阿片窟
三文士
第1話
私はごく一般的な中堅企業に勤める、しがないサラリーマン。
今日も満員電車に揺られながら家路につく。
週末で残業した体はもはや満身創痍と言っていいだろう。しかし、心は反対に充実感に満ち溢れている。人生は順調そのものだ。
降り立った駅で私と同じ様なサラリーマン達がそれぞれの帰る場所へ歩みを進めている。私は彼らを一瞥し、そして再び歩き出す。
そこはネオンも喧しい騒音とも無縁でただ等間隔に並んだ柔らかな街灯だけが灯る閑静な住宅街。同じ様な造りの同じ様な色の家々がところ狭しと群生している。まるで森だ。一軒家という樹木が立ち並ぶ森。
他所からきた人間にはきっと見分けはつかないだろう。
そうして暫く歩いた後、私は一軒の家の前で立ち止まる。そこは二階建ての白い一軒家で空色の車が一台、自転車が三台と三輪車が一台止まっている。
キキっと音をたてて小さい鉄製の門を開けると、家の中からドタドタと忙しない足音が聞こえてきた。私が玄関の取手に手をかけるかかけないうちにドアがひとりでに開く。少しだけ開いたドアの隙間からはおそるおそる小さな二つの瞳がこちらの様子を伺っている。
それが私の姿を捉えた途端、その小さなガラス球に輝きを灯した。私はたまらなくなり優しく取手に手をかける。
「ぱぱーおかえりなさーい。」
4歳になる娘がギュッと足にしがみつく。
「ただいま」
私はにこやかに彼女を抱きあげる。
「おかえり。お父さん」
「アナタ。おかえりなさい」
大人ぶって壁によりかかる男の子。私の8歳になる息子。
エプロンで手を拭きながら出迎えてくれる妻3歳年下の私の妻。
「ただいま」
私は私の自慢の家族に微笑みかける。
「遅くまでお疲れ様さま。皆ご飯食べないで待ってたのよ」
「すまなかったね。2人ともお腹へったろ」
「もうペコペコで死にそうだよ」
「あたしへーき」
「さっきつまみ食いしようとしてたクセに」
「ちがうもーん」
膨れっつらの娘の頭を撫でた後、私は着替えて食卓につく。
息子がほっぺたにご飯粒をくっつけながら私に話しかける。
「お父さん。映画のチケット買っといてくれた?」
はて?と首を傾げると息子は不機嫌な顔をする。
「やっぱりなー。お父さん絶対忘れてると思ったよ。連れてってくれるって約束したじゃんかー」
「ちがうよー。ぱぱあした、くれーぷたべるんだから」
そう言えば息子と娘とダブルブッキングしていたのを忘れていた。
「そうか。ゴメンゴメン。じゃあ明日はクレープ食べて映画を見に行こう」
「ぃやったー」
「ぃやったー」
「あら良かったわねえ。でもパパ。ママとの買い物するって約束も忘れてないわよね?」
妻は少し怒ったフリをする。
失敗した。トリプルブッキングじゃないか。
「いや。忘れてないさ。じゃあ映画を観たら買い物しよう」
「ねーねー。全部行くってなると場所はどうするのさ」
息子が解っていても質問してくる。彼は答えを言って欲しいんだ。
「そうねえ。クレープ食べて、映画も観て買い物できて。ついでに晩御飯も食べられるところっていうと」
「きまってんじゃん!」
家族で顔を見合わせる。
「エレファント!それで決まりだな?」
「イエーイ!」
次の日はみんなで早起きして、余裕をもってモールに着く事が出来た。
エレファントは大型のショッピングモールだ。ここいら近郊に住んでいる人らは全てをこの商業施設でまかなっている。エレファントは大きく分けて二つのエリアから成り立っており、その目的によって行く場所が異なる。ここへ来ると色々な物が目について、つい買い物袋を増やしてしまうのが悩みだ。
「足りるかな」
思わず口に出してしまった。まだ家のローンだってあるし、給料の上がる見込みは薄い。
「ぱぱ。あたし、くれーぷいらないよ。おたんじょうびにするよ」
突然、娘が泣きそうな顔でそう言った。どうやら娘は私の財布を心配してくれているようだ。その優しさが健気で、なんとも愛おしかった。
「ありがとうね。でもパパだって沢山働いてるんだ。大丈夫さ」
「ほんとう?」
娘は潤んだ瞳で私を見つめる。
「本当さ。パパに任しておけ」
「うん!ぱぱだいすき!」
