黒百合の娘

文野さと(街みさお)

第1話

 やった! と思った瞬間、キオは手首をつかまれた。


 すりとったと確信した分厚い財布はあっさり取り戻される。

 上玉だと目星を付けた貴族の男。

 寒さゆえか、マントのフードを下ろしているので顔は良く見えなかったが、着ているものが見たこともないくらい上質なものだったので、今夜のカモにしたのだ。

 キオの職業はスリだ。仲間内からは最上級の腕前だと評されている。

 そして急いで金を作らなければならない事情があった。

 良い身なりの紳士は感覚が鈍感な奴が多くて、しかも動きものろいから獲物としては最高なのだ。

 上玉だ。今夜はついてると思った。

 ──なのに。

「残念だったな、坊主」

 ぞっとするほど深く滑らかな声。

 財布をすられそうになったというのに、囁く言葉には感情の乱れはなく、どこか愉しげですらある。

 悪魔はこういう声をしているのかもしれない、とキオは思ったが、今は逃げるのが先だった。

 キオの力は弱い。だがそれを補える素早さと身軽さがある。

 並みの男ならば、たやすく手玉に取れる。さっと身を沈めて男の急所を蹴上げようとしたが、今度はその足首を捉えられた。

「くそっ! 放しやがれ!」

小柄なキオは宙吊りにされてしゃにむに暴れたが、伸ばした男の腕が長くてかすりもしない。

「いい動きをするなぁ……ふむ、もしかしてお前が七本指か?」

「しらねぇよ! 放せよ! おっさん!」

「おっさんとは失敬な。私はまだ三十代だ」

「十分おっさんじゃねぇか! せあ!」

 体を振って推進力を得、自由な方の足で男の鼻を潰しにかかるも、今度は体を宙に放り上げられ、ズタ袋のように肩に担ぎあげられてしまう。

「軽いな。喰ってないのか?」

「うるせぇ! 放せ!」

 キオは男の肩の上で暴れた。

 足は腕で押さえられたが両手は動くので握り拳を叩きこむ。しかし、厚みのある男の体には少しも堪えないらしい。

 このままでは憲兵に差し出されてしまう。あいつらが街の浮浪児をどんなふうに扱うかは知りすぎるほど知っていた。犯されて放り出されるならまだいい方で、酷い時には手足の骨を折られるのだ。

