2.探偵事務所 胡蝶の夢
雨桐さんとの奇妙な出会いの翌日。
私は電車に揺られて市外の森に出かけていた。
名刺に書かれていた住所によると、雨桐さんの事務所はその森にあるらしい。
肩には相変わらずの疼痛。昨日お風呂で見たら、どういうことか傷は治っていたけれど噛まれたところに蜘蛛のような痣があった。雨桐さんの話から考えるに、たぶん呪いの証みたいなもの……だろうか。
この前からずっと自分の見たものを疑ってばかりだったけれど、何度見ても肩には痣があってやっぱりここ二日間の出来事が夢ではないということを知らしめてくる。
それはつまり、化け物になってしまうという話が本当のことだという可能性が高いということだ。
雨桐さんは、本当にこの呪いとやらとどうにかしてくれるのだろうか。
そんなことを考えているうちに、電車は目的地に着いた。
「……森だなぁ」
駅の周辺を見回し、思わず零す。
これでもかというくらい森だ。私の住んでいる地区よりも人気がない。まず、人家がある感じがしない。
本当にこんなところに住んでいるんだろうか。
というか、どこに向かって歩けばいいのだろう。住所が書いてあったとはいえ、この様子じゃ探すのに随分と時間がかかってしまいそうだ。
とにかく、交番か何か探して人に聞くのが一番だな。
そう思いながら名刺を見返すと、名刺が淡く光っていた。昨日蝶々が名刺に変わっていったのを思い出すなあ、と思っているとやはり昨日と同じように形が変わっていき、私の手の中でその名刺は蝶々の姿に戻っていった。
翅を押さえていた指を離すと、私を先導するように蝶々はひらひらと飛びはじめた。
どうせあてもないんだし、この蝶々を頼りにしよう。なんていったって、事務所に来いといった本人が差し出した名刺なのだし。
蝶々はどんどん森の奥へ入っていく。森の中へ入っていく手前でいくつか人家を発見することは出来たが、森の中に入るとそれも全く見かけなくなった。
「本当に大丈夫……だったのかなぁ」
不安になりかけた、その時。
目前に小さく、白い建物が見えた。玄関と思しき部分が見えるだけで、他は周囲の木々に覆い隠されている。
建物の前まで来ると先導していた蝶々は私の元に舞い戻り、再び名刺に戻っていった。
「ここ……?」
扉の横に、古びた木の札に『霊媒専門探偵事務所 胡蝶の夢』と書いてある。名刺に書かれていた通りだ。
見た感じ、人が住んでいる気配はない。近くで見るとその建物は蔓が這っていたりひびが入っていたりと、随分とくたびれている様相だった。まるで、幽霊でもいそうな。
しかしここで臆していても仕方がない。大体、幽霊よりも今は自分が昨日の化け物になってしまう方が怖い。
意を決して、ドアノブに手をかける。
「お邪魔しまーす……」
蝶番が軋む音と共に、室内の様子があらわになる。
「……すごい」
思うよりも先に、口が動いていた。
建物の中は、まるでおとぎ話の世界のような不思議な空間だった。
室内は丸いドーム上で、天井が天窓になっておりそこから惜しみなく太陽光が降り注ぐ。
その光を、部屋全体に置かれた硝子の木や草花のオブジェが反射してきらきらと輝いていた。しかも、そのオブジェはどれもがほとんど等身大。さらに床は蝶の翅を思わせるステンドグラスとなっており、さながら硝子の森といった感じだ。
そんな空間の中、白く輝く蝶々が飛び交っている。
まるで芸術作品のような空間の真ん中に、硝子のテーブルと椅子がある。黒い人がその椅子に腰掛けていた。雨桐さんだ。
「おや、貴方は……。ようこそ、胡蝶の夢へ」
事務所に入ってきた私を、雨桐さんは先ほど自分が腰掛けていたものの向かいの椅子に案内した。
「生憎この事務所にはお茶やお茶菓子はないのですが……すみません」
「あ、お気になさらず」
正直ちょっとがっかりしたのは内緒だ。
「そういえば、名前をお伺いしていませんでしたね」
「鷺沼もえぎです」
「では、鷺沼さん、と」
「えーっと、その、苗字は……」
なんていうか、むず痒い。
