妖蝶奇譚

きよすけ

1.蝶と死体


 ああ、痛いなあ。

 痛い。痛い、痛い痛い。ああ。もう。

 こんなに痛いことってあったっけ。ない、たぶんない。

 肩から先が千切れそう。いや、千切れてる? 腕の感覚はある、痛い、でもある。

 思考が明滅する、雑多になる、痛みが思考を加速させる、鈍らせる。

 えっと、そう。そもそもだ。

 私はどうして、こんなことになったんだっけ―――?


 *


 バスの車窓から見える道は、ひたすら暗く殆ど何も見えない。

 ぽつぽつと街灯が灯ってはいるが、それも数が少ないからかどうにも頼りない。

 田舎の夜道は、人っ子一人通ることなくただただ私が乗るバスが砂利を踏みつけながら走っているのみだ。

 陽の長い夏も終わり、季節は秋。七時を過ぎれば陽も殆ど落ちきってしまう。健全な女子高生が出歩くには、そろそろ多方面からお咎めが来そうな時間帯だ。

 さて、その健全な女子高生である私こと、鷺沼さぎぬまもえぎが何故こんな時間にバスに揺られているかと言えば……なんのことはない。

 友人が五ヵ月連れ添った彼氏と本日破局を迎え、彼女を慰める……というよりも、彼女の愚痴を聞くために学生らしくファミレスに溜まって話し込んでいたのだ。主に話し込んでいたのは私ではなく友人の方であったけれども。

 とりあえず、親には一応連絡を入れてあるから大丈夫なはずだ。もとより放任主義の両親である。犯罪といじめさえしなければ大概何をしてもいい、と放言する二人だ。たぶん、私が夜遊びに興じても何も言わない。こんな田舎で夜遊びなんてしても仕方がないし、そのためにわざわざ町まで出て行く気もしないけど。

 そんなことを考えながら車窓を眺めていると、流れていく真っ暗な風景が僅かな揺れとともに止まった。

 ぷしゅう、と音を立てて開くドア。乗客は私だけで、私が降りればこのバスも役目を終える。いつもお疲れ様です、運転手さん。

 私を吐き出したバスは、さっきと同じように音を立ててドアを閉じ、砂利を踏みつけながら真っ暗な道の向こうへ走り去っていった。

 バスのライトもなくなり、辺りを照らすものは頼りなく突っ立っている街灯がもたらす明かりと、月明かりだけになる。田舎の夜道は、大抵こんなものだ。

 子供の頃はいちいちびくびくしながら歩いていたが、何年も歩けば慣れてしまう。私は臆することもなく、見慣れた夜の砂利道を歩き始めた。

 自宅を目指ししばらく歩いていると、いつもの道に異分子を発見する。

 工事中の看板だ。

 そういえば、道路の舗装工事が今日から始まるとか何とか聞いた気がする。どうやらこの砂利道も、しばらくするとコンクリートの舗装された道になってしまうらしい。こうして田舎は開発されていくのか、と思うとほんの少し物悲しい気分になる。

 それはそれとして、問題は別にある。

 この道が塞がれていると、私はだいぶ回り道をしなくてはならない。それが普段殆ど使わない道なのだ。

 田舎の道を舐めてはいけない。歩き慣れているとはいえ、木々に囲まれた似たような景色が続いている場所を歩いていると地元民でも時折道に迷うことがある。私が通ろうとしている道は今し方通ってきた道よりも暗い、街灯も少ないない道であるから尚更である。まあ、この道が使えないんだから選択権はないけれど。

 私は街灯の明かりが遠くに灯るだけの、真っ暗に等しい脇道へ足を進めた。

 ふと、空を見上げてみると白い月がぽっかり浮かんでいた。満月だ。

 町にいると分からないが、こういう明かりのないところに来ると月明かりが意外と明るいということを実感する。

 自分の夜目をフル稼働させなくてはならないことを覚悟していた脇道が、存外明るく見えるのだ。今日が新月だったなら、この道を通ることを少し躊躇したかもしれない。

 人っ子一人ない暗い道は、時折吹く風に揺らされた木々がざわめくくらいしか音もない。それと、私の足音。

 けれども、進んでいくにつれてまた別の音が聞こえてくる。

 川のせせらぎの音である。

 この道は近くに川が通っているのだ。しばらく歩けば、河川敷に着く。

 余談だが、その川には地元住民がつけた異称がある。

 曰く、「三途の川」と。

 夏頃から秋の終りまで、その川の周辺には異様な本数の彼岸花が咲くのだ。聞いて想像するだけなら綺麗な風景だと思うだろうが、実際に目の当たりにするとその様は美しすぎていっそ不気味なくらいである。

