彼女は月を追い、糸を編む

見夜沢時子

その一生

 月明かりのほかに頼るものはなかった。

「――とうしろうさま」

 足下にほど近い位置で流れる川の匂いを鼻孔にあまく感じながら、女は懐から小さな紙片の包みをふたつ取り出す。

 間近で揺れた華奢な指を、男は紙片ごと握った。

 男の手、女の指、紙片と重ねたその中で、質感の重い粉末がざりとかすかな音を立てる。

「――はる」

 絞り出すような声音に、次の瞬間抱きすくめたかたい腕に、女はため息混じりの声を漏らす。折れそうな首の付け根で結われたぬばたまの髪の中から半端な長さのものがほつれ、粗末な着物に蜘蛛の糸のように落ちた。

「……お坊様が仰っていました。迷いあるものは輪廻する、と」

「輪廻?」

「そう。たましいが、同じこの世界へ戻ってくる。そのようなことだと聴きました。それなら、私たちは再び巡り会えましょう」

「再び――ならば、その時こそ、おまえと一緒に」

「……はい。籐四郎さま」

 どこかで夜の鳥が鳴いている。

 二人して川の水をすくい、紙の中の粉薬を同時に口に含んだ。

 ひどくゆっくりとした速度で、先に崩れ落ちたのは女だった。

 まもなく男も膝をつき、折り重なるようにして、事切れた。


 *


 ――現代の女子高生にとって、学校とか友達とかの平常維持は死活問題である。

 と、現代の女子高生であるところの私は思う。

 なんなら、思うとかじゃなくて、断言してもいい。

 青春がきらきら輝くとか表現されるのもその辺を前提とした話で、だから、――登校時間に比べると時々三倍くらいに変動する下校時間はなにも不思議なことではないと思うのだ。

 その日はまさにそんな時間帯だった。

 住宅街の屋根の合間に強い橙色が滲んでいる。あとは蒼い闇。

 一年の中で一番澄んだ色を放つ月が淡く光を落としている。

 そんな時間に、私は『伊井沢いいさわ』と表札のかかった一軒家の鉄門扉を、長い黒髪の持ち主が押して出ていくのを見たのだった。たやすくすれ違う。

「……うん?」

 余韻を残して揺れ軋むその背の低い門扉へと手をかけて、首をひねる。

 後ろ姿を見ながらあれは誰だったかと頑張って思い出そうとした。

 すぐにその必要はなくなった。

 こちらを振り返ったそのひとがまとっているセーラー服は私と同じだったけれど、それ以外は全て違っていた。街灯に輝いて見えるのは、冴え冴えとした瞳と、涼しい顔立ちと、つるつるの黒い髪。

 彼女はすこしだけ笑った。

「お茶、ごちそうさま。伊井沢さん」

「え。あ。おそまつさまで」

 した。と言い終わる前に、彼女は軽やかに踵を返していた。

 思わず言ってしまったけれど、もちろん茶を出したのは私じゃない。

「……なんで?」

 この家の中に私以外の高校生は住んでいない。そのはずだ。

 そして私は、彼女の名前すら知らなかった。

 ――不思議な、という言葉は、これくらいの出来事に対してこそふさわしいのだと思う。

 玄関のドアを開けず、庭に回り込む。猫の額ほどの空間には爺様がいた。母方の祖父だ。順調に少なくなりつつある白髪と痩せた身体。家の中に座り、開けはなったガラス戸から外の中庭へと足を降ろしている。

