ほしよみ

度会アル

ほしよみ

カッ、カッ、カッ、カッ


秒針が時を進める。規則正しく、気付かないほど若干の誤差を伴いながら。


カッ、カッ、カッ、カッ


塔のごとく鎮座する、年代物の振り子時計。二メートルを優に超え。

は、彼が前日に巻いたばかりだった。カーペットを跨いで部屋の反対側、窓の下に配置されたふかふかのベッドに眠る彼が。分厚い紺色をしたカーテンの隙間からこぼれるのは、強く差し込む残照の赤紫。ひたすらに濃く、どこまでも深く。


カッ、カッ、カッ、カッ


重い振り子が時を刻む。右に揺れ、左に揺れ、一秒また一秒。

斜陽は地平線の近くから。沈み行き、名残惜しそうに彼の顔を照らし。天使のように清らかで静かな寝顔を、決して目覚めることのないように見える彫像のような少年を照らす。そして、同様に振り子時計をも。

その光が、彼らを照らさなくなった時。

電力を使わずして、時計がモーターのような唸りを上げた。内部で発条が、歯車が、一斉に動き出したのだ。高速回転音が一秒か、二秒以下静寂を破った後に。


コォーン、コォーン


響く、金属的な、独特の、鐘の音。深い残響音は薄暗闇を切り裂いて、部屋を満たして埋め尽くす。少年が、目覚める時だと。

それは、呼応。

密閉された部屋に届くはわずかだが、合唱のごとく、もしくはただの不協和音のような、あちらこちらと彼の住む街至る所で鐘の音は鳴り響いていた。軽い音も、重い音も。

それは、覚醒。

死体の如く眠り続けていた街の住人が、ゾンビのように音も無く上体を起こす。彼も勿論、同じように。

起きて、彼はまずカーテンを開けた。地平線の辺りはまだ少しばかり明るいが、見上げれば三等星くらいまでが見える。作り物のような雲一つ無い空。それを暫く眺めた後にため息を吐いて、彼は身支度を始めた。夜にしかできない彼の仕事。

彼は、星詠みだった。


カッ、カッ、カッ、カッ


静かな部屋に動きを与える、ドアの傍に置かれたアンティーク。

彼はドアを引き、暖かな光に満たされた小さめのダイニングキッチンへと向かう。


トッ、トッ、トッ、トッ

カチッ、カチッ、カチッ、カチッ


モノトーンなスタンダードの壁掛けクォーツ時計、キッチンタイマーを兼ねたデジタル時計、テーブルの上にも小さなクォーツ。

木目そのままで素朴な味のテーブルには焼いたばかりのキツネ色トーストと、半熟目玉焼きが用意されている。彼の母親が寝る前に引き継ぐ唯一のものだ。その目玉焼きをトーストに乗せ、その両方が落ちないよう器用に咥えて少年は外に出た。


コッ、コッ、コッ、コッ

トトン、トトン、トトン、トトン

ジーーーーーーーーー

ポッ、ポッ、ポッ、ポッ


それぞれの家から、別々の音が聞こえる。上から降ってきて、下からこみ上げてきて。

彼は家の目の前にある落下防止の錆びた柵に寄り掛かり、表札に並び埋め込まれた防水の万年時計の針がずれていないか確認し、空を見上げる。立ち並ぶ数百メートルの高い塔と、その半ばにいくつもある窓。全て光が洩れないように分厚いカーテンが引かれている。そして深くまでどこまでも続いている、彼の家と同じようなドアと柵。

それらの向こう、遠く小さく四角く切り取られた空を視界に収めた。何も考えずにただ星を眺めることができるのは、純粋にそれらを綺麗だと思うことができるのは仕事に行く前のこの一時だけで。たといどんなに狭くとも、自由に観測するという行為は彼の心を躍らせた。

しかしそれも束の間の休息。すぐに彼は階段を登り始める。近くのエレベーター停留場まで十五分程度。次の便に間に合うか、と彼はローブから手を出し部屋で時間を合わせたハンターケースの懐中時計を握る。蓋のバネが壊れている為に、ロックを外したら手で開く必要があった。


チッ、チッ、チッ、チッ


問題無し。いつも通りの早足で足りると判断した。

彼の懐中時計は、仕事をするようになった初日に彼の父がくれたものだ。エレベーターの乗降士である彼の父は、いついかなる時もエレベーターを正確に動かす必要がある。初任給で買った安物のこの時計はすぐに蓋のバネが壊れ、ガラスは煤で汚れてしまった。いくら擦っても文字盤の左半分はかなり見辛い。それでも少年は喜んでこの時計を使っていた。毎日ちゃんと手入れをして、発条を巻いていた。

