ピアノの神童

 クロードが手短に仕事の説明をしてから1時間程経った時、女性の乗務員がドレスの入った箱をガラガラと台車に乗せてルナの部屋に持ってきた。

 手際よく寸法を測るとピッタリの大きさのものを選んで試着を繰り返し、ヘアメイクを整え、あっという間に変わった自分の姿を鏡で見て、ルナは半ば放心状態だった。


——淡い水色のシンプルなパーティードレス。

 長い黒髪はハーフアップにして花の髪飾りを付け、化粧はふんわり可愛らしく——全てが瞳と同じ青系の色で統一されていた。


「・・・本当に、お嬢様みたい」


信じられないと言った感じで呟いたが、徐々に嬉しさがこみ上げてきて思わず笑顔が零れる。


——クロードにお礼言わないと・・・。

 そう思っていると、タイミング良く部屋のドアが叩かれた。


「ルナ、終わった?」


「え、ええ!どうぞ!」


クロードの声に緊張しながら返事をするルナ。

 客室のドアを開き、クロードは部屋に入ろうとした——が、ルナの姿を見た途端、その場に固まる。


「・・・クロード?」


「——あ、えっと・・・」


クロードは焦った様子でそう呟くと、部屋に入ってドアを閉めた。


「いや・・・とても似合ってるな、って思って」


照れたようにクロードが笑う。ルナは真っ赤になりながらも彼を真っ直ぐ見て、にっこりと微笑み返した。


「クロードのお陰よ。本当にありがとう、とっても嬉しいわ」


「お礼なんていいよ。ルナの可愛い姿が見られたんだから」


「もう・・・お世辞なんていいわよ」


笑ってかわすルナだが、内心はドキドキしっぱなしであった。

 クロードは心外そうな表情を浮かべる。


「お世辞じゃないよ?」


その言葉にルナの顔が更に赤くなって固まったが、クロードはそれに気付かずに腕時計に目をやる。


「さて。ルナのドレス姿も見たし、今から演奏会のリハーサルに行ってくるね」


「え、リハーサル?」


ルナが一拍遅れて聞き返すと、クロードはそう、と微笑んで答えた。


「ちょっとピアノに慣れてくるだけなんだけど・・・そうだね、5時半になったら帰ってくるよ」


「あ、私も行く——」


そうルナが言いかけると、クロードがだめ、と優しい声で止め、


「ちゃんとした演奏を聴いて欲しいから、6時まで楽しみにしててくれると嬉しいな」


と言ってぽん、と軽くルナの頭を叩き、客室から出て行った。

 ルナは顔を火照らせながら自分の頭を触り、良く解らない胸のドキドキを聞きながら思った。


——次にクロードに会うまでに、髪型とメイクが崩れなければいいな。







 ルナが食堂車に来て一番気になったのは、中央にあるグランドピアノをどうやって車輌内に入れたのだろうという事だった。

 それを挟むように、左右4つずつの計8つのテーブルが置かれている。クロードなら解るかな、と彼の姿を探すが見当たらない。——きっと準備をしているのだろう。

そう思い当り、ルナはとりあえず自分の席に座ろうと女性の乗務員に声を掛けた。


「すみません、105号室の・・・」


「はい、こちらです。お嬢様」


女性は丁寧な物腰でそう答えると、ルナを案内した。

 お嬢様、という響きをくすぐったく感じながらその後をついていくと、ピアノの鍵盤が一番良く見えるテーブルに案内された。椅子を引いてもらって席に着くと、乗務員の女性はテーブルの上にあるメニューを開いてルナに見せる。