田舎の学校は、小学校からみんな一緒だから下の名前で呼び合うことが多い。私の周囲も例に漏れず、基本的に名前で呼び合うので苗字で呼ばれると変な感じがするのだ。
高校に上がってからは苗字で呼ばれることもあるけれど、それでもまだ慣れない。
「ということなので……出来れば下の名前で呼んでくれますか」
「ああ、ではもえぎさん、と」
「それでその……呪い? の話なんですけど……」
「そうですね。それを説明するには、まず昨日の化け物……
当たり前だけど、聞き慣れない言葉だ。化け物の名前なんだろうけど、イマイチ響きからどんなものか想像が出来ない。
「人鬼蜘蛛……同じ書き方で“ひとおにぐも”ともいいますね。その起源は割愛しますが……とりあえず、人が蜘蛛の形の怪物になったもの、と思っておいてください」
「人がなるんですか?」
「ええ。もえぎさんは、蠱毒という呪いをご存知で?」
「コドク……?」
これまた聞き慣れない単語だ。当てはめる漢字は孤独……ではないんだろうな。たぶん。
「“虫”をみっつ書き、その下に皿で“コ”。それに、毒薬の“毒”で蠱毒と書きます。虫や犬を壷などに入れて共食いさせ、残ったものを呪いの道具として使う呪術の一種ですね。そういった呪いによって化け物になってしまった人間のことを“鬼”といいます。人鬼蜘蛛とは、その中でも殊更強力な蜘蛛の毒によって生まれた鬼のことをいいます」
……駄目だ、もう頭が混乱している。
「ええとよく分からないんですけど……とにかくその人鬼蜘蛛っていうのは元々人間だってことですよね」
「はい。それで、ここからがもえぎさん、あなたに関係することなのですが……。蠱毒を受けた人間は人鬼蜘蛛になります。ですがこの呪いはただの蠱毒よりも段違いに強力なものでして、人鬼蜘蛛から人へ感染するのですよ。そう、先日の貴方の様に人鬼蜘蛛に噛まれることによって……ね」
私の肩……噛まれた方のそれを指して、雨桐さんはそう言った。
「この毒は何度も言うように強力です。呪いが感染した人間は早くてその場で、遅くても一月以内には同じように人鬼蜘蛛になります。ただ、呪いの大元となった人鬼蜘蛛よりは呪いの程度が薄いのでなんと言いましょうか……強さの程度は劣化版コピーとでも言っておきましょうかね。所謂業界用語になるのですが、呪いの大元になったものを“親蜘蛛”、感染したものを“仔蜘蛛”と呼びます」
「あの、それもしかして……」
私も下手をすればあの場で化け物……人鬼蜘蛛になっていた、ということだろうか。考えるだけで身震いする。
「もえぎさんが噛まれたのは仔蜘蛛でしたし、人鬼蜘蛛……というか鬼は皆人の生気を糧として動くのですが、もえぎさんは完全に生気を奪われていなかったのでその分呪いの回りが遅いのですよ」
私が言いたいことを察したのか、雨桐さんはそう付け加えた。
それと同時に、今の説明でなんとなく合点がいった。私が何か吸い出されている感じがすると思ったのは、生気を吸われていたからだ。
「よく聞く話だとは思いますが、魂とは体という器に宿っているものです。生気を全て奪われるということは、魂を奪われるということ。魂を奪われた器を感染した呪いが動かし、鬼となる……これが最も多い事例のひとつといえますね」
思えば、ゾッとする話だ。ある日突然怪物に襲われたかと思ったら、自分もその怪物になってしまうのだ。まさに私がその危機に直面しているのだけど。
「というか、そんなんじゃ鼠算式に怪物が増えていっちゃうんじゃないんですか?」
「そのために僕のような者がいるのですよ。僕は殆ど人鬼蜘蛛専門のようなものですが……まあ僕の他にも多々いますし、ね」
雨桐さんのような人達……あれかなぁ、最近の漫画とかライトノベル? とかでよく出てくる妖怪退治屋みたいな感じかなぁ。
「それに鬼は人の生気を好みますが、同時に嫌ってもいるのです。彼らは呪いという負の力の塊ですから、生気といった正の力を忌避する傾向にあります。ですから、人が多い場所にはあまり近寄りません。活動時間は夕刻から夜明け前にかけてですしね。ほら、よく逢魔ヶ時とかいうでしょう」
