4.eat me , Alice !
ギィ…バタン。
「……外?」
扉をくぐり抜け踏み込んだ先は、青々と茂った芝生の生え渡る庭園でした。白い薔薇の蕾をつけた生垣がぐるりと辺りを囲んでいて、中央の位置には一人掛けの白い丸テーブルと椅子が置かれています。
後ろを振り返るとついさっきくぐってきた扉はもうどこにも見当たらなく、やはり、ただ青々とした緑の芝生が広がっているだけでした。もちろん、やっぱり、女王様の姿はありません。
「……ほんと、不思議なことだらけなのね」
誰に言うでもなく呟く言葉に耳を傾ける者は何処にもいません。
「まあ、アリス!遅かったじゃない!」
「?!」
すぐ後ろから響いてきた愛らしい声にアリスが再び振り返ると、一人の少女が頬を膨らませて仁王立っていました。
「私、待ちくたびれちゃったんだから!」
アリスよりも頭一つほど小さな背丈の少女は、パフスリーブ袖のドレスもローヒールの黒いパンプスもストッキングもハットも、まるでお葬式のように真っ黒に統一されていまして、ただ唯一パールのネックレスの白さだけが輝きをはなっていました。
おまけに、頭のハットから垂れ下がる黒いレースのベールが彼女の顔のほとんどを隠しています。ですが、それでも、アリスよりも小柄な背格好と、レースからのぞくうすピンクの唇、ぷにぷにした頬、それだけでとても可愛らしい印象が伝わってきました。
アリスは、顔を隠すのなんてもったいないわ、と密かに思います。
「遅刻も遅刻、大遅刻だわ!聞いている?アリス!」
「えっと、ごめんなさい?でも、私は、」
「失礼しました、公爵夫人」
今まで黙ってアリスの隣にいた白兎がすっとアリスと少女の間に割って入り言いました。
「遅くなってしまい申し訳ありません。女王陛下にご挨拶しておりました」
「まあ、女王陛下に?……それなら仕方ないわね」
公爵夫人と呼ばれた少女は白兎の言葉に納得したようにそう言うと、それから気を取り直したかのようににっこりと笑みを作って、アリスの顔を覗き込みました。
「さ、アリス。お腹が空いたでしょう?」
「え、」
「用意は出来てるのよ?」
そう言った公爵夫人の視線の先は中央に置かれている白い丸テーブルに向けられていました。
公爵夫人に手を引かれアリスがテーブルに近づきますと、
「わぁ、素敵なティーセットね……」
真っ白いテーブルの上には、陶器でできたティーセット、ハート模様の紙ナプキンにピカピカのシルバーナイフとフォーク。薄ピンクの粉が閉じ込められている砂時計に、ガラス瓶に入ったハート形の角砂糖、優雅で上品な茶葉の香り。
こんなに魅力的なお茶の用意は見たことがなくて、アリスはとても素敵な気持ちになりました。
「とっても素敵……素敵、だけど、」
「だけど?」
「……これは、何かしら……」
引きつった表情のアリスが指差す先、テーブルの上には素敵なお茶の用意を台無しにしてしまうような奇妙な物体があったのです。
「………」
「………」
「………」
白い角皿の上に乗っているのは液体のような個体のような不恰好で不可思議な物体でした。
薄黄色の個体は生焼けなのか所々からぷにょぷにょした不可思議な液体が漏れ出ていて、歪な形を成しています。その表面には赤いクリームのようなものでeat me aliceとくたくたの文字で綴られていました。
アリスがそれを指差すと、公爵夫人もハートのエースも白兎も黙ってしまいぴくりとも動きません。
「……ちょっと。なんで黙るのよ!」
「……アリス、とりあえず座ったらどう?」
公爵夫人の言葉にハートのエースが椅子を引きますが、アリスはそのまま一歩後ろへ下がり、テーブルから遠ざかりました。
「まさか、私にあれを食べろと言うんじゃないでしょうね……」
「もちろん、アリスが食べるんだわ。決まってるじゃない」