「おじい、今のだあれ? カノジョ?」

「んむ。誰じゃろね」

 数年前に喜寿を迎えた爺様は、軒先でぶちの猫に餌をやりながらのんびりとそう答える。

「なんじゃそれ。何の用だったの?」

「ん。かわいい猫ですねと」

「……なんじゃそれ」

雪菜ゆきな。そろそろ飯じゃと、聡子が言ってたよ」

「……」私のことを思い出した。「怒られるかな」

「夕飯に間に合えば問題なかろ。ほら、寒くなるから上がっておいで」

「はあい」

 日没まで一刻を争う。私はさっさと靴を脱いで家に上がった。



 謎のお嬢さんの正体は謎の訪問から二日後に判明した。

 高倉茗たかくら・めい。学内で知る人ぞ知る彼女は、ひとつ上の二年生だった。

 教室にぽつんといたら思わず眺めてしまう類の美人さんだけど、「知る人ぞ知る」なのはそこにかかる修飾詞ではない。

 彼女はいわゆる"ぼっち"だった。

 どこにいたとしてもひとりで、その顔は楽しそうでもないのに、誰かが昼食やら下校やらに誘っても言葉少なに断るのだという。

 一方私は、今日も学校帰りのファーストフードでドリンクだけを頼んで、友人一人と情報交換にいそしむ。

「ディスコミュニケーションさんだね」

「ひどい物言いだ」

 情報を持ってきた友人・蓮谷はというと社交性の塊だ。高倉茗に限ってはその社交性が活かされていないのか拗ねた子供のような口調だったが、言ってることがひどいのは騙されない。

「いじめられてるんじゃないの?」

「いやいやそれがね、」

 情報源いわく、常時すっと背を伸ばして座る居住まいの良さや、ただならぬ静けさを湛える視線の一瞬一瞬は、とてもちゃちないじめで侵してはならない領域のような感覚も抱かせるのだとか。

「現代高校生ってそんなに空気読めたのか」

「あとなんか、いじめたのが女子なら男子からの悪印象受けちゃうし」

「それってよけい……」

「ところがさ。身近な女子の恋心になんとなく気付いて、意中の相手との距離を縮められるようそれとなくそれとなく気を回してもくれるとかで」

「……意味が分からない」

「ひどい物言いだねえ」

 恋のキューピッド(どちらかというと小人さん?)も務めるぼっち。

 そんなプロフィールなら、猫を追いかけて違うクラスの生徒の家までやってくるのかもしれない。なんとなくそう思うと、納得出来なくもなかったけれど。

「まあ、よけいな周辺情報仕入れても仕方ないし、直接訊くしかないんじゃない? さすがにお宅訪問の理由までは誰ひとりとしてつかめないと思うわー」

「まったくですよね……」

 友人は頷きがてら、ずずと音を立ててストローから溶けた氷をすすった。


 そして私は再び高倉茗と遭遇した。

「……えーと?」

「おかえりなさい」

 彼女は中庭で猫を撫でていた。

 成人男性であれば満足に座れないであろう小さい楕円の石に腰掛ける様さえ、なるほど確かにきれいな姿勢だ。しかしそれで納得出来たりはしない。

「あの、……こんばんは」

「こんばんは。はじめまして、だったかしら。雪菜さん」

 うっかりお姉さまとか呼んでしまいそうになる、優雅な肌触りの声だった。でもそれで納得してはいけない。

「えと、はい。あの、高倉先輩ですよね。二年生の」

 彼女はほんのわずかだけ小首を傾げた。まるで考えるような仕草だった。

 ――もしや情報が違う? まさか別人と間違えたか、

「すごい。わたしの名前、よく知ってるのね」

「……。私の方がより強く『どうして』って思ってると自負してもいいと思います。ちなみに情報源は、友人」

「そうなの?」

 彼女の相づちの雰囲気は決しておざなりなものではなかったけれど、どこか気にしていない風というか、義理はあっても興味はない印象を受けた。

 相づちと同時に視線が足下へ降りたのもその原因かもしれない。そこには丸っこいぶちの野良猫がふくふくと香箱になって、白く細い手に撫でられている。

 ……なるほど。これがいわくディスコミュニケーションさん、か?

