ブラッド・アンダーカレント
小海 淳
#1 地上
「それじゃ、あんた、もっと南に行くつもりなのかね?」
老人の言葉に、男は黙ってうなづいた。全身を白い機甲冑で包み、瞳や肌の色さえ伺い知ることはできないが、彼の迷いのない所作からは、断固とした決意が見てとれた。
「まあ、止めやせんよ……どのみち、誰も長生きはできないんだ。死に場所ぐらいは好きに選んだらええ」
老人は達観したようなことを言いながらも、ちらちらと男の腰にくくり付けられた革袋のひとつを気にしていた。そのことに気付くと、男はその袋の結び目をほどいて、たっぷり詰め込まれた結晶回路のチップを二、三欠け放り投げた。老人は亡者のようにチップを拾い上げながら、歯の抜けた口をにやにやと広げた。
「へ、へ、気前がいいな。ついでに教えてやろうか。絶対に地下には行くな……あたしなんかより、ずっと症状の進んだ亡者どもがうようよいるぜ。あんたも、奴らにむさぼり食われるような死に方はしたくないだろ、ええ? 騎士さんよ……若い体は美味いというだろ。あんたが元気なうちはいいさ。だが疲れきって、希望も何も失って、一度でも膝をついちまったら……そら! あたしみたいな連中が、ウジみたいに湧いてくるぞ。そして、そして……」
ぶつぶつ言う老人を残して、男は瓦礫の上を歩き出した。
空はどっしりと重い雲に覆われ、この暗闇の都市には二度と朝など来ないだろうと思われた。わずかな雲の切れ目から注ぐ細い光は、さながら天から下ろされた蜘蛛の糸のようだった。しかし、その糸をたぐることのできる人間は、もうこの地上にはいない。
足下で割れるガラス片、砕け散る炭化したコンクリート、そしてざらつく灰のささやき。終わってしまった世界の残骸を踏みしめながら、男は大股に歩を進めていった。彼は常人よりもひと回り大きな体つきをしていたが、その背中には彼自身よりもさらに長大な、十字型の刀身をそなえた剣がくくりつけられていた。その奇妙な大剣だけが、彼の道連れだった。
***
それから一週間近くの間、彼は食事もとらず歩き続けた。機甲冑の内部に備え付けられた生命維持装置は、そのまま何日でも彼を生かしておくことができただろう。しかし、肉体は生かしておくことができても、心まではそうはいかない。
意識が時おりふっと遠のくようになったのを機に、彼はようやく休息を取ることにした。積み重なった瓦礫の間をぬって、周囲を見渡せるような空き地を探した。荒廃した世界では、歩きつづけるよりも立ち止まる方が危険が増す。獲物を狙う鳥どもは、かつては人間たちが奪い合っていた土地を、同じような目つき、同じような残忍さでもって奪い合うようになっていた。
彼は手頃なビルディングの残骸の上に腰を下ろすと、機甲冑の動力を最低限度まで落とし、暗くなった兜の中で浅い眠りについた。すべての心あるものが死に絶えたこの世界にあって、彼はまったくの孤独だった。そして、さらなる孤独へと足を踏み入れようとしている。彼は自分がもう二度と、心から安らいで眠ることはないのだと知っていた。
一時間ほどして、彼はかすかな物音で目を覚ました。それは鳥の羽ばたきの音だった。即座に兜の計算機を立ち上げて、おおまかな距離を算出し、迎撃体勢を整える。迎撃体勢とはすなわち、両足を確かな地面に突き立てて、背中に掛けた剣の柄をぐっと握りしめるというだけのことだ。
バタバタと耳障りな羽音は、さらに大きく、数多くなりはじめた。兜の裏から網膜照射された外部の風景を見るまでもなく、彼はすでに数十羽の鳥に取り囲まれていることを認識していた。
——「鳥」、と呼ばれるこの亜生物たちは、実際には鳥類の仲間ではない。繰り返された身体改良の末に自我を失った、羽持つ人間たちの成れの果てなのだ。機械化された半身に脳髄を乗っ取られた彼らは、人の顔をしていながら、その瞳には何も映すことはなく、その心に温かいものが生まれることもない。
「ああ、こころよいわ! ああ、こころよい!」