「ちきしょう! このクソ野郎!」

 キオはこのスラム一のスリだ。孤児院を逃げ出して凍えそうになっていたところ、拾われた女にその技術を仕込まれたのだ。

 女は優しくはなく、小さかったキオを幾度も殴ったし、キオが仕事を覚えてからも、その稼ぎの殆どを掻っ攫っていった。

 しかし、お陰で寝る所は確保できたし、食うにも困らなくなった。キオは幸か不幸か指先が器用で、あっという間に女を超すほどの天才スリになったのだ。

 一人前になったキオが女の元を離れてから既に五年ほどたつが、今でも一応恩義は感じている。

 彼女は長年の過度の飲酒がたたって仕事ができなくなり、救済院とは名ばかりの豚小屋で暮らしているが、キオは時々金や食料を女のところに持って行く。

 スラム街の冬は厳しい。

 そしてスリには仕事がし辛い季節だ。人々は厚着をし、前かがみになって歩く。つまり懐に指を忍ばせにくいのだ。

 なかなか獲物に恵まれなかったキオだが、今夜は久しぶりに上玉に出会ったとほくそ笑んだのに。

「てめぇ! 酔っぱらってた振りをしやがったな!」

「いや、酔ってはいたよ。酔っぱらっていなかっただけだ。人探しをするのに酒の匂いは必要だと思ったものでね」

「人探し?」

「そう」

「誰を探してる? オレはこの街の大抵の事は知ってる。逃がしてくれたら教えてやるぜ」

 キオは一縷の望みを託して叫んだ。しかし、男の答えはそっけない。

「必要なくなった。たった今」

「くそ! オレをこのまま憲兵に突きだすのか?」

「それも必要ない」

「じゃあどうするつもりだよ!」

「私のところに連れて行く」

「はぁ? てめぇが憲兵だったのか?」

「違うね。私はただの士官だよ。情報を扱う、ね」

「しかん? じょうほう?」

「そう。そして私が探していたのは君だ。この三日ほど、この界隈をうろついてやっと捕まえたんだ。逃がしはしないさ」

 男は大股で歩きながら説明した。薄汚い路地から少し広い通りに出たが、この時間にうろつく人間は少ない。

 スラムの夜は弱いものに容赦はしない。だから、泣こうが喚こうがキオを助ける奴など、どこにもいないことはわかっていた。

 男の足は速く、いくつか通りを渡り、角を曲がって、もうキオの知らない小奇麗な町に入っている。しかし、凍てつく町は静まり返り、動く者の気配はない。

 このまま何もしないでこのまま連れて行かれる訳にもいかない。最後の手段でキオは胸の隠しに落とし込んだ小さなナイフを取り出した。

 幸い男は背を向けている。

 腕の付け根に切りつけて怯んだ隙に逃げればいい。

 キオはそっと上着の内に指を滑らせた。

「やめておきなさい」

 ぞっとするほどの滑らかな美声。これは悪魔の声だ。

「君では私にかすり傷一つつけられないよ。警戒するのは分かるが、決して悪いようにはしない。大人しく私のところに来ることだ」

 そう言って男はまた一つ角を曲がった。

 すると一台の大きな車が停まっているのが見えた。小さな外套の下でそれは黒々と蹲っている。キオにはそれがまるで地獄の馬車か棺桶に見えた。

 そこで男はようやくキオを肩から下した。

 と言っても地べたに下すのではなく、脇に手を突っ込んでぶら下げているのだ。まるで猫扱いである。

 男は軽々と腕を上げて自分の前にキオを寄せた。

「まさかと思うが……」

 男は首を振ってフードを落とした。

 弱い街灯の光にも鋭く整った男の顔貌が見えた。

 白く光る金髪、凛々しい太い眉。瞳は多分青いのだろう。その目が細められてキオを見つめている。

「君は女か?」

「悪かったな!」

「驚かされるのは久しぶりだ。君の事は男と聞いていたんだ。口がひどく悪いし、体に丸みがないから、私もついそう思い込んでしまったんだが……しかも、報告よりも子どもじゃないか。我々の情報網もまだまだ甘いな。しかし、悪いが見逃してやれない」

「て、てめ……何を言ってやがる」

「……震えているのか?」

「寒いからな!」

 キオは去勢を張って唇を噛みしめた。

 こうして見上げると、男はものすごく大きかった。体重などキオの二倍はあるに違いない。

「いくつだ? 適当にごまかしているようだが」

「さぁ……俺たちに戸籍はないからな。十八は下らねぇとは思うが、正確には知らねぇよ」

 渋々答えたキオに男は驚いたようだった。

「そうか。まいったな……スラムの天才スリだの、七本指だのと言うからもっとベテランかと思いきや、こんな子どもだとは……」

「ば、馬鹿にするな! これでもキャリアは十年を軽く超えるぞ!」

「だが、私の財布はすれなかったじゃないか」

「……」

「だがまぁいい。私にしたところで、予め想定していなければ、ヤられたかもしれないからね。それほどの腕前だった。よっと」

そう言いながら男は、車の後部座席にキオを放り込み、大きな体をその横に割り込ませる。運転手は影のように何も言わず正面を見ていた。

「寒かったろう。ところで自己紹介がまだだったね。私は国防省情報参謀部、情報収集戦略室、室長、エフィゲニー・ミューラー少佐だ」

「何だって?」

「ああ悪いな、わかりやすく言えば、一介の情報将校だ。いろいろ知ることが仕事さ。たとえば君の弟分が今、病気にかかっていて薬を買う金が要る事も知っている。私の知りうる限りでは、どうも結核のようだね」