「本日のメイン料理は、ロヴァイオ産アルトリリ豚のローストで御座います。お飲み物は如何なさいますか?」


「あ・・・えっと・・・——お水で」


ルナがおろおろしながら答えると、かしこまりましたと女性が笑顔で言った。


「少々お待ち下さいませ」


一礼し、女性がルナから去って行く。

 ふう・・・と息をついてホッとするのもつかの間、ポーンと音が鳴って車内放送が流れた。


『Sクラス車輌にご乗車の皆様。この度は国営鉄道「ルーナ・レアーレ急行」にご乗車頂き、誠に有難う御座います。当列車は本日から3日間、首都カルディネまで皆様に安全で快適な旅をお届けすることをお約束致します。そして更に、この旅を楽しんで頂くため、ある方をお招き致しました。——ピアノの神童と幼い頃から謳われた、クロード様です!』


 ざわざわ、と周りの乗客が反応する。その過剰な反応にルナは驚いた。


——あの神童の演奏が聴けるとは——クロード様ってとても素敵なのよ——今日はそれを聴くために乗ったんだ——。


 様々な声が飛び交う中、Sクラスの寝台車側のドアが開き、シーン、と室内が静まり返る。すると、優雅な笑みを浮かべながらクロードが室内に入ってきた。

 瞬間——。

 どっと車内が揺れるような歓声が沸き、クロードは大きな拍手で迎えられた。その中を堂々と歩いてピアノの前に立つと、彼はルナに向かって笑いかけた。ルナは呆気に取られるばかりで何も反応できずにただ見返すだけだったが、クロードはさして気にした様子もなくすっと観客に礼をしてピアノの前に座る。


——それが合図かのように全ての音が、止んだ。

 ふう、と一呼吸置いてから、クロードは鍵盤の上に手を置く。

 そして彼の指は、鍵盤を——静寂を、貫いた——。


 静かに駆けるような綺麗な早弾きから始まり、活発で明瞭な音色が車輌全てを包み込むように溢れだした。強く、弱く、そして温かく——複雑な音が絡み合いながら展開していくが、クロードの指は軽やかに鍵盤を滑っていく。


 それを目の当たりにして、ルナは息を飲んで驚いていた。

——ピアノはクロードであり、クロードはピアノなのだ、と自然にそう思い、彼の心の中にいるような感覚に陥る。そしてそれはルナだけではなく、観客全員がクロードの世界に引き込まれていた。

 最後は弱く短い音で静かに終わり、クロードが鍵盤から手を離すと同時に盛大な拍手が響き渡った。




 それから演奏会は1時間程行われたが、「ピアノの神童」は全てを完璧に弾きこなし、観客を魅了した。ルナは目の前にある食事に口をつける事無く全てに聴き入っていたので、演奏を終えたクロードはルナの席の隣に座ると、綺麗に残っている料理を驚いた表情で見つめた。


「ルナ、料理食べないの?アルトリリ豚美味しいのに・・・」


そう言うと、ハッとしてフォークとナイフを持って食べ始めるルナ。

 クロードはクスクスと笑いながらルナを見つめた。


「もしかして、僕の演奏を気に入ってくれたのかな?」


「ええ、とっても素敵だった!!」


ぱあっと顔を輝かせて満面の笑みでそう言うので、クロードは少々照れた表情になった。ルナはそれに気付かずに興奮した様子で質問する。


「クロードはいつもこの列車で演奏してるの?」


「うん、そうだよ」


「街とか教会とかでも?」


「あー・・・」


クロードはそう声に出した後、苦笑しながら黙った。

 ルナがどうしたのだろう、と大きな瞳を向けていると、クロードはふわりと笑った。


「僕はね、旅が好きなんだよ」


「旅・・・?」


答えになってない答えが返ってきて、ルナは怪訝そうな顔をしたが、クロードはルナと同じくらい瞳を輝かせて続けた。


「コンサートホールとか教会とかで演奏するのが嫌いなんだ。窮屈で仕方がない。——でもね、この列車は違う。このリマロアを横断するから色んな景色を見られるし、自由だから」


クロードはすっと目線を流し、車窓から外を見る。

 すでにオーヴェストを抜けており、北部の街・ロヴァイオの美しい山々が広がっているのだが、夜の帳を背負っているためそれらはすっかり闇に隠れていた。空高くにある満月が煌々と輝いている。