 まもなく途方に暮れそうだったその時、すぐそばのガラス戸が開けられた。

 彼女がすっと顔を上げる。私もそちらへ振り返ると、おじいが中庭のサンダルへ足を降ろしているところだった。腕に抱えるようにして麦茶の入ったボトルと、手にはプラスチックのコップをふたつ持っている。

「ん。雪菜、帰ってきたのか」

「うん」

 高倉茗へ目を向けると、ちょうど立ち上がるところだった。その所作もやはり優雅で、瞬間の言葉を見失ってしまう。

「では、わたしはこれで。お邪魔しました」

「えっ」

 ほほえみの余韻のような柔らかい声で辞去を告げて、思いのほか速やかに私の横を通り過ぎる。

「あ、ちょっ……」

 慌てて後を追った。

 しかし声をかけたところで彼女の足は止まらず、掴むべきは腕か肩かとそんなところで迷った私は、結局玄関前までついていくだけになってしまう。

「た、高倉先輩!」

 そこでようやく、門扉にかけた手を止め、高倉茗はこちらへ肩越しに振り返った。

「……なにしに来てるんですか? うちに」

 変な質問だ、と我ながら思う。

 彼女は笑った。

「すてきなお爺さまね」

 明らかに返答じゃない言葉を返して背を向けた。

 去りゆく後ろ姿を見つめて唖然とするしかない。

「……ディスコミュニケーション」

 いや、あそこまでいくと電波じゃないか。そう思うのだ。

 ふらつきがちに中庭へ戻ると、祖父はコップの片方に麦茶を入れて飲んでいた。猫は今度はそっちの足下に転んでいる。

「きれいな子だねえ」

 ……言葉を交わす前なら素直に頷けたと思うのだけど。

「んー。うーん。おじいはああいう子好きなのー?」

「儂があと六十歳若かったらな」

 爺様が愛した伴侶は、十一年前に葬式を終えている。

「ああ……あっちもおじいのことすてきだって言ってたよ」

「そうかね」

 朗らかに穏やかに爺様は言う。思わず腰に手を当てて、

「そも、何の話が交わされてたの……?」

「他愛ないことだ。いい子だと思うよ」

 あっちもおじいのこと褒めてたからなあ。なんとものんきなその調子に、半分笑いながらもため息をついて、私は一昨日のように中庭から家の中へ上がったのだった。



 不審者ですから通報しますよ!

 ――なんて展開にしたところで誰も幸せにならないので、それから数日間、私はちょっとばかりの興味と好奇心をアンテナにして、それとなく一人ぼっちの美人の動向に意識を向けてみることにした。

