3.憎しみが生む、


 事務所に行った翌日も、その翌日も、別段変わったことは何一つなかった。

 強いて言えば、お風呂でまた肩の痣を確認したら今度は蜘蛛の痣の上に薄く蝶の痣が重なっていたくらい。たぶん、雨桐さんがかけた蝶々の呪いのだ。なんだかヤクザの人みたいだなぁ。

 時折その肩が痛む以外は、本当に例の事件のあった前と変わらない。いつもどおりに学校へ行って、帰るだけ。

 私がそうやって普通に過ごしている間にも、雨桐さんはあの人鬼蜘蛛という怪物を探したり、戦ったりしているのだろうか。こうして日々を過ごしていると、私は何もしなくてもいいのだろうかと思う。ただ、待っているだけじゃあなんだか申し訳がないような気がして。

 そうは思っても私に出来ることなんてないのだけど。

 そして、あれから一週間が過ぎた。


 やはり私はいつものように食堂にお昼ご飯を食べにきていた。エビフライ定食と、その脇に並ぶカツ丼とカレーライス。うん、美味しそうだ。最近金欠だからちょっと少なめだけど。


 「よし、いただきま……」

 「もえ! もえー!」


 まずは一口とエビフライに箸をつけようとしたところで、友人の呼ぶ声がそれを止める。

 昼時で込み合う食堂の中、真っ直ぐに私に向かってくるロングヘアーの女の子。大野美弥おおのみやだ。私と同じく奈河原出身だけど、田舎っぽくなくて今時の女の子って感じ。小学校の時から仲が良かったけれど、高校に入ってから垢抜けたなぁと思ったのは記憶に新しい。

 ちなみにこの前五ヶ月連れ添った彼氏と破局した友人とは彼女のことである。


 「うわっ、アンタ相変わらずよく食べるね」

 「いつもより少ないよ」

 「十分多いっつーの……。よく太らないねホント。体重計気にしてる世の中の女の子の身にもなれっての」


 呆れながらもダイエットの過酷さを語り始める美弥。そんなこと言われてもいつもこんな感じだし、体重増えないのも昔からだから仕方ないと思うんだけど。

 というか美弥は私に何か言いたいことがあったんじゃないのだろうか。


 「えーっと……何かあったんじゃないの、美弥」


 とりあえず、本題を聞くことにする。このままでは美弥のひとりダイエット談義で昼休みが終わってしまう。


 「あ、そうそう! それがね、聞いてよー!」


 彼女は私の隣に腰掛けると、それはもう楽しそうに嬉しそうに話し始めた。うん、美弥お得意のマシンガントークの予感。

 それから私がご飯を食べ終わるまでずっと彼女の話は続いていたわけだが……まあ要するに話を纏めると、紆余曲折あって一週間のうちに件の彼氏とよりを戻したらしい。

 今回の痴情のもつれの原因は彼氏の浮気だったそうだ。浮気が発覚して当然美弥はマジギレ、彼氏に別れを一方的に切り出したのが一週間前のこと。しかしこの一週間で彼氏の人は浮気相手を振ったのち、美弥に平謝り。美弥の方もなんだかんだでまだ彼のことが好きだったらしく、つい昨日よりを戻したという。

 私も色々大変だったけど、美弥の周りも大変だったんだなぁ。色んな意味で。

 そしてその後は昼休みが終わるまで延々と美弥の惚気トークに付き合わされる羽目になる。私は食堂のおばちゃんが余ったから、と分けてくれた菓子パンをかじりながら、色んなことが相変わらずだなぁなんてぼんやりと思った。


 美弥のマシンガントークを聞き終え、授業の十分前に私はトイレに向かった。

 用を足し終えた私は、トイレに溜まって話している二人の女性との噂話をなんとはなしに聞き流していた。が、その噂話の中によく聞く名前が登場して私はなんとなくその噂話を聞いてみることにした。


