#5 黒い騎士

 螺旋階段を降りはじめてすぐ、彼は足音が二つ聞こえることに気がついた。一つは、自分の足から。もう一つは、すぐ背後から。

「何が、あなたをこうまでさせるの……」

 彼はそのまま歩き続けた。背後の足音も、彼のすぐ後ろをついてきた。

「分からないわ。あなたにも、あなたの甲冑にも、ここから地上へ引き返すだけの力はもう残っていない。たとえあの人に勝ったとしても、あなたはここで、汚れた血にまみれて死ぬ道しか残されていないのよ。地上に残っていれば、いつか、無事な人たちと出会って、呪われた私たちのことなんか忘れて、まともな暮らしができたかもしれないのに」

 はじめ冷たく突き放すようだった女の声は、少しずつ焦燥にかられたように、途切れ途切れになっていった。

「希望を捨てて……未来を投げうって……どうして、それでもあなたは、そんな風に……」

 彼女はそれきり黙り込んだ。そして、足音も止まった。

 しばらく、男の足音だけが響いていた。

 螺旋をひと回り歩いた後で、彼は初めて彼女の声が聞こえていることを認め、階段の半ばで立ち止まった。そして、自分の喉がまだ機能していることを確かめるように息を深く吸ってから、口を開いた。

「……皆、いつか落とし前をつけなくちゃいけない。俺も、あいつも。君もだ、ニナ」

 そう言ってから、彼は再び段を降りはじめた。背後から足音はしなかったが、彼には女の気配が感じられた。彼女は彼のすぐそばで、歩いていく彼の横顔を見つめていた。

「どうして、あなたは……そんな風に笑うの」

 死者である彼女の瞳は、兜の厚い装甲を通り抜け、彼の静かな表情が見えているようだった。彼は細い眉をわずかに寄せ、口元にはうっすら微笑みを浮かべていた。彼は一瞬、言葉を付け加えようと口を開いたものの、結局何も言わなかった。彼の胸の内には、伝えられる言葉は何もなかった。


 それきり、周囲は静かになった。

 螺旋をぐるぐると下っていきながら、彼はさまざまなことに思いをはせた。そして、思い出せること一つ一つに封をして、心の中の奈落に捨てていった。螺旋の終端に着いた時、彼の心はすっかり空っぽになっていた。そうすることが、剣の一振りを鋭くすると、彼は信じていた。

 階段の終端は、指でちぎられた飴細工のように、荒々しい切断面で途切れていた。眼下には、底の知れない穴。血の柱が穴の奥へと伸びていることを確認すると、彼は躊躇なく、穴の底へと飛び降りた。


***


 バシッ! と、水面を平手で打ったような音がした。

 落下した距離は、数十メートルほどだろうか。機甲冑にも、彼自身にも損傷は全くない。彼は素早く、状況の把握につとめた。

 彼は、円形の暗い空間の中心にいた。足下には、一面の赤。壁も、天井も、何もかもが、赤黒く凝り固まった血のマチエールに覆われている。それら血の建材は今にも溶け出しそうに艶やかで、波打った模様を描き出しながらも、よく見ると珊瑚礁のように細かな穴が空いていて、表面は硬質であるようだった。

 まるで獣の臓腑の中にいるような異様な光景の中、彼は暗闇の奥に、壁にもたれて倒れている人影を見つけた。一見すると、それは死体のようだった。常人より長い手足に黒い甲冑を身に付け、左手に同じ色の長剣を握ってはいるものの、生命反応はなく、首は力なく垂れ下がっている。

 彼はしばらく、その黒い騎士の残骸と向かい合っていた。それから、ゆっくりと背中に掛けた自分の剣を取り、両手でぐっと握りしめた。手の平ににじんだ汗を、機甲冑の代謝機構が吸い取っていく。今この時、この場所が、目の前の男にとっても彼自身にとっても、すべての終着点なのだ。

