毒薬のレシピ

笠虎黒蝶

毒薬のレシピ

 男は洗面器の黄色い液体に顔を沈めて死んでいるところを発見された。

 顔はただれ、腫れ上がり、第一発見者である召使いのサマンサも、最初はそれが自分の主人であると確信が持てなかったと言う。

 被害者はパトリック・ホワイト。ロンドンのメープル・ストリートにあるアパートの風呂場で死んでいるところを発見された。


 「ポール警部。近くのバーで聞き込みを行いましたところ、被害者が昨晩、若い男と口論になっていたとの目撃情報がありました」

 液体の異臭に鼻をつまみながら死体を見ていたポールは、背後から声をかけた部下のドミニクの方を振り返るようにして立ち上がった。

 「ほう。その男の身元はわかったのか」

 「はい。バーの店主によれば、男はここから二区画東の高級アパートに住むサイモン・アンダーソン。被害者とは古くからの友人で、よく一緒に飲みに来ていたとのことです」

 「そこまでわかっているなら話は早い。では、その男に聞き込みに行こう」


 ポールはドミニクと一緒に高級アパートの最上階にあるサイモンの部屋を訪れた。

 ドアのチャイムを鳴らすと、金髪で細面の紳士が出迎えた。

 「何かご用でしょうか」

 ——スティーブ!?

 ポールは一瞬、自分のかつての友人がそこに現れたかのような錯覚にとらわれた。

 友人でもあり、共同経営者でもあった男。微笑みの裏で自分を欺き、妻と財産を奪った男——スティーブの若い頃にサイモンはそっくりであった。

 「失礼。警察の者だが……あんた、サイモンさんだね?」

 「はあ、そうですが……」

 「ちょっとあんたに聞きたいことがあるんだ」

 そう言うと、ポールはたるんだお腹を揺らし、サイモンの部屋へ押し入った。

 サイモンの部屋は綺麗に整理されており、家具や調度品からも男の豊かな暮らしが窺えた。壁には東洋の美術品が飾ってあった。こんな趣味までスティーブそっくりだ——ポールはスティーブに抱いた嫌悪感をそのままサイモンにぶつけるように尋ねた。

 「あんた、昨晩パトリック氏と口論になったそうだな。バーで目撃した者がいるんだ。一体、彼と何があったんだ?」

 「たしかに口論になっているように見えたかもしれません。私の彼女のことで、彼がいいがかりを付けてきたのです」

 そのとき、玄関のドアを開けて若い女性が入って来た。サイモンは彼女を一目見て、別れた妻の若い頃に似ていると思った。

 「今、帰って来たのが、その彼女です。私達は最近ここで一緒に暮らし始めたのですが、彼女はかつてはパトリックと付き合っていました」

 「ほう、三角関係か。よくある話だな」

 「私が付き合い始めたのは、彼女がパトリックと別れた後、ずいぶん経ってからのことです。それなのにパトリックは私が彼女を彼から奪ったのだと……」

 「違うのか?」

 「もちろんです。昨晩も否定したのですが、彼はひどく酔っていて、私達を罵るような言葉を吐いてきました。私だけならかまいませんが、彼女のことを他人の前で悪く言うので、ついカッとなって……」

 「それで殺したのか?」

 「殺した? 何を言っているんです? 私はカッとなって、彼がこれまでに行ってきた悪行の数々を、バーの客に聞こえるような大声でつい暴露してしまったのです」

 「ふん、くだらんことを。本当にそれだけなのか?」

 「はい……もしかして、パトリックは死んだのですか?」

 「わざとらしいな。今朝、亡くなったよ」

 「そんな……」

 サイモンは目を丸くした。隣にいた彼女も息を飲むようにして何かを叫び、両手で顔を覆った。

 「あんた、今日はどこにいたんだね?」

 「今日は……朝からずっとこの部屋にいました」

 「それを証明することはできるかね?」

 「彼女と一緒でした。嘘だと思うのでしたら、彼女に聞いてください」

 「身内の証言じゃ証明にはならんよ。仕事は無かったのかね?」

 「はい。今日は休みでした」

 「そうか。仕事は何をしているんだ?」

 「製薬会社の役員をしています」

 「その若さで役員か……だが、製薬会社か。それは興味深いね」

 ポールは口を歪めるようにして笑みを浮かべた。

 「パトリック氏は毒薬に浸るようにして死んでいたのだよ。あんたなら毒薬を作ることも可能だろう。ちょっと署までご同行願えますかな」

 

 警察署の事情聴取でもサイモンは犯行を否認した。

 パトリックが顔を突っ込んでいた液体は、軽い金属を腐食させるような酸性の強い劇薬で、飲めば一瞬で内蔵が溶けてしまうと思われた。

 この毒薬についてもサイモンは知らないと答えた。

 製薬会社にも問い合わせを行ったが、このような毒薬は扱っていない、サイモンが薬品を持ち出した形跡はない、とサイモンを擁護するような回答ばかりで、サイモンの犯行を裏付けるような情報は何も無かった。警察の中にも動機を疑問視する声があった。口論していたとは言え、サイモンがパトリックを殺しても何の得にもならない、と言うのである。