 「そういえば美弥って、この前彼氏と別れたんでしょ。彼氏の浮気が原因で」

 「あー、アレでしょ。他校の久賀くん。でも、なんだかんだでより戻したらしいよ」

 「マジで? あたし浮気とかされたらもう絶対無理だわ。しかも浮気相手ってウチの高校の子なんでしょ?」

 「そうそう。なんだっけ、三坂衿奈みさかえりな? っていったかな。いっこ下。しかも美弥の部活の後輩」


 美弥はテニス部に所属している。それも、夏で三年生が引退してからは部長も勤めている。部内で部長中心の痴情のもつれかぁ……私にはとんと縁のない話だ。


 「ドロドロじゃん。昼ドラ~」

 「しかもその三坂って子、最近学校来てないらしいよ」

 「うわ、ガチじゃん」


 そんな噂話をしながら、女生徒たちはトイレを出て行った。間もなく始業チャイムも鳴り、私も慌ててトイレを出た。

 美弥と、三坂という後輩の痴情のもつれ。美弥は彼氏さん……久賀くんの話ばっかりしてたけどそんなことがあったのか。

 恋愛って大変だなぁ。


 *


 ふと外を見てみると、空が赤く染まっていた。

 このところは件の事件もあったので早く帰るように心がけていたのだが、委員会の仕事に捕まってしまった。

 私は図書委員会に所属している。図書委員は毎月末蔵書の点検と書架の整理に駆り出されるのだが、それが今日だった。

 数人がかりとはいえ、数ある蔵書を点検、整理するのは骨も折れるし時間もかかる。まだ全て終わっていないが、委員長の号令でまた明日の放課後に集まろうということになった。

 時間も時間だ。地味で面倒な責務から解放された委員たちは足早に昇降口へ向かう。

 私もその流れについていこうと思ったところで、ふと美弥に借りていたCDを返すのを忘れていたのを思い出す。


 「この時間ならギリギリいるかな……」


 美弥は部長ということもあり、部室の戸締り確認や鍵の返却などの仕事で他の部員よりも帰りが遅い。

 早く帰ってしまいたいけれど、この前からずっと借りっぱなしだったし早く返してしまいたい。

 雨桐さんは鬼は夕暮れ時から活動を始めるといっていたけど、人がいっぱいいる場所には鬼は寄り付かないとも言っていた。

 出ませんように、と頭の中で願いながら私はテニス部の部室を目指した。


 テニス部の部室は、体育館手前の運動部の部室棟の一角にある。

 そこへ向かっていたところ、廊下の向こう側に人影が見えた。背格好や雰囲気からして、たぶん美弥に間違いない。

 向こうも私に気がついたのか、もえー! と私を呼びながら手を振ってきた。


 「もえ、どうしたの? こっちに用事?」

 「こっちにっていうか、美弥に」

 「あたし?」

 「CD借りっぱだったから」


 言いながらCDを差し出す。


 「あー! なんだっけ、半年くらい前に貸したやつだよねコレ」

 「その節はすいませんでした……その、すっかり忘れてて……あはは」

 「コノヤロー、お詫びに奢れよ~」

 「やだよ、金欠だもん」


 そんな風にだべりながら、夕暮れの校舎を歩く。そういえば、美弥と帰りが一緒になるのは珍しい。私は帰宅部だから大抵すぐに家に帰ってしまうし、美弥は部活でいつも遅いからだ。この前ファミレスに溜まっていたときは、私が図書館でレポートを書いていて帰りが遅くなってたまたま会ったんだけど。

 小学校や中学校のときは毎日一緒に帰っていたんだけどな。

 昔を懐かしみながら最近のテレビの話や学校の話で盛り上がっていると、間もなく昇降口に着いた。

 各々の下駄箱に向かい、校舎を出ようとしたその時だった。


 「……もえ、下駄箱に何かついてない? 白い糸みたいなの……」


 背筋に氷が押し当てられた気分になった。

 下駄箱と下駄箱の間に、まるで通行止めするように張られた白い糸。それは、約一週間前に私が捕まったものと同じように見えた。否、同じものだ。


 「なにこれ、キモいんだけど……。っていうか、通れなくないコレ?」


 確信に近い、嫌な予感。この校舎に、人鬼蜘蛛がいる。

 とにかく外に出てしまわないと。私たちを狙っているのか、それとも校舎に残っている人みんなを狙っているのかは分からないけれど、校舎の中にいるのはまずい気がする。

 人が多いのを嫌うみたいだから、とりあえず町まで出てしまおう。


 「美弥、体育館の方の出口から出よう。運動靴も置いてあるし」

 「え、ああ、うん」

 「急ごう。なんか、嫌な感じがする」


 いつになく真剣な私に気圧されたのか、美弥は少し戸惑っていた。けれどそれを気にしている暇はない。

 体育館へ向かって走り出す。一秒でも早く、ここを出なきゃ……!


