第3話

「イーヴィ、ただいま」

「イオー!」

 仕事を終えて迎えに来た母親の足に、幼子が飛びつく。

「おやぁ、キア、今日は早かったじゃないか。良く売れたのかい?」

「ああ、完売だ。ほらお土産。カララ、皆で食べてくれ」

 キオはそう言って、肉と芋を揚げてパンに挟んだおかずを入れた袋を、カララと呼ばれた女に差し出した。

 カララはキアと同じ通りに住む主婦だが、子ども好きで、近所の幼児を数人、空いた部屋に預かってくれている。キオの二歳になる息子イーヴィルも、彼女が市場で働いている間、彼女の家に預けていた。

「おや、いつも悪いね。お金だってもらっているのに、こんなに気を遣ってもらって」

「ウチの店で新作を試行錯誤していてな。これはその試作品」

「イオ! むー!」

 幼いイーヴィは、良い匂いのする食べ物を自分にもよこせと手を伸ばした。

「これはお前には油が濃すぎる。それに家に帰ったらすぐにご飯だ。帰るぞ」

「うええ! いま食べる!」

 やんちゃな幼児は、不満を母の足を齧る事で表現した。

 ごん

「!」

「親の脛を齧るなんざ、十年早い」

「面白いけどさ……そんなこと言ったってまだわかんないわよ、キア」

 カララは笑い転げた。キアは大真面目である。

「分からんうちから教育は始まるんだよ、からら。さ、帽子を被れイーヴィ、行くぞ」

 薄暮の空の下。人々は今日の仕事を終えて帰り道を急ぐ。小さな町の一日は終わりに近づいていた。

 母子は手を繋いでゆるゆると家路につく。二人が小さな部屋を借りている細い路地に入った時、

「キオ」

 その背を叩く美声。

 振り向いた瞬間、小さなイーヴィは母親の背後に隠されていた。

「キオ」

 微笑みかける大きな男。

 記憶にあるものよりかなり痩せて、美しかった髪には白いものが少し見える。かつての面影に陰りはあるが、それでもやはり見蕩れる程の美丈夫だった。

 あの似合いすぎる軍服ではなく、見慣れぬ黒い私服を着ている。

 エフィゲニー・ミューラー。

 キオが愛し、捨てた男。

「……髪が伸びたな、キオ」

 深い低い声。かつてその声を聴きたくて、共に働いた。ずっと傍にいたくて、けれど傍にいることが辛すぎて逃げた。

「探したぞ」

 一歩下がったキアに、山のように立ちふさがる。逃げられないことぐらいはわかっているから。踏みとどまる。

「久し振りだ。だが私はキオじゃない、キアだ」

「キアか。確かにそのほうが似合っている」

「で、何か用か? 私にはないがな」

「一人称も変わったな。良い事だ」

「イオー?」

「顔を出すな!」

「いっ!?」

 キオの足の間からひょっこり顔を出そうとしたイヴィは、滅多にない声で母親に怒鳴られ、すぐさま引っ込んだ。

 こういう時の母に逆らっていいことは何もない。幼心にそれは叩き込まれている。

「……私の子だな?」

 エフィゲニーの声は弱い。だがその問いは疑問ではなかった。

「は……は! 何言ってる。こいつは、どこの誰ともわからん男との間にできた子どもだ。あんたに何の関係もない」

「それはどうだろう」

「触るな!」

 キアはイーヴィを庇いながら、腰を落として構えた。しかし、男はあっさりキアをやり過ごすと、怯えたイーヴィの傍にしゃがみこむ。

「こんにちは」

「?」

 幼子は怯えながらも好奇心に満ちた目を寄越す。なかなか胆力があるようだ。

「私が君の父だ。お父さんだよ」

「ちがう! こいつはお前に何の関係もない! 私の事は放っておいてくれ!」

「関係ない? 君はこれを見ても、そう言うのか?」

 言うなりエフィゲニーは長い腕を伸ばしてイーヴィを傍に寄せた。二つ並んだ顔。

「!」

 キアの黒瞳が見開かれる。

 二人は恐ろしいほど似ていたのだ。見事な金髪、鮮やかな青い瞳。彼らは紛れもなく父子だった。

「……」

 よろけるキアをたくましい腕が素早く支えた。

