#3 奈落
自らの甲冑から広がる薄明かりの中、男は黙々と進んでいった。足下を走る鉄の二本線は、別れと重なりを繰り返し、複雑に絡まり合っていた。男は砂利の底をどくどくと流れる呪われた血に従い、わずかずつ低くなっている方向を選んで歩いた。
そのうち、線路の壁が崩れて、細い横穴へと続いているのを見つけた。血の流れは、その穴の奥へと続いていた。男は左右を見きわめ、求めるものが線路の先にはないことを自分に納得させてから、穴の中へと踏み込んだ。
その時、彼の足下でどぼっと土が崩れた。とっさに右腕を土壁に突き刺し、無様に転落することはまぬがれたが、周囲の土は柔らかく、長くはもちそうにない。ぶら下がったまま眼下に視線をやると、ぽっかりと底の見えない穴が空いていた。
彼は一瞬、進もうとしていた横穴と、足下に現れた縦穴とを比べて、どちらが自分の獲物に通じる道かを考えた。だが、そうして宙づりになっている間も、呪いの血は彼の甲冑を伝って下へと流れて落ちていく。迷うほどのことがあるはずもなかった。
右腕を引き抜き、機甲冑の関節を固定して衝撃に備えながら、彼は穴の底をめざして落下しはじめた。ある程度の熱には耐え得る甲冑ではあれ、溶岩などに直接触れれば、内部で蒸し焼きになることは避けられない。しかしこの瞬間でさえ、彼の心にあるのは苦痛に対する恐怖ではなく、目的を遂げられずに死ぬことへの恐怖だけだった。その、あまりに迷いのない心は、いっそそこらの亡者よりも非人間的でさえあった。
土壁を何度もぶち砕きながら、十数秒の長い落下の果てに、彼はようやく固い地面の上に両足を突いた。頭上から降り注ぐ土塊の雨を甲冑に受けながら、彼はゆっくりと立ち上がった。強い衝撃は脳を揺さぶったが、身体機能に異常はないようだった。
周囲の様子を確かめる前に、彼は自分にはっきりと向けられた敵意を感じ取った。
「コ……パ……パ」
意味のつかめぬそのくぐもったつぶやきが耳に入るや否や、すぐ近くで轟音とともに石柱が砕け散った。彼は微動だにせず、甲冑の表面で石の破片が弾ける音を聞きながら、状況の把握につとめた。燐光石の灯りの届かぬ遠方で、何か、巨大なものがうごめいている——
次の瞬間、彼は弾丸のごとく駆け出した。その背後では、ついさっきまで彼が足を突いていた岩盤が砂糖菓子のように粉砕されていた。加速を増すために、彼は機甲冑の動力を上げた。膝裏から排熱のための蒸気が吹き出し、彼はさながら蒸気機関車のように走り抜けた。
そのうち、敵の全貌が明らかになった。それは巨大な空洞にのそりと立ち上がった、機械の巨人であった。背丈は百メートルほどもあり、おおまかに人型を模してはいるが、頭部は巨体に不似合いな機械玉がぽつんとあるだけ、腕はヒュドラのごとく枝分かれし、それぞれに暴徒鎮圧用の空気圧砲や、建造作業を行うためのアーク溶接装置などが備わっている。
「カ……リ……リ」
警告音声を発するはずだったのであろうか、巨人は再びなにごとかつぶやいた。だがスピーカーの故障によるものか、電磁波が引き起こしたデータの混乱によるものか、その音声は歪みきって何も伝えはしなかった。
男は素早く剣を構えると、巨人の懐に飛び込もうとした。しかし、その度に巨人の高感度センサーが彼の動きをとらえ、目前に圧縮された空気塊を撃ち込んだ。どうやら巨人は彼を奥へ進ませまいとしているだけで、息の根を止めようという意思はないらしい。だが、それでも彼は進まねばならない。
彼の剣は汚れきった獣どもに対しては無双の武器だったが、この巨大な鉄塊に対してはあまりに細い。彼の腕や体もまた、人間としては並外れたものとは言え、あまりに貧弱と思われた。機甲冑とて同じこと。だが、それでも彼はそれを打ち倒さねばならなかった。
赤い機甲冑の女が口にした警告が、彼の脳裏をかすめた。ここにあるのは、死と、苦痛と、後悔だけであると——そんなものは、いくらでも己の内側に詰まっているではないか。彼は巨人の足下へと走り込みながら、兜の奥の口元はにやりと気味悪く笑っていた。
「ガーッガガッガ! ガ!」
巨人の発する音の調子が変わり、機械の瞳に宿る光が、黄から赤へと染まった。グウグウとくぐもったサイレンの音が響き渡る。巨体の主である狂ったAIは、とうとう侵入者を生きたまま立ち退かせることをあきらめたのだ。