 「もえ、ちょっとアンタ速いって。確かにアレキモかったけど、そんなに急がなくてもいいんじゃない?」

 「いいから!」


 体育館まで、あとちょっと。

 部室棟まで来て、私はようやく歩調を緩めた。ここまでくれば、出口はあと少し。

 少しだけ安堵した、その矢先だった。


 「……!」


 ぎちぎちぎち、と不快な音を、耳が拾う。嘘だ、どこから……?


 「やだ、何、アレ……」


 震えた声で、美弥が呟く。彼女の指差すのは、他の棟よりも少し高い天井。少し、肩の疼痛が蘇った気がした。


 「人鬼蜘蛛だ……!」


 嫌な予感が当たってしまったのだ。天井にいたのは、この前のよりも一回りくらい小さい人鬼蜘蛛。

 けど、この前よりもずっとおぞましい見た目をしている。

 明るくないので細部は見えないが、この前の人鬼蜘蛛の一つ目があった場所に人の首と思しきものがついていた。その首の真下に、おそらくあの乱杭歯の並ぶ口腔がある。胴体は蜘蛛のままで手足は蜘蛛のそれではなく、全てが人の腕。

 中途半端に人間に近い分、より一層グロテスクだ。

 横目で美弥を見ると、恐怖で足が竦んで動けないという感じだった。無理はない。私も、怖い。でも、逃げないと。

 昇降口は塞がれた。コイツが道を塞いでいる以上、体育館側の出口からも出られない。では、職員玄関ならどうか。一階の窓からでもいい。とにかく、動かなければ―――


 「行こう、美弥!」

 「……サ、ナイ……オ、ォ……ノ……!」


 動かない美弥の手を掴み、駆け出した瞬間美弥がいたところに向かって白い糸の塊が吐き出されていた。あれに捕まったら、何をどうしても逃げられない。

 自分の出せる全速力で走り出す。これでも中学時代は陸上をしていたから脚に自身はある。


 「もえっ! な、なんなの、あのキモいの!?」

 「私にもよく分からない! けど、ヤバいのは絶対!」


 パニックに陥りかけている美弥にアレが何かを説明しても無駄だろう。少しだけ振り返ると、アイツはあまり足が速くないのか追いついてきてはいないようだった。

 ……それにしても、さっきあの人鬼蜘蛛……“オオノ”って言わなかっただろうか。オオノ、大野……大野、美弥。

 いいや、今は考えている場合じゃない。

 校舎に二つある階段のうちの、職員玄関側に近い階段に向かう。しかし、降り階段にはあの白い糸が張られていた。


 「くそっ……!」

 「どうすんの、もえ!?」


 遠いけどもう一個の階段から行くしかない。そう思いもう一方の階段を目指すが、こちらも行き止まり。

 通れるのは登り階段だけ。アイツ、もしかして私たちを追い詰めて楽しんでいるのではないだろうか。

 頼みの雨桐さんは姿を見せない。あの化け物に対抗するにはあの人が唯一の頼みなのに。

 いくら彼がコイツらの退治を生業にしていても、そう都合よく場に居合わせるなんて出来すぎた話なのだろうか。


 「とにかく、下にはいけないから上!」


 上りの階段の踊り場にあった消火器を手に取る。多少重いけど、もしかしたら武器になるかもしれない。

 そうして最後に、屋上に辿り着いた。もう逃げ道はない。


 「もうダメだよ、あたしたちここで死ぬんだ!」


 目に涙を浮かべながら、美弥が私に縋りついた。

 これは偶然の出来事のはずだ。けど、私はアレが何かを知っている。そのことが、自分自身は悪くないのにそれを引き寄せたのが自分ではないかと思わせる。

 謝りたくなる。だけど、謝っても仕方がない。私は今、知っている人間として出来る限りのことをしなくてはいけない。


 「……美弥、落ち着いて聞いてよ。たぶん、アイツはもうすぐここへ来る。逃げられるかは分からない、だけど出来ることをしないで死ぬのはやだ。美弥、持ってるラケット、私に貸して」

 「え、うん……」


 美弥がテニス部でよかった。

 テニスラケットで殴打されたら普通の人だったらなかなか堪えるだろう。あの怪物に普通が通用するかはともかく、武器としては使える。

 ラケットを受け取る代わりに、私は美弥に先ほど調達した消火器を渡す。


 「美弥。怖いと思うけど入り口の近くで待ち伏せして、それをあの化け物にぶっ放して。それでアイツが怯んだ隙に、私がラケットで殴りつける。それで怯んだ隙に下に逃げよう。糸は、ラケットを思い切り振れば断ち切れるかもしれない。教室の椅子でもいい。とにかく使えそうなものは全部試そう」


