第2話
「……キオかい?」
闇の中に細い影が立っている。
「ああ。今帰りか?」
「……ただいま。もしかして待っていてくれたのかい? だったら嬉しいが」
「馬鹿言え、寝しなに飲んだコーヒーのお陰で眼が冴えただけだ。お前こそなんだ? レディと食事をして泊まってくるんじゃなかったのか?」
「アンが珍しく酒を過ごしてしまってね。家に送り届けてきたところだよ」
「ふぅん……だが、あんたもよっぽど酒臭ぇぜ。こっちまで悪酔いしそうだ」
「そうかい? そう言えばかなり飲んだな。ああ、そうだ。今日は済まなかったね……アンはとても喜んでいた」
それはエフィゲニーに頼まれてキオが選び、店に届けさせた、真珠の髪留めの事だ。
「あんたが選べばよかったんだ」
「反省しているよ。つい忙しくてね。それにご婦人の好みは私のような男にはわからない」
「お前がくれるもんなら、レディは何でも喜ぶんだろう」
惚れた男から送られたものなら。
「そうかなぁ。でも、てっきり君がレストランまで届けてくれると思ってたのにな」
「ああ。店のもんに頼んだ、俺が行くよりその方が雰囲気だろう」
「せっかく君も一緒に食事をと思ってたんだが」
「馬鹿か? 恋人同士の間に俺なんかが割り込んでどうする。もういい、部屋に戻って寝る。お休み!」
去りかけるキオの手首に太い指が巻きついた。
「な……!」
「この髪……伸ばせばさぞ美しいだろうに」
エフィゲニーは指先にキアの髪をはさんで口づけた。くせのないキアの髪は指には絡まない。
「真珠の髪飾りは君の方が似合うかもしれないね」
「いるかよそんなもん。それに髪を伸ばせば仕事に差し支える。俺はスリだからな。うわ……酒臭ぇ。離せ」
「君には私が選びたいな」
「お前人の話聞いてるか?」
キオは絡みつく男の腕から逃れようと腕を突っぱねて言った。
「贈ったらつけてくれるかい?」
「つけねぇよ! 近い! 臭い! 離れろ」
キオは酒を飲まない。その味も匂いも嫌いだった。
「テレンスには……触らせたの?」
「はぁ? 何を言ってる? テリィならとっくに夢の中だろうよ。なんだ、用があったのは奴にか? じゃあ、おやす……」
み、と言おうとした口のまま塞がれる。抗議を差し挟む隙もないくらい性急で乱暴な口づけ。
「ん……む」
ぬるぬると口腔を
「彼のことは愛称で呼ぶんだな」
「は? 何を言って……んっ!」
エフィゲニーと口づけた事は何度かある。彼は気が向いた時だけ、キオに触れる。それは気まぐれなのに優しく、キオを魅了するのだ。
「う……」
いつの間にか両手で男の首に
こんなに激しい口づけは初めてだった。
荷物のように担ぎ上げられる。モノ扱いはいつもの事だからキオは逆らわなかった。
投げ出されたのはエフィゲニーの部屋の寝台。
貴族出身のくせに、ものに執着のない彼の部屋は簡素そのものだ。
恐る恐るエフィゲニーの顔を伺ってみる。いつもきっちり整えられている髪は乱れ、額に前髪が落ちかかっている。そして常に穏やかな微笑を浮かべたその顔からは表情が消えていた。
青い視線はギラギラとキオを射すくめている。
こんな顔をするときのエフィゲニーには逆らえない。彼の配下なら誰でも知っている事だった。
キオは観念した。
簡単な寝間着の裾から指が侵入し、熱い掌が肌を這い回り、先端を摘ままれて体が跳ねる。キオの反応に薄い唇が吊り上った。
「なんだ、レディはさせちゃくれなかったのか?」
声が震えないようにするのが最後の矜持だった。今までなんとか避けていたのに、今こんな形で抱かれてしまうのだ。泥酔して抑制が効かなくなってしまった彼に。
自分はどこまで惨めになるのだろう。どこまで堕ちれば終わりが見えるのだろう?