「あの夜の子だな……私に黙っていたね」

「取らないでくれ!」

 キアは叫んだ。叶わないとわかっていても、息子を男からひったくると、両手でエフィゲニーの襟を締め上げる。

「私はあんたに迷惑をかけない! あんたの家にも家族にもだ! この子の事で金も権利も欲しくない。だから!」

 伸びた髪を乱してキアは叫び続けた。

「取るな……私たちを放っておいてくれ!」

「キオ、いやキア……落ち着け、落ち着いてくれ。俺は危害を加えにきたわけじゃない」

「信じられるかよ!」

「うわあああああん!」

 激しい応酬を途切らせたのは、腹を空かせた幼子の泣き声だった。

 元から腹が減っているうえに、普段無口な母親の血相を変えた怒鳴り声を聞いてはひとたまりもない。

「あああうううえええ!」

 空腹と不安でイーヴィは、本能のなせるままに泣き喚いた。

「あ……ああ、ごめんなイーヴィ、すぐに夕飯にするからもう家に入ろう。このおじさんはもう帰るよ。お前の好きなクリームシチューを作るから」

「くいむ……?」

 現金にもぴたりと泣き止む。キアはちょっとだけ笑って、息子の涙と鼻水を袖で拭ってやった。

「わかったろう? お前の懐刀のキオはもういない。私はただのおっかさんで、こいつもただのハナを垂らしたクソガキだ。二人して役にも立たないごく潰しだよ。あんたにもレディにも迷惑を掛ける気はないから、とっとと都に帰ってくれ……」

 言いながらキオは息子を抱き上げて踵を返そうとしたが、動けなかった。腕の中の幼子ごと長い腕に囲われてしまったからだ。かわす間もなく、いとも容易く。

「嫌だ」

 耳朶を舐める掠れた声。総毛だつほどの、甘い美声。これは罠?

「な……」

 顔を胸に押し付けられて窒息しそうだ。

「帰るところはもうない。家に入れて。私も君のつくったクリームシチューが食べたい」


 小さいが居心地の良い部屋。

 向こうの寝台で腹を満たした幼子が眠っている。この住まいに寝台は一つしかないからきっと毎晩母子寄り添って眠っているのだろう。

 そちらをちらりと見てエフィゲニーは、食べ終えた皿を脇に置いた。子どもが寝入るまではと、彼を退けたキアがようやく彼の前に腰を下ろしたのだ。

「眠った」

「すっかり母親だ」

「母だ」

 キオは短く答えた。

「相変わらず無駄口はないね」

「あんたは無駄口ばかりだったな」

 キアは男に新しい茶を注いでやる。

 イヴィが眠るまでは何とか保たれていた空気が、微妙なものになる。いつもは暖かい室内灯の明かりが男の顔に深い影を落としていた。

「……私はね、ダメだったんだ」

 エフィゲニーが話し出したのは、カップが半分程空になった時だった。

「君をね、心の無い、ただの物のように扱って……それで支配した気になっていたんだよ。君がそんな私に愛想を尽かして去った時も、平気な振りをした。探そうともしなかった」

「……」

「でも次第に、あらゆるところにボロが出始めてね。ミスは続くわ、食欲は失せるわ、不眠になるわ、しまいには男としても役に立たなくなる始末だ。……それでやっと気が付いた……君が足りない。絶望的に足りない」

 大きな手に小さすぎるスプーンでやたらとカップを掻き回しながら、エフィゲニーの声は低い。

「一年後、私は辞表を提出した。一人で君を見つけようと思って。けど、抱えていた仕事の有意期間が終わるまではどうしても受理できないと言うんだ。それで柄にもなく、遮二無二頑張って。そしたら今度は実家からの圧力だ。親父が予想以上に執念深くて参った。何とか決着をつけて家督は弟に押し付けてきたけれど」

「……レディは」

「アンには一番済まない事をした。彼女はうすうす気が付いていたようだが、たくさん泣かせてしまった。親父とは大ゲンカだったしね。結局私はあらゆるところで恥を晒し、信頼を失い、迷惑をかけまくってやっと、君を探し始めた」