 彼岸に咲く花だから彼岸花、という話もあるのだ。だから、地元民はその川に三途の川と名付け敬遠している。この道を通る人が少ないのも、そういった事情からだ。

 そうこうしているうちに、例の河川敷に着く。

 秋も半ばに差し掛かり始めているが、彼岸花畑は今だ健在。赤い花が、河川敷に乱れ咲いている。

 あらためて夜に見てみると、なるほど確かに三途の川といった光景だ。空には白い月が浮かび、その光を川が反射し流れ、それを取り囲む赤い花畑。最高に美しいロケーションだというのに、どこか不吉さや寒気を感じさせる。

 ……ふと、きらきらと視界を何かがちらついた。不規則に、舞うようにちらつく何か。

 きょろきょろと辺りを見回してみれば、それは次第に数を増やし、やがて波のようにその群れが押し寄せてきた。

 「なに、これ……蝶?」

 思わず、言葉が漏れていた。

 辺りを舞うのは無数の蝶々。しかも、月明かりを翅が反射しているのだろうか、彼らは白く輝きながら一面を舞っていた。

 いいや、それにしても何か違う。反射して輝いているなんてものじゃない。蝶自らが輝いているような、そんな光を放っている。

 一体この蝶はどこから来ているのだろうか。

 非現実的な光景に竦む足を動かし、蝶が飛んでくる方向へ向かう。

 ひらひら、ひらひら。

 まるで万華鏡の中を歩いているような錯覚すら覚えるその先に。

 黒い、人影を見つけた。

 川の浅瀬に佇む、黒い影。背格好は、すらりと影絵のように長くて細い。月明かりじゃよく見えないけれど、たぶん男の人だ。

 その人の周りを、無数の白い光の蝶が舞っている。咲き乱れる、彼岸花の中。

 ―――息を呑んだ。

 今まで生きてきて、こんなに幻想的な光景見たことがない。

 夢を見ているんじゃないかって目を擦っても、蝶が描く光の軌跡は消えない。

 す、と男の人が足元に手を翳した。その手の動きにつられるようにして、手の先を注視する。

 川の中、それがなんなのかはっきり確認することは難しい。けれど、私の目が間違っていないのならそれは……人の体に、見えた。人の体がぐったりと、川の中に横たわっているように見えた。

 ほのかに、嫌な予感がした。まさか、いや、でもそんな。

 思考に灯る警告ランプ。もしかしたら私は、出会ってはいけないものに出会ったのかもしれない。

 だけれど、私の足は動かない。恐怖からか好奇心からか、どちらにせよ私は今、呆気に取られている。

 凝視したままの視界に、繰り広げられる非現実の幻想。

 蝶がどこからともなくまた増える。時を同じくして、男の人が翳した手を、まるで何かを引き上げるかのような動きで掲げた。


 「え……」


 瞬間。ざわりと、空気が変わった気がした。

 男の人の手に引き寄せられるかのように、横たわる人の体のようなものから黒い、夜よりも黒い蝶があふれ出す。

 とめどなく、とめどなく、黒い蝶が噴水のように溢れかえって男の人の姿までも覆い尽くす。

 そして信じられないことにその黒い蝶たちは、ある者は赤い光の蝶となって、ある者は青の、ある者は金色の、ある者は紫の、翡翠色の、白の光の蝶となって空へと還っていくのだ。