 だが、ポールはサイモンこそが犯人であると確信していた。人は損得だけで犯罪を犯すのではない——ポールはスティーブに会社を追われた後で警察に入ったため、警察でのキャリアは短いが、鋭い直感で犯罪者を次々を検挙し、警部まで上り詰めた。その直感がサイモンが犯人であると告げていた。

 きっと、どこかに証拠があるはずだ——そう信じて、単独で再び犯行現場の捜索を開始した。部屋の隅々を調べ、風呂場の近くにあった本棚の一冊を取り出したとき、一枚の紙がハラリと床に落ちた。

 「毒薬のレシピ」

 紙の冒頭にはそのようなタイトルが付けられていた。

 「何だ、これは?」

 紙には「以下のものをこの順で混ぜる」という一行の後、聞いたことのない材料が羅列してあった。

 ヘキサオクタクオタノール、メガギガテラレイン、ボックスルート、スプリングポート……

 紙の最後は液体で溶けており、レシピは「……が生成される」という一部が欠けた文章で終わっていた。

 この材料で「毒薬が生成される」ということか。これで犯人が毒薬を作ったとして、なぜ犯人はこのレシピを現場に残したのだろうか。本に隠す意味も無い——ポールは頭に浮かんだこれらの疑問を薬品に詳しい情報屋の男にぶつけてみた。この男はドミニクはおろか警察の誰よりも頼りになるとポールは信頼していた。

 「『毒薬のレシピ』ってのが出回っているという噂は聞いたことがありますが、実際見るのは俺も初めてです。こりゃ全部集めるのは大変ですが、たしかに危ない薬が作れそうですぜ」

 そして、情報屋はこれらの材料が入手できる場所を教えてくれた。特殊な材料で入手できるところは限られているということであった。

 ——サイモンはこれらの場所を回ったに違いない。


 ポールは警察署に戻ると、サイモンの似顔絵を持って、材料の入手場所を回った。

 目的は二つあった。一つはサイモンが入手しようとしていたという証言を得ること、もう一つは本当にこれらの材料で毒薬ができるのかを確かめるため、材料を入手すること。

 ポールは「毒薬のレシピ」に書かれていた全ての材料を手に入れることはできたが、これらの店でサイモンに会ったことのある者は見つからなかった。

 サイモンは犯人ではないのかもしれない——ポールは自分の直感に自信が持てなくなっていた。サイモンはまだ警察署に拘留されたままである。だが、サイモンの顔を思い浮かべると、ポールは同情どころか怒りがこみ上げてくるのであった。

 正確には、サイモンへの怒りではなく、彼に似たスティーブへの怒りである。

 スティーブとポールは大学で知り合い、彼らが設立した工場は、産業革命の時流に乗って莫大な収益を上げた。だが、ポールが仕事に専念するあまり、妻のリリーはスティーブと関係を持つようになってしまった。ポールが妻の不貞に気付いたときはもう遅かった。ポールの資産は既にスティーブとリリーのものになっており、リリーと離婚したポールにはわずかばかりの慰謝料しか残っていなかったのである。そして、ポールはスティーブの取り巻き達によって会社からも追放された。

 ——殺したい。

 かつて封印した考えが再びポールの頭をよぎった。

 スティーブはかつてポールが住んでいた高級アパートの最上階に住んでいる。そこの屋上には給水タンクがある。そこに毒薬を入れれば——スティーブ以外の人間も命を落とすことになるが、それなら自分に疑いがかかる可能性も低くなる。この毒薬の作り方を知っているのは自分だけだ。毒薬のレシピは警察の人間には見せていない。材料も自分一人で集めたのだ。

 ポールはこの犯罪計画に取りつかれた。


 ポールはスティーブの住む高級アパートの屋上にいた。手元には毒薬のレシピと買いそろえた材料がある。

 ポールは深呼吸をしてレシピを眺めると、金属製の洗面器に材料を次々を入れ始めた。ヘキサオクタクオタノール、メガギガテラレイン、……

 最後の材料は黄色い粉末であった。

 ——これを入れれば毒薬は完成だ。後は給水タンクに流すだけ……

 ポールは震える手で粉末を一気に流し込んだ。

 すると、シュワシュワという音とともに黄色い煙が上がった。

 大量の煙はたちまちポールの体を覆った。

——何だ!? 呼吸が……できない。目が……鼻が……熱い。

 ポールは薄れ行く意識の中で自分の推測が誤っていたことにようやく気が付いた。

——紙の溶けていた部分に書かれていたのは「毒薬」ではなかったのか……すると、パトリックを殺したのは……

 

 翌朝、ポールは洗面器の黄色い液体に顔を沈めて死んでいるところを発見された。

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