インク外れのアリス
九重雪子
1.始まりはいつだって昼下がりの午後
とある昼下がりの午後のことです。
気づくと彼女は、大きな木の下で、小さく丸まってうたた寝をしていました。
「ん……」
あたり一面ヒナギクの花が咲き誇る大きな木の根元。
「……?」
彼女は、寝ぼけた頭のはっきりしないままに辺りをキョロキョロ見回します。
幾分かぼやけた頭のまんまそうしていましたが、まったくどうして自分がこんなところで眠っていたのか思い出せません。
「きっと、随分長い間眠りこけていたのね。じゃないとこんなに何にも思い出せないなんてあるはずないわ」
彼女は自分に言い聞かせるように独り言を口にしました。なんだか自分が情けなくて可哀想になったからでしょう。はぁ、なんて物憂げにため息を吐いて木の幹に寄りかかります。すると、
「あら?」
ふと、彼女の視線の先、ヒナギクの花たちを越えた一本道の通りの脇に、看板があるのに気づいたのです。彼女は少しだけ元気を取り戻して、
「看板に書いてあるものって言ったら、注意書きに道案内、現在地、地図。どれにしたって、きっと私、何かを思い出すに違いないわ!」
自分に言い聞かせるようにそう言うと、彼女はヒナギクの花の群れをまたいで一本道の通りに踏み出して行きました。
「よい、しょっと」
ですが、ひょいひょいとヒナギクの花を跨いで看板の前まで来ると、彼女は首を傾げることになるのです。
それと言うのも、看板が彼女が期待しているような看板ではなかったからです。
「ヒナギクの花輪はススメません。うさぎ穴はススメます。」
「なぁに、これ」
まったく意味のわからない看板の言葉に、彼女は思わず文句を垂れます。
「こんな意味のわからない看板じゃあ、何も思い出せないわ」
タッタッタッ
彼女が標識に文句を言ったちょうどその時です。彼女の耳に急ぐ足音が届いてきました。
「?」
そして、彼女が足音の方を向いたのと足音の主が彼女にぶつかったのはほとんど同時のことでした。
「きゃっ…!」
「きゃっ…!」
でも、お互いがお互いの腕を反射的に掴み合ったので、二人とも何処かが痛んだり、地面にぶつかったりなんてことにはなりませんでした。
「はぁ、はぁ、はぁ…っ、」
ぶつかってきたのは彼女と同じ年くらいの少女でした。
自分の腕の中で一生懸命に息を整えようとする少女を彼女はじっと見つめます。
フリルのレースがついたエプロンドレスに華奢な白い腕、日の光を受けてキラキラと輝くブロンドの長い髪に柔らかそうな桃色の頬、伏せた瞳を彩る睫毛の長いこと。きっと、こっちをまっすぐ見つめてくれたなら、彼女の瞳のどんなにまん丸かがよくわかるんだろうな、と彼女は思いました。
「(可愛い子。私とは…多分、大違いね)」
自分の、肩までしかないボブの黒髪に、無地のTシャツとショートパンツ姿と比べたら、例えまだ何も思い出せなくても彼女はそう思わざるを得ませんでした。
「………」
じっと見つめていると、少女は急に顔をあげ、彼女を睨むように見つめました。
「……あなた、」
「え、あ……はい、なぁに」
やっぱり少女の瞳はまん丸で、でも想像していたよりもその表情は、随分と苛立っているような焦っているような、それでいて恐れているような、そんな顔をしていました。
「私、……アリスなんて、……もう、ごめんだわ……!」
「アリス……」
「あなたが、アリス!」
「え?」
「あなたがアリス!それでいいじゃない!」
何を言っているの、と彼女が言い返す前に、アリスなんてもういや!そう言ってドンと押し返されお互いを掴みあってくっついていた身体は離れてしまいました。
タッタッタッ
「あ、待って!」
走り去って行く少女を追いかけようと彼女も走りだそうとしました。ですが、
「アリス」
「!」
咄嗟に振り返ると、いつの間にか自分のすぐ後ろに1人の青年が立っていたので、彼女は驚いて一歩後ずさります。
急に現れた彼は、頭の上の猫耳も髪も尻尾も、黒と茶色の毛束がばらばらに混じっているような柄で、何が可笑しいのか口元はにんまりと締まりがなく、黄金色の瞳で覗き込むように彼女を見つめています。
「追いかけるものが違うよ、アリス」
「え?」
自分に向けて呼ばれる名前に戸惑う間も無く青年がまた一歩彼女に近づきます。
「(急に現れてにやにや笑ってる猫なんて、どう考えても怪しい猫だわ)」
彼女は慎重にまた一歩後ずさりをします。
「それにしてもこんなところにいたんだね、アリス。探していたよ」
「え、あの、」
「でも僕が1番に見つけれるなんて……うん。嬉しい、かな」
