3.金槌の間の女王陛下


 白兎の手を掴んだアリスはあっという間に兎穴から落ち切ることができました。

 暗がりから急に光が現れ、その光を通り抜けると、もうそこは兎穴の外だったのです。

 気づけばストンと綺麗に着地が決まった後でした。


 赤いビロードの絨毯越しに大理石のような床の感触。ぽよぽよのトランポリンではないようですが、決して何処かが痛むような感覚はありません。


 アリスは真っ先に隣の白兎の方を向いて、


「あんなに長いこと落ちてきたのに、どこも痛くないのね。不思議だわ」


 ねぇ、白兎……とアリスが言いかけたそのときです。


「カンカンカン!!」


 木槌を打ち鳴らす大きな甲高い音が響きました。


 次いで、


「静粛にせよ!」


 苛立ったような女性の声が響いたのです。


 そこでアリスが声の方を見ますと、赤い絨毯がまっすぐ伸びている先の玉座に一人の女性が座っていたのです。


 鮮やかな赤色のドレスには真っ黒く塗りつぶされたようなハートが幾つか散りばめられていて、裾には白いフリルのレースがふんだんに使われています。

 その豪華絢爛なドレスから覗く肌は天井のシャンデリアの光に照らされキラキラと輝くような美しさを放っていました。


 おまけに、滑らかなウェーブがかったセミロングヘアーのてっぺんには小さな金の冠が乗っかっており、頬にはハートのマークとQUEENの文字が小さく刻まれていますので、アリスはこの方が女王陛下なのだと気づきました。


 女王様は手持ち無沙汰に木槌を虚空で揺らしながら不機嫌そうにアリスの方を見ています。

 組まれた足の小さな黒いピンヒールも、これまた不機嫌そうに揺れています。


 とってもご機嫌斜めでいらっしゃるのが見てわかったので、


「申し訳ありません、女王陛下」


 アリスは恭しくお辞儀をしました。

スカートを履いていれば裾をつまんでお上品なご挨拶ができたのに…まぁ、わたし、アリスじゃないもの、しょうがないわね。なんて思いながら。


「アリス」


 ドレスと同じくらい赤い紅で彩られた唇がアリスの名前を口にします。


「あの、わたしは…アリスでは、」


「カン!」


「!?」


「静粛にと言ったろう?」


「ごめんなさい、でも、」


「カンカン!」


「や、あの、」


「カンカンカン!」


「女王様、発言の許可を……」


「カンカンカンカン!」


「うう……」


「カン!」


「なんなのよこれ、ちょっと、白兎……」


 アリスが話すたびに女王様は玉座の膝掛けに木槌をカンカン打ち鳴らすので、アリスは困り果てて白兎に助けを求めるように視線を向けます。


「………」


 ですが白兎はこうべをたれて床に跪いた姿勢のままピクリとも動きません。


「ちょっと、ねぇ」


「カンカン!」


「もう、なんなの……ねえ、白兎ってば」


「カンカンカン!」


「……わかったわよ、だまればいいのね?もう」


「カン!」


「………」


「………」


「………」


「………」


「………」


「カン!」


「?!………」


「……なんだ、もうだんまりか?つまらん。発言を許可する。何か面白いことを話してみろ」


 そこでアリスは思い出します。白兎が女王様はわがままだと言っていたことを。


「確かにわがままだわ」


 アリスがぼそりと呟いた言葉に白兎は兎耳をピクリと反応させました。


「アリス、」


「……聞こえぬ。もう一度言ってちょうだい、アリス」


「アリス、女王を怒らせるようなことはくれぐれも……」


「だから、私はアリスじゃないってば!」


「ふ、ふふふ、あはははは……」


 アリスの言葉に女王様は笑い出します。白兎は呆れたようにため息を吐くとやっとそこで立ち上がったのです。


「ふ、ふふ……アリス、」


「私はアリスじゃないし、そんなに笑われるようなことを言ってないと思うんだけど」


「女王陛下」


「なんだ、白兎……ふふふ、」


「アリスは今アリスじゃないごっこに夢中のようでして」


「ふふ……ごっこ遊びとな?」


「違うわ!」


「アリス」


「違うんです、女王陛下。白兎も猫さんも何か勘違いをしているみたいなの。女王陛下ならわかってくれますよね、私は」


「アリス」


「私は、アリスじゃ」


「妾はその遊びには乗ってやれんな、アリス」


「………」


「妾は女王だから」


 そう言うと女王陛下はまた木槌をコン、と小さくひと叩きしました。

 するとどこからともなく赤いジャケットを羽織った女の子が女王様の隣にやってきたのです。白地に赤のハート模様のワンピースを床に広げて跪く彼女の頬にはハートのマークとACEの文字が刻まれていました。


 女王がハートのエースに何かを耳打ちします。


「?」


「……承知いたしました」


 ハートのエースがそう言うと女王はにっこりと満足そうに微笑みアリスに言いました。


「アリス、お腹が減ったろう?」


「え……別に減っていないわ」


「そうか、お腹が減っているのか。可哀想に」


「ねぇ、聞いてた?減っていないったら。……あとアリスじゃないし」


「アリス、ご案内いたします」


 エースはアリスの隣までやってくると、すっと手の平をアリスに向け後ろへ誘導します。


「みんな耳か目か頭か、それとも全部が悪いんだわ。きっとそうね」


 アリスはブツブツと文句を呟きながらも後ろを向きます。


 すると、


 壁一面に大小様々な扉が幾つも備え付けられていまして、アリスは目を瞬かせました。


「こんなに扉をいっぱい作ってどうするの?全部別の部屋なの?」


 そう言って女王陛下を振り返ると、もうそこは後ろの壁と同じように一面の壁にずらりと扉がいくつも並んでいるばかりで、赤い絨毯も玉座も耳障りな木槌も女王陛下の姿さえもなかったのです。


「……え?どういうこと?」


「アリス、さあ行きましょう」


「急いで下さい、アリス」


 立ち止まるアリスを白兎とハートのエースがぐいぐいと押しやって扉の方へと進ませます。


「ちょっと待ってよ、ねぇ!女王様はどこに行ってしまったの?」


「この扉はどこに繋がっているの?」


「私をどこへ連れていく気?」


「私は、アリスじゃないのよ?」



 彼女が何を言ってもハートのエースも白兎も聞く耳を持ちません。


 アリスは2人にグイグイと背を押されて、沢山ある扉の内一番大きな木の扉へと足を踏み入れたのでした。



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