世界を救ったヤな男

阿仁 希

世界を救ったヤな男

 ここは、某百万都市の私鉄駅。ホームの四人掛けのベンチに、その四人分のスペースいっぱい使って座っている、年の頃は四十前後の一人の男。

 お尻は真ん中の二つの腰掛けにまたがっている状態。でっかい荷物を一番端の腰掛けに乗せて、そこにもたれかかるような格好。そして片方の足を反対側の腰掛けの方へ投げ出している。靴を脱いで。そのよれよれの靴下の臭いのなんのって。異臭を放つその綿布の下では足の指がグーチョキパーを順番に出してたりする。Yシャツの下はアンダーなし。第二ボタンまで外れていて胸毛丸出し。袖も二の腕までまくり上げられていて、そちらの毛並みもなかなかのモノ。毛虫だってこんなにふさふさしてない。片方の手はスポーツ紙を広げ、因みに目線は紙面半分より下ばかりを追いかけていて、もう片方の手は、股間をボリボリ掻いたり、かと思えばそのままその手で歯をシーシーいじくったり。

 やだやだ。あーやだ、こういう男、大っ嫌いなの、私。周りの迷惑も顧みない、それどころか乗降客がそのベンチの半径三メートル以内に近寄ろうとせずに迂回して歩いてるってことも気付いてないわね、きっとこの男。存在自体が悪だわ。見ただけで虫唾が走る。街中で声かけられた日にゃ「きゃー」とか叫びながら後ろも振り返らずに一目散に逃げ出すわ、きっと。尤も、声をかけられることなんて絶対にあり得ないけど。

 なんでそんなヤな男のことを語っているかって? 誰が物好きでこんな男のこと物語るもんですか。でもしょうがないのよ。この男が主人公なんですもの。こんなヤな男が、つまらないことで世界を救う結果になってしまったんですもの。


 それはある平日の、朝のラッシュ時間帯に端を発した。いえ、「たん」を発しなかったことから始まる。やだわ、遠回しに言おうとすると逆に気持ち悪い感じ。はっきり言います。「痰」を吐かなかったことが直接の原因。そこ、呆れてないで。一番恥ずかしいのはこっちなんだから。でも本当のことなんだから仕方がないじゃない。ま、落ち着いて話を聞いて。

 その男はいつものように四人掛けのベンチで寝そべって股間をボリボリ掻いてシーシー……コホン、仕切り直し。列車がホームを滑り出し、降りた客が昇りのエスカレーターに吸い込まれていって、ふっと人混みが薄くなった、その時。男はやおら立ち上がると、列車のいなくなった線路の方に歩いていった。溜まったモノをペッと吐き出すために。ホームの端に立って線路に身を乗り出し、カーッと喉を鳴らして準備万端、今にもペッ、と行きそうになった、その時。男はそれを止めた。向かい側のホームに、駅員がいたからだ。ただの駅員じゃない。最近流行ってる、女性駅員。人の目なんて蚊の目ほども気にしたことさえないこの男が、「女性」駅員を見ただけで決まり悪くなって止めたなんて、今になってもどうしても理解できないんだけれど、脳波解析しても風水を見ても、はたまた確率論を持ち出してサイコロ振ってみても、何をどう分析してもその答えが出るんだから、認めざるを得ない。

 男は出かかっていたモノを飲み込むと、気持ち悪そうに顔をしかめてちょっと後じさり。そこにいたのが、一人のおばあさん。ぶつかって、転ばせてしまう。勿論その男は謝ろうとはしない、ましてや助け起こそうとなんてしない。それどころかおばあさんに目も向けず、何事もなかったようにベンチに戻ってスポーツ紙をめくる。おばあさんを助け起こしたのは、通学途中の一人の男子高校生。おばあさんはその男子の肩を借りて立ち上がろうとするけれど、またよろめいてしまい、男子はそれをかばおうとする。所がそこに、別のOLの女性がいて、男子はぶつかってしまう。OLは、体を押されただのお尻に触られただのと喚き散らす。……こういう女も嫌いね、私。何かというと痴漢だのセクハラだの、自分の体に自信がないだけじゃないのかしら。こんなこと言うと、〝絶対に〟そう言う目に遭わない私の僻みにも聞こえるかもしれないわね。これ以上は触れないことにします。で。男子とOLがイザコザやってるときに、ついに登場、悲劇の人物。忘れ物に気付いて、階段を駆け下りてホームに戻ってきた、一人の青年サラリーマン。OLが男子を今にもひっぱたこうと手を振り上げた、そこに、青年の顔が突進してきたの。裏拳って痛いらしいですね。顔面直撃した青年は、一発ノックアウト。偶然というのは恐ろしいもの——私に言わせれば、この世に〝偶然〟というものはなく、全て何かしらの〝必然〟によって起こっている、つまり全ては『運命』なんだけどね。運命も運命、この青年、倒れ込んだ所がまた不運。ホームの端っこで、助ける者もなく勢いでそのまま線路へ転落。そこへ別の列車がやってきて、急ブレーキの甲斐もなく、ぷち。ジ・エンド。