 その間に雨桐さんが来てくれないか、という淡い期待も込めて。


 「ダメだったら……?」

 「今は考えない。今出来ることは、それしかない」


 自分を奮い立たせるように、言い聞かせるように強く言葉にする。

 それを聞いた美弥が、不意に顔をほころばせた。


 「あっはは……もえはすごいよね。いつもはぽーっとしてるくせに、昔からいざって時はあたしより度胸あるんだもん」

 「そっかな」

 「そうだよ。……もえ見てたら、少しだけ怖くなくなった。やろう、もえ」

 「……うん」


 入り口のすぐ横で待ち伏せをする。鼓動は早鐘。しかし屋上に吹く風が、頭の中を不思議なくらいに冷却していく。

 やがてぎちぎちという耳障りな音と共に―――きた!


 「喰らえっ!!」


 姿を現した怪物に、消火器の中身がぶっ放される。


 「ギ、ィ―――!?」


 さしもの怪物もこれには戸惑ったのか、奇怪な呻き声をあげて怯む。噴射する石灰がなくならない前に、ラケットを構え突進、怪物の顔面に振り下ろした。


 「アガァァアア!!」


 渾身の力で振り下ろしたラケットはなかなかのダメージを与えたようだ。前足で顔を抑え、痛みを堪えている。


 「ダメ押し!」


 続く美弥が、空になった消火器を思い切り投げつけた。それは怪物の胴体に当たり、更なるダメージを与える。


 「行こう!」

 「うん!」


 決死の思いで隙を作り出し、どうにかこの場は退路を得た。


 「ユ、ル……サ、ナ……イ……! オオノ、ミヤ……!」


 そんな私たちの背中に、呪詛の言葉が吐きつけられる。その中に、私の友人の名前―――。


 「え……」

 「どういう……」


 振り返ってはいけないと分かりつつ、私たちはヤツの方を振り返ってしまった。

 斜陽に照らされた醜悪な面。ラケットで殴られたことによってひしゃげたそれは、どこかで見覚えのある顔だった。誰だったかは思い出せないけれど。


 「衿奈……?」


 呆然とした美弥の言葉で合点がいったと同時に、戦慄した。そうか、どこかで見たと思ったら美弥の後輩だ。……そしてつい先日、痴情のもつれで諸々あった相手。


 「衿奈アンタ、何よ、コレ」


 信じられない、といった顔で疑問を投げる美弥。そんなことはお構いなしに、飛び掛ってくる怪物―――三坂衿奈。


 「美弥!」


 呆然と立ち尽くす美弥を引っ張り、すんでのところでその攻撃を交わす。

 しかしすぐに肉薄され、


 「邪魔、ァアアァアアァァ!!」

 「あぐっ……!」


 その腕で胴を薙ぎ払われ、ふっ飛ばされる。美弥が危ない。


 「やだ、来ないでよ、なんなのアンタ!?」

 「ギジィィイイイ!!」


 呻き声と共に、糸の塊が美弥に吐き出される。勢いのままふっ飛ぶ美弥。


 「ぐっ……!」

 「美、弥……! 美弥!」


 美弥は胴に糸が絡み付いているため受身が取れず、酷い有様だ。コンクリートの地面に頭や胴をしこたま打ちつけている。呼びかけても返事がないのは、意識を失っているからだろうか。当たり所が悪ければ……考えたくない。


 「喰ッテヤル……オオ、ノも。クガも……!」


 男声と女声の混じったステレオで吐き出される呪詛。三坂が、ぎちぎちと歯を鳴らしながら動けない美弥へ近付いていく。美弥が、喰われる。

 駄目だ。私じゃ美弥を助けられない。誰か、誰か……!

 あの時は来てくれた。偶然だったけど来てくれた。助けてと叫ぼうとした私を助けてくれた。

 だから、それが無駄でも意味がなくても、ここにいなくても、私はあらん限りの声であの人を呼ぶ。

 そう、誰かじゃなくて。


 「助けて、雨桐さん―――!」


 屋上に響く、懇願の声。


 「この世を渡る以上、絶対を約束するというのは出来ませんが」


 応えるように響く、澄んだ声とどこかで聞いた台詞。

 呼応して止まる三坂の足。光り輝く糸の拘束。


 「請われれば応じましょう。なんといっても貴方は」


 ぶわりと押し寄せたのは、白い光の波。……違う、蝶の群れだ。


 「僕の最初の依頼人ですからね」


 光の蝶の群れの中。フェンスの上に、まるで蝶が花にとまるように黒い人影が立っていた。


 「雨桐さん!」

 「随分とまあ強い憎悪をお持ちで」

 「ナンダ、オ、マエ……!」


 糸に縛られたまま、首だけを雨桐さんのほうに向けて三坂は呻いた。


 「雨桐桔梗。探偵です」


 その決め台詞は某小さくなってしまった名探偵のパロディですよね、雨桐さん。……じゃなくて!


