Small Town Talks ー天使たちのシーンー

高梨來

第1話

「君は天使に会った事があるかい?」

 すっかり通い慣れたバーの片隅。壁際の特等席にそっともたれかかるようにしながら、彼は唐突にそう尋ねるのだった。




「あいにく、信心深い方では無くってね」

 苦笑い混じりにそう答える僕を前に、柔らかに瞳を細めながら彼はこう返す。

「いや、そういう意味ではないんだ。勿論、何かの宗教の勧誘でもない。誰でももしかしたら会った事があるはずの、天使の話だよ」

「僕みたいな、生まれてこの方ツキに見放されたような人間でもかい?」

「ああ。それに、もしかしたら君だってこれから幾らでも誰かの天使になれるのかもしれない。そういう話さ」

「……興味深いね」

僕の返答に気を良くしたのか、ブランデーグラスを片手に、こちらへとそっと身を乗り出すようにしながら彼は答える。

「今から話す話は、僕にとってはある種の真実だ。でも、君にとってもそっくり同じとは勿論限らない。それでも僕は、君がこのほら話みたいな話を最後まで聞いてくれたら少しは救われた気持ちにもなれるんじゃないかと思っている。そんな話だ。いいかい?」

「ああ、勿論さ」

 にこりと微笑みながらそう答えると、彼はいかにも気を良くした、とでも言いたげにやわらかにほほ笑み、滑り出すような語り口でそっと話始める。

「たとえば幼い子どもの邪気の欠片もない微笑みを見た時、『天使の微笑みだ』なんて言う事があるだろう? あれは本当に彼らに、天使が宿っているからこそ言える事なんだ。どうしてそんな風に言えるのかと言えば、答えはひとつ。例えば、生きる事に投げやりになってもう死んでしまっても構わないと命を投げ捨てる覚悟をしていた若者がある日、公園で偶然幼い子どもと視線があったその時に無邪気な微笑みの歓迎を受け、こんな日に死ぬのはやめようと思いとどまった事があったとするだろ? 一人の若者を救うきっかけになったその瞬間、幼子は彼にとっての天使だったと言える」

「成程ね……」

「その話を聞いて思い出した事があるんだ、いいかい?」

「あぁ」

 あたたかなその眼差しに促されるように、僕はそっと話を切り出す。

「僕の知人に、ある日、ひどく気持ちが塞ぎ込んでもういっそこのままホームに飛び込んで、次に来る電車に身を投げて死んでしまえたらどれだけ楽だろうかと思った男が居たんだ。『そんなバカげた事をしてたくさんの人に迷惑をかけて、どう償うつもりだ。』理性でどうにか食い止めようとしても、その衝動はそう簡単に拭い去れるものではなかった。もうどうなったっても構わないと足を踏み出そうとした、その瞬間だった」

「彼の耳に飛び込んできたのは、ホームで電車を待っていたたくさんの子どもたちの歓声だった。その声に目を上げれば、その瞬間、ホームに今まさに滑り込もうとしてきているのは、沢山の子どもたちを乗せた、TVで活躍するヒーローの絵柄に包まれたラッピング列車だった。その時、彼は思ったそうだよ。『ああ、自分は一体何をするつもりだったんだろう。これじゃあ子どもたちのヒーローを危うく殺人者に仕立てあげた挙句に、彼らの思い出のひと時をズタズタに引き裂く所だったじゃないか。こんな後先も考えられない身勝手な自分に、死ぬ資格なんてないんだって』」

 時折小さく頷くようにしながら僕の話にひとしきり耳を傾けていた彼は、満足げにやわらかく微笑みながらこう答える。

「うん、素晴らしい話だね」

「この場合の天使は電車とそれを楽しみにしていた子どもたちと、どちらなんだろう」

「そこはやっぱり、その電車に宿ったヒーローに軍配が上がるんじゃないかい?」

 にこり、と穏やかに微笑みながら彼は続ける。

「まぁ、少し深刻なケースばかりを取り上げたけれど、決してそれだけではないんだ。例えば仕事の前に立ち寄るコーヒースタンドの女の子に穏やかな笑顔で『いってらっしゃい』を言われたり、朝の散歩中に出会った犬を連れた老人に『おはよう』の挨拶をされたり。そんな些細な事で、なんだか少しだけ気分が晴れるなんて事、ないかい? そんな些細な幸福の瞬間をもたらしてくれるのが、天使の存在なんだ。時折、自分はもうツキからは完全に見放された、生きていてもいいことなんて一つもないと嘆く人が居るだろう? そんな事はないんだ。ただ、彼らは日常に潜む天使の存在に気づいていないだけなんだよ」