そのために用意して待っていたのに、と公爵夫人は少し慌てた風に言いました。
アリスはテーブルの上の、食べ物のようにお皿の上に鎮座しているその奇妙な物体を見ながら、今日何度目かのため息を吐きました。
「……もしかして、あれが、あなたたちの言っていた女王陛下のパンケーキだったりするのかしら」
「ええ、そうですよ」
アリスの言葉に白兎がこくりと頷き答えます。
「アリスが早く帰ってくるように、女王陛下がアリスの大好物を作って不思議の国中にお配りになったのです」
「女王陛下はとても賢くていらっしゃるわ。大好物につられてアリスが帰ってくるとお考えになっての行動よ。素敵ね」
公爵夫人がうっとりとしたような声で言います。
「野良猫やなんかじゃないんだから、そんなことでアリスは帰って来ないと思うけど」
「あら、現にアリスはお腹を空かせて帰って来たじゃない」
「……さっきから勘違いをしているようですけど公爵夫人?」
「なぁに、アリス」
「私はアリスじゃないわ。だから、席に着く必要もパンケーキを食べる義理もないわ」
「アリスじゃない?」
「ええ、そうよ。私、アリスじゃないの」
「ふぅん……チェシャ猫から聞いていたけれど、本当にまったく、アリスったら変な遊びが好きね。呆れちゃう」
公爵夫人は興味なさせげにそう言うと、そんなことよりさっさと席にお座りなさい、と再びアリスの手を引いて無理矢理席に座らせたのでした。
アリスがテーブルに着くと、ハートのエースがパンケーキの皿をずずいっとアリスの方へと押しやって、白兎がアリスの左手にフォークを、公爵夫人が右手にナイフを握らせます。
「だーかーらー!」
フォークとナイフを握り締めながらアリスは声を大にして抗議しました。
「私はアリスじゃないし、パンケーキなんて食べたくないったら!」
両手をダンとテーブルに叩きます。
「私、絶対食べないからね!」
それを見た公爵夫人は呆れた顔で口を開きました。
「アリス、女王陛下の御命令は絶対よ」
次いで白兎も、変わらず冷静にアリスをなだめるように言います。
「そうです。みんなのためにも食べてあげて下さい。アリス」
「みんなのため?どう言うこと?」
そこで白兎たちの言うにはどうやら、
女王陛下がアリスを誘き出すために不思議の国中にお配りになった特性のパンケーキは、国のいたるところに溢れかえっており、それらは誰にも手をつけられることなく腐り続けているということなのです。
住人たちの生活に支障が出るほどのパンケーキの山々。
それらを片付けるには、「アリスがパンケーキを一口でも食べればあとは処分していい」と女王陛下のお達しがあったらしく、不思議の国の平穏を呼び戻すのにアリスはパンケーキを食べてやらねばならない、と言うことなのでした。
「アリスがどこに行ってしまったかわからないものですから、そこら中にパンケーキを置きまくってみたのです」
「もちろんアリス以外食べちゃいけないものだから、ずうっとそのままよ」
「女王陛下の命令は、絶対ですから」
「帽子屋なんて、お茶会のテーブル全部パンケーキで占領されちゃって、あれは、可哀想ったらありゃしないですね。」
「三月兎の部屋のソファやネズミの家の玄関も占領されちゃって、不便そうったらこの上ないのよ」
「それもこれもさっさとアリスがパンケーキに手をつけてくれれば解決です」
「なにそれ、ばっかみたい!アリスを誘き出すためにパンケーキをそこら中に放置したの?不衛生だわ!まったく非合理的!迷惑極まりないわね」
白兎たちから聞く不思議の国の住民たちの被害状況を聞きアリスは呆れました。
しかし、それと同時に住民たちに同情もしました。
「……でも、私が食べたら、その国中に点在してる腐れパンケーキが綺麗になるってことなのね?」
「ええ、アリス」
「……私はアリスじゃないのに?」
「飽きないですね、アリス。さぁ、遊びは食べ終わってからにしましょう」