 魔法か何かでも見ているような気分だ。いいや、魔法の類でなければこれは何だというのか。

 あまりにも現実感がなさ過ぎて、ただただその光景を見ることしか出来ない。

 ……やがて、黒い蝶の群れは全て飛び立ち。その場には、黒い男の人と白い蝶の群れが残された。

 そして、黒い蝶を吐き出した人のような何かは、というと。


 「あ、え、うそ……嘘?」


 これでも私は目がいい方だ。だから、多少離れているものでもさっきあった“何か”と今ある“何か”差異には気がつくことが出来る。

 けど。

 これは、本当に、本当なのか。

 夢のような一連の出来事を見ているから、出来れば全部が夢だったと思い込みたい。でも、でも私にはそうとしか、見えない。

 黒い蝶が溢れ還る前。“人のような何かであった”それは。

 今、“人骨のような何か”に変貌していた。

 どういうことなのか、これは。

 ああもう、ああもうわけが分からない。

 これは殺人? 人を蝶に変えて殺した? それは殺人?

 ただ、ただ私は戦慄した。

 得体の知れない何か。幻想的な光景、猟奇的な光景。

 蝶と、黒い男の人と、白骨死体。

 分からない、何が起きたのか、起きているのか、全く持って一切合財が分からない。

 けれども。これが仮に殺人だとしたならば私は、それを見てしまったことになる。

 殺人を見られたら、そうしたら、どうする?

 昨日見たドラマを思い出せ。殺人犯は目撃者をどうする?

 幻想に取り憑かれていた思考が、急激に冷却されていく。そうして、最悪の結論を弾き出す。

 こちらに気がついたら、もしかしたらだけど、もしかしたら私は。

 殺される。


 気がつけば一目散に走り出していた。

 辺りを舞い躍る白い蝶の群れを掻き分けて、振り返らずに、追い立てられるように河川敷を後にする。

 恐怖、焦燥、混乱、混乱。

 ああ、逃げなきゃ。見つかっちゃいけない。

 フラッシュバックする、翳される手。溢れかえる黒い蝶。

 見てしまったのだ。私は。

 きっと、見てはいけない何かを。

 それがなんなのかはわからないけれど、でも。

 逃げなきゃいけない。逃げなきゃいけない。

 全てが夢であれと願いながら、私は街灯のない道を走り抜けた。


 *


 一晩明けてみると、昨夜の出来事は夢だったんじゃないかと思うくらいに普通の朝が待っていた。

 眠気まなこを擦りながら、食卓につき納豆をかき混ぜ、私は昨夜のことに思いを馳せていた。

 白い蝶、彼岸花、三途の川、黒い人、黒い蝶―――白骨死体。

 現実味がなさ過ぎる。まるで漫画か何かだ。でも、その光景を見る前私は確実に三途の川の前を通って帰っていたわけだし、三途の川の前を通って帰ってきたはずなのだ。


 「ねぇもえぎ」


 お母さんが私を呼ぶ声で、はっと物思いに耽っていた思考が現実に戻ってくる。


 「何?」

 「最近この辺りで行方不明者が出ているそうよ」

 「行方不明者……?」

 「この辺りというか、荻野谷市ね。帰りが遅いのは別にいいけど、気をつけなさいよ」


 荻野谷おぎのや市。

 半分が山中(といっても麓の方だけど)の田舎、もう半分が最近になって都会的になり始めた中途半端な町で形成されたところだ。

 私が住んでいるのは田舎の方、奈河原なかはら町。駅は隣の屋馬井やまい町まで行かなければない。


 「こんな辺鄙なところで……ねぇ」

 「こんな辺鄙なところだから、かもよ」


 なんとなく、昨日の出来事を思い出した。

 ……あの殺し方なら、行方不明って扱われても仕方ないかもなぁ。死体が蝶々になったなんて、一体誰が信じるというのか。

 いや、夢なら仕方ないとも言えるのだけれど。

 昨日のことと行方不明者云々の話が重なって起きたのも、なんのことはない偶然。片方は夢か幻覚かって話なんだし。でも、


 「気になるなぁ……」


 結局私は昨日の出来事を夢と片付けきれず、行方不明事件との関連も捨てきれず悶々としたまま家を出ることになった。

 外は、雨だった。


 帰りのバスに揺られながら、私は相変わらず昨日のことについて考えていた。

 私の目が間違っていないなら、あの川には白骨死体があるはずだ。でも、学校に向かう途中に通りかかったときは別段騒ぎにはなっていなかった。あの男の人が片付けた、というのが有力だろうけど。