この笑顔の為ならなんだってできる。
「さあ。ママとお兄ちゃんのとこに行こうか」
「うん」
私は娘の手をとって歩み始めた。
「遅いよー。映画、あと二時間で始まっちゃうよ。チケット買わないと」
息子が痺れを切らせて探しに来た。
「ゴメンよ。きっと混んでないよ。次の回でもいいだろ」
「もー。暢気なこと言ってら」
そう言って不貞腐れてみせる息子。ついこの間までは下の子と変わらない甘えん坊だったのに。妹が産まれて小学生になっていつの間にかすっかり一人前を気取ってる。まだまだ子供だけど、頼もしくなりつつある。
「お父さんさ。最近忙しいの?」
息子がとつぜんそう聞いてきた。
「ずっと帰りも遅かったし。こうやって休みに出かけるのも久しぶりだし」
「そう、だったな。うん。結構忙しかった」
私は小学生の息子に、まるで友達に悩みを打ち明けるように仕事の話をしてしまった。もちろん、彼にわかるように噛み砕いてはいたが。
「そっか。オトナって大変なんだね」
「まあお前もいつかそうなるな」
「いやだなー。僕このままでいたい」
そりゃあ無理だ、と二人で笑った。
「解った。じゃあお父さん頑張って働いてよ。ウチは僕が守るからさ」
息子の横顔が急に男らしく見え目頭が熱くなった。だが私も父親だ。グッとこらえて前を見る。
「頼んだぞ。男と男の約束だ」
私たちは固く握手を交わした。
「じゃあ報酬として、映画館でアイスとメロンソーダをお願いします」
「それはダメ」
「えー」
「お昼を食べれなくなったらお父さんがママに怒られる」
そう言って、また二人で笑った。
「あっ!ママー!」
息子は母親を見つけると急いで走って行った。なんだかんだ言ってもまだまだ子供なんだ。私のことはお父さんと呼ぶのに妻のことは今だにママと呼んでいる。
彼は彼なりに私がいない間を守るため、精一杯強がっているのだ。
「何処行ってたの?心配しちゃった」
妻が優しく微笑む。
「お父さん歩くの遅い。ねえ早く映画観ようよ」
「まずお昼食べてからね。映画館でお菓子を食べすぎない為に」
二人の子供たちはふくれ面をしたが、やはり母親には敵わない。渋々ながら、彼女の言葉に従う。
「まずはささッとレストランにでも入っちゃいましょ。買い物もしなきゃいけないし時間がないわよ」
「フェアリーテールに行こうよ!」
「あたしオムライス!」
フェアリーテールはエレファントにあるファミレスのひとつだ。味も値段も他の店のとは大差ない。子供達がファミレス好きで助かっている。
結婚前の妻は元々そういった類の店は避けるタイプだった。避ける、というか習慣がなかったようだ。彼女の実家は裕福だったし両親は絶対にファミレスを食べさせなかったそうだ。
だがいざ私と結婚して私の給料だけとなると、どうしたって安い店の世話になる。子供が産まれてから尚更、殆どの外食がファミレスになった。
彼女はそれを責める言葉一つ言わずに受け入れてくれた。
「ママはナポリタン」
「ぱぱ、なにたべるの?」
「なんでも食べちゃうぞ」
がおーと怪獣の真似をしておどけてみせる
「きゃーっ。あははは」
息子と娘が先に店へ駆け出していく。
それを見て微笑む妻になんだか私は、急に礼を言いたくなった。
「あのさ。いつも、ありがとう。なかなか時間が取れなくてすまない」
「やだわ急に。どうしたの?」
浮気でもしてるのかしら、と笑う妻。
「知ってるだろ。そんなに器用な人間じゃないさ」
「そうね」
「給料も安くて、キミに迷惑をかけてる」
「もう。なんか変よ今日は」
こんなよく出来た妻は、自分みたいな男にはもったいないとつくづく思う。
「キミが文句のひとつも言わずやってくれているから」
んー。と考えるそぶりをみせる。
「あたしね、実は結構好きかも。ファミレスの味」
「え?」
「両親は体に悪い、って食べさせてくれなかったけど。食べてみたらなかなか美味しいのよね」
「えーと。つまりどういう?」
私はいよいよワケが解らなくて、困った顔をしてみせる。
「確かに値段は安いし、あんまりいい材料は使ってなさそう」
「うん」
