#4 虚ろの都市

 数時間か数日か、長い時間を置いてから、彼はようやく身を起こした。休息をとったせいか、体は十分に力を取り戻していた。全身の骨は未だきしみを上げていたが、それはいつものことだ。機甲冑があるかぎり、骨が砕けようとも剣を振ることはできる。

 起き上がってみて、彼は初めて自分のいる場所がかつての地下都市の成れの果てであることに気がついた。床にはくすんだ青や黄色のタイルが幾何学的に敷き詰められ、頭上に広がる大空洞は、よくよく見れば数十階にまたがる吹き抜けのロビーのようだった。

 そうと気付いたのは、巨人を打ち倒した時には確かに真っ暗闇だったはずの空間に、かすかな灯りが生まれていたせいだった。おかげで、甲冑に振った燐光石はとうに効果を失っているのに、彼はしっかりと周囲を見渡すことができた。

 光のもとは、はるか頭上にあった。長い長い柱の群れの行き着く先、吹き抜けの天井に、ひび割れのような淡い光の筋が這っていた。

 電気が通っているはずはない。おそらく、反射管などを使って地上の光をこの地下深くまで通しているのだろう。地上で日が昇るたび、この地下都市全体も日の光で満たされるという仕組みだ。しかし、今や地上でさえ太陽は細々としか照らさなくなり、さらには年月のうちに光の取り入れ口が土砂や人間の死骸で埋め尽くされて、こんなかすかな光しか届かなくなってしまった。

 ——彼はふっと溜め息をついた。

 奇妙なことだが、生きた世界から遠ざかっていくにつれて、不思議に落ち着ついた気持ちが彼の心に生まれていた。彼はこの険しい旅路の道のりに、ようやく本当の自分自身のありようを見出したように感じていた。それはすなわち一人きり、真っ直ぐに死へ向かうものということだ。


 歩き出す前に、彼は兜の集音装置の出力を上げて、周囲に水音を探した。ここまで自分を導いてきた血の道標を、彼はすっかり見失ってしまっていた。

 聴力の及ぶ範囲に水音がないことを悟ると、彼は視覚情報に手がかりを求めるため、吹抜けをざっと見渡した。そこら中に設置された案内板——ほとんどは電光掲示で、電気の通らない今ではただの黒い板でしかなかったが、時おり貼付けられた広告やチラシが残っていた。

<お困りの際はB2342F:インフォメーションセンターにお越し下さい>

<壁のがりがり言うのはただの地熱によるきしみです。管理局が対応中ですので危険はありません。不安を煽るがりがり詐欺にご注意を>

<この都市は監視されている! 今すぐ逃げ出せ、今すぐ、今すぐ! 地上へのエレベータ射出チケット格安で販売中>

 言葉だけが残って、それを語った人々がすっかり消えているというのは奇妙なものだ。もう、それらの戯言は誰も騙しはしないだろう。

 彼はそういった愚にもつかない情報を流し見ながら、目当ての情報を探した。必要なのは、自分がどれほどの深さにいるのか。そして、さらに地下へ向かうにはどこへ向かえばいいかだ。おおよその見当がつくと、彼は再び歩きはじめた。


***


 ロビーから脇道へ入ってゆくと、周囲の様子が少しずつ変わって行った。灯りが届かないのはもとより、人の不在からくる乾いた清潔さが薄れ、ひと足ごとに足音はべちゃりとねばつき、壁はタイルの剥がれ跡が一つ一つ増えていった。

 その通路はかつて居住区であったらしく、そこかしこに人の生活の跡が見えた。床に捨てられた無数の紙くず。忘れたまま放っておかれた子供の靴。手のない手袋、首のない襟巻き。

 ときどき扉の開いた部屋があると、彼は慎重にその中を確かめた。しかし、この空虚な地下都市には獣や虫どころか、亡者の姿さえない。あるのは、カビに満たされたコップ、読みかけのままソファに置かれた本、人の形をした空虚だけだ。彼らはどこへ行ったのか? 呪いが都市に及ぶより先に、地上へ逃げのびていたのだろうか?