 頭上から、ぽつり、と血が垂れた。

 血のしずくは倒れた黒い騎士の兜を流れ、鉄格子のような面頬の隙間に吸い込まれて消えた。ざらり、と舌を舐めずる音がした。


 次の瞬間、暗闇にまばゆい火花が散った。彼が全身の力を込めて振るった十字の刃は、相手の兜の目前で、下方から突き出された黒い刃によって阻まれていた。

「ああ……お、おまえ、か……?」

 黒い騎士はかすれた声でつぶやきながら、左腕一本だけで己の剣を支えていた。白い騎士はさらに体重を掛けて相手を圧倒しようとしたが、黒い騎士は腕に力を込める素振りさえ見せず、兜を鳥のように左右に揺らして、まじまじと白い騎士の姿を見た。

「その、白い兜……ハ、ハ、か、鏡みたいだ……な」

 黒い兜の奥から、ケタケタと笑い声が響いた。

 その声を聞いた瞬間、白い騎士の脳裏に火が走った。同時に、彼はツヴァイハンダーの柄に嵌め込まれたトリガーを引き、十字の刃に火を吹かせた。だが、黒騎士は流れる水のように素早く剣を滑らせ、その重い一撃を鮮やかにいなしていた。

 一瞬、ジェットの噴射力を持て余し、体勢を崩したかに見えた白騎士は、自らの脚を支点に剣をぐるりと一回転させ、さらなる力を込めて黒騎士の頭めがけて再び振り下ろした。

「がァッ!」

 その獣のごとき雄叫びは、人ならぬ黒騎士から出たものではなかった。気迫と魂、そして液体燃料の力が乗った一撃を、黒騎士は真ッ正面から受け止めた。

 鍛え抜かれた二本の刃が再びぶつかり合った瞬間、衝撃が周囲のもろい血の表層を吹き飛ばし、鉄骨の骨組みや、コンクリートの床面をむき出しにした。赤い塵が煙のごとく周囲を舞う中、あらわになった巨大な空間は、あまりにもがらんどうで無機質な世界であった。


「おまえなら……く、来ると、思ってたよ。う、お、おまえだけだ、ここまで……」

 二人は一旦剣を引き、間合いを取りながらお互いの出方を探った。ぼつぼつと黒い騎士が口を開く間、白い騎士はじっと心を研ぎ澄ませ、耳をふさぎ、相手を打ち倒す術を探っていた。

「ここまで、降りて来れるのは……ああ! 俺が、今、どんなに嬉しいか……分からないだろう」

 たどたどしかった黒騎士の言葉は、徐々にかつてのなめらかさを取り戻していた。そのなめらかな言葉が、どれほどの虚構を生み出し、人々を騙しおおせてきたことか! 白い騎士は、よみがえりかけた苦々しい記憶たちを、心の指で絞め殺した。それは、今必要なものではない。

「死んだような日々……本当は死んでいるのか? 耳元じゃ、やつらがうるさく言ってくる……寝ても、覚めても、寝ても、覚めても、だ。俺は寝てるのか? 起きてるのか? 寝ながら踊ってみせたことがあったかな……」

 黒騎士は軽やかに二、三歩ステップを踏み、またケタケタと笑った。その笑い声は、喉からの声ではなく兜の部品が打ち鳴らされているだけにも聞こえた。

「怒ってるのか? 怒ってるんだろう? 俺のやる事なす事が気に喰わないんだろう……俺もまったく同感だよ。俺がどうして、こんなことをしでかしたと思う? おまえが、それをするなと言ったからだよ。つまり、この有り様はおまえのせいでもあるわけだ……なかなか興味深い分析だろう」

 話しながら、黒騎士は少しずつ間合いを詰めていた。それは、彼が万能の悪魔ではなく、腐り果て変質しただけの人間であることを意味していた。念じただけで相手を殺せるわけではない。足で歩き、剣を持って戦うことしかできないのだ。

 白騎士はもの言わぬまま、死線に向かって足を一歩踏み出した。その一歩は、二者の間に生まれた小さな均衡を破る、明確な意思表示だった。

「皮肉だと思わないか……半分死んだ俺がお喋りで、生きてるおまえが口をきかないのは。それで、おまえは剣に物を言わせようと……そして、俺がまたそいつを黙らせるというわけだ」