 誤解しないでね、別に面白がってこんな話してるわけじゃないんだから。寧ろここからが大事。だってこの青年がもしここで死ななかったら、世界がとんでもないことになるんですもの。

 この青年には彼女がいて、その彼女には弟がいた。弟は青年のことを知っていたが、あまり好いてはいなかった。理由。青年はちょっとかっこよかったから。少なくともその弟は自分と比べて青年をそう思っていた。ただ理由としてはそれだけじゃ弱いのよね。もっと本質的な理由があるんだけど、それは追々。以後、青年が生きていたらと仮定して進めます。ある日青年が彼女にデートを申し込む……関係ないけど、「デート」って言葉、今時あまり流行らないみたいね。特に男から女を誘うことより、女が男を連れ出し連れ回す逆パターンの方が断然多いみたい。それはさておき。弟は姉のことが気がかりで、当日二人の後を追う。あ、こういう男は少数派のようね。実姉を好きになる実弟。さっきちらっと触れた本質的な理由ってこのこと。ちょっと前に「綺麗なお姉さんは好きですか?」って言葉が流行ってたような気がするけど、義姉弟ならともかく、実の姉を好きになる弟というのは、相当な甘えん坊かさもなければ見境のない変質者か、それくらいでしょ。この男の場合は前者ね、一応。話を戻して、その弟にも女友達がいまして、彼氏彼女って言うほどの仲ではなかったけれども少なくとも女の方は男の方に好意があってね。その好きな人が誰か別の女の人の後をこそこそついていくのを目撃したものだから、声をかけようにもかけられなくて、これがまた、その男の後をこそこそとついていくことに。人間って惨めなものね。自分に自信がないと積極的になれずに逆に陰険になる傾向があるのね。この弟にしても、その女友達にしても。たまたま今回そういう人間に出くわしただけのことかしら。そう言い切れると思う?

 ってさっきから脱線してばかりじゃない。軌道修正、ここから注目。この女、途中までこの男を追いかけるけれど、路地を曲がったところで見失ってしまう。ちょっと慌ててその女、小走りに駆ける。そして次の角を曲がったところで、マンホールの蓋が開いていて、足を踏み外して真っ逆様。マンホールって意外と深いんですよ。下手すれば単純な骨折では済まずに全身打撲で死ぬことも。でも女にとって幸運だったのは、落ちたところに先客がいたこと……それが本当に幸運だったかどうか、それは後で分かるのでここでは触れないこととします。とにかく、そこに先に落ちていた少年のお陰で、女は軽い骨折で済んだ。でも一方の少年は勿論、ただでさえ立ち上がれないほどダメージを受けたところにトドメを刺されたような状態で、間もなく女と共に助け出され救急車で運ばれるも、病院に着く前に死亡。享年十三歳。早すぎる死に両親は涙の絶えることなく……いや、それはいいの。よくないけど、またどんどん話の筋から離れて行くから省略。

 それで、この少年。その遺体は、暫く親元に返されることはなくなる。結論を先に言ってしまえば、永久に帰らない。研究対象にされるの。司法解剖の結果、未知の病原ウィルスが体内から発見されるから。ここ重要。このウィルスこそが、世界滅亡の原因。繁殖力・感染力が桁外れに強力なの。ウィルス発見も奇跡的な早さだったけど、それを遥かに凌ぐ早さで院内感染。症状がまた過激。下痢して嘔吐して血も吐いて、体中の水分がどんどん抜けていってひからびて死んでしまう。ただ病院側の対応が迅速で、病院を閉鎖して外部への二次感染を完全にシャットアウト。大事には至らずに済んだ、かに思えた。一人忘れてる。マンホールで少年にトドメを刺したあの女。こっちにも既に感染していて全然不思議じゃない。骨折で入院していた別の病院で発病し、院内感染、そして設備の貧弱なその病院では防ぎきれずに病院外にもウィルスは拡がり、あっという間に街中に、そして日本中に広まることに。