「そんな彼自身だって、誰かにとっての天使かもしれないのにって?」

「そう、そういう事」

カラリ、とグラスの中の氷を傾ける音を立てながら、得意げに彼は答える。屈託のないその笑顔は、どこか年齢不詳な彼の存在感をより一層際立てているかのようにも見える。

「ひとつ尋ねてもいいかい?」

「あぁ」

 薄い琥珀色のその瞳をじっと見つめながら、僕は尋ねる。

「君の今までの話を総合するのなら、天使というのは何か特別な存在ではなく、人々の中に存在する概念のような物だという事になるだろう? それなら、僕らが数多の絵画や神話の中で見聞きした天使の役目は一体何なのか、君には分かるかい?」

「……あくまでも、僕が耳にした話でよければ」

 前置きのその後、彼は答える。

「天使というのはね、本当はとても無力で、あくまでも人間たちの生活を天上からそっと見守る事しか出来ないそうだよ。せいぜい出来るのは、ちょっとした悪戯程度だそうでね。例えばほら、この店を出て少し南に行くとゆるい坂道があるだろう、そこを歩く女の子の買い物袋からオレンジを一つ零して、転がったその先に居る男の子に拾わせるだとか」

「俗に言う『運命の悪戯』ってヤツだね」

「そうそう」

 僕の言葉を前に、彼は屈託なく無邪気にほほ笑む。

「例えばこのバーに、別れ話を切り出しにきたカップルが居るとするだろう? もしそこに居合わせた天使に出来る事があるとすれば、生演奏に来たピアニストの曲目にアドリブで、彼らの思い出の曲を演奏させる事くらいなんだよ。その結果彼らの心をほんの僅かに解きほぐす事くらいは出来るだろうけれど、凍てついた関係そのものを溶かす事は出来ない。皮肉な物だと思わないかい? 今この瞬間にだってきっと、世界中で『神様お願い、どうにか私を救って下さい』だなんて切実な祈りを捧げている人たちは沢山いるはずなのに、全知全能の神の使いであるところの彼らに出来る事と言ったら、せいぜいほんの一滴のきっかけを与えてやるくらいなんだ」

「……神様なんて居ない、世界は残酷だと世を儚む若者が増える理由だね」

「そうそう君たちに都合のいい神様が居てたまるか、って返してやりたいよ」

 皮肉めいたそんな台詞と共に浮かべられたうっすらとした微笑みを、僕は素直に心地よく受け止める。

 グラスをそっと傾けたまま、どこか遠い場所を夢見るかのような眼差しをして、彼は呟く。

「結局、人を動かせるのは人だけって事なんだよ。神なんて存在は、所詮は大元の創造主でしかないんだからね。よくみんな、運命だなんて好き勝手な事を言いたがるだろ? あれだって不確かな物だよ。世の中で起こりうる大抵の事案なんて皆、人と人が複雑に絡み合ってぶつかり合って起こした波紋に過ぎないのに、人は何かと言えばそれらを神の筋書による運命だとか『神が与えたまえし試練だ!』なんて言いたがる。それもみんな、そうした方が楽だからだよ。だって、そう言って神様のせいにしてしまえば、責任なんてとらなくって済むんだからね」