なるほど、そりゃあの場所に出るわけだ。人少ないものね、あそこ。
「ですから、鬼が増えすぎることはあまりないのですよ」
なんて言われても、不安は拭えない。
……そういえば、最近荻野谷で起きているらしい行方不明事件。あれは、このことに関係ないのだろうか。
「どうでしょうね。確かにああはいったものの、近頃彼らの活動が活発だというのは否定できませんから」
なんとなく、雨桐さんの顔付きが変わったような気がした。仇敵を目の前にしたような、真剣な顔。やはり、退治屋? としては思うところがあるのだろうか。
暫しの間そうして雨桐さんは思案に耽っていたが、思い出したように、そういえば、と口を開いた。
「まだ本題に入っていませんでしたね。問題の呪いを解く方法ですが……」
そうだ。それが聞きたい。おおよそ自分と関わりのある世界の話とは思えないことで変に感心したり驚いたり不安になってしまっていたが、本題はそちらなのだ。
期待の目で見る私。次の言葉に、私の人生がかかっているといっても過言じゃない。
「申し訳ありませんが、この場で解く方法はないんですよ」
あればそれが一番いいのですがね、と雨桐さんは苦笑した。え、っていうかちょっと、それ。
「どういうことですか!」
思わずテーブルに身を乗り出して詰め寄っていた。雨桐さんは臆した様子もなく、まあまあ落ち着いて、と私を嗜める。
「きちんと解く方法はあるんですよ。説明も致します。ただ、ここではそれが叶わないというだけです。それに一応呪いへの応急処置も致しますからご安心を」
「む、むぅ……」
渋々と座りなおす。こう言った以上、どうにかしてくれる筈……だ。たぶん。
会って間もない人だけど、誰かを欺いたりするような人ではないと思う。お前はすぐ人を信用しすぎだ、とはよく友人に言われるけれども。
「端的に申し上げますと、呪いを解く方法はひとつ。親蜘蛛である人鬼蜘蛛を倒す、これのみです」
「でも……その、人鬼蜘蛛ってどこに出てくるとかは決まってないんですよね? そんなの、どうやって探し出して倒すんですか?」
「先ほども申し上げたとおり、私は人鬼蜘蛛専門の……退魔師、とでもいうのですかね。そういった者ですからその辺りはご安心を。この世を渡る以上、絶対を約束するというのは出来ませんが……貴方の呪いは、解いてみせましょう」
「……」
「失敗したら責任を持って退治して差し上げますので」
「そんな!」
冗談のつもりなのかなんなのか。ふふふ、と雨桐さんは笑っているけれど私は全くもって笑えない。
でも、頼れる人はこの人だけなのだ。今はただ、信じるしか出来ない。……大丈夫かなぁ。
「さて処置ですが……」
そういうと雨桐さんは席を立ち、私の隣に立った。私も雨桐さんの方を向く。
「少し失礼しますね」
噛まれた方の肩に、雨桐さんの手が翳される。その肩と掌の間に、周囲を舞っていた白い蝶々の一匹が入り込んできた。
「少々痛みますが、我慢してくださいね」
「いっ……!?」
一瞬の鋭い痛みと共に、肩に掌が押し当てられる感触。間にいた白い蝶々はどう考えても潰れているだろう。
しかし離された掌にも肩口にも蝶々の死体などなく、引き換えに先ほどまで肩を苛んでいた疼痛が和らいでいた。
「蠱毒をもって蠱毒を制するという呪いへの対抗法があります。私は今貴方に蝶の蠱を用いて呪いを掛けました。呪いは完全に解除できませんが、進行を遅れさせることは出来ます。これで向こう一、二ヶ月は人鬼蜘蛛となることはないでしょう」
「呪いって……蝶々の呪いは大丈夫なんですか?」
「呪いは使い手の意思で毒にも薬にもなります。“呪い《のろい》”と呪い“《まじない》”は同じ字で書きますからね。おまじない、というと聞こえがいいでしょう。あんな感じです」
「はぁ……そんなものなんですか」
「そんなものですよ」
正直なところ半信半疑ではある。でも、足掻けるだけ足掻かなければ。化け物になって死ぬなんて絶対嫌。