 細菌兵器? どこかの国が軍事目的で開発した病原ウィルスじゃないのか、ってことね。やだ、なかなか目の付け所がいいじゃない。でもぉ、私はぁ、戦争とか兵器とかぁ、そっち方面はあまり詳しくないんだけどぉ。ま、でもこの話をする上でも避けられないし。解説します。逆。その存在を知って、細菌兵器として使おうと考えた軍事国及び無国籍な軍事団体が続出。それにしてもどう言う経路でこんな小さな島国から地球のありとあらゆるところにウィルスのサンプルが行き渡るのかしらね。とにかくそうしてウィルスは瞬く間に世界中に広まった。そして使い方を間違えて自滅する国、数多。戦争すればしたで、お互いに同じウィルスのばら撒き合いで共倒れ。そして、一年と経たないうちに、世界滅亡。あっけないものね。全く。


 以上はあくまで、あの時青年サラリーマンが死ななかったら、の話。歴史にもしもはないって言うけど、ちょっと気になったものだから運命を辿ってみたわけ。こんなひどいことにならなくてよかったわ、ほんと。青年が死んでいれば、彼女をデートに誘うこともなく、その彼女の弟が姉を追跡することもなく、その弟の女友達がマンホールに落ちてウィルスに感染することもないわけですものね。ただそれだけだと、ウィルスは存在するわけだから、遅かれ早かれウィルスは全世界に広まるし、人類滅亡の時期が少し遅れるだけなのよね。あのヤな男があの時「痰を吐いた」と仮定する限り。

 え? ああ、そうね、すっかり忘れてたわ。「痰を吐いた吐かなかったが、なんで世界滅亡に直接関わってくるのか」ってこと、まだ話してなかった。その前に、ね。あの後世界中のほぼ全ての人類が滅亡したとして、それであのヤな男はどうなると思う? 実はね、一人だけ生き残るの! 信じられる? 私は絶対に許せない! あなたこそ一番に逝っちゃいなさいよ! って感じなんだけど、これにもきちんと理由があるのよ。それもまた、「痰を吐く吐かない」の話とも関わってくるわけ。

 まず単刀直入に、あのヤな男が生き残る理由。それは、あのウィルスに対する抗体を持っていたから。感染しても発病しないわけ。じゃ、なんであのヤな男が抗体を持っているのかというと、元々あのウィルスの保持者だったからなの。但し、悪性になる以前の同じウィルスの、ね。どういうことか分かる? つまり、あのヤな男の中に元々あったウィルスが、ある行為が原因で悪性に変わって、それが、世界中に広まる結果になったってワケ。その行為とは、「痰」といっしょに吐き捨てたこと! ただそれだけじゃなくて、その黄緑色の汚い塊を、たまたまホームの下にいた一匹のドブネズミが被弾しちゃうの。ウィルス、プラス痰、プラスドブネズミという絶妙な組み合わせによって、化学反応だか突然変異だかを起こして悪性ウィルスが誕生。それをドブネズミが下水溝に持ち帰って、そこへ少年がマンホールから落っこちてきて感染。と、こういう経緯なワケ。この連携プレー、見事としか言いようがないわね。分かったでしょ。痰を吐かなければ世界が救われる、その理由が。


 その後、あのヤな男はどうなったのか。ここまで来るとやっぱ気になるでしょ。放っといたらいつまた同じ事が起こるか分からないものね。でも運命予定表の上では、この後男の放った痰がドブネズミを直接砲撃することはないらしいの。つまり、悪性ウィルスの蔓延もなければ、世界の滅亡も……当分はない。ま、ある意味安心していいわけ。だけど、私の中では「めでたしめでたし」で終わらせることはできなかった。言ったでしょ、こんな男は存在自体が悪だって。だ・か・ら。殺っちゃった。ぷち、って。何、運命予定表をちょっと書き換えれば、簡単なことよ。ホームのベンチでそのまま寝ちゃった時に、ちょっと寝返りを打たせるようにしただけ。そのまま転がって、線路に転落。あとはレール上の頭に、列車の車輪が重なるのを待つだけですもの。そ、罪もないのに犠牲になった、あのサラリーマン青年と同じ死に方させてあげたの。いい気味だわっ。ふふふっ。

 私は一体誰なのかって? あなたも鈍いわね。

 私はぁ、神様っ。見習いのね。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界を救ったヤな男 阿仁 希 @a2_nozom

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