「なに!」

 目を見張ったキオを男は楽しげに覗き込む。

「驚いたかい? 私は欲しいものを手に入れるための準備は怠らない方でね。もっとも君の性別に関しては大失敗だが」

「……その物知り屋が俺に何の用だ」

 キオはズタズタにされた自尊心をかき集めて言った。

「私のいう事を聞けば、弟分はちゃんとした治療が受けられる」

「……それで?」

「君を私の手下てかにしたい。七本指のキオ」

「手下だと!?」

「そうだ。もっとも断る選択肢は君にはないが」

「……」

「私の元で国家の為に働いてほしいのだ」

「こっか……?」

「そう。君のその天才的な指を私に寄越しなさい。だが……七本指と言う二つ名はいただけないな。下品すぎる。君は……髪が黒くて華奢だから……そうだな、黒百合……うん、今日から黒百合と名乗りたまえ」

 エフィゲニーは微笑み、言葉も出せないキオの手を取ると、そっと指先に口づけた。


「まぁ珍しい! ミューラー少佐がおいでになっているわ」

 外務省主催の懇親会。

 かなり大規模なものだ。各国の外交官や軍需産業を請け負う商人も大勢やってきている。軍関係者も目立つ。

 その中でもその体格と存在感で、目立つのはエフィゲニーである。

 彼は軍人ならではの鋭い美貌を穏やかな雰囲気に包み、周囲の──特に女性たちの注目を集めていた。

「お父上の伯爵閣下は早く軍を辞させて、家を継がせたいとおっしゃているのですけれど、ご本人はあの通り軍の人気者ですしねぇ」

「今夜はアントニーナ嬢とご一緒ではないのね」

「ご婚約が整ってそろそろ一年になるのかしら」

「でもほら、ご覧になって? あの美少年。噂の黒百合って言うのは、あの子なのかしら?」

「そうよきっと。まぁ私たちより小さいわ。でも確かにきれいな子よね? いくつかしら? あなたの下の息子ぐらいかしら」

 婦人たちの視線は軍の二級礼装をりゅうと着こなしたエフィゲニーから、その後ろで控えている人物に移っていった。横に副官のテレンスも立っており、長身の二人に挟まれて小柄な少年は、まるで子どものようである。