 クロードは柔らかく穏やかな笑みを浮かべた。ルナもそんな彼の様子を見て、視線を窓の外に向ける。


「夜の闇の不気味な静けさを月の光が仄かに温かく照らす・・・美しい風景だね。

——ルナ、僕はね、音楽は旅みたいなものだ、と思うんだ。窮屈なところに収まらず、色んな景色を見せて時間の流れをも操るものだって。僕はそれを探求したいんだ」


真剣な表情と声色で静かに呟くクロードに、ルナはいつの間にか見惚れていた。

 その視線に気づき、クロードは照れたように微笑んだ。


「・・・なんてね。ちょっと恥ずかしいな」


「好きよ、その考え方」


ルナが静かに呟いた。


「素敵だと思うわ、クロード」


そう言って微笑むと、クロードは一瞬目を見開いたが、すぐに嬉しそうな照れたような表情で笑った。


「ありがとう、ルナ。——さあ、ご飯食べようか。もう冷めちゃったから新しいもの貰おう」


「え!?そ、そんなことできるの!?」


「・・・アルトリリ豚、好きなんだよね」


ニコッと子どものように微笑んで、クロードは乗務員を呼ぶ。

 ルナは先程の真剣な顔とは対照的に瞳をキラキラさせて注文をする彼に呆気に取られたが、クスッと吹き出して自分も同じものを頼んだ。

 そして、二人はやっと夕食を食べ始めるのであった。







+    +    +







「おお!」


大きな声を上げながら、貫禄のあるふくよかな男性が二人のテーブルに近づいてきた。お酒が回っているのかとても上機嫌だ。


「クロード君!この列車に乗ると聞いて時間を変えてしまったよ!いやあ、素晴らしい。相変わらず素晴らしい演奏だったなぁ!」


「それはわざわざ有難うございます、オルランド様。久しぶりのルーナ・レアーレ急行での演奏、とても楽しみにしておりましたが、まさかオルランド様にも聞いて頂けるとは、本当にうれしい限りです」


クロードもふわりと優雅な笑みを浮かべて立ち上がり、二人は握手を交わした。

誰なんだろう、とルナはオルランドと呼ばれた男性を見ていたが、それは相手も同じだったらしく、ルナを上から下まで観察するように見てから男性がクロードに問いかけた。


「ところでクロード君、失礼だがこちらの女性は?」


「私の恋人のルナといいます」


クロードはふわりと綺麗に微笑んで堂々と言い放った。

ルナは思わず口から飛び出しそうになった否定の言葉を懸命に飲み込んだ。


「おお、そうかそうか。初めましてルナ様。私はジョージ・オルランドと申します」


「は、初めまして・・・」


「いやぁ、それにしてもクロード君も隅に置けんなあ!こんな素敵な女性がいるとは」


オルランドは大げさに頭を覆うと、わざとらしく眉根を下げた。


「以前、娘を紹介した時に話を進めておけばよかったなぁ」


 ルナは目を見開いて驚いた。いや、クロードの様に紳士的で顔もよければそんな話もひとつやふたつではないのだろうが、ルナは何となくもやっとした気持ちになった。

 クロードは柔らかく微笑んで申し訳ありません、と返した。


「いやあ、残念だ。なあ、アリシア」


 オルランドが後ろを振り返ると、その先には真っ赤なドレスを着た腰まであるブロンドのウェーブ掛かった髪を持つ、とても可憐な令嬢が座っていた。父に呼ばれた彼女はすくっと静かに席を立つとこちらに近づいてきた。