「とにかく、しばらくこちらで調査してみます。もえぎさんも、何かあれば気軽にご連絡ください。……電話、ないですけどね」
電話どころか事務所の中にはひとつも電化製品がないみたいだ。家はたぶん他にあるのだろうけど、電話がないならどうやって依頼とか受けてるんだろう。
つまるところ、私は何かあったらまたこの森の奥の事務所まで出向かなきゃいけないのか。案内なしでここまで辿り着けるのだろうか。
「名刺は持っていてください。必要があればその名刺がまた貴方を導くでしょう」
私の心配を察したのか、雨桐さんは微笑みながらそういった。うーん、導く、だなんてリアルに聞くのってそうそうないよね。
「私からは以上です。もえぎさんは、何か訊いておきたいことはありますか?」
訊いておきたいこと、か。……あ、そうだ。ずっと気になってたのに訊き忘れていたことがあった。
「昨日とか、一昨日の……えっと、胡蝶還しでしたっけ。アレって一体なんなんですか?」
私が二度遭遇した、死体が黒い蝶に変わる瞬間。たしか、魂を解放するとか何とか。
「大まかなことは昨日説明したとおりです。鬼となった人間は、大抵呪いを受けて鬼になった時点で死んでいるんです。呪いは彼らを倒すことで解くことが出来ます。ですが、呪いから解放された肉体には呪いによって穢れた魂が残っています。それらを完全に解放し、再び鬼とならないようにするのがあの儀式です」
そういうことだったのか。もしかして私あのとき、すっごい失礼なこと言ったんじゃなかろうか。事情も知らないのに殺人犯とか何とか。
なんだか、申し訳ないな。掴み所がなくて、ちょっと胡散臭い人だけど助けてくれたことには変わりないし。
「あの、私この前すごいテンパってて殺人犯とか言っちゃって……なんか、すみません」
「いえいえ、お気になさらないでください。仕方ないですよ、普通の人なら誰でも驚きますよね。……そうだ。僕も貴方に謝らないといけないことがありました」
「はい?」
私、なんかされたっけ。確かにさっき呪いはかけられたけど、あれは必要なことだったし他になんかあっただろうか。
「一昨日のを仕留めたので油断していました。昨日の人鬼蜘蛛は、一昨日の蜘蛛から感染したもののようなのです。まさかあの土地ですでに一人餌食になっていたとは想定外でした。駆けつけるのが遅くなってしまって……結果貴方を巻き込むことになってしまいました。すみません」
「そんな。それこそ仕方ないことですよ。もう終わっちゃったことですし、それに私ちゃんと助けてもらいましたから。だから、大丈夫です」
謝られても困ってしまう。酷い目には遭ったし、現在進行形で遭っているけど、本当に仕方のないことだったと思う。偶然のことだったんだし。
それにしても、二人して謝りあっている様はちょっと面白いなって思う。
「どうかなされましたか?」
思っていたことが顔に出ていただろうか。でも、なんかおかしいんだもの。
「いや、なんていうか二人して謝ってて……ちょっと面白いなって」
「そう、ですね。ふふ、確かになんだかおかしいですね」
私に釣られたように、雨桐さんも笑みを零した。大人びた雰囲気だけど、こんな風に笑うと意外と幼く見える。
あれ、そういえば大して重要なことじゃないけどひとつ気になることがある。
「その、もうひとつ質問いいですか?」
「なんでしょう」
「雨桐さんって、いくつなんですか?」
私の質問に、雨桐さんは口元に手をあて思案するように目を閉じた。えっと、年齢って思案して答えるものじゃないよね?
しばらくの間の後、雨桐さんの口元が含みのある感じの笑みを描く。
そして開かれた口から出てきたのは、
「花の十八歳です」
「嘘だ」
清清しいくらいの怪しさに思わず突っ込みを入れていた。
色々あった二日間だけど、今のところ一番信用できないのはこの人の年齢……だなぁ。
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