「……はぁ」
このパンケーキもどきの物体を食べさせられる私はとても可哀想だけれど、この物体が溢れかえった街で生活している誰とも知れぬ住人たちはもっと可哀想かもしれない、とアリスは思いました。
ですのでアリスは、
「そうね……私はアリスじゃないけれど、私が食べても、それで女王陛下の気が済んで、これが片付くと言うのなら…分かった。食べるわよ」
アリスはついに決心がついた様で、ナイフをフォークに持ち替えて、比較的綺麗な焼き目がついた場所にそれを突き刺しました。、なんの抵抗力もなくフォークの先はお皿の底にカツンと当たります。
お行儀の良さなんてアリスは考えていませんので、ナイフを使わずにフォークで乱雑にすくい上げ、そうしてその勢いのままに口に運びました。
「……ん、……んん?」
「お味はいかが?アリス」
随分嬉しそうな、うっとりとした顔で公爵夫人が聞きます。
「美味しいでしょうね。美味しいに決まっているわ。だって女王陛下がお作りになったんだもの」
「……いや……まったく味がしないわ……ほのかに卵の香りがするような…こんな見た目なのにそれくらいの風味しかしないなんて、逆に不気味だわ」
「美味しいの?美味しくないの?」
「えーっと、どちらとも言えないかしら」
「不気味で、どちらとも言えない……と」
何やらハートのエースがアリスの言うことを紙に書き留めています。
「……?何を書いているの?」
「報告書ですよ。女王陛下に御報告する義務がありますので。これも仕事です、アリス」
ハートのエースが女王にアリスの感想を伝える報告書を書いていることが分かるとアリスはびっくり慌てます。
「女王様に伝わっちゃうの?それならちょっとまってちょうだい!」
あんまり悪く言うと怒らせてしまうと思ったのです。女王様ほど偉い人に失礼を働いたらどんな罰が待っているか分かったものじゃないのですから。
「……えっと、そうね。悪くない味だわ、えっと、う、ん」
嘘のつけないアリスの言葉に白兎が言います。
「アリス、もう少し気の利いたことを言わないと女王陛下は納得しませんよ」
「え、ええ、わかっているわよ。じゃあ……ううん……」
「癖になる味!とかはどうです?」
女王陛下を怒らせたくないのは皆一緒の様で、ハートのエースもアリスに助け舟を出そうとします。
「そんなこと言ったらまた作ったりするんじゃないかしら。不味くないとは言え、また食べたいようなものじゃないわよ」
それは御免よとアリス。
そこで白兎はピンと閃いたようで言いました。
「では、またちょうど来年食べたくなる味なんてどうです?」
「来年には食べなくちゃいけないじゃない?」
「来年まで食べる必要はないと言うことです」
「……物は言いようよね」
「それでよろしいですか?」
「……ええ、まあ、いいわ。来年には本当のアリスが食べることになるはずだものね」
アリスの最後の言葉は誰も聞いちゃいなくて、ハートのエースは報告書に「またちょうど来年食べたくなる味とアリスは大絶賛だった」と書き留めて、白兎も公爵夫人も満足げに頷いていました。
「それでは私は陛下に報告書を届けて参りますから、みなさんはご自由に」
「女王陛下にご挨拶とかしなくて良かったのかしら?」
「大丈夫ですよ、さぁ行きましょうアリス」
ハートのエースが生垣の空いた空間を通り城の方へと歩いて行きました。
公爵夫人はアリスの座っていた席について紅茶を飲み始めていました。
「それでは公爵夫人、失礼いたします」
白兎は公爵夫人に挨拶だけすると、城の方とは反対に向かってさっさと歩いて行きました。
「ちょっと待ってよ、白兎!」
アリスは白兎を追いかけます。
インク外れのアリス 九重雪子 @k-yukiko
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