「だけど子供達だって喜んでるし。お財布だって、助かるわ。いちおう外食できて気分も良くなるし」
「そうだね」
そう言って妻は、ペコリと一礼をしてみせた。
「だからアタシはこうやってたまにファミレスが食べれるくらいの生活で十分満足しています」
言葉にならなかった。油断してしまえば涙が溢れてしまいそうだった。
「ありがとう」
そう言うのが精一杯だった。
「どういたしまして」
私は自分が世界で一番幸せだと確信した。
「早く行きましょう。子供達、きっと待ちくたびれてるわ」
私は必死で涙を誤魔化した。
「そうだね。お腹空いたよ。早く食べたい」
「まあ。子供みたい」
うふふ、と笑った表情は学生時代から変わっていない。愛しい妻。結婚してからずっと、気持ちは出逢った頃のままだ。
ファミレスでの安い食事は到底記憶に残る程の味ではなかったが、家族のみんなは満足してくれたようだ。
片付いたテーブルでコーヒを飲んでいると娘が持っていたチラシに目がいった。
『◯月◯日ニューエリアオープン!ピンクエリア!キッズ用品多数』
「あら、新しいエリアがオープンするのね」
と妻が目ざとく見つける。
「モモこちゃんだよ!」
「モモこちゃん?」
どうやら新しいエリアのマスコットキャラクターらしい。チラシには頭に赤いリボンをつけた桃色のゾウがニッコリ微笑んでいた。
「学校でも話題だよ」
と息子。
対して興味もなかったが、子供たちが喜ぶなら買ってあげようと思った。
「あっ!もう映画はじまっちゃう!」
「本当だわ。あと10分しかないわ」
あわてて会計を済ますと、家族全員急いで映画館のチケット売り場に並んだ。ポップコーンにジュース。それぞれを手に子供達は席に着く。私の隣に寄り添うカタチで妻が座っている。
もうすぐ本編が始まるという時、妻が耳元で囁いた。
カウントダウンが始まる。
「アナタ。あのね」
5
「うん?なんだい?」
4
「アタシとっても幸せだわ」
3
「僕もさ」
2
「本当?」
1
「本当さ。嘘じゃない」
0
「ではまたのご利用をお待ちしております」
多分最後に彼女はそう言ったと思う。
本当はよく聞こえなかったんだ。だって次の瞬間、私はとつぜん視界がホワイトアウトして見知らぬ場所にいた。まるでテレポートしたみたいに。
今まで映画館の席に最愛の家族といたはずなのだが。
おかしいな。頭はとっても混乱していた。心臓の鼓動も早い。
なにやら半透明のカーテンに遮られた天蓋付きのベッドにいるようだがヒドく臭う上にシミだらけだ。
これは夢なんだろうか。もしかして映画の途中で寝てしまったのか。多分夢だ。最近は疲れてたからな。それにしても嫌な夢だ。
身体も重くて思うように動かないし。視界もかすんで見えにくい。音もよく聞こえない。だから逆にこれが夢だってハッキリ解る。
不思議なのはその空間の醜悪な臭いだけがやたら現実味をもっているということだ。あまり嗅いだことのない臭いだが、例えるなら薬品と排泄物の混ざった様な酷い悪臭。
まあこんなハッキリした夢も珍しいので私は少し楽しんでいく事にした。息子が楽しみにしていた映画で寝てしまったことのせめてもの言い訳として。
私は周りを見渡した。
ベッドの横には何やらDVDプレイヤー大の機械が置いてあって、そこから数本の管が伸びていた。その管を伝っていくとどうやらその全てはこの私の後頭部につながっているらしい。
不思議な夢だ。一体どういう設定なんだろう。SF小説なんて読んだこともないのに。人の脳というのは不思議だ。そのとき突然、足音が聞こえた。相変わらず私の頭は夢心地だったがどうやら足音はこちらに近づいてきているようだ。
次の瞬間、無遠慮にカーテンが開けられた。
「あれぇ?12番さんもう起きてんの?予定より早いなあ」
それは間の抜けた男の声だった。声の主は若い男。私はぼやける視界の中でなんとか相手を確認した。
男は長身で長髪。顔のホリは深い。眉毛もヒゲもない代わりにその顔面には無数のピアスが刺さっていた。
「イシザキのヤロウ、テキトーにメンテしやがって」
どうやら彼はイシザキという人物に対し憤りを感じてるようだ。