「レディ? 誰のことだ? 今はキオしか見えない。俺のキオ」
「お前のもんじゃねぇがな。しかたねぇ、好きにしろよ」
「ああ。そうする。キオ、細い首だ。脆くて美しい」
「いっ……!」
首筋に噛みつかれる。残酷な男だ。
エフィゲニーは荒々しく華奢な体に組みついた。酒臭い吐息の合間に獣のような唸りが漏れる。
キオは目を閉じて、これから行われることを待った。
「すまなかった……キオ。私はどうかしてた」
男がしらふに戻ったのは一時間の後のこと。
「別に? 謝らなくていい。俺にとっちゃ、どうってことはない」
全身が重い。途中からよく覚えていないが、体中がひりついている。全身を好きになぶられ、何度も求められ、叫んでも放してもらえなかった。
「……そんな事言うものじゃない。もっと自分を大事にし……」
言いかけてエフィゲニーは唇を噛んだ。
腕に、足に、胴体に。白い肌にいくつもの跡がついている。それは指の跡、それから彼の口づけの後だ。
滑稽だ。一番酷い事をしたのは自分ではないか。信じられなかった。酒の勢いを借りてまで。
「お前が言うな」
「だな。悪かった。忘れてくれ」
「くっそ、好き放題しやがって……」
気だるそうに服を身に着けながらキオは唸った。
夜明けにはまだ少しあるだろう。廊下を通っても誰もいない時刻だが、歩けるだろうか?
「謝る言葉もないよ。大人として恥ずかしい。自覚していた以上に酔っていたらしい」
「ふん。ザルのくせに。ううう、痛ぇ……今日は休暇を寄越せよ。こんなんじゃ誰にも会えん」
キオはシャツを指で引っかけて胸元を見た。体のあちこちに残る、男の行為の残滓。足の間から、何かがこぼれそうになり、腹に力を込める。だがすべてひと時の事だ。
「二日やる。ゆっくり休んでくれ。だがキオ、先にこれを」
エフィゲニーは寝台の脇の引き出しから小さな何かを取りだし、キオに向かって投げた。薬だ。二錠。
「別に病気じゃねぇ。体が痛いだけだ」
「それは避妊薬だ」
「!」
「何度も粗相をしてしまったからな。私は君を傷つけたくはない」
その言葉がキオをズタズタにするとは知らないで。
「はっ! 周到なお貴族様だ。ありがたくもらっとくわ」
キオは薬をポケットに出て行こうとした。
「私の前で飲んでいきなさい。今は一錠でいい。水差しはそこにある」
「……お前、いつもこんなことをしているのか?」
「いつもはこんな事にはならない。さぁ早く飲みなさい、キオ」
「ったよ!」
キオは半ばやけくそで水差しからカップに水を注ぐと、薬を口に放り込んだ。それを見届けるとエフィゲニーは自分の両手に顔を埋めてしまった。
「それでいい。念のため十二時間後にもう一錠飲んでおくんだぞ。今の私が言っても説得力はないだろうが、これは君のためなんだ」
「くたばりやがれ! この
本気の捨て台詞だった。
廊下は真っ暗だ。だが、夜目の利くキオは壁に手をつきながら、なんとか部屋に辿りついた。キオの部屋だけ皆と少し離れていて設備もいい。
これもエフィゲニーの気遣いだった。
明かりも付けないでキオは床に崩れ落ちる。
「くそっ!」
握った拳から白い粒を放り投げる。飲んだ振りをして隠した薬だ。スリのキオにこのくらいの事なんの造作もない。
「馬鹿野郎……分かっていた事だろうが」
冷たい床にうずくまり、キオは自分を嘲笑った。
「これが盗聴器だ。超小型の最新型だが、できるだけ電話機の近くに仕掛けてくれ」
「ああ、了解だ」
「気を付けるんだ。オスカー次官は君を女と知っている、ごく一部の人間の一人だ。それだけ重要人物って事だが」
今夜の標的は統合本部の幹部の一人。
だが、最近首都を空けることが増えつつあり、なぞの単独行動が多い要注意人物である。オスカー次官は用心深い男で、確たる証拠は何もない。
「用心深いってことは、それだけ後ろ暗いことがあるってことさ。慎重になればなるほどボロが出る」
それはエフィゲニーの信条だ。
だからキオが選ばれたのだ。
「わかってる。十分リラックスっせてやるぜ。俺のことはやつも知ってる」