 漸く男の顔が上がる。

「だが、流石に私が仕込んだだけあって、君の足取りはなかなかつかめなかった。けれども私だって情報将校だ、いろんな伝手もある。苦労したけれど、こうして君を見つけたよ。思ったより長く掛かったけれど」

「……あんたは、」

「君、嘘をついたろう?」

 男は少し笑って言った。

「嘘?」

「ああ、君の最後の仕事相手、オルタ―次官は君に指一本触れちゃいないと断言したぞ」

「そうか……あいつはいい奴だ。シロだったろ?」

「シロだ。君の勘は正しかった。私は彼に面会を申し込んだ。最後の君の様子を聞きたくて」

「……」

「彼は語った。君はとても寂しそうで、すべてを諦めきっていたと。手ぶらでふらりと出て行こうとするから、思わず金を持たせたと言ってた」

「あの金は正直ありがたかった。おかげで街角のスリに戻らなくてすんだ」

 当時の事を思い出し、キアの目が緩む。

「なぜ嘘を? 彼に抱かれたなどと」

「もうどうでもよかったんだ。子どもができたんでもう仕事はできなくなったし。役に立たない道具はあんたには無用だ。抱かれたと言ったのは、せめてもの腹いせだった。私は最後まであんたの道具だったって事をわかってもらいたかったんだ」

「なんてこった……私はあの時、嫉妬で焼き切れそうになっていたのに……」

 凛々しい眉がこれ以上はないくらい下がる。

「電話じゃわからなかったがな」

「全くだ。酷いね。私って奴は」

「そうだな」

「軍にいた三年間で、君を抱いたのは……」

「あんただけだ。クソ野郎」

「……」

 この上なく不機嫌そうに口を曲げてキアは吐き捨てる。

「……なに赤くなっていやがる少佐殿」

「いや、嬉しいのが抑えられなくて……あの子は、間違いなくあの夜の子だね。薬を飲んだ振りで……見事に騙されてしまった」

 エフィゲニーは大きな手で顔を覆いながら、寝台の方へ目を逸らせた。

「私が勝手に産んだ子だ。あんたの責任なんかない。薬を捨てたのだって、やっぱりただの腹いせだ。あんたが私と寝たことを、無かったようにしようとしたから。子どもができるかもしれないなんて事は、その時は考えてはいなかった」

「あれは……私にとってあの夜は一生忘れられないくらいの衝撃だった……私にとっては。私は苦しいくらいの充足を感じ、喘いでいた……女を抱くという事が、あれほど心に染むものだとは知らなかったんだ。だが、私は酔っていたし、部下への嫉妬に狂っていた。それに君はいつも通り、仕方なく私に従っただけだと思い込んでいた……私は狂犬だ。なのに、君を放したくなかった、傷つけたくもなかった。だから、あんな薬を」