 でなければ、やっぱり夢だった。本当にあんな出来事があったというよりも、そちらの方が大分説得力のある話だろう。

 しかしあんなタイミングで夢なんか見るだろうか。私はバスから降りてあの道を歩いて帰宅していたわけで、別段眠かったわけでもないし、ましてや変な薬をキメていたわけじゃない。


 「あー、もやもやする……」


 ふと目を向けた窓の外は、昨日よりも少し明るい。けれども雨が降っているせいで、やはり薄暗い。いつもなら、夕日に照らされた赤い景色が流れていく車窓。

 やっぱりいつも通りだ。あんなことがあっても、行方不明者が出ていても、雨が降っていても、それでも朝も学校も、帰りのバスもいつも通りだ。

 夢だったのかなぁ、と呟いたのとバスが停車したのはほとんど同時だった。

 傘を差しながらバスを降りる。昨日よりも時間が早いとはいえ、それでも乗客は私一人のバスだ。

 私の家がある地域は、田舎の奈河原の中でもさらに一、二を争うド田舎だ。私と同じ学校に通う子は奈河原でもそれなりにいるわけだけれど、こんなところに住んでいるのは私と、あとは二、三人くらい。彼らは帰宅部の私と違い部活動に参加しているのでこれのもう一本あとのバスに乗って帰ってくる。

 そして田舎の移動手段といえば基本は車であるから、バスに乗ってこの辺りまで来る人は少ない。そのため、私は一人きりでバスに乗ることが多い。

 この時間、加えて雨ともなれば出歩く人は本当に少なくなる。帰り道は昨日と同じ、人っ子一人いない。雨の音だけが響く道は、酷く静かな気がした。

 今日も工事は続いているので、三途の川の方の道を通ることになる。暗くなりつつある道は、晴れていないからか夕方だというのに昨日よりも暗い感じがした。

 雨で増水しているのだろう。少しだけ、川の流れる音が荒々しくなっていた。

 河原に出てみると、昨日よりも水かさは増え水は泥色に濁っていた。当然のことながら、白骨死体は見つからない。あっても流れてしまっている筈だ。

 蝶々もいない。……あの男の人も。

 ようやく私の中で、あれは夢だという結論が出た。というより、夢でなくては困る。あんなものを見て私はどうすればいいのか。

 安堵の溜め息をつき、私は河原から離れて帰路につこうとした。


 「……ん?」


 傘に何か引っかかった。引いても引いても傘は空中にぶら下がったまま動かない。

 周囲に引っかかりそうなものはない。木はその辺にあるものの、引っかかるほど密集していないしそもそも私は傘が引っかかってしまうような場所を歩いていない。

 一旦手を離して傘の様子を見てみる。やっぱり、空中にぶら下がっている。そこには何もないというのに。

 ……違う。よくよく見てみれば、何か光るものがある。白い……糸のような何か。それが、傘に絡み付いている。

 なんだ、これ。思わず後退りすると、踵に何かが引っかかった感触。


 「あい、った!」


 引っかかったものに足を掬われ、砂利だらけの地面に尻餅をつく。うう、痛い。

 じゃなくて。私の足元に、引っかかるようなものがあっただろうか。いいや、ないはずだ。ここはただの砂利道のはず。

 嫌な感じがする。足元を見てみると……白い、糸のようなものが絡み付いていた。そう、なんだか蜘蛛の糸のような―――。


 「……!」


 悪寒は同時だった。私の視界に、蜘蛛のような化け物が入ってくるのと。


 「あ……?」


 私の眼前、泥水の流れと化した川にそれは佇んでいた。

 ぎちぎちと鳴る口、八本の足。顔と思しき部位にあるのは、大きな一つ目。姿形は蜘蛛のようなそれ。けれども、大きさが尋常のものではない。人の身の丈くらい、成人男性くらいだろうか。とりあえず私よりも大きい。