それにしても面白い夢だ。全く知らない人物が出てくるなんて。私は話しかけてみることにした。
「すみません。今何時ですか?」
当たり障りのない世間話をするつもりだった。
「あん?ああ。今は1回目の11時だ」
「1回目?」
どういうことだろう。
何回か11時があるのだろうか。
「ああ。そっか。おたく旧世代の人だったね、えーっとなんだっけ。午前、そう午前11時だ」
「旧世代?」
男の言っている事があまり理解できなかった。
「午前とか午後って言ってたんでしょ昔は。まあその方がジョウチョがあっていいよね。俺もそっちのがスキ」
「今は違うんですか?」
男と私の会話が噛み合っていない。
私は、これが夢だということも忘れて真剣に考えていた。
「いやだってさ。今の時代、昼だの夜だの言ってもワカンないでしょ。この空だもん」
「え?」
そう言うと男は私の座っているベッドのカーテンを大きく開けた。今まで半透明だった世界が突然視界に入り込んできた。
「これじゃあねえ」
目を疑った。
私がいた所は非常に大きな部屋で、それこそショッピングモールのフロアと同じくらいの広さだろう。部屋には灯りの類は一切なく、しかしその部屋の全貌は確認できる。何故ならその部屋の外壁は全てがガラス張りになっており、外からの多彩な色の光りが全体を照らし出していた。
信じられなかったのは男の言葉である。
午前11時?まさか。だってガラス越しに見える空はあまりにも暗く、まるで真夜中のそれだったからだ。
「こんなことって…」
私はショックでその場に崩れ落ち床に手をついた。その衝撃で後頭部に繋がっていた管がブチブチと音をたてて抜ける。鈍い痛みが後頭部に走る。
例え夢でも、これはきっと悪夢に違いない。
私はだらしなく開いた口を閉じることさえ出来なかった。
「まさかとは思うんだけどさ」
男が訝しげな態度になっている。
「お客さん、今が西暦何年だか解ってる?」
男の質問の意図が解らない。
「いま?今は2019年だろう?」
そう言った途端、男は頭を抱えて吹き出した。
「あっちゃー。マジかよ。なるほど。わかった、わかった」
男はそう言ってそそくさと何処かに行ってしまった。自分だけ合点がいったらそれでいいのか。何の説明もしないのか。
しかしどちらにしてももういい。こんな二流の映画みたいな夢はこりごりだ。早く家族の待つ現実に戻りたい。
早く家族に会いたい。
そう思った時、私はおかしな事に気がついた。絶対におかしい。これが夢の中だからだろうか。こんな事があるものか。
私は最愛の家族の顔が思い出せなくなっていた。
大丈夫、きっとこれが夢だからだ。
ともかく最初のベッドに戻ろう。横になればまた現実に戻れる筈だ。そう思った。
ヨタヨタとベッドに戻るとさっきの男がどこからか戻ってきた。
「あーよかったよかった。まだ頭ボヤッとしてます?」
なぜだか男はニヤついてる。
「ええ。まあ。ですがもう放っておいて下さい。少し横になりますので」
「ああそうすか。まあその前にコレ、一服やって」
そう言って男は火のついたタバコのようなものを差し出してきた。
「イヤ、タバコは吸わないんだ。遠慮するよ」
「タバコじゃないさ。コレで幾らか気分が晴れるから」
男の言葉に不思議と促されてしまった。普段は嫌悪していたタバコだったが、不思議と拒絶できなかった。私は少しだけ煙を吸い込んだ。
「ブフッッ!ゲホッゲホッ…」
案の定むせてしまった。しかしどうしてだろう。私はこの感じを知っている。
「どうだい?イイだろう?」
しばらくボンヤリしていたがそのウチ変化がおき始めた。
男のニヤけ顏が、グニャグニャと歪みだす。
「ああ。なんだか妙な感じだ。体がしびれてる」
「そうそう。それでイイ。んじゃちょっと失礼」
そう言って男は突然に、私の首に注射のようなもの突き刺した。
「あぁ!あぁ…」
とっさのことで驚いたが、すでに何かを注入されてしまった後だった。
「どうだい?ハッキリしてきたんじゃない?ホントのキオク」
「ぁ?」
男のその言葉をきっかけに、私の頭にどこからともなく記憶が洪水の様に流れてきた。それを私はずっと塞き止めていたのだ。
何故かって?