もう一度、彼は時計を確認した。停留場の目の前、エレベーター到着まであと二分。今日も完璧、と満足げにカチリと時計の蓋を閉めた。

ゲートをくぐりホーム、黄色い線より内側を守る。目の前は虚空、下を覗き込もうと上を見上げようと深く黒々とした穴。


ゴオオオオオオオオン


地鳴りのような低い音が遥か下から響く。光無き世界を突き抜ける、音を纏った高速移動の昇降機。それが徐々に速度を落としていることと着実に近付いていることを音は知らせていた。

その黒く四角い箱はチン、と時計とは違った軽い金属音を発し停留場に着いた。

音も無くドアが開く。

中から暖かい光が漏れた。

降りる客はいない。躊躇せず、少年は一歩を踏み出した。若い乗降士がドアを開けていた。他に乗る客もいない。


チッ、チッ、チッ、チッ

チッ、チッ、チッ、チッ


乗降士がレバーを降ろし、ドアを閉めエレベーターを動かす。

他に客もおらず、だからこそ無音だった。エレベーターの駆動音も移動音も殆ど聞こえず、無音に、ただ懐中時計の音が二人分、寂しくずれて鳴っていた。首からぶらさげた乗降士のオープンフェイスがより大きな音を立て、その隙間を埋めるようにして少年の時計が控えめな音を出す。

静かで、鳴っている音がそれだけである、が故にかえって音が全く無いような錯覚を得る。いくら耳を澄ませても、二人には何も聞こえない。どこまで行くにも、静かなエレベーターの中に。


                   *


途中で止まることなく果てしない高さの最上階まで上ったエレベーターは少年を降ろし、また下へと降りていく。


オオオオオオォォォォォン


静かな唸りを上げて。それを見届けてから、彼は最上階の停留場――競技場の如し広さ、天井の高さでそこには星空、星座線が描かれている荘厳な建造物――を後にした。観光に訪れる人も多いこの停留場だが、外に出られるのは星詠みだけだ。

何本も伸びている歪ででこぼことした石の渡り廊下のうち一本を確実に選び、自身の持ち場へと歩いていく。窓も無い松明だけの廊下だが、足下は中空。分かれ道も迷わず選び、やがては突き当たりへと到達した。

円形の狭い空間に大きな柱が立ち、その周囲を大蛇のような螺旋階段が這っている。そして、階段下には小さな木の机と椅子。その引き出しに愛用の懐中時計をしまう。

星詠みにとって、音と時間は邪魔にしかならない。

家の鍵や財布をも置いて、引き出しの鍵だけを持ち螺旋階段を上る。


カツ、カツ、カツ、カツ


軽い足音が反響してこもった音になる。時計のように規則正しく、しかし決して一定のリズムを刻んではおらず。灯りも少なく仄暗い足下をしっかりと確認しながら、少年は上を目指す。時間を確認する手段はもう無い。それでも大体の時間を把握することなど彼にとっては造作もないことで、確実に間に合うと踏んでペースを早めることはしなかった。果たして、時間もかけず螺旋階段は松明ではない光によって照らされる。

影ができるほどの明るさを持った、自然の光。

月も出ていないのに、星明かりは彼をはっきりと照らすほどに眩しかった。


そして、彼は外に出る。五感全てを邪魔するものも無い、この街で一番高い場所。窓の無い塔の屋上だ。かろうじて同じ高さに並んでいるのは、彼と同じ星詠みの塔しかない。


無音。静寂に包まれた空間。


そこからは世界が視えた。

眼下には蜘蛛の巣よりも歪で複雑で深く高く此岸で二番目に美しい街並みが見渡せる。高い壁に囲まれた小さく広い街は、空と地中深く双方向に今尚成長を続けていた。

その成長が到達しない遙か高み、見上げた夜空は世界一美しいもの。塔から果てしなく水平線の先まで続く、無数の瞬き。

ある人はそれを燃える球体だと説明し。

ある人はそれを天球に空いた針穴だと言い。

そんなものに魅入られて、想いを馳せて、狂ったように追いかける。彼らが躊躇せず仕事としてしまうほどには。彼の場合は、それらを読み解こうとすることで。世界の法則全てがそこに集約しているのだと信じて。

この街から見える星はそれこそ狂気を起こしてしまうほどに、びっしりと隙間なく夜空を埋め尽くしていた。その狂気で隠すようにして、彼ら星々は真理を語りかけてくる。世界の真の理を、万物の法則を。

では、と。その声を聴くのが仕事であるとして、星詠みの少年は仕度を始めた。

塔の隅に細長い小屋のようなものがある。とはいえ車輪が付いており、床とは鎖で繋がれていた。その鎖を外し、短い辺にある観音開きの戸を開けて小屋の方を動かした。出てきたのは、ドブソニアンと呼ばれる巨大な鏡筒を持つ望遠鏡。少年が作ったものだ。