 「化け物だ……」


 恐怖とか、焦りとか、そういったものを通り越して私は呆けていた。口から零れた言葉はあまりにも間抜け。だけど、あんまりにも現実感がない。

 ざぶり、と雨音に混じる水音。その蜘蛛が、長く鋭い脚を一歩踏み出した。それを受けて、私の頭の警告ランプが点滅し始める。

 ジリジリ近付いてくる化け物。異形の姿が近付くたびに、呆けていた頭が恐怖を自覚し始める。

 なんだか、昨日もこんな感じだった気がする。

 見てはいけないものを見てしまった。それが何かは理解できず、ただ私は逃げなくてはと。逃げなくちゃいけないと。あの時も。

 立ち上がろうとした足に、白い糸が絡みつく。こんなもの、と足をばたつかせて払おうとするも、もがけばもがくほどにその糸は粘着質に絡みつく。その有様は蜘蛛に捕らわれた蝶々を思わせた。

 ぎちぎちと。

 耳障りな音が雨音に混じって近付いてくる。砂利を踏む音。ぎちぎち。近付いてくる、化け物。

 背中にじっとりと嫌な感触が張り付く。雨で濡れているからというだけではない。冷や汗が滲んでは体を凍えさせていく。


 「ひ、やだ……!」


 悲鳴のような声も、恐怖でかすれてあまりにか細く。こんな道にこんな時間じゃ助けも来なくて。

 一つ目がぎょろりと見下ろしてくる。立てないままの私を、まるで皿に盛られたご馳走を見るかのように。

 ああやだ、どうして、こんな。


 「誰か、助け―――」


 恐怖で震える声を振り絞って叫ぼうとして。

 時すでに遅し、一つ目の真下に開いたぎちぎちとなる口腔が、その乱杭歯を私の肩に突き立てた。

 ああそうだ。

 こうして私は、あんな痛い目に遭ったわけだ。

 肩口が燃えるように熱い、痛い、痛い。

 痛すぎて寧ろ逆に冷静になってきたぐらいだ。きっと、頭がおかしくなっているんだ。

 痛い痛いと強張る体は、一方で倦怠感が増していく。

 喰われている。そんな気がした。生きる力を根こそぎ吸われていくような、そんな感覚。

 意識が遠くなってきた。視界は赤く点滅しているけれど、それもだんだん黒く塗りつぶされていっている。

 頬に感じる雨粒が、やけにリアル。どこからが現実で、どこからが夢なのか。それとも、全てが夢か。或いは全てが現実か。

 でも、そんなこと考えても仕方がないよね。たぶん、私ここで死ぬ。

 何も知らないまま。昨日の死体と同じように、この河原に横たわって。

 もう、駄目だ。

 全てを諦めようとして、意識を手放そうとした、その時だった。

 不意に、化け物の動きが止まった。というか、何かを吸われていくような感覚が途絶えたのだ。

 恐る恐る目を開けば、そこには見るもおぞましい化け物の体。けれども、先ほどとは何かが違う。


 「糸……?」


 白く輝く糸が、化け物の体を雁字搦めにしていた。私が足を取られた糸ではない。それよりももっと、なんていうんだろうか。清廉な感じがするというか、綺麗というか。

 化け物の肩越しにも何か見えた。あれは……


 「蝶、々……?」


 昨日見た、糸と同じく白く輝く蝶々だ。雨が降っているというのにその翅に重みはなく、相変わらずひらひらと舞っている。


 「ギギ、ジィ、ィ……」


 化け物がどこか苦しそうな声を上げて私の肩口から口を離す。動こうと試みるも、糸に絡まれ動けないようだ。まるでさっきの私のよう。


 「まったく、困ったものですね」


 どこからか、清澄な声が響く。優しげでありながら、感情が篭っているかも怪しい平坦な音色。

 誰だろう、そう考えた瞬間のことだった。


 「ギ―――、ィ―――!」


 軋むような、苦悶の唸り。白い糸が蜘蛛の化け物を締め付け、そして。

 ばらりと玩具が解体されるように、化け物はバラバラになった。血の代わりに、黒い煙のようなものを噴出して。


 「……」


 呆気に取られた。もう昨日から散々呆気に取られているわけだが、やっぱり呆気に取られた。

 一連の出来事があまりにも現実感がない。昨日から何度も思っていることだけれど、本当に実感がない。

 だけど、肩に残る疼痛がこれが現実であることを嫌でも知らしめてくる。


 「無事……とは言い切れませんね。大丈夫ですか?」


 後ろからの声に反射的に跳ね起きる。

 振り向いたそこにいたのは、黒い服の男の人。黒髪に黒い服だから、上から下まで本当に真っ黒だ。年の頃はたぶん二十代前半だろう。少なくとも、私よりは年上、だと思う。中性的な面立ちをしているが、身長や声からして男性であることは間違いない。パッと見た感じ、かっこいいというよりも美人という言葉がしっくり来るような人だった。左目には眼帯をしているが、それのせいかやけにミステリアスな雰囲気を纏っている。