 ——答えは、進むうちに明らかになった。

 最初に見つけたのは、手の平ほどの黒い塊だった。それは、通路の隅に立て掛けるように置かれていた。炭のようにも見えたが、さほど硬質なようにも見えなかった。

 彼は慎重を期して、腰の革袋からいくつか残っていた結晶回路の欠片を取り出すと、その塊に向かって投げつけた。すると、塊はかささと音をたてて崩れ去り、空気に溶けていった。その崩れ方は、地上の亡者たちが灰に還る様子を彷彿とさせた。

 さらに進んでいくと、より原型をとどめた塊があった。それは、ずんぐりと小人のようだったが、あきらかに人らしい形をしていた。色は赤黒く、ところどころ繊維のようなものがはみ出していた。

 もはや、疑いようもない——これは、人間の成れの果てなのだ。かつて世界に放たれた呪いは、地下深くではじまった。彼らはその発火点からあまりにも近くにいたために、亡者と化すほどの猶予も与えられず、爆発的にふくれ上がった呪いに影響され、人の形を保てず溶けてしまったに違いなかった。

 そうと気付いても、彼は哀れみも、悲しみもしなかった。全ては、すでになされたことだ。そして、彼にはこれからなすべきことがある。呪いの影響がこれほど強く出ているということは、それだけ彼の旅の終わりが近いということだ。

 血の彫像たちは通路のそこかしこに立っていて、一歩一歩進むたびに数が増えていった。それらは手を触れるまでもなく、彼の足音に揺さぶられてかさかさと崩れた。


***


 数時間ほど歩いた頃、彼はさらに地下へと向かう階段を見つけた。扉には、「最下層区メンテナンス用通路」と書かれていた。そのノブに手を掛けた途端、向こう側にわだかまった悪意、己の心臓を止めようと手を伸ばすものの気配を感じ、彼はそこが獲物の住処であることを確信した。

 積み重ねられた無数の死が、まるで一つの巨大な獣のように息をしている。その息づかいは重圧となって、機甲冑の装甲をすり抜け、彼の魂にずしりとのしかかった。この地下世界において、生気を持ったものは彼一人きりなのだ。それ以外の全ては死んでいる。床も、壁も、扉も、彼自身の立てる物音、彼が吐いた息さえ、肺から出た途端に死んでいく。

 ノブに手を掛けたまま、彼はしばらく微動だにせず立っていた。経験上、必要なのが「慣れ」であることは分かっていた。ネジ一本まで丹念に清められた機甲冑は、いかなる呪いも通すことはない。騎士を殺すものは、恐怖だけだ。

 心を鋼鉄のごとく硬くしながら、彼はノブを回し扉を開いた。眼下には、赤いサビに被われた螺旋階段が果てしなく続いていた。

 螺旋の中心には、赤い柱が立っていた。それが何であるかに思い至ったとき、彼は長い探索行の中で初めて、一歩後じさった。地上から染み出した大量の呪われた血が、鍾乳石のように凝固しているのだ。ぬるぬると光沢を放つ表面には今もなお、多くの血が音もなく這い流れつづけていた。


 彼は自分の体が、悲鳴をあげているのを聞いた。後ろを向いて、逃げ出したがっている声を。心を押さえ付けても、体がそれに従わぬことはある。彼は瞬間的に、神経接続された兜のインターフェースを起動し、機甲冑の関節を全てロックした。

 次の瞬間、彫像のごとく固定された甲冑の中で、彼の腕や足が発作的に跳ね動いた。全身の筋肉一つ一つが、この場から逃げ出そうともがいているのだ。その、けいれんに似た現象は、数分ほど続いた。それが収まると、彼は何事もなかったかのように、扉の奥へと踏み出した。

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