 エフィゲニーの黒百合。

 七本指に変わる、今のキオの二つ名だ。

 耳に掛かるつややかで、まっすぐな黒髪。吊り上った大きめの黒瞳こくどう。少し黄味がかった白い肌。キオは表面上はエフィゲニーの従卒である。

 そして二人共が目立っていた。

 そんな彼らに男たちの一団が近寄ってくる。いずれも立派な服装の紳士たちだ。

「キオ」

「わかっている」

 キオは脂ぎった顔に、いやらしい微笑を張り付けて近づいてきた中年の紳士に、控えめに笑いかけた。その前にエフィゲニーの広い背が立ちはだかる。

「お久しぶりでございます。ボーデル卿。相変わらずご健勝そうで」

 エフィゲニーは肖像画のような男ぶりを惜しみなく垂れ流して言った。容姿を利用したこの男の表の顔は、軍のスポークスマンなのである。

 如才なく愛想を振りまき、男女を問わず人気のある男が、陰では冷徹な情報将校だと知る者は軍内部でも少ない。

「おお! ミューラー君、お父上はお元気かな?」

 言いながら、中年男はキオの全身に舐めるような視線を送った。

「ええ、あの人は相変わらずです。あちこち飛び回っておりますよ」

「そうかね? お元気なのは何よりだ。ところでこちらの少年は?」

「ああ、私が世話をしている遠縁の子どもで、キリエといいます」

「おお! 可愛い子だね。酒が嫌いでなければ、あちらで私の杯を受けてくれないか?」

「はい! よろこんで」

 キオは純情そうに白い頬を染めながら頷いた。


「首尾は?」

「誰に言ってる?」

「だな」

 真夜中過ぎ、漸く脂粉渦巻くホールから逃れ出たエフィゲニーは、車の中で今夜の成果に満足してシートにもたれかかった。

「あのタヌキは大事なものを身につける習慣があってな。だから君の出番となった訳だが……ご苦労だった」

「ああ」

「あの爺さんにどんな奉仕をしてやったんだ?」

「別にたいしたことじゃない。もうあまり役に立たなくなってるみたいで、少し撫でてやったら満足してたぜ」

「キスはさせたか」

「ああ、臭い口でこってり吸われた。あれには閉口だ」

「ふぅん、口直しがいるか?」

 Aエフィゲニーは甘やかすように、後ろからキオの項の髪を引っ張り、唇を寄せたが、キオはついと首を背けてしまう。

「いらねぇ。さっき喉が痛くなるまでうがいをしたからな」

「私がしたいんだが」

「気が済むまでレディAにしてやるんだな」

 レディAと言うのはエフィゲニーの婚約者、アントニーナの事である。

「どうした? ご機嫌斜めだな。私の黒百合は何を怒っている?」

「そんな呼び方はするな」

「なぜ? 君はこんなにきれいなのに。男のなりをさせるのは、そろそろ気が引ける」

「俺は男でいい」

「男はそんなに唇を尖らしたりはしない」

 エウゲニーはごつい指でキオの華奢な顎を掴んで撫でた。しかし、キオの態度は軟化しない。

「まだふくれっ面かい?」

「違う。疲れただけだ。仕事にではなく、あのパーティってやつにだ。面倒くせぇ」

 今夜のキオの仕事は男色趣味がある貴族、ボーデルから遠距離砲の設計図をすり取って、そして元に戻すことだったのだ。

 彼は軍に顔が利く軍需産業の要人だが、軍で儲けさせてもらっているのに、機密事項である最新型の砲台の設計図を隣国に横流しをしようとする売国奴でもある。しかも、見かけによらず慎重で、今まで決定的な証拠は見つからなかったがこれで尻尾を掴めるだろう。

 すり取った設計図は、副官テレンスの手で素早く写しが取られ、キオが男の気を引くようにしな垂れかかり懐に戻す。

 七本指と呼ばれたキオを自分の手駒にしたエフィゲニーは、彼女の神技を情報収集のために利用しているのだ。その中性的な美貌は、微笑めば天使のようだと人々は噂した。

 男性美あふれる上官に付き従う少年従卒。黒百合と言うあだ名は恐ろしく似つかわしい。

 そうしてその美貌目当てに近づいてくる、外交官や商人たちから書面やカードをすり取り、あるいはすり替えて、エフィゲニーの仕事に貢献してきた。

 エフィゲニーは宣言通り、キオを自分の手下にし、懐刀としてこの三年間使ってきた。

 その性格と容姿の噂だけ流し、ここぞという時以外は人前に出さず、表面上は男としてキオを遇している。軍関係者には密かな男色趣味を持つものがいるのだ。

 キオは彼らにうまく近づいてギリギリのところで身を躱して情報をすり取る。あるいは、隅に連れ込んで助平親父の気を引きつけている間に、エフィゲニーの配下が鞄や屋敷から盗み取るのだ。それがエフィゲニーがキオに与えた仕事だった。