思い出したくもない事ばかりだから。それだけのことだ。
「で?どんな感じお客さん?もう説明とか要らない?」
「ああ。大丈夫だ。迷惑かけたな」
そうしてオレは深いため息をついた。
「じゃあいちおう聞くけど、アンタの職業は?」
「工場勤務。サラリーマンじゃない」
「家族は?」
「いない。二年前にお袋が死んでから独りだ」
「息子は?」
「いない」
「娘は?」
「いねえよ。おい!もう十分だろ?」
「女房は?」
「…いねえよ。勘弁してくれ」
さっき吸ったヤツのせいで幾らか感情的になっているみたいだった。
理解はできた。だが信じたくなかった。最愛の家族が、あの全てが偽物だったなんて。
「アンタは先月、仕事場の工場で怪我して働けなくなった」
事故だった。右目と右耳がイカれた。
「仕事はもうできないが、その保険金が昨日おりた」
記憶はもうほとんど戻りつつあった。オレにはもう、語る気力も失くなっていた。
「で、その金で早速ウチにドラッグをやりにきた」
近代、発達した技術のお陰でドラッグも電子化した。
「この世で最高の電子ドラック」
直接脳に働きかけ仮想現実の中で完璧な記憶の捏造をおこなう。
「それが
男が先ほどのDVDプレイヤー大の機械を片手で持って眺める。
望郷。通称ノスは自分が思い描いた人生を完璧に再現し体験させてくれる。仮想現実の中で使用者にどんなドラッグよりも甘い夢を見せてくれる。
「現実逃避のヤクとしては理想的なモノだよコイツは」
だがノスには欠点というかある意味で厄介なことがある。
「ノスは完璧すぎるのさ。だからぶっ飛んでる間に境目がわからなくなっちまう」
脳に直接働きかける電子ドラッグは体への負担が少ない分、精神へのダメージは大きい。
望郷はそれの最たるものだ。
「一応その防護策として色々とアッチ側でサインは出てるはずなんだけどさ」
例えば名前。ノスの登場人物には名前がない。最愛の家族のはずなのに私は彼らを名前で呼べない。
「特定の象徴がこれでもかってくらい出しゃばってくるのもあったでしょ?」
アレもそうか。たしかピンクのゾウだったか。やたら無意味に不自然に介入してきていた。
「それでも現実を忘れちまう。すごいよねノスってやつはさ。」
ゆえに完璧と呼ばれる。
電子ドラッグに限らず最高の呼び名は即ち、最悪の依存度をあらわす。ノスによる死亡者は年間のべ3000人だ。
「さて、お客さんも無事帰ってきたことださし。飛びが収まり次第とっとと帰ってくれよ」
男は冷たくそう言い放つと、その場を立ち去ろうとした。
「ああ。解っている」
だいぶ頭も落ち着いてきた。だが反対に、心はどんどん落ち着きを失っていた。冷静に考えて、今のオレの人生にどれほどの価値があるのだろうか。仕事も失い。家族もいない。
あの心を支えてくれていた息子や娘は全てプログラムだというじゃないか。聡明な息子。愛くるしい娘。何よりも妻だ。愛しい妻。最愛の女性。ファミレスで良いと言ってくれたあのヒト。あの笑顔も、怒った顔も、ふとした時に見せる優しい母親の顔も。全てがデータに過ぎないというのか。
「オアアア」
突然、自分の口が奇妙な叫び声と大量のゲロを吐き出した。涙と鼻水でオレの顔はさぞ汚れていたに違いない。
「あーあ。なんだおっさんガキじゃねんだからさ」
先ほどの男がまた戻ってきていた。
「誰が掃除する思ってんだよ」
男は舌打ちをしてタバコに火をつけた。
「すま…ない。すぐ …片づける」
オレは思っていた。
この人生を続けるべきかと。こんな暗くて虚ろな人生が現実だなんて辛すぎる。
もしアレらが電子ドラッグの見せるまやかしだったとして。それがなんなのだ。家族がプログラムであったってあんなに幸せなら、例えそれが偽物だって。
オレは雑巾で床を拭きながら男に向き直る。
「おい、アンタ」
そうしてやっとの事でその言葉を口にした。
「頼みがあるんだ」
先ほどのベッドの部屋とは別のいくらか明るい小部屋。長髪の男がモニターを見ながら缶ビールを啜っている。
そこへ、小太りのTシャツをきた別の男が入ってくる。
「こんちゃ。修理に伺いましたあ」
どうやら出入りの業者らしい。
「てめえ、イシザキ。メンテしっかりやれよ。マジで殴るぞ」
「すいやせん、なにせ古い型なんで」
