしかありません。

 私は陛下を愛しております。国のためにならないことに手を染めるはずがないではありませんか。

 もちろん、陛下への伝言をお預かりしたことは何度もございます。どの方も真剣な表情で、必ず陛下にお伝えして欲しいと仰ったので、お力になりたいと思ったのです。何故その中に嘘偽りがあるなどと思うのでしょうか? 人を疑うのはいけないことですのに。


 仮に私がお伝えしたことの中に悪い企みがあったとしても、取り持っただけの私に何の罪があるというのでしょうか。悪いのはそれを目論んだ方ではありませんか。何より、陛下ですら見抜けなかったことを、どうして私が看破することができるでしょうか。


 何度も申し上げますように、私は愚かな女に過ぎません。言葉には裏表などありませんし、人を騙す器用さなど生来持ち合わせておりません。

 政治に口を出すなど恐ろしくて考えることもできません。陛下に命じられたとしても、どうかお許しくださいと伏して懇願する他ございません。そんなことができる女性がいるとしたら、王妃様くらいに違いありません。




 あまりにも多くの人が信じていることとは違って、私は王妃様に取って変わろうなどと企んだことはございません。まして陛下にねだるなどもってのほかです。

 美しく賢い方。気高く強い方。隣国からいらっしゃったとはいえ、今では――お子様のいらっしゃらない方には適当ではないかもしれませんが――この国の国母と呼ばれる方ではありませんか。どうして取るに足らないこの身を引き比べることができましょう。


 何もご存知ない王妃様を嘲笑っていた、などと言われるのも私の本心ではなく、大変に心苦しいことです。


 私は恐ろしかっただけなのです。王妃様は慈悲深く寛容なお方とはうかがっておりましたが、お国は剛健をもって是とする尚武のお国柄。その国の王女としてお生まれになった方が、私のような立場の者をどのように扱われるか。不安でたまらなかったのです。だから時を見て紹介するから、という陛下のお言葉に縋ってしまっただけなのです。


 やっと王妃様に打ち明けようと心が決まったのは、陛下との愛の証がこの身に宿っているのに気付いてからでした。

 日を追うごとに大きくなるお腹を見るにつけ、子供に不自由な思いをさせてはならないと強く感じたのです。


 それに、恐れ多いことですが、王妃様も私も同じ殿方を愛した女同士。私は憎まれても仕方ありませんが、お腹の子は陛下の子でもあるのです。決して酷いことはなさらないだろうと信じて、王妃様の前にひれ伏したのです。


 私は真実だけを述べております、司祭様。王妃様を悪く思う気持ちなど欠片もございません。今この時に至っても、です。陛下と王妃様は神の前で誓った正式なご夫婦ではございませんか。私が割って入る隙などございません。


 私には何故王妃様がお怒りになりお嘆きになったか分からないのです。お世継ぎを授からないことをお気に病んでいらしたと伺っていたものですから、喜んでいただけるものと思っておりましたのに。


 あれほどのお方でも嫉妬からは逃れられないということなのでしょうか。




 それからの王妃様のなさりようは、私などが言うのはおこがましいことではございますが、少々――あの、本当に恐れ多いのですが、度を越していました。


 身重の私を幽閉し、陛下とのお目通りも叶わなくなりました。

 出産の時も周りを囲んでいたのは馴染みのない方たちばかり。陣痛の痛みに朦朧としながらこのまま陛下にお会いできず死んでしまうのだろうか、と涙が頬を伝ったのを覚えています。

 めでたく男の子を産み落としたから良いようなものの、陛下にお見せできたのはずっと後になってからでした。ずっと気にかけていたとのお言葉に、今度は喜びの涙が流れたものです。


 王妃様は殿方よりも殿方らしいと言われるような、万事に秀でた厳しい方。お子様もいらっしゃらないことですし、母の情、親子の情といったものに疎くていらっしゃるのでしょう。それをお恨みする気持ちはございません。


 死を前にした告白には嘘は許されませんから敢えて申し上げるのですが、陛下は一再ならず王妃様が冷たい、完璧過ぎて怖いと仰いました。

 思えば私などに目をかけてくださったのも、王妃様のようでないというところがお気に召したのではないかと思うのです。何度も申し上げた通り私は無知なものですから、陛下に口答えしたり意見したりすることなどついぞありませんでしたから。


 いいえ、いいえ。王妃様こそ陛下の伴侶に相応しいお方なのは間違いございません。私にはお勤めのことで陛下をお助けすることはできませんもの。ですが、陛下が私をお求めになったのもまた事実。

 王妃様がご公務の支えとなり、私がお疲れを癒して慰めをお与えする、ということができれば、とても美しいあり方ではなかったのだろうかと思います。

 もし王妃様が今少し落ち着いてお考えになれば、私が陛下のお傍にいることをきっと許してくださっただろうと思うと、賢いお方ならではのご決断の早さが、今回ばかりは災いしてしまったのではないでしょうか。