それが歪んでいないことを確認し、早速と土台に足をかけ手すりを掴んで力一杯引っ張る。ぐるり、と鏡筒は向きを変えた。その後高さをキュグニへと大まかに合わせた後、ファインダーから目的の星を中心に入れる。続けて、鏡筒から飛び出た接眼部に目を近付けて位置の微調整。

映り込んだ対象の星は一つではなかった。海よりも青く透き通った宝石のような輝きを持つ星と、金よりも美しく黄色に近い光り方をする星。二つの星は互いの引力で引っ張り合い、決して離れること無く周り続ける連星。まとめてキュグニβと呼ばれる星だ。それらの儚く瞬く様をつぶさに観察して、記録する。必ず毎晩観測する星を星詠みは決め、少年の場合にはキュグニβがそれであった。なにぶんこの美しさである。その有り様を心に刻み付け、不規則に揺らぐ表情を読んだ。

記録が終わると、彼はまた鏡筒を押さえ回転させる。次はレオニスβ。そしてバルゴと次々に必要なデータだけを取っては望遠鏡を別の方角に向ける。文字通り休む暇も無く、神経質になり星の動きと望遠鏡の動きを同調させる。沈みゆく星を観測してから順番に上ってくる星を観測して、観測し続けて、その繰り返しだけをただ繰り返す。いつまでもいつまでもいつまでも星空を見ず、星だけをただひたすらに夜が明けるまで、追い続けた。そして最後に、になって、薄明の赤白く透明な青緑に染まるしたたかな赤いオリオンのα星、いつ爆発するか分からないその変わりゆく不安定な輝きを望遠鏡の向こうに見、望遠鏡を畳んだ。


                  *


螺旋階段を下った先に、小さな木の机があった。椅子を引き、腰掛けてから引き出しの鍵を開ける。中から懐中時計、アルコールランプ、マッチを取り出して火を灯す。


チッ、チッ、チッ、チッ


時計は規則正しく時を刻む。いつまでも。

それから、彼は更に引き出しの中を覗いて羊皮紙と万年筆、黒インキを取り出した。日報であり新聞である星詠みとしてもう一つの仕事をこなす為に。

先刻までに記録した星の情報をまとめ、その意味を自身が理解する範疇で説明する。明日のお天気、歴史の動きゆく様、この街の未来、大きな単位で区切った占い、それら全てを一メートル程の羊皮紙一枚に一字一句注意しながら一気に書き起こす。目が疲れきって霞んでしまう前に。書き上げて、丸めて紐を結ぶ。最後にインキの蓋を閉め、アルコールランプの火を消して、時計以外を全て引き出しに閉まって、彼は立ち上がった。

何本も伸びている歪ででこぼことした石の渡り廊下。窓も無い松明だけの長い廊下。足下は中空。分かれ道は合流している。その道を戻り、やがて広い停留場へと。まがい物の星空の下へと。

いくつもあるエレベーター、自宅最寄りを通る路線に乗る。偶然にも、先程と同じ乗降士。


チッ、チッ、チッ、チッ

チッ、チッ、チッ、チッ


時計は規則正しく時を刻む。二人の時計が、それぞれの時を。発条を巻くことで、時を進める。

少年は丸めた羊皮紙を、乗降士に渡した。乗降士はこうして荷物の受け渡しも担当する。日常だが、この日は少年が乗降士に笑いかけた。乗降士も、彼に微笑み返した。

それも一瞬のことで、エレベーターはすぐに少年が降りるべき停留場に着く。会釈をして、軽く手を振り、彼は降りた。そして明るくなっていく高い空に照らされながら、階段を降りて行く。


コッ、コッ、コッ、コッ

トトン、トトン、トトン、トトン

ジーーーーーーーーー

ポッ、ポッ、ポッ、ポッ


それぞれの家から、別々の音が聞こえる。上から降ってきて、下からこみ上げてきて。

表札に並び埋め込まれた防水の万年時計をわざわざ見て時間を確認し、家に入る。


トッ、トッ、トッ、トッ

カチッ、カチッ、カチッ、カチッ


ダイニングキッチンには、モノトーンなスタンダードの壁掛けクォーツ時計、キッチンタイマーを兼ねたデジタル時計、テーブルの上にも小さなクォーツ。

木目そのままで素朴な味のテーブルには、彼の為だけに用意された夕飯がある。母が外出前に用意したもの。それをあっさり平らげ、自室への扉をくぐる。


カッ、カッ、カッ、カッ


振り子時計は、彼の帰りを待ち侘びていた。早速と、発条を巻き直す。


カッ、カッ、カッ、カッ


規則正しく、時計は秒針を進める。誰がいても、いなくても。動き続ける限りは。


カッ、カッ、カッ、カッ


動き続ける限りは、時を進める。少年がいま、眠りについても。


                                   [了]

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ほしよみ 度会アル @al_watarai

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