 そんな軽口を叩いてから、黒騎士は相手の挑発に応じてゆらりと剣を構えた。


***


 もし、この場に二人の決闘を見守る観客がいたならば、彼らは「一体、どこで誰が闘っているのか?」と首を傾げたことだろう。

 騎士たちはそれぞれの機甲冑の動力を最大まで解放し、目にもとまらぬ速さで暗闇の中を駆け、刃の応酬を繰り返していた。刃がひらめく度、甲冑がきしみ、翻弄された空気が悲鳴をあげた。

「竜が巣穴に宝石を集めるように……」

 交叉する一瞬、脇腹をかすめていく十字の刃を見送りながら、黒騎士は歌うような口調でつぶやいた。

「俺は、人の涙を集めるのが好きなんだ。そういう風に生まれついたんだな。魂の飢えと言うべきか……」

 すれ違いざま、鋭い蹴りが白騎士の脇腹を打った。その重い衝撃は、装甲を抜けて彼の内臓に壊滅的な打撃を与えた。機甲冑の生命維持装置がフル稼働で彼の痛覚を麻痺させていなければ、その瞬間に気を失っていただろう。その装置はもはや彼の生命ではなく、彼の戦闘態勢を維持させるために働いていた。

 白騎士は無様に転げぬよう両足を床面にふんばって堪え、右手を大剣の柄から十字の根元へと持ち替えた。巨人の頭を打ちぬいた時と同じ、巨大な刀身をしっかと支え、精密に操るための構えである。

「それでも、さすがにもう十分ってとこがあるものさ……これからどうする? そろそろ、巣穴から出る時かもしれんな。起こしてくれてありがとうよ、相棒」

 タン! と——白騎士は足音を聞いた。

 そう認識したのとほぼ同じ瞬間、彼の兜は真っ正面から繰り出された突きをまっすぐに受けていた。列車に正面衝突されたほどの力が彼の眉間の一点にかかり、コオンと鐘を鳴らす音とともに、彼はビリヤード玉のように吹き飛ばされた。

 コンクリートの壁面に、鳳仙花の形に血しぶきとヒビが広がった。その中心で、頭から叩き付けられた白い騎士は、それでも己の両足で立っていた。兜は無惨に砕け散り、もはや血まみれのやせ細った男の顔を守るものは何もない。黒い髪が血で貼り付いた唇は、この死の淵に立ってもなお、うっすらと微笑んでいた。

「……楽しそうじゃないか。俺のざまを見て笑ってるのか?」

 黒騎士はぽつりと言った。彼の兜もまた、完全に割れてはいなかったが、面頬の下半分がぱくりと裂けていた。白騎士は己が吹き飛ばされる瞬間、わずかに大剣の刃先を流し、突起刃の先で敵の頭部をかすめていたのだ。

 ひび割れた黒騎士の兜は、内に秘めた暗闇を外気にさらしていた。そこには、暗闇のほかはなにもなかった。笑う口も、嘘をつく舌も、敵を見る瞳さえなかった。彼の声はそのがらんどうの中から、ぼうぼうと響いてきているのだった。

「好きなだけ笑っておけよ。口があるうちにな」

 再び、黒騎士の体躯が跳ねた。

 視界に彼の動きを捉える前に、白騎士はジェットを噴き、嵐のように十字の大剣を振り回していた。兜に埋め込まれた機械頭脳が死んだ今、計算による動作予測よりも、培ってきた勘が彼の命綱だった。


 そして、黒い影が飛び込んできたとき——確かな手応えがあった。

 「仕留めた」。彼の右手に伝わる抵抗と、振り抜いた瞬間のかすかな震えがそれを物語っていた。間を置いて、地面にぐしゃりと何かが落ちた。視界の端に見えたのは、ひしゃげた黒騎士の兜の残骸だった。


 彼は剣を振り切った姿勢のまま、その場に立ち尽くしていた。

 目的は果たされた。彼は、仇敵の首を落としたのだ——頭では、そうと理解していながら、奇妙な悪寒が彼の体を強張らせていた——まだだ。まだ、仕留めていない。

「……

 自分のものでない声がした。

 白い騎士はゆっくりと振り返り、首のないままゆらりと動く、黒い機甲冑の姿を見た。ついで、自分の腹に深々と刺さった剣を見下ろし、全身から力が抜けていくのを感じた。彼は長い道のりの果てに、とうとう膝をついていた。

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