 ……というか、この背格好どこかで見覚えがある。細長いシルエットは、間違いなく昨日見たものと一緒、な、気がする。あれ、っていうことはこの人。


 「あ……あ……!」

 「?」

 「殺人犯の人だ!」


 男の人が小首を傾げるのと、私が叫んだのはほぼ同時。

 かすれていたのが嘘のような大声に、男の人も吃驚したみたいだけど他の誰よりも私が吃驚していた。


 「ええと……殺人犯? ……僕が?」

 「昨日、人を、黒い蝶々に……!」


 いまいち要領を得ないという男の人と、とにかくテンパっている私。肩は痛いけど、目の前には殺人犯(?)はいるし、さっきの蜘蛛はなんだったんだろうだとか、ああもう頭が混乱してる。ぐるぐるしてる。


 「ああ、あれですか。話すと長くなるのですが……とりあえず、僕は殺していないですよ。事後処理をしたまでです。気持ちは分かりますが、まずは落ち着いてください。はい、深呼吸」


 その人は私のところまで来るとしゃがみ込んで私に目線を合わせ、背中を摩ってくれた。どうも、悪い人には見えない。なんというか、胡散臭い感じがするのは否めない……けど。

 背中を摩る感触に、段々冷静な思考が戻ってくる。幾分か、マシになったみたいだ。


 「落ち着きました?」

 「はい、少し……」

 「怪我は……」

 「痛みますけど、そこまで酷くないみたいです」

 「そうですか」


 しかし落ち着いたのも束の間、今度は冷静に考えることが出来るようになったからか様々な疑問が頭をよぎる。

 昨日のあれはなんだったのか。さっきの化け物はなんだったのか。……この人は、何者なのか。


 「あの、貴方は一体」

 「でも」


 とりあえず素性が知りたいと声を上げた私の言葉と男の人の声が重なる。

 思わず口を噤んだ私をそのままに、男の人は静かに言い放った。


 「このままだと貴方、さっきの化け物と同じものになりますよ」


 穏やかな相貌は変わりなく。雨が降っていたら傘を差す、といった当たり前のことを言うような調子で、彼は言った。

 ……え?


 「ちょ、ちょっと待ってください。えっと、今なんて」

 「このままだと貴方、さっきの化け物と同じものになりますよ」


 一語一句違わず、先刻の言葉を反芻する。

 どういうことだ。そんなこといきなり言われても。


 「先ほどの怪物は人鬼蜘蛛(じんきちちゅう)と言いまして、あれに噛まれると呪いが全身に回り同じモノになってしまうんです」


 思わず肩口の傷に触れる。制服越しに突き立てられた乱杭歯。手を触れるとぬるりとした感触がして、見てみればじんわりと滲む血。止まない疼痛。

 あれだけ非現実的なことに巻き込まれてしまえば、この人の言葉を信じざるを得なかった。

 思い出すおぞましい姿。ぎょろりと見下ろす一つ目、ぎちぎちとなる乱杭歯、粘着質な糸、鋭い脚。人ならざる、現ならざる異形。

 私が、アレに……?