「言い訳すんじゃねえ」
イシザキと呼ばれる男は長髪の隣に座りテーブルにおいてあった缶ビールを開けた。
「てめえ。勝手に飲んでんじゃねえよ」
「すいやせん」
長髪の男は口ほど怒ってはいないようだ。
「あれ?12番のオヤジ。また潜ったんですか?起きたばっかりじゃないんですか?」
イシザキがモニターを見て長髪に尋ねる。
二人の見つめるモニターには全部で12個に分割されたカメラ映像が映し出されている。それらすべてにはベッドで眠る「お客たち」の様子が映っている。
「望郷の禁断症状。なんだか知ってるか?」
長髪がイシザキに尋ね返す。
「向こうでの記憶を、主要な登場人物たちの顔以外全て覚えているという事。確かそうですよね」
イシザキが得意げに答える。
「そうだ。ただただ楽しかった事は覚えてるんだが、それゆえ顔が思い出せない事が歯がゆくて生きる辛さが余計に増していくのさ。脳ミソの奥に思い出が引っかかっていつも手が届かない。そんな事を繰り返してるうちに使用者はどんどんノスに溺れていく」
「なるほど。ワザと記憶の一番大事な部分にモヤをかけて、中毒性を煽ってるんですね。それで12番は再度、ノスを求めたってわけですね」
「まあな」
長髪がビールをあおる。
モニターの12番にはベッドに横たわる安らな男の表情。
「で?今回は何をせしめたんです?あのおっさん、もう金なんかほとんど持ってないでしょう?」
いやらしい顔で、イシザキが言う。長髪は無表情だが口だけが少しゆがんで見える。
「このままノスの中で死なせてくれたら臓器だろうがなんだろうが全部好きにしていいとさ」
「へええ、儲けましたなまた。いくらジジイとは言えまだまだ使い道はあるでしょう」
「じゃなきゃ潜らせてねえよ。まあせめてもの花向けさ」
「死ぬまで夢の中ですか」
「本人の希望さ。まあ4日もすれば安楽死だ。最高だろうよ」
そう言うと長髪とイシザキは高らかに、しかし下品に笑った。
「しかしそんなに居心地良いんですかね?仮想現実が」
「安くしとくぜ」
「遠慮します。俺ぁ電子よりも現実が好きでさぁ」
そう言ってどこからかとり出したタバコのようなものに火を点けた。
「俺もそうさ。だが世の中には現実が嫌いなやつが大勢いる」
「確かに世の中はクソ溜めですからねえ」
「みんな自分の人生がこんなはずじゃなかったと思ってる。本当の人生を仮想に求めてる」
「そりゃコイツなら、努力なしでも最高の人生が手に入る」
「あたかも努力したかのような記憶も捏造されるしな」
「充実感も再現する。まさに完璧だ。すげえ」
イシザキが大げさに驚いて見せる。
「知ってるか?ここで潜ってる連中の夢はけっして大それた冒険なんかじゃなくて、皆ごく平凡な人生を夢見るのさ」
「ええ?どうしてです?せっかくなら大金持ちとかじゃねんですか?」
長髪が指先でモニターをコンコンと叩く。
「そういう奴もいるが稀さ。ほとんどはありきたりで平凡な人生をご所望なのさ。完璧で何もかも思い通りにいく人生ってのはリピーターが少ない。それよりも適度に苦難があったりする方がウケが良いんだ」
「そんなもんですか」
「そういうもんさ」
ふーんとイシザキが鼻を鳴らす。
「なんで望郷なんすか」
「さてね。俺はただの売人だからな。名前の由来までは知らねえよ」
「知らないで売ってるんですか」
「知るかよ」
「無責任だなあ」
「ありきたりで詰まらない人生を求めて馬鹿どもがここへ来る。それだけ分かってりゃいいのさ」
「ありきたりが幸せ、ねえ」
「馬鹿だよなそれって。ありきたりで平凡で、適度に苦難がある人生なんて、まさに今生きている現実そのものじゃねえかって話だよ。コイツらは全てを捨てて夢の中で同じ現実を見てるのさ」
「救いようの無い馬鹿ですね」
「いつの時代も全ての人の心は理解できねえ」
しばらくモニターを見つめる2人。後には缶ビールから残り少ない炭酸の抜けていく音だけが残った。
ベッドの上には12人がそれぞれ幸せそうな顔で眠っている。今日も彼らはありきたりな人生を求めてこの阿片窟で、電子に創られた人生を夢みる。
了
阿片窟 三文士 @mibumi
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