 「美弥を! 美弥を助けてください!」

 「絶対とは言い切れませんが、善処致しましょう」


 グイ、と雨桐さんが自身の指に絡んでいる糸を引っ張る。それは三坂の体を拘束している糸だ。


 「ガ……!」


 引っ張られるままに、美弥から引き離される怪物の体。

 すかさず私は駆け寄り、美弥の安否を確認する。


 「美弥、大丈夫!?」


 反応はない。けれど、胸はちゃんと上下している。どうやら頭を打っているみたいだが、たんこぶが出来ているくらいで致命傷らしきものはない。よかった……。


 「ギ、シャァァァアアア!!」


 耳障りな咆哮のする方を向けば、三坂が光の糸を振り払っていた。


 「おや、なかなか力をつけているようで……」

 「ァアアアアアアア!!」


 苦悶するような叫びと共に、首の下の口腔から黒いヘドロのようなものが吐き出された。雨桐さんはひらりと身を翻しそれをかわす。

 ……信じられない。そのヘドロのようなものが触れたところが、硫酸でもかかったように溶けている。下はコンクリート、だというのに。


 「ですが、」


 それに臆することもなく、雨桐さんは三坂に肉薄する。次に吐き出されたヘドロは、指から繋がる糸の一薙ぎで黒い煙に変わった。

 薙いだ糸がそのまま三坂の体に再び絡みつく。


 「ナ、―――」

 「お仕舞いです」


 そして三坂の眼前で雨桐さんが腕を一閃すると、周囲を舞っていた白い蝶が一斉に光の矢となって三坂の体に降り注いだ。

 光に包まれていく三坂の姿は、さながら繭のよう。


 「お還りなさい」


 言葉と同時に、雨桐さんは指を鳴らす。パキン、と響く音。それは指を鳴らした音というより、小さなグラスが割れた音に近かった。

 事実、割れた。光に包まれていた三坂の体が。崩れていく、光の繭。

 その中から出てきたのは怪物の姿でない、ただの三坂衿奈。


 「……悔しかったの」


 ぽつりと零した言葉は、普通の少女の声。


 「私、嫉妬していたの。明るくて、かわいくて、しっかりものな大野先輩に。だから、私大野先輩が久賀先輩と付き合っているの知ってて久賀先輩に告白したの。そしたら案外簡単にオーケー貰えちゃったのよ。心の中で大笑いしたわ。こんな安い男と付き合ってたのねって……。久賀先輩と逢っているときは本当に楽しかったわ。こんな優越感、めったに感じられないもの」


 私は呆気に取られていた。人間だから、汚いところはあるのは仕方ない。けれどこんな抜き身の刃のような悪意は、今まで感じたことがない。

 雨桐さんは、顔色ひとつ変えずに聞いているけれど。

 でもね、と三坂は続けた。


 「……ある日気づいたの。久賀先輩と会うのが楽しいって思うのは大野先輩への当て付けとかじゃなくて、本当に久賀先輩のこと好きだったからなんだって。気付いてからもっと、私は大野先輩が憎くなった。大野先輩だけじゃない。誰も彼も気に入らなくなったわ。久賀先輩を取り囲むみんな。……気がついたら、人を喰うようになっていた。声がしたの、憎ければその気持ちに従えって。私は化け物になったけど、それでもよかった。久賀先輩を取り巻く人が減っていくならそれで」


 あまりにも身勝手な……あまりにも、一途な想い。それは、なんて狂気だろうか。


 「この前大野先輩と久賀先輩が別れたって聞いたときは天にも登るくらい嬉しかったわ。でも、結局久賀先輩は私じゃなくて大野先輩を取った。だから、全部喰ってやろうと思ったのよ。まずは大野先輩を、あとはこの学校のみんな。次は久賀先輩の学校……最後に久賀先輩を喰うの。素敵でしょ? ……でも、もうダメね。私死ぬのね。そうなんでしょ、眼帯の人?」