 学年からして違うから本当になんとなくしか目にすることも出来なかったものの、思わぬ場所に生息しているのを観察三日目で知った。図書室だ。

 思わぬところではあったけど、意外というわけでもない。

「……こんにちは」

 土曜日の放課後、書架の前にいた彼女に声をかけた。

「あら、こんにちは。昨夜ぶりね」

「あのうそれなんですが。どうしてこう、毎日熱心にうちに」

「それほど熱心ってことなんでしょうね」

 私はくじけかけて、踏みとどまる。

「高倉先輩。会話が通じないふりにしても、そろそろ悪質だと思う」

 なぜか彼女は哀しげに、諦めたように微笑んだ。

 そして長く迷う沈黙の時間があって、

「――確かめたいことがあるの」

 そう、吐息のようにこぼしたのだった。

「言っとくとうちの庭に埋蔵金とかはないですよ」

「理解してくれなくていい。出来ないと思うから」

 断言だった。

 断ち切られたのは私だけじゃない。彼女に触れる人全てだ。

 ――どうしてこの人はそんなに、

「ただ、わたしを少しだけ好きなようにさせてほしい」

「少しだけ、って。好きなように、って……」

「気が済むまで」

「だから、それが分からないんです」

 高倉茗は近くある書架から本を一冊抜き出した。背の上に指を引っかけて出す様は、滑り落とすと言った方が似合うかもしれない。

 待ち受けていた左手の中に、とす、と落ちる。

「今の言葉で言えば、電波、とか思われてるのかしら」

「え」

「わたし」

 急に言われてものすごく返答に困った。

「急に言われてものすごく返答に困ってる顔してる」

「えっ」ばれていた。

 ところがむしろ愉快そうに、彼女は顎を引く。

 その手の中の本には時代小説のタイトルがついていた。

「最初は、このころ。わたしたちには心中しか残されていなかった」

 そう言って、彼女はおもむろに歩き出す。私も小走りについていく。

「わたしは不治の病に冒され薬を買う金もなく、あの人は奉公先のお金に手をつけたと濡れ衣を着せられて。もうどうしようもなかった」

 次の書架の前に立った。大正浪漫を題材にした推理小説が時代小説の上に重ねられる。

「次は、この時間。出会えたのに、人と猫なんていう違いは埋められなかった」

「あの」

「また会うことを約束したの。今度は、今度こそ幸せになろうって。来世でこそ、ともに天寿まで添い遂げられると。――今度は、確かに男女として出会えた。この広い世界で」

 高倉茗は本の層へ目を落とし、長いまつげの陰を揺らしてから、少しだけ首をこちらへ向けた。肩に落ちかかっていた黒髪がさらさらと背へこぼれていく。

 いつも中庭にいる老爺の顔が私の脳裏によぎる。

 沈黙があった。

 それを破ったのは、彼女。

「ふふ。なんて、冗談よ。ただの妄想」

 確かに、ひどい妄想だと思った。重症だと。毎日のように家に訪問される身としては疲労感を禁じえない。

 だって、じゃあ、これも、会話が通じないふり?

 でもそれにしては――

「……だからもしかして、現世の環境に適応するのが投げやりだったり、するんですか」

「あなたも夢想家なのね。乗ってくれるんだ」

「だって、――……ずいぶん、悲しそうな顔に見えるから」

 私たちは高校生で、悲しければ盛大に泣くことも、うろたえることも、怒ることだってすでに経験している。

 でも――こんなに諦めと痛みと妥協が混在して褪せたように見える色は、クラスの誰の目にも見たことがない。将来を達観したふりをする子もいないではないけれど、人と喋る時にまでこんなに冷え冷えとした目はしていない。

 古木の肌を思わせるその瞳だけが、若く整った顔の中で取り残された印象を放っていることに一度気付くと、手品の種明かしを見てしまったような後ろめたい気分に襲われた。

「そんな話を私にするってことは、今回は猫じゃなくて人間で、でも手放しには喜べない条件で――つまりその、うちの、」私は思わず目をそらす。「うちのおじいが、……あなたの出会いたかった人なんじゃないかなって。――夢想。したり、しますけど」

 祖父が学校に来たのは体育祭の時だった。

 そのとき、気づいたのだろうか。

 祖父を通して視たのだろうか。心中までしたと語る、運命のひとを。

 彼女は静かな眼差しを笑ったように細めた。口角が優雅に上がる。

「あなたは、前世の記憶があったりする?」

「……ふつうはないと思います」

「でしょう。あの人もそう。前世わたしのことを覚えてたりなんてしないから、安心していいよ」

 ――妄言でないとしたら、それは、彼女は一人で連綿と記憶を抱え続けているということになるのだろうか。



 その日から彼女は私の友人という立場で庭に訪れるようになった。頻度はほぼ毎日。雨が降ってもさほど変動なく。

 彼女と祖父は取り立てて何を話すわけでもないが、お茶を飲んだり猫を撫でたり、まるで老夫婦のような夕暮れから宵にかけての時間を過ごしている。

 友人であるはずの私はというと、隅に控え、お茶をいれたりひっそり本を読んだりしている。

 ――高倉茗は真性の妄想家だ。

 そういう思いも頭の片隅でぴんぴんしていたけれど、主流として台頭してこない理由を挙げるとすれば、彼女が祖父といるときに浮かべる内面から染み出すような笑顔だと思う。

 その一瞬だけ、『綺麗』という印象が『可愛い』に変わるのに、彼女自身は気付いているのだろうか。

 爺様だけに見せるのはもったいない。そう考えてしばしば彼女を人の輪に混ぜるよう画策してみたりしたのだけど、やっぱり学内での高倉茗は無関心がなせる優しさしか見せないままだった。


「高倉先輩て、今を生きてる感じがしないよね。達観してるっていうかさー」

 昼食中にこぼれた蓮谷の感想がしっくりとはまる感じがした。



 急に冷え込んだ日のことだった。

 私の下校についてきた彼女はもはや定位置のように爺様の隣に座る。綺麗な顔立ちの女子高生が、友人である私ではなく友人の祖父と肩を並べて話をしたりしなかったりする様は、何度見ようとしっくりはこなかった。母など『おじいちゃんっ子だったのかしらねえ』などと言っていた。