「……」

「大馬鹿者だ。私は君に関して、何一つ正しくはなかった。夜ごとどれだけ悔やんだ事だろう」

「もういい……そんな事を言うために、私を探していたのか?」

 この男の弱る姿は見たくない。キオは顔を背けた。

「そうだ」

「ならよかった。私は恨み言を言うつもりはない。満足したならとっとと帰ってくれ」

「先ず、真実を伝えたかった。でないとその先に進めないと思った」

 キオの言葉を躱してエフィゲニーの言葉は続く。

「先?」

 どんな先があるというのだ。

「先」

「どんな先が?」

「君を愛していると告げる事」

「……は?」

「聞こえなかったか? 君を愛している」

 エフィゲニーは立ち上がった。

「なに寝言言って……」

「愛している。私の妻になってくれ」

 ゆっくりと机を回ってキアの傍に立つ。

「へぇ、そうかよ? だが、私……俺は吐きだめで育った札付きだぜ? あんた、お貴族様のお坊ちゃんだろう?」

「愛している」

 その足元に跪ひざまいて華奢な手を取る。

「……もともと生活の為に、誰とでも寝てきた女だぜ」

「自分を貶めて言う癖は相変わらずだな……だが、君は誇り高く、慈愛に満ちた女だ……愛している。愛してくれ、キア。一生私の傍にいて欲しい」

 エフィゲニーは膝をついたまま、腕を伸ばしてキアを抱きしめた。

「君なしで生きていけない……」

「な、何バカ言って……は、ははは」

 ──くそ! 震えるな、声。

「ああ、馬鹿だよ……だから君に選択肢なんかやらない。私は酷い男だから」

 選択肢はない――それは初めて出会った時に言われた言葉だった。キアの瞳が揺れる。

「放してなぞやらん」

 首筋に吸いつく熱いもの。

「あ……」

 大きく体が震えた。ダメだ、これでは……。

「私の黒百合……これからは私の為に髪を伸ばしてくれないか」

 そう囁いて男が髪に指したのは小さな真珠の着いたピン。キオの目に浮かんでいる涙の粒のよう。二人の視線が真正面で絡む。

「良く似合う」

 昔したように梳いた髪に口づける。伸びた髪はもう、以前のように直ぐに逃げたりはしない。

「……は! 付けられっかよそんなもん……俺にはもう新しい男がいるんだぜ?」

「相変わらず、可愛い強情を張る。そんな奴はいない。部屋を見ればわかる。それにいたとしても私が絞める。腕は衰えてない」

「いい加減に……」

「愛している。全身全霊を捧げる。君を傷つけ、奪った償いは一生かけてする」

「や……いやだ……今縋ってしまったら、もう一人では生きられない……」

 キアは絡みつく腕から逃れようと体を捩った。

 しかし、長い腕は容赦なく巻きつき、軽々と持ち上げられる。じたばた暴れて見ても、男をまたぐ形で椅子の上に抱き上げられてしまった。これではまるで三歳の息子と同じだった。喉笛に喰らいつかれてひゅうと喉が鳴る。

「や……」

「私もだ。私ももう限界で、欠乏症で呼吸が苦しい。だから、我々は一緒にいるべきなんだ。君は私の子に、私に似た名を付けてくれたろう?」

 イーヴィ――エフィゲニーの愛称はエフ。

 この男には何も隠せない。

「それに君は私の事をよく知っているだろう? 逃げられると思うかい?」

「……」

「……キア?」

 あやすように自分を抱きしめ、髪を梳き、絹のような美声で囁きかける。この人たらしの悪魔!

「……さねぇ……」

「ん?」

「私を捨てたら許さないって言ってんだ!」

 キアは男に跨ったまま、襟首を掴んで激しく叫んだ。

「ぜってぇ許さねぇぞ! 覚悟しやがれ!」

「っっl」

「可愛い……」

「あ?」

 ──泣きながら私を睨みつける君が可愛くて仕方がない。初めて会った時もそんな目をしていた……悪ぶっても君の心は傷だらけでいつも血を流している。

「聞いてんのか、このクソ野郎! わぷ」

 ああ、可愛い。可愛すぎて勃つ。

 エフィゲニーが唇を離したのはたっぷり三分後だった。キオのそれはぷっくりと腫れ、濡れて荒い息をこぼし、なおも男を睨めつけている。

「聞いてるよ。いいとも……それが私の最後の仕事だ。挑戦は受けて立つものだ。君とイーヴィを守リ抜いて見せる」

「う……うく……」

「だから傍にいて。私と結婚して」

「う……うわあああ! エフ……エフ!」

「……初めて、私の前で声を上げた泣いたね。これからはもっと哭かせてあげる」

「……っるせぇ!」

「イオー?」

 目を擦りながら現れたのは、愛し子。

「イオ……? どーしたの?」

「大丈夫だよ、イーヴィ。こっちへおいで」

 エフィゲニーはキオを抱いても余る自分の膝を指した。寄ってきた我が子を抱き上げ、キオとの間に挟む。

「んー」

「今日から三人で暮らすんだ」

「さん……?」

 幼子は目を丸くして指を三本突き出す。自分を抱いている男の血を受けた青い目、美しい髪。

「わああああん!」

 キオは一層声を上げた。

 エフィゲニーはその肩を包みこむ。

 もう間違わない。今から一生を捧げる作戦が始まる。

「愛している。私の黒百合、君が僕の永遠だ」


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黒百合の娘 文野さと(街みさお) @satofumino

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