 「もう死んでいるんですよ。そんな狂気は、人の身に余ります。ですから」


 雨桐さんが、手を空に翳す。胡蝶返しだ。


 「……私、大野先輩が羨ましかったのね」


 黒い蝶に変わっていく三坂。零れた言葉は、全てが本心なのだろう。


 「どうして私じゃ、ダメだったのかしらね―――」


 最後だけ涙声で。三坂衿奈は骨となってその場に崩れて、それもまた、霧散した。


 「この蜘蛛の蠱毒は」


 飛んでいく蝶を見送りながら、雨桐さんは独白のように呟いた。


 「強い憎しみ、恨みに呼応して呪いを発動させます。……人とは、難儀な生き物ですね」


 ふと、肩の疼痛が全くしなくなっていることに気がついた。

 襟元を寛げて肩口を見てみると、あの痣は綺麗に消えていた。


 「あの子が、親蜘蛛だったのか……」

 「依頼成功、ですね」


 そう雨桐さんは笑ったけど。

 呪いが解けたというのに、私の胸はなんだかすっきりしないままだった。


 *


 次の日、美弥は普通に登校してきた。

 結局昨日の件は、貧血で倒れて頭を打ったということにしておいた。一連の出来事もあまりに現実離れしすぎたことだったからか、夢だといって聞かせるのにさほど苦労はしなかった。

 知らないなら、知らないままの方がいいし。きっとね。


 「いやー、それにしてもおっかなかったなぁ昨日の夢。夢とはいえまさか化け物になってまで追いかけてくるなんてね……。ちゃんと話にケリつけたはずなんだけど」

 「美弥が一方的に話して終わりだったとかそんなんじゃないよね?」

 「……あー、たぶん……?」

 「アンタねぇ……」

 「でも」


 真剣な顔で、私に向き直る美弥。


 「あたし、衿奈が化けて出ても久賀のこと譲らないよ。浮気するサイテー野郎だけど、それでもあたしアイツのこと好きだもん」

 「……うん」


 三坂も美弥みたいに、真っ直ぐな恋が出来たらよかったのかな。

 あんなに浅ましい想いで人鬼蜘蛛になったのだとしても、それでも気持ちは本物だったのだ。

 だから、せめて次生まれてくるのなら……それを願わずにはいられなかった。


 *


 その週の日曜日、私はファミレスを訪れていた。……雨桐さんと。

 今回のことは依頼って形でお願いしたことだから、何かしらの御礼はしなくちゃいけないと思った。それを申し出たら、雨桐さんは甘いものが食べたいといった。

 で、そんなこんなで私の目の前に聳え立っているのが……全長50cmのパフェ。しかも、収まっているグラスが通常の二倍のサイズだ。


 「僕ね、甘いもの好きなんですよ」

 「あのそれはいいんですけど……食べ切れるんですか、これ」

 「ふふ、これは絶対と言い切れますよ」


 そこはかとなく目を輝かせながら、自信満々に雨桐さんは言い放った。うん、なんだろう。この前私を助けてくれたときとは随分ギャップがある、ような……。


 「あ」


 この前といえば、ひとつ気になることがあったんだ。


 「私のこと、初めての依頼人って言いましたよね? あれって、どういう……」

 「ああ。実は探偵なんてのを名乗ってみたのは初めてなんですよ」

 「えっ」


 確かに探偵事務所って言うには辺鄙すぎる場所に事務所あったし、本人も探偵って感じは全然しないけど。というか、探偵らしいことは私の知る限りじゃやってないけど。


 「ほら、あれです。以前は頼まれればやるという感じで退治屋紛いのこともしていましたがなんていうか……飽きましてね。というか、頼まれなくてもやらなくてはいけないことでもあるので、別にいいか、と」

 「はぁ……」

 「で、ついこの間知り合いの家でシャーロックホームズを読みましてね。なんとなく、その場の思いつきで貴方に」


 ……意外と適当な人なんだなぁ、この人。まぁ助けてもらったのは事実だし、御礼をすることに不満はないけれども。


 「しかしまぁ、やっていることは変わらないんですよね。退治屋紛いのと」


 探偵は辞めますかね、といいながらチェリーを口に放り込む、元自称探偵。

 ああ、やっぱりこの人に助けられたんだって思うと気抜けして仕方がない。

 というか、最後まで素性もよく分からなかったし。

 ただひとつ、あのでっかいパフェを完食出来るくらいの甘党だってことは、よく分かった。


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妖蝶奇譚 きよすけ @kysk_913

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