「そして、振る舞い次第で天使にも悪魔にもなれてしまうのが、その神の作った人間ってわけだ」

「全く、さすがは神の作りあげた最高傑作だよ」

 答えながら、目を伏せたまま乾いた笑い声をあげるその横顔を、僕はグラス越しにそっと盗み見る。

「それにしても面白い男だね、君は」

 ゆるやかにほほ笑みながら、彼は言う。

「こんな茶番にここまで丁寧に付き合ってくれる相手は、君が初めてだ」

「君の話が魅力的だったからじゃないかな」

「おまけに褒め上手ときたもんだ。そのスキルはもっと他の場面で使った方が有効だとは思うけれどね」

「ご忠告どうもありがとう」

 答える代わりのように、彼は見えない帽子をひょいと持ち上げながら軽く会釈を返してくれる。

「ああ、もうこんな時間なんだね」

ちらり、と壁時計の方を見つめながら彼は言う。

「すまないね、この後約束があった事を思い出したんだ。僕は今日はこれで失敬させてもらう事にするよ」

 君は、という問いかけを前に、手にしたグラスをそっと傾けながら僕は答える。

「もう少し呑みたい気分なんでね。どうぞ、お構いなく」

「……そう」

 ガタリ、と音を立てながらそっとその場を立ち上がろうとする彼を前に、僕は言う。

「ねえ、最後に一言だけいいかい?」

「ああ」

 立ち上がったままの彼に、僕は続ける。

「ここに、一人の男が居る。男は世の中の全てに絶望した挙句、衝動的に死ぬことにした。どうせなら死ぬ前に、行きつけのあの店でボトルに僅かに残したままのウィスキーを飲み干してしまおう。そう思って酒場に行ったその筈なのに、そこで偶然出会った男と他愛のない与太話に花を咲かせるそのうち、当初の目的が何だったのかなんてさっぱり忘れてしまう。

それに気づいたのは、相手をしてくれた男が酒場を去ろうとしたその瞬間、二人で飲み干してしまったウィスキーの空瓶が目に入ったその瞬間だったとする」

「もしそんな事が地上のどこかで起こったのだとしたら……死ぬつもりだった男を地上に引き止める役割を果たしたその男は、立派な天使の役割を果たしたと言える。そんな風には思わないかい?」

「……奇跡みたいな話だね、まるで」

 溜息を漏らすかのように穏やかにそう答える彼を前に、僕は続ける。

「今この瞬間、この夜にも、きっと沢山の小さな奇跡は起こっているんだ。恐らくその何割かは、無自覚な天使たちの気まぐれによってね。

この地球上の全ての人たちの悩みや苦しみは消え去る事など無い。それでも、天使たちのくれる小さな奇跡は沢山あって、それに気づかないうちに救われてる人たちは沢山いるはずなんだよ。そう思うと、なんだかワクワクしてこないかい?」

 こくり、と小さく頷くその仕草に、心がほどけて行くような安堵感を僕は覚える。こんな感情を抱いたのなんて、思えばいつ以来だろうか。

「君の神様に、よろしく頼むよ」

「ああ、こちらこそね」

 穏やかに目を細めるようにしながらそう答える彼を前に、僕は残り少なくなったグラスをそっと傾けながら、笑顔でそう返す。


 その時、彼に気づかれないようにそっとその足元に伸びる影を見た僕は、思い通りのその答えに思わずにっこりとほほ笑む。

 一体このバーに居るうちの幾人が、それに気づいて居ただろうか。勿論、たとえ気付いたとしても見て見ぬふりを貫き通した優しい人ばかりだとそう信じてはいるけれど、ね。


ひらりと軽く身を翻すその背からそっと、薄くやわらかな羽根がひとつ、舞い落ちるのを僕は見た。

勿論、それは、誰にも見つからないように拾ってしまったけれどね。

この手帳の裏表紙にこうして挟んであるのがその時のそれだと言って、信じる人はどのくらい居るんだろうか。


「要するに、彼は天使だったってこと?」

「そう、そして僕も。勿論君もね」

「そんなこと言ったら、地上が天使だらけになっちゃうじゃない」

 呆れたと言わんばかりに笑う彼女を前に、僕は答える。

「それでいいんだよ。違いがあるとしたら、未だ翼を隠し持っているか、とうの昔にそんなこと忘れてしまったのかのそれだけだよ」

 からり。グラスの中の氷を揺らしてそう音を立てる僕を前に、どこか悪戯めいた笑みを微かに浮かべながら、彼女は答える。

「……ねえ、もしも。もしもの話よ。例えば、私の隠し持ってる翼が漆黒の色だったとしたら、貴方はどうするわけ?」

「和平交渉でもはじめるんじゃないかな? 思想が違うからと言って跳ね除けたり、こちらの色に無理に染めたりはしたくないんだよね。日和見主義だなんて呆れられるかもしれないけど、僕はそうやって生きてきたし、これからもそうするつもりだから」

「……おかしなひと、ほんとうに」


 笑いながら、微かに揺れるその肩越しに僕は、幻の翼がすらりとその姿を現すのを見つける。

 それが何色だったのは生憎、間接照明の淡い色に遮られてわからなかったけれどね。


 今日の天使よ、いつもありがとう。

 まるで呪文を唱えるかのように心の中だけでそっとそう呟きながら、僕はそっと飲みかけのそのグラスを宙にかかげる。

 その時微かに耳に届いたカチリという音は君たちのうちの誰かの悪戯だったと思っているけれど、合っているかい?

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Small Town Talks ー天使たちのシーンー 高梨來 @raixxx_3am

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