「君のお陰で二日後にはあの男は破滅だ。良くやった」

 エフィゲニーはキオの不機嫌を意に介さず、その人好きのする微笑を浮かべた。笑うと目じりに皺が寄って一層柔和な感じになる。

「中に入れますか?」

 振り返ったのは副官のテレンスである。軍の重鎮アルバトフ中将の屋敷に着いたのだ。車は立派な門扉の前に止まっている。

「ああいいよ。夜中だからね。私はここから歩くよ」

 エフィゲニーはコートを取りながら言った。

「キオ、君も行くかい? ふわふわの寝台で眠れるぞ。明日の朝食もきっと素敵だよ」

「いい。俺は帰る」

「そうか……だがキオ、いい加減、俺はやめなさい。君はこんなにかわいい女の子なのだから」

「俺は男だ! 寒い、早くドアを閉めろ」

「はいはい、黒百合。私のお姫様。テレンス、キオをちゃんと送ってくれよ。ではお休み」

「承知いたしました。お休みなさい……では」

 エフィゲニーはコートの裾を翻して大きな門の中に消え、テレンスは車をスタートさせた。

「キオ?」

「……」

「大丈夫かい?」

「何が?」

 気遣う言葉に刺々しく返す。

「少佐は婚約者の家で夜を過ごすんだ」

「だからどうした」

「俺の前では突っ張らなくていいぞ。少佐はすごい人だが、君には残酷な人だ」

「俺は奴に与えられた仕事を果たすだけだ」

「昔の恩義を隠れ蓑にしなくったっていいぞ」

 それは彼に拾われた時に、キオの可愛がっていた病気の弟分を病院に入れてもらった事を指す。彼は十分な医療を受けたのだが、最後はキオに看取られて死んでいった。幸福そうに微笑みながら。

 キオは目玉は溶けそうなほど泣き、泣き疲れて眠って目覚めると、エフィゲニーがキオを抱いて寝ていた。

 それから三年――。

「軍を辞めると言ったって、少佐は引き止めやしないさ。もう辛い事を……」

「うるせぇ、テリィ。……言ったろ? 俺は疲れているだけだ。さっさと官舎に連れて行きやがれ」

「……ああ、わかったよ、でもあんまり無理するな。俺を頼ったっていいんだぞ」

「気が向いたらな」

 そう言い捨てると、キオはまだ停まっていない車のドアを押し開け、エフィゲニーに与えられた部屋のある官舎に走って行った。


「キオ!」

 女らしく丸い声が彼女の名を呼ぶ。

 振り返ると、優しい微笑があった。はちみつ色のロールが頬の脇で揺れている。

「レディ、お越しでしたか」

「やあねぇ、レディだなんて。アンと呼んでくださらない? 私たちはもっと親密になれるわ」

「いいえ、私にとってはあなた様は、レディ・アントニーナです。ミューラー少佐はまだ会議中ですが、もう終わると……」

「わかっているわ、こちらで待たせてもらっても良い?」

「構いませんが、俺……私のところにいても面白くはないですよ」

「あなたが十分面白いのよ、キオ」

「はぁ」

「いつも素敵ね。エフが惚れ込むのも分かるわ」

「……私は少佐の部下です」

「だけども、あの人も罪ね。こんなに可愛い女の子にいつまでも男の子の役をさせて」

「仕事ですから」

「それが酷いって言ってるのよ。あなただって好きな人ぐらいいるでしょう?」

「いませんよ、男は嫌いです」

 キオは早くその話題を切り上げたくてそっけなく言った。

「まぁ、エフがきいたら悲しむわ」

「少佐殿は私を男だと思ってます」

「そんなの仕事上だけに決まっているじゃないの……ねぇ、一度私に付き合わない? あなたにぴったりの服を見つけてあげる。お化粧もしてお菓子を食べに行くの。それから……」

 アントニーナの夢想は、音も立てずに入って来た男によって遮られた。

「いい加減にし給え、アン。キオが困っているじゃないか。この子は君のおもちゃじゃないよ」

 たしなめる様な美声は、彼女の婚約者である。

 エフィゲニーは、すっかり外出の支度を済ませていた。軍服ではない、上品なのに軽快な私服。彼の出自を知らしめるような。

 どんな装いでも、嫌味なくらいにサマになる。キオは嫌な顔で自分の上司を流し見た。

「あら、あなたのおもちゃだって言うの?」

「そんな事は言ってないよ」

「でも、あなたのキオの扱いは酷過ぎるわ。この子が大人しいのをいいことに」

 アントニーナはぷりぷりと言ったが、エフィゲニーは苦笑するだけだ。

「キオは大人しくなんかないぞ。でも久しぶりに会うんだ、ケンカは止そう、アン」

 そう言うと、エウゲニーは腕を広げ、素直にその中に飛び込んだアントニーナに口づけを与えた。

「ああ、キオ、ちょっと待ってくれないか?」

 エウゲニーはそっと部屋を出て行こうとしていたキオを呼びとめる。恋人は少し不満そうである。

「アン、すぐに行くからホールで待っていてくれないか?」

「いいわよ待ってる。お仕事の連絡なのね。でも直ぐに来てね。お芝居までにもうそんなに時間はないんだもの」

「ああ、わかってるよ」

 アンは聞きわけよく出て行った。部屋に残ったキオは不審な目で上官を見上げる。

「なんだ?」

「私はこれから食事に出るが、君に頼みたいことがあって」

「……言え」

「実は今日、アンの誕生日なんだが、贈り物を買うのを忘れてしまってね。何か装身具を買って届けてもらいたいんだ。首飾りでも指輪でも何でもいいからカードを付けて。芝居が終わって食事の時に渡したい」

