#2 Tメトロ構内

 地下へ踏み込んだ瞬間、男は動物的な悪寒が全身を走るのを感じた。それは彼自身の心とはなんら関係のない、危険を察知した本能の知らせであった。ここでは周囲に満ちるすべての空気が、全ての水が、全てのうごめくものどもが、人間にとって致命的な性質を持つ。

 彼ははじめて、足どりを緩めた。墨を塗ったような暗闇の中、長い階段を慎重に降りていく彼の小さな足音は、広大な空間に反響して、目覚めの鐘のごとき轟音へとふくれあがっていった。白い騎士の到来は、暗闇の世界に眠る化け物どもを叩き起こしつつあり、それはまた、彼の望むところでもあった。


 崩れた階段を避けて、凍り付いたエスカレーターを降りきると、広いホールに出た。かつては改札口だったのだろうその場所には、いくつもの折り重なった死骸、そして死に損なった亡者たちの姿があった。樹皮のように変質した皮膚、水晶のように青く輝く瞳、衣服は皮膚と一体化し、体は案山子のようにやせ細って、男か女かも定かではない。

 彼らが動く前に、男はひび割れた床を蹴って、群れの中へ飛びこんでいた。亡者たちは見た目以上の俊敏さで彼を取り囲み、威嚇するようにアゴを開いて、嫌らしくねばつく忌まわしい唾液を飛ばした。

 彼ら全員をまとめて粉々にすることは、男の技量と、機甲冑の強化筋力をもってすれば容易いことだっただろう。だが、彼は望まずして亡者となった人々に精一杯の敬意を払ってか、亡者たち一人一人の首を、大剣の刃先を使って丁寧に体と切り離していった。長く引き延ばされた死をようやく遂げた彼らの表情は、決して安らかではなかったが、地面に落ちるとその首はすぐ砂になって崩れた。


 亡者たちの毒の指先をかいくぐり、最後の一人の首をはねた後には、男は機甲冑の上からでもはっきりと分かるほど荒い息をしていた。それは手間をかけた葬送による疲れではなく、長い旅路で消耗しきった体力が、とうとう限界に達したことを意味していた。

 必要なのは休息でも、生命維持装置から流し込まれる薬物でもなく、腹にたまる食糧だった。彼はほんの少し逡巡した後、積み上がった死体の山を離れて、ホールの壁際に歩いていった。そして隅に適度なスペースを見つけると、腰に下げたいくつもの革袋から一つを開き、細長い杭状の小機械を取り出した。

 男は腕を小さく振りかぶり、その杭を床に投げ下ろした。杭の先端がむきだしのコンクリートにぶつかった瞬間、杭の上端からワッと青白い光線が広がる。光線はぐにゃりと曲線を描きながら本数を増やし、数秒のうちに、直径4、5メートルほどの光の半球ができあがっていた。

 その様子を確認すると、彼は躊躇なく球体の内部に踏み込んだ。どうやら、それは局地的に空気の清浄化を行う装置であるらしい——彼は光の中心である杭のそばに腰を下ろし、兜の下半分を手動でぐっと引き開けて、生身の口で深く息を呼吸した。

「もう、こんな場所まで来てしまったのね」

 不意に聞こえてきた声に、男は返事をしなかった。

「お願い……ここで引き返して。この先に行っても、あなたは何も得られないわ」

 彼は女の声を無視して、別の革袋から小さなビニールのパックを取り出した。表面には、「有事支給用簡易食糧:避難民の皆様へ、なにとぞ忍耐を」と印字されている。機甲冑の尖った指先でその真空包装を破るのは、容易いことだった。

「無視を決め込むつもり? それとも、聞こえないふりをしてるのかしら……いつもみたいに。分かっていないはずはないと思うけれど、この先にあるのは死と、苦痛と、後悔だけよ。世界中のそういうものが、ここへ流れ着いて、凝り固まっているの」

 女が話しつづける間、彼はブロック状の食糧を黙々と口に運んでいった。ひと欠けもこぼさぬよう、慎重に、細心の注意を払って。

「いくつもの、取り戻せない過ち……だけど、あなたはまだ生きている。せっかく拾った命を、みすみす地獄に放り投げるような真似をするの? あなたが本気でそうするつもりなら、それもいいけれど……そこまで愚かじゃないと信じてるわ」

 遠ざかる足音が聞こえた。男がちらと目線をやると、細身の赤い機甲冑を着込んだ女の背中が見えた。その姿を見送ってから、彼は最後のひと欠けを飲み込んだ。それは、彼が携えた最後の食糧であった。しかし、彼の目的を達するには、それだけあれば十分なはずだった。


***


 メトロの構内には、奇妙な光景が広がっていた。

 頭上の乾いたコンクリートとは対照的に、足下はぐっしょりと一面赤く濡れている。かつては都市の大動脈として人々を西へ東へと運んでいたこの地下路線に、今は地上から染み出してきたおびただしい量の死者たちの血がちろちろと流れこみ、文字通りの血流をつくっているのだ。


 そんな忌まわしいせせらぎを、白い騎士は堅い足どりで踏みつけていった。生身でその血に触れれば、無数の怨念と混じり合った呪いがたちまち全身に染み渡り、いずれは他の亡者たちと同じように、魂を食い荒らされてさまよい歩くことになっていただろう。

 しかし彼は、そんな結果を恐れてはいないようだった。両足を包む白い機鉄甲が、みるみる赤黒い飛沫に染まっていき、背中に垂らしていた長い灰色の防塵布は、染み上がってきた多量の血で重みを増していったが、彼はそれでもぬかるみを避けようとはしなかった。彼はその赤い川が、彼の目指す場所へ、ずっと追い求めてきた獲物へと続いていることを知っているのだ。

 半ば崩れたホームから飛び降り、線路に降り立つと、周囲はよりいっそう暗くなった。彼は革袋からいくつかの燐光石を取り出し、指で砕いて甲冑に振りかけた。そうして彼の全身を包んだ淡い黄色の光は、己の行く手を照らすためというより、暗闇にひそむ者どもに敵対者の訪れを告げる警告のように見えた。

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