「……私はして欲しくはないが、場合によっては色事になるかもしれない。四十を過ぎた伊達な独身男の考えることはよく知ってるからね。だが、酒は飲まない男だし、かなり手ごわい事は確かだ。……君の判断に任せる」
「おう」
「人当たりは良くて、女性にも人気で紳士だと評判の男ほど、油断ならないものはない。気をけなさい」
「ああ。そんな奴を一人知ってるからな。大丈夫だ」
キオは薄く笑った。
「手厳しいな」
「お互い様だ」
気だるげにキオは立ち上がった。
真っ白いだが、色気も何もない軍用のシャツのボタンを首元まで止めつけ、濃紺の詰襟の上着を羽織る。細い肢体が強調されるキオのいつもの出で立ちだ。
匂い立つような白い首筋に艶やかな黒髪がこぼれている。
「大丈夫か? あまり顔色がよくない」
「平気だ。少し寝不足なだけだ。久しぶりの大きな仕事だからな、柄にもなく緊張してるのかもな」
「久しぶりの仕事が、こんな大事ですまない」
エフィゲニーは気遣うように言った。凛々しい眉が下がり気味に寄せられ、キオの瞳を覗き込む。
「君を信じてはいるが、くれぐれも無茶はしてくれるなよ……私の黒百合」
指が髪を梳いた。するりと黒髪が逃げる。
「は! 心配するな。奴の尻尾を見事掴んでやるよ」
「テレンスには言ってあるのか?」
「なんでここにテリィが出てくる? 概要ぐらいは聞いているだろうが、奴は俺個人の仕事の中身なんか、いちいち聞いてこねぇ。いい副官様だ」
「そうか……ちょっと気になっただけだ。他意はない」
「ならいい……では行く」
キオは顎をしゃくって背中を向けた
首都で一番の高級ホテルの前で車は停止する。
「すげぇホテルだな……どんなにもてなしてもらえるか楽しみだ」
「何も泊まることはない。終われば連絡を。一つ先の通りまで迎えに来る……キオ」
エフィゲニーはシートを滑り出ようとするキオの手首を捉えた。
「ああ? 何だよエフ。今夜は妙に絡んでくるな。俺はそんなに危なっかしく見えるか?」
「そうだ。今夜の君はなんだか危うい感じがしてね。私は……心配している」
「そうか。ならせいぜい心配してろ。なんならレディに慰めてもらえよ」
キオはエフィゲニーの危惧を笑い飛ばすと、優雅な仕草で車を降り、ホテルのファサードの大階段を上って行った。
明るい正面玄関が口を開けて待っている。
エフィゲニーの元にキオが電話を掛けてきたのは、午前三時を過ぎた頃合いである。近くの部屋で待機していたエフィゲニーは電話口に噛みついた。
「キオか? 遅かったじゃないか、今どこだ?」
「ああ、悪かった。仕事が終わってからばったり、昔馴染みに出会っちまってな。今そいつの部屋に転がり込んでる」
「何? 危険はないのか? 今から迎えに行く。どこだ?」
「……おいおい冗談だろう? 野暮は言うなよ、少佐殿」
「……何?」
「俺はこれからお楽しみだ」
「……」
「だが、とりあえずは報告だ。首尾は上々。例のもんはちゃんと絶対にばれねぇ所に仕掛けた。工作班に連絡しておけ」
「了解した。……ところで彼と寝たか?」
「ああ……なかなか手ごわい政治家で……けど、そういう意味じゃ奴はちゃんとした紳士だった。俺をちゃあんと扱ってくれた。どう言う訳か金までくれたしな。それで今からダチと飲み直すんだよ」
「そいつは男か?」
「当然」
「……どうしてもか? 私が帰って来いと頼んでも? キオ、すぐに帰ってこい!」
エフィゲニーが怒りを露わにすることは普段ない。だが、電話口のキオは平気そうに答えた。
「嫌だね」
「……そうか、ご苦労だった」
「エフィゲニー少佐」
「なんだ」
キオが彼を階級で呼ぶ時は、本気の案件だ。それは正確無比で今まで外したことがない。
「オスカー次官はシロだ」
「何だって?」
「俺の勘だが、奴はシロだよ。売国奴じゃない。腐っちゃいない」
「君を抱いたんだろう?」
エフィゲニーは疑わしげに言った。
「それでもヤツはシロだよ。けど、あとはお前の仕事だ。きちんと調べ上げるんだな」
