海辺のリンゴ売り

灯火野

海辺のリンゴ売り


 実家から大量のリンゴが送られてきたのは、年末の帰省からアパートに帰ってきて一週間もしない頃だった。ただでさえほとんど料理もしていないのに、リンゴなんか貰ったってどうすればいいんだとしばらく丸かじりで消費していたけど、かじる顎がくたびれるのが嫌になって包丁を使うようになった。久しぶりにリンゴの皮をむいていたら、左手の親指を少し切ってしまった。じゅっと舐めるとそれはリンゴの味がして、少し不思議な感じがした。

 一人暮らしを始めて、三年目はあっという間にやってきた。この部屋が都になってから、もう二年以上が経つのだという。にわかに信じられないのはどうしてだろう。

「うわ、雨とか聞いてねえし」

 天気雨って、聞こえはいいけど正直困る。この前も講義の途中に降ってきて、日の光に騙された俺は雨がやむまで大学の講義室で生産性のない時間を過ごさざるを得なかった。

 ベランダに出ると、まだしっとりと洗剤の香る洗濯物がゆらゆらと揺れていた。

「ま、まだセーフか?」

 一番お気に入りのシャツを一番に手に取って、鼻を近づけてにおいを嗅いだりしてみる。埃っぽいにおいはまだ少しもついていなくて、洗剤の甘い香りが全身を癒しにかかってくる。雨脚が強くなってくるのを、踏切の警報が煽る。ベランダから外を覗くと、目と鼻の先に遮断機のない小さな踏切がちんまりとあるのだ。カンカンカン……、赤い光は霧のような雨にかすんでその輪郭を大きくする。

 ……ぼやっとしてる場合じゃない、急がないと。

 物干し竿から乱暴にハンガーを外し、抱えるようにして部屋に戻る。部屋を横切る白い物干ロープに引っ掛けると、その重みに歪む放物線は俺を不安にさせた。




「せんせー! こんちは!」

 こんちはーこんちはー、と立て続けに制服姿の少年少女が入ってくる。

 前述した踏切を挟んで斜め前に、小さな学習塾がある。引っ越したその年に募集のポスターを見かけて、少し興味をそそられてその日のうちに電話をした。あれから働き続けて今年で三年目。当時一年生だった中高生は受験期を迎えている。

 彼らはよくまあそんなことまで、とこちらがたじろいでしまうほどの質問を抱えていつも塾にやってきた。「だって学校じゃ恥ずかしくて聞けないんだもん」と彼ら彼女らは口を揃えて言う。

「どうして塩水につけた釘の方が錆びやすいの?」

「塩は水に溶けると電離するだろ? そのせいで鉄と水との酸化反応が進みやすくなるんだ。酸化や還元の反応が電子を介して進むのは学校で習っただろ」

 ふうん、と呟く表情がまだ納得していないと言っていた。質問は続いていた。

「じゃあ、どうしてリンゴを塩水につけると茶色くなりにくいの?」

 そこで俺は彼女の納得いかない表情の真意を知る。まずは質問に素直に答える。

「ああ、リンゴを茶色くしてしまうのはリンゴに含まれてる酵素のせいなんだ。塩水につけることでその酵素があんまり働かなくなって、変色しにくくなるってわけ」

「同じように塩水につけてるのに、酸化しにくくなったりしやすくなったり、変なの」

 変、か。思えば歳を重ねるごとに変だ、不思議だと思うようなことが減ってきたような気がする。人間二十年も生きていると、現象には何かしら自然科学に乗っ取った原因があると思えるようになってくるし、幽霊だってどうせ枯れ尾花なのだと一種決めつける風な思考も手に入る。妥協も諦めも現実という言葉も、大人になったことで手に入った腐った宝物のような気がする。

「塩水がどのように働きかけてるかによって違うってわけだな。釘の場合は酸化の原因が塩水そのものだけど、リンゴの場合は酸化の原因はリンゴ自身に含まれてるからさ」

 あーそっかぁー、彼女は何かとノートの端っこにメモをとる。時計を見たらもう塾が終わる時間だった。

「そろそろ閉めるぞ、キリのいい奴から片付けろ」

 カンカンカン、踏切の警報が鳴る。授業の終わりのチャイムを聞いたように、彼らは驚くほど手早く片付けをすませる。

「そういえば先生、港って見たことある?」

 授業の最後、塩水の話をしていた生徒が俺に話しかけてきた。

「海はあるけど、港はないな」

「私さっきの話聞いて、港でリンゴを売れば儲かるんじゃないかなって思ったの」

 それはまた、予想しない発想だった。

「リンゴは茶色くならないから沢山切って試食に出すの。売り物のリンゴも変色しにくいから、少しだけ長い間売り物として扱えるでしょ? だから、普通に売るより儲かるんじゃないかな」

 楽しそうに話して、俺が何か言う前にばいばーい、と海風のように去っていった。

 塩水と聞いて海辺を思い浮かべる発想力さえ自分には残っていないのかと寂しく思ったりした。そして今「なぜ海辺には雪が積もらないのか」という科学現象について考えていた自分がつまらない人間であるような気もした。

 塾長に挨拶をして、後ろ手に教室の扉を閉めて帰路につく。

 どうして学校みたいな環境に一日二回も通わなくちゃならないんだ。俺は塾で働きながら、誰もが想像する〝塾〟だけは作りたくないと思っていた。挨拶は元気だけど、心なしか疲れたような表情で入ってくる生徒達に、机に向かった「お勉強」を強いることに苦痛さえ覚えた。

 踏切につく。警報機は鳴っていない。

 教科書通りの勉強なら、学校だけで十分だ。勉強の仕方を教えるのは学校だ。俺は勉強の楽しさを教えてあげたい――そう思っていた。なぜ? どうして? と考えることも面倒くさがって諦めるような大人になる前に、いろいろなことに目を向けられる人間になってほしいと強く思うようになった。

「そうだ」

 今度みんなで、海に行こう。

 波動が連続する点の上下運動であることを、日中の陸風と夜の海風を、肌で感じよう。置き去りにされている自転車の錆び具合を観察しよう。リンゴに海水をかけてみよう。

 勉強はやらなきゃいけないことじゃない。やればやるほど世界が深く楽しくなっていくんだと、身体で感じられるように。

「行こう、行くしかないだろ」

 この辺りに、行こうと思ってすぐいけるような海はない。車を用意して、運転手も友人を誘っていかなければいけなくなるだろう。それでも、そうなっても、どうにかして海に行きたいと歩調は速まる。

 もしかしたら海辺のリンゴ売りに会えるかもしれない。

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