 「い、嫌です! 私あんなのになりたくない!」


 人を襲う化け物。末路は、たぶんこの人や、この人と同じような人に化け物として退治されてお仕舞い。

 そんなの絶対嫌だ。まだ十年とちょっとしか生きてない。執着するほど熱中していることはない。だけど、友達もいる。家族もいる。学校は楽しいし、一応夢がないわけでもない。ついでに学校の前の行きつけの定食屋の大盛りメニューも制覇してない。この世への未練はたらたらだ。死んでたまるか。


 「そうでしょう。僕も無視したくないです。僕の過失でもありますし……ですから」


 男の人がすっと人差し指を虚空に翳した。どこからともなく、辺りを舞っていた蝶の一匹が指に止まり、そして。


 「え……」


 反した男の人の掌の上で、姿を変えた。一枚の紙……見たところそれは、名刺のようであった。

 面に笑みを浮かべ、彼はそれを私に差し出した。反射的にそれを受け取る。


 「当探偵事務所にお任せくだされば、貴方の呪いを解いてみせましょう」


 名刺に目を落とす。それには『霊媒専門探偵事務所 胡蝶の夢』と書かれていた。それと、事務所の所在と……雨桐桔梗あまぎりききょう、恐らく、この人のものとされる名前が記されていた。

 女の人みたいな名前だなぁ、とか考えながら蝶が名刺に変わったことにすでに順応し始めている自分に人間の順応力ってすごいな、なんてぼんやり思った。


 「さて、どうします?」


 選択の余地はない。私はまだ死にたくないし化け物になんてなりたくない。


 「……お願い、します」

 「はい。お請けしましょう」


 なんだか大変なことになった気がする。やっぱりまだ夢を見ている気分だ。でも、肩の疼痛は現実のものだし滲んだ血も本物だ。


 「そうと決まれば事務所でお話をしたいところですが……今日はもう遅いですね。その様子だと、すぐに人鬼蜘蛛になってしまうようでもありませんし。事務所へはまた後日、お越しください。そうですね、明日にでも。何かあるといけませんから、ご自宅までお送りしましょう」


 言いながら彼……雨桐さんは立ち上がって座り込んだままの私に手を差し伸べた。取った手は、まるで空気や水を掴んでいるようなあやふやな感じがした。

 なんとか立ち上がり、なんとはなしに自分が蹲っていたところに目を向けてみる。……後悔したのは、直後。


 「……え、あ、うわっ」


 私がいた場所のすぐ近くに、人が倒れていた。ぴくりとも動かないそれは、昨日見た死体を思わせる。いや、思わせるというよりもそのもの……死体だ。雨桐さんの登場に気を取られて全然気がつかなかった。


 「ああ、忘れていました」


 別段動揺した様子もなく、雨桐さんはその人に近付いていく。


 「貴方が見たのは、たぶんこれですね。事後処理……胡蝶還しと、僕は呼んでいますが」


 ざわりと、昨日と同じように空気が変わる。周囲を舞う白い蝶の密度が上がる。雨桐さんが、死体に手を翳す。そして、“何か”を引き上げる。

 ぶわりと、黒い蝶が死体から溢れ出す。夜よりも黒い、黒い蝶。


 「詳しいことは追々話しますが……あの姿になってしまった人間の魂を放っておくとまた同じような化け物を生むことになってしまいます。これは、その魂を呪いから解放する儀式のようなものです」


 まるで昨日と同じ。黒い蝶は、ある者は赤い光の蝶となって、ある者は青の、ある者は金色の、ある者は紫の、翡翠色の、白の光の蝶となって空へと還っていく。

 黒い蝶を吐き出し続ける死体は、どんどん白骨死体へと変貌していく。

 幻想的で、猟奇的な光景。けれども、二度目のそれはどこか物悲しかった。

 最後の一匹が、空へ舞い上がる。死体は完全に白骨死体となり果て……それもやがて霧散し、雨粒に溶けていった。


 「……はい、終わりました。では行きましょう。雨に当たりすぎてしまいましたし」


 何事もなかったかのように。雨桐さんはモスグリーンの傘……私の傘が落ちている方へ歩き出す。

 それを取ると、突っ立ったままの私にそれを差し出した。


 「随分濡れてしまいましたから、あまり意味はないですけどね」

 「あの、貴方は傘は……」

 「僕に傘は必要ないんですよ。これ以上、冷える体ではありませんから」


 妙に意味深な言葉を告げて、雨桐さんは私の先を歩き出す。あれ、私の家の方向分かってんのかな。

 疑問に思ったのも束の間、ふと立ち止まり振り返って、一言。


 「ご自宅は、どちらですか?」


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