「芝居が終わってから二人で買いにいけばいいだろう。俺なんかに頼むな」

「いや、うっかりもう買ってあると言ってしまってね」

「俺には女の装身具を選ぶセンスなんてない。育ちが育ちだかあな」

「そんなことはない。君の趣味は非常に素晴らしい。いつも上着に合うタイや小物を見繕ってくれているだろう? それは持って生まれたセンスだよ。ねぇ、頼むよ、キオ」

「チッ、わかったよ……」

「アンリの店ならちゃんとしてくれるはずだから。じゃあ行ってくるよ。君も楽しく過ごしたまえ。私の黒百合」

 エフィゲニーはにっこり笑い、キオの髪をさらりと撫でると、コートを羽織って出て行った。

「……馬鹿野郎」

 ──そんな風に誰にでも笑いかけるんじゃねぇ!

 キオの呟きは彼には届かない。

 そう、一度も。


「入るよ」

 変わってやって来たのテレンスだった。いつも通りの静かな顔に痛ましそうな色を浮かべている。

「ドアが開いていてね。聞こえてしまった。少佐は別に隠すつもりもなかったようだし」

「……」

「キオ……」

「うるせぇ!」

「でもいくらあの人を想っても無駄だよ。あの人の頭にあるのは仕事だけだ。こんなことを俺が言うのは気が引けるが、君も俺もただの役に立つ道具に過ぎない。婚約者のアントニーナ嬢だって、彼女がアルバトフ中将のご息女だから婚約したという人だぜ。君の気持は届かないよ」

「そんなこととっくに知ってる。俺は……あいつの命じた仕事を完遂できればそれでいい。あいつがどんな立場になろうがどうでもいいんだよ。俺は命令を確実にこなすあいつの刃だ。どんな汚い仕事だってやって来たし、これからだってやる」

「痛々しくて見ていられないよ、キオ。俺なら大切にするのに」

「お前の事は好きだ、テリィ。だがそれだけだ」

「君も少佐と同じく残酷だな」

「嫌なら離れていけばいい」

「つれない黒百合。君がここにいる限り俺は君の味方だ。君の邪魔はしないよ……でも……」

 テレンスはキオの腰を抱いて引き寄せた。

「俺に手を出す気か?」

「いいや、しないよ。でも、俺は君が好きだ。いつかは君を振り向かせたい」

 そっと額に唇を寄せる。湿った暖かいものが肌に触れた。

 キオは抵抗しなかった。

「キオ……君、泣いているのか」

「泣くかよ!」

 顔を見られないように、キオはテレンスの広い胸に顔を埋めた。

 怒れるはずもなかった。

 テレンスの瞳があまりに優しかったから。

 しかし、キオは優しくされるのには慣れていなかった。だからどうすればいいのか、わからないのだ。


「……エフ?」

 門扉で立ち止った婚約者をアントニーナが振り返る。

 ちらりと見えた窓際の二人。いずれもエフィゲニーが可愛がっている若者たちだ。

「どうしたの?」

「ああ、なんでもないよ。アン、行こうか?」

 やり過ごそうとするエフィゲニーにアントニーナはごまかされない。

 男の体を押しのけて、彼が隠そうとしていた視線の先にあるものを見つけた。

 小さな影に寄り添う逞しい影。

「なになに? あらまぁ……あの子たち! へぇ、そうだったの。キオったら」

「ああ、若いものはいいね」

 しかし既に興味を無くしたかのようにエフィゲニーは微笑み、アントニーナに手を貸して車に乗り込んだ。



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