零に戻る
白石令
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目の前にあるのは、一つの円だ。
まるい、まあるい、輪っか。
それは、それだけならば本当にただそれだけの、無機質な円環でしかない。棒でも突っ込めば容易く貫通するし、同じ輪を引っ掛けて連環させることもできる。輪投げにも使えるかもしれない。どちらにしろ意味はないが。
この輪に意味を持たせるには、何かを嵌めなければならない。そう、たとえば――
私の肉とか。
目の前にあるのは、一つの円だ。
まるい、まあるい、輪っか。
覗きこめば過去の情景が浮かび上がってくる気がする。もちろん錯覚だ。輪の中には何もない。ただただ向こう側の景色がその空洞から見えるだけだ。
だからこれは、私の感傷が引き起こす幻覚に過ぎない。
この輪を軽く、軽く自分に引っ掛けるだけで、あまりにもあっけなく事は済んでしまう。引き返すつもりはない。ならば多少センチメンタルになったところで、誰も咎めはしないだろう。
――思えば、私の人生はことごとく針がずれていた。
何の針か。幸運だ。
私が八歳の時、母は他に男を作って出ていった。
それからは父と二人きり、四苦八苦しながら生活してきた。片親だということで軽い差別やいじめを受けたこともある。
帰宅すれば料理、洗濯、掃除。加えて学校の勉強。放課後に友達と遊ぶ暇などあるわけがなく、やれスーパーのセールだ、短期バイトだと、高校生になっても青春そっちのけで、生きていくのに必死だった。
この頃は本当に私も周りが見えておらず、結果、クラスの大半の女子から無視される結果となってしまった。付き合いが悪い、悲劇のヒロイン気取り、男に媚びてる、等々。ひどい言われようだが、確かに当時人付き合いは下手だった。なんの苦労もなく、友達としゃべるために学校へ通っているようなクラスメイト達を羨み、見下していたところもあったかもしれない。
高校の三年間は苦痛で仕方がなかった。
それでも何とか成績上位をキープし、奨学金を利用して大学まで通えそうだったのだ。大学へ行って、できるだけいい会社へ入って、父に楽をさせたかった。
しかし、合格通知が届いた直後、その父が突然体を壊して入院。私はやむなく就職した。
予定は狂ったが、ともあれやっと息詰まる高校生活から解放される。そう思った。
ところがどっこい、その就職先が最悪だった。
いや、就職先というよりも、そこにいた人間が。
私は高校時代で学んでいた。笑顔を忘れず、人の話を聞き、決して拒絶せず、うまく人間関係を築いていくべきだと。
それが仇となった。
上司がストーカーになったのである。
さりげないボディタッチから始まり、私の退社時間、出社時間に待ち伏せ。休みの日は家の前までやってきてデートの誘い。一日に何十通もメール。しかも自殺をほのめかすような内容まで混じっていて対応に苦慮した。さらに職場では有能かつ人の好い上司で通っているから、下手に会社の人間に相談もできない。
私は転職した。
それでもストーカー行為はしばらく続き、直接的な接触はないものの、後をつけられたり卑猥な言葉を羅列した手紙を投函されたり、ある時などは私の一日の行動を詳細に記録したメールを送りつけられて、さすがに警察へ駆け込んだ。四十過ぎたおっさんが「彼女と僕はあいしあっているんだあああ」などと泣き喚く姿は今でも忘れられない。
記憶をほじくればもっと色々出てくる。
滅多に体調など崩さないのに、大きなプロジェクトが関わる重要な日によりによってインフルエンザに
どうしても外せないプライベートな用事と、どうしても後に回せない大事な仕事が重なり、後者を優先して恋人にふられる。
なかなか都合がつかず、念願叶って観に行けることになったとあるライブは、狙ったように豪雨で中止。
友人と食事に行けば私だけあたる。
おみくじを引けば必ず凶か大凶。
そういえば学校の球技大会などでは、観戦していると毎回私の頭へボールが飛んできた。
――そして極めつけが、婚約間近での破局である。
普通に進んでいれば、幸せの代名詞とも言える結婚が待っているはずだった。
何が悪かったのか。タイミングだろう。
当時彼は仕事が忙しく、なかなか会えずにいた。メールも電話もすれ違い気味で、おそらく互いに不安を抱えていた時期だったと思う。
そんな時、彼から『大事な話がある』と連絡が来た。いや、来ていた。私はそれに気づかなかった。運悪く携帯の電池が切れていたのだ。
さらに不運が重なった。父が吐血し倒れたと連絡が入ったのである。携帯の電源がついたとたんもたらされた報せに、私は動転し、彼からの留守電もメールも確認しなかった。
幸い父は胃潰瘍で、さほど深刻な状態ではなかったのだが……
そのタイミングのずれが、決定的な亀裂を生んだ。
彼は多分、プロポーズをするつもりだったのだろう。
状況を説明して謝罪し、納得はしてもらったものの、おそらくその時、辛うじて繋がっていた私達の糸は、完全に断絶してしまったのだ。
別れを告げられたのは四日後だった。
――どうして人というのは、悪い思い出ばかりを引き出しの浅い部分に仕舞いこむのだろう。
ひどく不幸な境遇だったわけではない。
けれど私は、私の人生の針は、必ず微妙に狂っていた。
それに気づいた瞬間、深い徒労感に襲われたのを覚えている。
目の前にあるのは、一つの円だ。
まるい、まあるい、輪っか。
多分私にぴったりと嵌まる、冷たい円環。
――父は泣くだろうか。
いや、きっと厄介者がいなくなったと笑うだろう。
この輪が私の肉に食い込めば、きっと私の狂っていた針は戻るのだ。くるりと逆さまに一周して。
だから私は――
「――ねえ」
「……ん?」
呼びかけられて、私は顔を上げた。
「いつまでも見てないで、嵌めてみせてくれないかな」
「ごめんごめん、何だか感慨深いなぁって思っちゃって」
私は笑って、その小さな輪を左手の薬指に嵌めた。
彼が眩しげに目を細める。照れているのか、少し頬が赤かった。
「ありがとね、今まで」
「何? 婚約指輪を受け取っておいて別れ話?」
私は彼の軽口に噴き出した。
「違うよ。私がふられて。なんかどうしようもないくらいグダグダな時にさ、支えてくれたでしょ」
「下心があったからね」
捻くれた言葉は彼なりの照れ隠しだ。素直じゃない。私の父と同じである。
だから私は、笑顔で左手を掲げた。
「それでも。まだまだいけるーって思ったの」
太陽の光を反射してきらめく緑色の石。銀色の輪。それだけなら何の意味もない、ただ高価なだけの物体。
彼が贈り、私に嵌まって初めて意味が生まれる。
「私、君の運吸い取っちゃうかも」
「大丈夫。俺は昔から大吉しか引いたことがない。丁度いい具合になると思うよ」
目の前にあるのは、一つの円だ。
まるい、まあるい、輪っか。
それは、今この瞬間の感情を、誓いを、この先思い出していくための円環。
不幸。不運。山や谷。雨も嵐もなんのその。また針が乱れたとしても、彼とともに進めていこう。
何度でも――この
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