 そう、王妃様はご実家に、今は隣国の王として即位なさった兄上様にご報告なさいました。


 陛下だけでなく、宰相様や大臣様方、お偉い方々が難しい顔をなさっていたのを思い出します。


 一度嫁いだ身として、軽々しくご実家を頼りになさるのは全ての妻と母の規範であるべき王妃様にはあるまじきことなのではないのでしょうか。陛下を責め立てる前に、ご自身に足りないところがなかったか省みることが必要だったのではないでしょうか。

 賢妃として名を残すはずだったお方のご浅慮を、何よりも王妃様のために痛ましく思います。




 妹君のお見舞いと称して、王妃様の兄上様は我が国にいらっしゃいました。地を埋め尽くすほどの軍勢を引き連れて。


 私にも察することができました。兄上様も私にお怒りになっている、私を懲らしめに来たのだと。

 いえ、正確には人からそのように教えられたのですが。世間で私が恐ろしく邪悪な魔女のように言われていることを知ったのも、この頃です。


 陛下の名誉のために申し上げますと、陛下は私に何も心配いらない、必ず守ると仰ってくださいました。苦しいお立場にありながらも私を気遣ってくださる心強いお言葉に、言い尽くせぬほどの感謝を覚えたものです。


 そうです、心無い人たちは陛下が私をお見捨てになったなどと言いますが、そのようなことは決してありませんでした。

 私が都を離れたのは、追放されたからではありません。周囲の全てを敵に囲まれ、戦いも辞さぬと仰りながら憔悴していかれる陛下を見かねたのです。自分のために愛する人がやつれていくのを何もせずに見ているだけなど、どうしてできましょうか。


 だから、息子をつれて海の向こうの国に落ちようと考えたのです。二人で新しい土地で、陛下の面影を胸に生きようと。

 思い返せば、短い夢でございましたが。

 私たちが乗っていた船は、港を出ることもなく取り押さえられました。


 そこからは、公の記録にも残ることですので、わざわざ申し上げることでもございますまい。

 陛下との一瞬の再会。冷たいお顔の王妃様と兄上様。短い、形ばかりの裁判。


 そして、私は死刑を申し渡されました。


 王家の血を引く子を異国に連れ出そうとしたことが反逆なのだということです。

 このような判決を受けたこと自体が、まだ王妃様が――申し上げ辛いことですが――常とは違うお心持ちであることの証左のように思えます。

 私生児を世継ぎにしたりはしない、そもそも王のお子かわからないなどと激昂されたのは王妃様ご自身ですのに。




 ともあれ、これで私の物語はほぼおしまいです。あとは今日という日を残すのみ。


 思いのほか冷静だと、驚いていらっしゃるようですね。

 ――笑ったりして申し訳ありません。狂っている訳でも、自棄になっている訳でもありませんのよ。


 最初に申し上げた通り、私は悪いことなど何一つしていないのです。

 偽ることも欺くこともなく、心のままに生きて愛してきただけ。


 息子と引き離され、この塔に閉じ込められて涙したこともありました。また、世間に誤解され罵られるのは辛く悲しいことです。

 ですが、どうすれば良かったのか、と考えた時、仮面のような微笑みで心を鎧い、へつらいを盾に、偽りを剣にして生きるのはどれだけ虚しいものだろうか、と思い至りました。

 そして、良心を貫いた私の人生は、素晴らしく誇らしく、充実したものだったと悟ったのです。


 息子についても、信頼できる方の元で養育していただけると伺いました。この上望むことなどございません。


 少なくとも司祭様には私の真実をお伝えすることができました。いつか世間に知られる日も来るでしょう。


 今となっては気にかかるのは王妃様のことだけです。


 陛下から私を、愛する者を奪ったあのお方を、陛下は許して差し上げるのでしょうか。

 あのように取り乱した振る舞いをなさったからには王妃様も陛下を愛していらっしゃるとお察し申し上げるのですが、陛下に受け入れていただけるのでしょうか。

 人の心は理屈だけではままならぬものと、いつか気付いていただければ良いのですが。


 まあ、司祭様を遣わされたのは王妃様なのですか。私の最後の言葉をお聞きになりたいと仰ったと? そうですか、それは最後に嬉しいことを聞くことができました。

 だって、王妃様は死にゆく者を嘲り鞭打つようなお方ではいらっしゃいませんもの。きっと私への仕打ちを悔やみ憐れむお心が芽生えたということなのでしょう。


 愛と真に生きた私の生涯が、どうかあのお方の糧になりますように。


 それでは、どうか王妃様によろしく申し伝えてくださいますようお願い申し上げます。

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