2.兎穴と降下速度



 ジャムの空瓶、挿絵のない本、インク切れのボールペンに欠けたティーカップ。所々に設置された電力の弱そうなランプの灯火に乾いたインクと使い古された紙の香り。

 兎穴の中は白兎が言う便利とはまったく縁のなさそうなガラクタばかりが漂っています。

 おまけに薄暗くて上も下も光はまったく差し込んでこない有様です。開いたはずの穴の上からも光が差し込まないのは、開いたのも突然のことですからきっと閉まったのも突然なのでしょう。


 まあ、そんなことは彼女にとってはどうでもよいことのようで、



「理不尽だわ!」


 突然落とされた深い深い穴の中。

彼女…アリスは終わりの見えない落下という自分の置かれた状況に憤るばかりなのです。


「理不尽、理不尽、理不尽!」


 彼女がこう言わずにはいられないのも、まあ、しょうがないことのような気もします。


 ですが、


「どうしたんですか、アリス。落ち着いて下さい」


 一緒に落ちている白兎には一体どうしてアリスが理不尽だなんて言うのかがわかないようです。

 落ちているのに器用に身体をアリスの方にくるりと向けます。


「落ち着いていられるもんですか!勝手に勘違いで話を進めてこんなへんてこりんな落とし穴に落とされて、これを理不尽と言わずに何と言えばいいの?!」


「落とし穴ではなくて兎穴ですよ、アリス」


「今まさに落ちているんだもの。さっき落とされたんだもの。兎穴でも私にとっては落とし穴だわ。違う?」


「兎穴は兎穴ですよ、アリス」


「ああ、もう!」


「ねぇ、こんなに長いこと落ちたんじゃ私もあなたも最後にはぺしゃんこになっちゃうんじゃないのかしら。どうしてくれるの?」


「はあ、アリス……」


 呆れたようにため息ひとつ吐いて白兎は言います。


「兎穴から落ちたくらいではぺしゃんこになったりなんてしないですよ」


「…本当に?」


「ええ」


「………。」


 コクリと頷く白兎があまりにも落ち着いているので、アリスは騒ぐのが段々と馬鹿馬鹿しく思えてきました。


「…はぁ、」


 一度大きく息を吐き出して心を落ち着けてみます。


「…そうね、こんなに長くておかしな兎穴なんてものがあるんですもの。その穴の先が、例えば、ぽよぽよのトランポリンみたいな地面で、見事に着地できたりしても不思議じゃないわよね。きっとそうよ」


 アリスは自分に言い聞かせるようにそう言うと次いで思い出したように白兎に言うのです。


「それと、私はアリスじゃないからね」


 本物のアリスを知っている彼女としては、しっかりと主張しておきたいところでした。

 ですが、やはりと言いますか、白い兎は整った表情をピクリとも変えることなく言うのです。


「アリス」


「そのごっこ遊びはそんなに愉快なことには思えないのですが…」


「ごっこ遊び?あなた、そんなに大きくて立派な耳をぶら下げているのならもっと私の話をちゃんと聞くべきだわ」


「立派ですか?私的にはあと2〜3センチは長い方が良かったんですけどね。でも、まぁ、アリスが立派と言ってくれるのなら良しとしましょう」


 器用にも白兎は落下しながら白くて長いお耳を指先で毛づくろいし始めます。


「……本当に都合のいいことしか拾わないのね」


 今度はアリスが呆れたようにため息を吐きました。











「アリス」


 毛づくろいを終えた白兎が言います。手にはいつの間にか白い蓋のついた懐中時計を持っていました。


「私はアリスじゃないけれど、なぁに」


 懐中時計まで真っ白いなんて相当白い色が好きなのね、と思いながら、彼女は律儀に前置いて返事をします。


「そろそろ急ぎましょう」


「急ぐ?」


「ええ、女王陛下も他の皆も待っていますから」


「ああ、そう言えば…女王様がパンケーキを作って待っているって言っていたわね」


「ええ、チェシャ猫がもう城に皆を集めてしまっている頃でしょう」


 眉間にしわを寄せて白兎が懐中時計の蓋をパチンパチンと何度か開閉させます。


「人を…ああ、人じゃないのもいるんだっけ。まぁ、人も動物も待たせるのは良くないわよね」


「ええ、その通りです」


 パチン、ともう一度懐中時計の蓋が開きます。


「でも、残念だけど、私はアリスじゃないから、急ぐ必要なんてないわ。それに落下のスピードは変えられっこないもの」


「問題ありません。アリスの落ち方はノロマですが、私がいますからね」


 パチン、と再び懐中時計の蓋を閉め懐に仕舞うと、さぁ、と言って白兎はアリスに手を差し伸べます。


 ですが、


「まあ、失礼な白兎」


 アリスはツンとそっぽを向いてしまいます。

 確かに落下スピードはあたりのガラクタが何かがちゃんと分かるくらいのふわふわとした速度で、白兎の言うとおりな訳なのですが、それでもノロマと言われるとアリスはいい気分がしませんでした。


「私はアリスでもないし、ノロマでもないわ。だいたい、あなただって私とおんなじ速度で落ちているじゃない。あなたがいるからなんだっていうの?」


「私はアリスに合わせているだけです」


「じゃあ、あなたはもっと早く落ちることができるの?」


「ええ、ここは私の兎穴ですから」


 もう一度、白兎がアリスに手を差し伸べます。


「アリスは女王陛下のパンケーキを食べなくてはいけません」


 何度彼女がアリスでないと言ったって、白兎が彼女をアリスと呼ぶのは変わりません。

 ピンク色の瞳は真っ直ぐにアリスを見つめます。


「はあ、もう」


 アリスは何度目かのため息を諦めたように吐き出しました。


「いいわ、私、あなたについて行く」


 少し投げやりな風にも聞こえる言い方でアリスが言います。


「女王様だか猫さんだかその集まってる皆が気の毒だものね」


「気の毒?」


「皆さんがお待ちかねのアリスはまだ見つかっていません、って私が言ってあげるわ。あなたも猫さんも話は通じなかったけれど、女王様くらい偉い人なら私の話をきちんと聞いてくれるはずよ。そうに違いないわ」


 アリスは自分を納得させるように言うと、白兎の白い手袋に包まれた手のひらに自分の手を載せました。白兎がアリスの手をギュッと握ります。


 すると、


 瞬く間にぐんと降下速度は上昇して、辺りを漂うガラクタが何か識別できないくらいになったのです。


「!!!」


 アリスは冷たい空気を飲み込むので精一杯で、叫ぶ余裕さえありません。


 ぐんぐんぐぅーん。


 アリスと白兎は瞬く間に兎穴の底へと降りて行きます…。



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