女の声がした。それはもはや意味を失った、鳥どもの鳴き声であった。
周囲を取り巻いていた鳥どもは、少しずつ包囲の輪を狭めていた。そして男に動きがないことを確かめると、その鉄に覆われた頭めがけて、最初の一羽が飛びかかった。鍛えぬかれた機鉄甲、衝撃を弾く曲面設計を施された兜とはいえ、鳥どもの体は大きく重たい。兜に傷はつかなくとも、首がへし折られることは十分あり得るように見えた。鳥どもの狙いもそこにあっただろう。
だが、次の瞬間、そんなことは起こり得ないのだと彼らは思い知ることになった。ウオンと空気が震えたかと思うと、まぶたのない鳥どもの瞳には、嵐にまかれたように背骨をへし折られ、吹き飛んでいく仲間の姿が映っていた。
「うーうっ、いっ、いーあっ、あっ」
混乱と恐怖の声を上げながらも、一度つけた勢いを止められず、鳥どもは一羽一羽、つぎつぎに男の振り回す刃の嵐の中へと飛び込んでいった。ようやく獲物をあきらめて、群れが飛び去っていくまでに、十羽近くの鳥どもが地上へさばき落とされていた。
男は息を乱すこともなく、剣にたっぷりとついた血油を払うため、柄に内蔵された振動器を作動させながら、大きくブンッと一振りした。血の霧が周囲に散らばり、乾燥した大気に吸い込まれて消えていった。
***
数日歩いた後、男は保存状態のよい市街地跡へと入り込んでいた。頭上に浮かぶ、人類最後の人工衛星「かささぎ」から送られてきた位置情報では、目指す地点まではもう数キロの距離まで近づきつつある。しかし、彼はその後さらに魔窟と化した地下へと降りていかなくてはならない——そうした暗い前途を認識していてもなお、彼の歩みが鈍ることはなかった。
街には、まばらに電灯が点いていた。といって、電力が通っているわけではない。電気虫と呼ばれる機械の虫たちが、きまぐれにそこらのフィラメントを熱して遊んでいるだけだ。
<しぐれ歓楽街は、いつつでも旅行人をを歓迎しししたのしませませます>
男の頭上で、パッと電光表示がまたたいて消えた。周囲の看板には、にやにや笑った女の顔、にやにや笑った女の裸がいくつも描かれていた。彼はそれらを見渡して、わずかに肩を揺らした。兜の中では、小さな乾いた笑い声が反響していた。彼自身以外にその声を聞くものはいなかったが、もし誰かがそれを聞いていたら、背筋がぞっと寒くなっただろう。とても、何かを楽しんでいるとは思えない笑いだった。
しばらく進んでいくと、道の先にアーケード街があった。それは街としてはとうに死んでいるのだが、人の消えた空虚には、魂を失った亡者や肥大化したネズミ、知恵を持った虫などがうごめき、歪んだにせものの生を演じはじめる。
屋根のガラスが割れずに残っているせいか、このアーケード街もそういう連中がそこかしこに見られた。灰色の皮膚をした亡者たちは声もなく、かつてそこにいた誰かがしたように、商店の奥でカウンターに立ち、ぺたぺたと朽ちた物品に手を触れていた。
と、彼らが異分子の存在に気付いた。意に介さず進んでいく男の足音を中心に、暗いざわめきが広がっていく。意思の通じ合わない生き物たちの、言葉にならない言葉——だが彼らは確かに、侵入者への敵意を共有していた。
そのうち、アーケード街全体が巨大な蛇のように、男をじっと睨みつけるようになっていた。彼らは敵意を抱く以上に、その男を恐れていた。彼の背負った剣一本が、自分たちが数十年かけて作り上げたかりそめの平和を、一振りでたやすく打ち砕いてしまえることを知っていたのだ。
男がアーケードの端にたどり着き、右脇にメトロ入口を見つけるまでの間、蛇はじっと息を潜めてその背中を見つめていた。もしかするとその目付きには、後にも先にもただ一人の客人へ名残を惜しむ心があったのかもしれない。だが彼ら自身も、地下へと消えていく男も、その心を理解することは永久になかった。
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