「……わかった。君の意見を尊重して分析にあたることにする」
「そうしろ。じゃあな」
「待て、明日は迎えに行く。通りの名ぐらい言いなさい」
「ははっ! 俺はお姫様かよ? 朝にはちゃんと帰るよ」
上司をはぐらかしてキオは笑った。乾いた笑い声だった。
「本当か?」
「ああ、心配するな」
「絶対だぞ」
「ああ、お休み。エフ」
キオは受話器を置いた。
カチンと余ったコインの落ちる音と、その後の孤独。
深夜の駅の待合には誰もいない。本来なら閉鎖されている場所にもぐり込んでいる。ここで始発を待つのだ。
「あばよ……エフ」
キオは屋根の切れ目から夜空を見上げた。涙はこぼれなかった。そっと腹を抑える。
キオはもう自分が崩れたりしないだろうことを知っていたのだ。
「少佐、お呼びでしょうか?」
翌日。
テレンスは窓の下を見下ろしているエフィゲニーの背中に向かって言った。だが、彼はなかなか振り返ろうとはしなかった。
「少佐?」
「……キオが帰らない」
「え?」
「夕べ連絡があったきりだ。朝には戻ると言っていた。昼前から、心当たりの付近を探索させているが足取りはつかめない。君は何か知っているか?」
「いいえ、何も聞いてはいません。オスカー次官の周辺は?」
「それも調査済みだ。奴は今朝一人でホテルを出た。キオが出て行ってから五時間後だ。従業員に扮した部下が見ても怪しい事はない。電話の記録は分析中だ。だが、キオだけがいない」
「……俺あいつの部屋を見てきます」
そう言って一旦退出したテレンスだが、直ぐに戻って来た。今度は明らかに顔色が変わっている。
「少佐! キオの部屋はきれいに片付いています! 私物もすべて処分したようです。支給品の軍服などが、箪笥に残されてありました……あいつ、出て行ったんだ!」
「……」
エフィゲニーは肩越しにテレンスの報告を聞いていたが、やがて元通り窓の方を向いてしまった。
「少佐! 追いましょう! 今ならまだ……」
「いいよ」
「少佐?」
「どうやら、黒百合は消えてしまったみたいだ。軍が嫌になったんだろう。まぁ、仕方あるまいよ。もともと野の百合だ。あの子の特殊技術は重宝したが、言わばまぁ、それだけの事でもある。代わりの方法も人材も他にないではなし。何とでもなる」
「そんな! それがさんざん利用した部下に対する言葉ですか?」
男の平坦な口調に苛立ってテレンスは喚いた。
「裏切ったのはキオの方じゃないか。幸いあの子は情報の中身までは知らない。こちらにダメージはないよ」
「俺は探してきます! 失礼!」
足音も荒くテレンスは出て行ったが、エフィゲニーは振り返りもしなかった。
朝からずっとこの場所に立っている。正門が見下せるこの室長室の窓際に。
見つかる訳がないよ。あの子は私が育てたのだから……。
まさかあの時の事を恨みに思っていた訳ではないだろう。あれから二か月以上経っているし、ずっと普通に私の傍にいたじゃないか。
そう、ずっと近くにいて大きな黒瞳で自分を見つめていた。なのに、声を掛けられるまでは決して寄って来なかった。悪い言葉と態度を鎧のように身にまとって、強がって、それでいて彼の腕の中で甘い声を上げた。
酔っていたのは口実だ。抱きたくて抱いたのだ。いずれ、きちんとしてやるつもりだった。教育を受けさせ、危険なところから遠ざけて、彼の隣に。
なのに、いなくなってしまった。
「まぁ、そんなものだったのだろうよ」
薄く笑って傍らの書類を取り上げる。
──俺のそばに置く? どうやって? どんな立場で? 野良猫を飼い猫にすつもりで別宅で飼い殺すのか?
「ははは! 馬鹿なことを!」
エフィゲニーは手に取った書類を投げ捨てた。
「君には失望したよ……黒百合」
そして彼は、何事もなかったかのように机に向かうと、溜まった仕事を片付けるためにペンを取り上げた、
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