 そしてルナを一瞥してから、クロードににっこりと可憐な笑みを向けた。


「お久しぶりですわ、クロード様。父の言う事などお気になさらないで。子供の頃の話ですもの」


「アリシア、パパはお前の為を思ってな・・・」


「パパ、はしたないからやめて頂戴。ルナ様にも失礼よ。」


アリシアは父を一喝すると、ルナと向き合ってお辞儀をした。


「初めまして、ルナ様。私はアリシア・オルランドと申します。以後お見知りおきを」


 その姿はとても美しく、ルナは気おくれしつつも会釈した。

 アリシアはすぐにクロードに視線を戻して可愛らしい笑顔を向けた。


「クロード様、是非、こちらでお食事させて頂けないかしら。今日の演奏についてお話しさせて頂きたいわ」


「おお!そりゃあいい!どうだね?」


オルランドがすぐさま同意するが、クロードはルナに気遣うような視線を向け、少し迷っている素振りを見せた。ルナはそれに気づくと、オルランド親子に笑みを向けた。


「是非、ご一緒しましょう。ね?クロード」


「あ、ああ・・・ルナが大丈夫なら」


「ありがとうございます」


にっこりと微笑んでアリシアがお礼を述べると、オルランドは既に従業員にテーブルの用意をさせようと動いていた。

 ルナはふう、と息をつくと、クロードがひっそりと耳打ちした。


「ごめんね、巻き込んでしまって。後でお詫びするよ」


「いえ、ドレスを買ってもらったし、それに、少し困っていたように見えたから」


「あはは・・・オルランド家にはお世話になったから、あんまり無下にはできないんだ」


クロードはふと寂しそうな表情をしたが、すぐにそれを消し、オルランドの元へ駆け寄っていった。どうしたのだろう、と考えていると、アリシアがねえ、と話しかけてきた。


「貴女、本当にクロード様の恋人?」


ドキッ、と心臓が跳ねた。ルナの反応に更に疑わしげな表情になるアリシア。


「一体どちらの生まれなの?」


「お、オーヴェストだけど・・・」


「違うわ。どちらのお家の生まれと聞いているの」


「わ、私は・・・」


押し黙るルナ。

その様子を見て、アリシアが驚いたように声を上げた。


「まさか、貴族ではないの?」


「・・・ええ」


「ふうん・・・。では、まだ私にもチャンスはあるわね」


アリシアは勝ち誇ったように笑みをこぼし、続けた。


「だってクロード様が平民を相手にするわけないもの」


「・・・っ」


「なんで貴女のような方がこの列車に乗っているのか疑問だけど。・・・ああ、クロード様に気にいられているのは、きっと平民が珍しいからね。遊んでらっしゃるんだわ。私、殿方はそういうものだと思っているし、貴女が居ても全然平気」


可憐な容姿とは裏腹に、アリシアはルナにひどい言葉を浴びせ、最後にこう言った。


「精々、身の程をわきまえるのね。クロード様は、私の婚約者なの」


突然の宣言に固まる。

いや、そう言われても本当は恋人でも何でもないのだが、ここまで敵意を丸出しにされて黙っていられるほどルナも大人しくはない。


「では、そういう暴言を吐かれる女性だとバレない様に頑張らないとね」


「な・・・!!」


「貴族とかお家とか笠に着ているけど、貴女の力ではないでしょう?」


ルナは無表情でアリシアを見つめた。

アリシアはぞくっと悪寒を感じ、後ずさる。


「・・・だから、お金持ちって嫌いなのよ」


小さく吐き捨てるようにルナは言った。

アリシアが固まっていると、そこへクロードとオルランドが戻ってきた。


「お待たせ。あっちに新しく席を作ってくれたから——」


「クロード。私、気分が悪いから今日はこれで失礼するわ」


ルナはそう遮ると、食堂車から出ていこうとした。

クロードは吃驚した様子でルナを引き留めた。


「え?大丈夫?」


「うん。大丈夫だから、クロードは気にしないで」


にっこりと笑って言い放ち、今度こそルナは食堂車を後にした。

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ricercare -リチェルカーレ- さくのゆず @sakunoyuzu

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