 孫と祖父。それ以外の、何にも見えない。

 二人の後ろでそっと本を置いて立ち上がり、温かい茶を振る舞うべくキッチンへ行こうとした私は、背中に声を聞いた。

「――奥様は。どのような方だったんですか」

「ああ……」

 懐かしむような声で、

「美津は、気だてのよい奴だったよ。黒髪をそれは大事にしていてな……」

 平易な言葉で人となりをつづる口調はひどく穏やかで屈託ない。そして、今でさえ悲しみを帯びている。

 祖父はとても祖母を愛していた。

 いたたまれない気持ちになる。耳をふさぐようにその場を離れようとした。

「――」

 薔薇色の唇が薄く開き、浅く呼吸をする音さえ聴こえたような気がして、

「……そう」

 ささやくに似たひどく密やかな声だった。

 その声は、鞄を手に立ち上がる所作とともに、穏やかな調子へとねじ曲げられる。

「そろそろ、おいとましますね」

 私は後を追う。


 気が済むまで――そんな彼女の言葉を思い出していた。


 すでに日も見えなくなった住宅街のアスファルトには、街灯が点々と落ちている。

 セーラー服の彼女のすぐ後ろを、サンダル履きの足音をぺたぺたさせながら私が追いかける。

「……気が済むなんてこと、ないと思います」

「……」

「だって、それって、……私いまだになんかちょっと、すこーしだけ信じきれてないから迷うけど……」

 慎重に言葉を選んだ。このままだと大通りにまで足を進めてしまうことになるので、焦る。大通りに出ると交通量が違う。言葉の機微が伝わらないまま別れてしまうことを恐れた。

「よく言う、『生まれ変わっても一緒になろうね』なんて、本当にはありえなくて。だって、ふつうなら前世の記憶とか持ってなんてこないから。確認なんて、とれないし。でも、あなたにはそれが見えてしまう」

 彼女が足を止めた。

 振り返ったその瞳は、いつもの乾いた色の奥に深い暗い穴をひそめているように見えた。

「でも、そういうのって――後回しにしてる」

 あとまわし? と、唇が無音でなぞるのを影の中に見た。私は頷く。

「高倉先輩。明日、学校来ますよね。ショックで身投げとかしてませんよね」

「……探してきた」

 ぽつり。小さな音だった。

「信じなくてもいい。わたしの頭の中には複数の一生が詰められてきた。あの人に会うことだけを願って、でも、あの人の言葉を再び聞くことができたのは今回が初めてだった。――のに」

 前世の記憶を持っている人間なんて、ふつうはいない。彼女もそれを把握しているのは、先日の会話で分かっている。

「あの人に繋がる運命は、とうの昔に別の場所で絡まっていた」

 気が遠くなるような時間を、いとしい人を待ちわびてただひとりで過ごす。

 それがどんな苦痛なのか私には分からない。違う、他の誰にも分からない。長い長い時間が彼女の瞳を乾かせたことだけは分かる。

 ――そしていとしい人の記憶は、既に誰も持ってはいなかった。

「でも、――高倉茗には関係ない」

 黒い瞳が瞬くのを見た。

「あなたの中の人がどれだけ不運だったか、幸せに生きてきた私には分からないけど。爺ちゃんに失恋したショックで身投げするなんて高倉茗が可哀想すぎるから」

 歩み寄っていく。彼女は動かない。

「明日。学校で会いましょう、先輩。そいで、」

 手を伸ばし、きめ細やかな頬をつまんだ。

「明るく社交的な高倉茗のために笑ってください」

「……」

 手を下ろすと、彼女は目を閉じてささやかに人の名前を口にした。

「だから、今夜は――『あなた』のために泣けばいいと思う」

 呟きは、とうしろうさま、と聞こえた気がした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

彼女は月を追い、糸を編む 見夜沢時子 @tokko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