#6 旅路

「長くかかった……まったく、長くかかったよ。おまえが俺の騎士団に来てから、俺は気が休まることがなかった。おまえが、俺と同じ人間だと知っていたからさ。中身が空っぽで、魂の代わりに砂袋が詰まっている」

 何度も遠のきかける意識を、彼は死にものぐるいで引き寄せた。ぼやけた視界の中で、黒の騎士がぺちゃくちゃとまくしたて、ふらふらと歩き回るのが見えた。

「今、ようやく、おまえから解放されるわけだ。嬉しいかって? いいや、悲しみばかりさ……そして、そいつは俺の大好物なんだ」

 目の前を、ヒンと空を切って黒い刃が行き来した。

 今まで、彼は死そのものを恐れてはこなかった。今もまた、彼は何も恐れてはいなかった。ただ、己に対する深い失望だけがあった。体からは血とともに力がどくどくと流れ出し、もはや両足で立つこともできない。いつか、地上で老人に言われた言葉が、脳裏をよぎっていた。

(あんたが元気なうちはいいさ。だが疲れきって、希望も何も失って、一度でも膝をついちまったら……)

 一度、膝をついたものは、群がる虫どもに魂を喰いつくされ、二度と立ち上がることはできない。彼は己の内面を探し、立ち上がる根拠を探した。この男を、黒の騎士を殺す——彼のしてきたことのツケを払わせる。それだけが、彼をここまで突き動かしてきた。

 だが、首を落としても死なないものを、どう殺せばいい?

「まあ、そうぐったりするなよ。俺と同じ目に合ってもらうだけさ。おまえが真に誇り高い護法騎士なら、首が飛んだって、死にやしないさ……多分な」

 目の前に立つ、黒い機甲冑の足が見えた。ついで、剣を振り上げる音。それが戻ってきた時、全ては終わる。


 朦朧とする意識の中、彼は無意識に耳を澄ませていた。聞き覚えのある、かつて待ちわびた足音が、彼の後ろで立ち止まった。かすかな息づかいと、かすれた女のささやき声が聞こえた。

「……右の膝よ。あの石……」

 その言葉を頭で理解するより先に、白い機甲冑は主人の筋肉に走ったかすかな信号を読み取り、増幅させ、彼の手を真っ直ぐに伸ばさせていた。そのわずかな動作に、彼は全身に残った全ての力を注いだ。


***


 黒い破片が飛び散り、伸ばされた彼の拳には、小さな白い石が握られていた。それこそが、この腐った魂をもつ男、黒の騎士カサノヴァの小さな拠り所、放たれた膨大な呪いの最初の一言を記した呪石であった。

「やめろ、それはッ……!」

 時間の止まったような一瞬、膝を砕かれた黒い騎士は、尖った黒い指を振り乱し、白い騎士の頭を引きちぎろうとした。彼がこれほど必死な声を出すのは、生まれて初めてだったに違いない。だが、その小さな石を握りつぶすのに、まばたき一つほどの時間がかかるはずもなかった。

 粉々に砕けた石が風に流れるのと同時に、黒い機甲冑はごとりと床に崩れ落ちた。白い騎士は、深く息を吸い、そしてゆっくりと吐き出した。


 それから、長い時間が経った。

 彼は自分が深呼吸する回数を数えていた。2089回。彼はまだ、死ぬ様子はなかった。ゆっくりと周囲を見回すと、頭上から伸びていた赤い柱が、いつの間にかぽきりと折れて砕けているのが目に入った。闘いの中で、巻き添えを食ったに違いない。いつか、それらは土に還るだろう。今や、生きて流れているのは、彼自身の血だけだった。

 それから左に視線を移すと、壁にぽっかりと穴が空いていた。さっき叩き付けられた場所が崩れたのだろう。むき出しになった頬に、かすかな空気の動きを感じた。

 彼は機甲冑の機能を点検すると、剣を拾って背中に戻し、再び歩き出した。今、彼はようやく、理由なく歩くことができるのだった。そうして己の心のままに歩くのは、生まれて初めてであるような気がした。彼の足取りは、闘いの前と同じように確かだった。


 赤い騎士はもうその後を追うことはせずに、壁に寄り添ったまま、じっと虚空を見つめた。彼女はそれから、ずっとそうしていた。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ブラッド・アンダーカレント 小海 淳 @uminiikitai

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