空圧砲の狙いが、まっすぐに男へと動いた。警告ではなく、その兜を打ち砕くために。彼は動かず、じっと剣を構えた。左手で柄の末端を持ち、右手は刀身の下方、交叉する十字の刃の根元をぐっと握りしめていた。
次の瞬間、薄明かりの中でボッと何かが炎を噴き、閃光が周囲を照らした。
騎士の体は、巨人の視界から消えていた。そして、巨人がその姿を見つけることは二度となかった。その機械の瞳はすでに、ツルハシのごとく振り下ろされた十字大剣の突起刃によって、真っ直ぐ打ちぬかれていたからだ。
長大な刀身から左右に突き出した、二本の突起刃——それはただ十字を形作るための飾りではなく、刀身に瞬間的な加速をつけるためのジェット機構であった。彼はその噴射を利用して、人の身どころか機械でさえ追いつけないほどの早さで跳び上がり、その勢いを突起の先端に込めて、そのまま打ち下ろしたのだった。
ツヴァイハンダー・デューゼと呼ばれるこの機巧剣は、機甲冑を着込んだ熟練の騎士であっても、一度ジェットを噴くだけで体中の関節が引きちぎれると言われ、試作の一振りを残してすべて廃棄されたという代物である。設計者は気狂いと罵られ、誰にも哀れまれぬまま首をくくって死ぬことになった。
彼はその怪剣を、ほとんど自分の一部のように使いこなしていた。しかし、「ほとんど」では尽くしきれないものもある。制御を失ってゆるやかに崩れ落ちていく巨人を横目に、彼は全身をハンマーで打ち砕かれたような痛みに耐えなければならなかった。実際、それほどの衝撃が彼の体にかかっていた。自分の体ごと、大砲で打ち出したようなものだ。
そして、とうとう均衡が崩れたとき、彼は巨人の死骸の隣にがちゃりと倒れこんだ。兜のインジケータは、その床が舗装されたものであること、そして表面温度が彼の体温よりも低いことを告げていた。
***
ささやく声が聞こえた。
「ときどき、思い出すの……私たちの庭のこと。私が窓の向かいにクレマチスを植えたあと、ずっと不機嫌だったでしょう? 本当に知らなかったのよ、あの人がシェルターに持ち込んだ苗だったなんて。でも、あなたはずっと疑ってたわね。口には出さなくても、いつも私と彼を交互に見てた……」
薄くまぶたを開けて、男は遠のいた世界を眺めた。横たわった彼の目の前で、鳶色の瞳が見返していた。白い頬の痩せた女の顔が、こちらを見下ろしているようだった。
「あなたは死にたがりね。あの頃と何も変わらない……あなたは、彼には勝てないわ。彼はすでに人ではない。人であった頃でさえ、あなたは彼に敵わなかったのに。嘘をついてると思う? 死人は嘘をつけないのよ。だから、もうあなたを振り回したり、苦しませたりはできないの。慰めることも。今の私が言えるのは、本当のことだけ。私は……」
女の顔がふっと翳ったかと思うと、突如として視界が暗転した。その暗闇の奥では、血のように赤い機甲冑の兜がぎらりと輝いていた。
「私は、誰も愛してなんかいなかった。あなたも、あの人も。私は、赤の騎士……嘘とごまかし、涙と血だけが私の家族なのよ。今も、昔も……」
うつろな声は、詩をうたうように言葉の意味をぼやかしながら、暗闇にゆらゆらと揺れていた。
「あなたは、白の騎士……光ある場所に帰らなくては。死者たちの世話は、あの人にまかせておけばいい。無意識にであれ、彼自身がそれを選んだのだから。不相応な力を望み、友と故郷を裏切った末に、自ら解き放った呪いに囚われ、魂と肉体を冒されて……」
彼女の冷たい声には皮肉こそあれ、哀れみは少しもなかった。
「あなたがここまで進んできたこと自体が、終わりなく連鎖した呪いのつづきなのよ。誰かが、それを断ち切らなくてはいけない……死ではなく、生きることによって。あなたは……生きていて」
男ははっきりと目を見開き、自分の兜の裏側に広がる暗闇を見つめた。遠ざかっていく足音を追っても、先には誰もいないことを彼は知っていた。彼はそのまましばらく、じっと横たわっていた。
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