青年はにんまりした顔をさらににたにたにんまりとさせて頬をぽりぽり掻きます。
でも青年の誰が見るからにも長すぎるとんがった爪は青年の頬を傷つけていきます。
アリスはどれから先に突っ込むべきかとても悩みましたが、青年はそんなアリスに気づかずにまた一歩歩み寄ります。
「………」
「どうしたの、アリス」
とんがった爪先が上下に動くたびに白い頬が赤く滲んでいきます。
よくよく見ると、青年の顔や腕、足、首、身体のいたるところは切り傷だらけでした。
「…あなた、爪が長すぎるんじゃない?」
「どうして?」
「だって、血がでてるわ」
「皮膚の下には血がいるんだ。常識だね」
「それは、そうだけど。切った方がいいわよ。あなた、傷だらけじゃない」
「今まさに皮膚を切っているところだよ」
「切るのは皮膚じゃなくて、爪よ」
「アリス。猫は爪なんて切らないよ」
呆れた様子の青年にアリスはうんざり顔。
この話題をこれ以上していてもキリがないと思ったアリスは青年にさっきから気になっていたことを指摘することにしました。
「ねぇ、あなた、さっきから何か勘違いをしていると思うの。わたしはアリスでは……」
「アリス?」
言いかけたその時です。
後ろを振り返ると、
真っ白いうさぎの耳、白いまっすぐなさらさらの髪、白いベストに白いショートパンツ、白の靴下、白い…とにかく全身真っ白な垂れ耳うさぎが立っていました。白くないところなんて、彼女のピンク色の瞳と、それと同じ色の首元のリボン、それくらいでしょうか。
「しろ、うさぎ……?」
疑問混じりに呼びかけると白兎はとてもホッとしたように微笑みます。
「アリス、こんなところにいたんですね。よかった」
「やぁ」
「あら、チェシャ猫」
アリスを見る優しい顔とは一転、チェシャ猫を見る白兎の不愉快そうな顔と言ったらもう言葉にもできないほどです。
「やっぱり計画通りにはいかなかったよ」
「そのようですね」
「言っておくけど、僕のせいじゃないよ」
「わかっていますよ」
「?」
「それに、このくらいの誤差は問題ありません」
「そうだよね。所詮ここは、」
「あの、」
「ああ、アリス。退屈させてしまいましたか」
アリスに向き直ると白兎はアリスに向かってにっこりと笑いかけます。
「や、あの、そうじゃなくて、」
「さあ、アリス。帰りましょう。女王陛下がアリスのためにパンケーキを焼いて待っています」
「そうそう。早くパンケーキ、食べてあげてよ」
「いや、あのね、」
「女王陛下はアリスが帰って来るまで誰もパンケーキを食べてはいけないなんて言うからもう大変なんだよ」
「ええ、本当に。あの方のわがままは今に始まったことではないですけれど、大変なんですよ」
「早く帰ってパンケーキパーティをしようよ。僕はもう喉がカラカラだよ」
「あなたはその薄ら笑い口を閉じればよいのですよ」
「あの!」
「なんです?アリス」
「わたし、アリスじゃないわ」
ついに言えた、とアリスは心の中でガッツポーズを決めました。
「アリスなら、さっきあっちを走って行ったの」
キョトンとした顔の2人、いや、二匹についでに道案内までしてやって、ああ、私ってなんていいこなのかしらとアリスは思います。
「もう見えなくなっちゃったけど。ついさっき…いいえ、だいぶ前のことかしら」
「………」
「………」
「だ、だって、あなたたちが私の話を聞かないでずっと話しているんだもの。まあ、すぐに否定しなかった私も悪いけど」
「でも、まだ間に合うんじゃないかしら。この通りよ」
まっすぐ一本道をすっと指指すと、白兎もチェシャ猫もアリスの指の先を見ます。
「………」
「………」
「………」
「なるほど」
少しの沈黙を経て最初に言葉を発したのはチェシャ猫でした。
「アリスは国の外をぐるぐる走っていたんだね。だからなかなか見つからないはずだ」
「みんな探していたんですよ」
「アリスは追いかけっこが好きだよね」
「そういえば、早くみんなに知らせないと」
「もうアリスは見つかったんだから、捜索してるものたちを城の方へと移動させないといけませんね」
「アリスを捕まえたお祝いのパンケーキパーティをしないとだもんね」
「ええ、お祝いのパーティです」
「ちょ、ちょっと待って、違うわ!」
途中までおとなしく二匹の話に耳を傾けていたアリスですが、どうやら自分の言ったことの意味が伝わっていないことに気づき、慌てて二匹の会話を遮ります。
二匹はアリスの方を見ると、またしばらく考えこむような沈黙が少しだけ空いて、ですが、今度は白兎がすぐに心得たと言うような顔で言うのです。
「ああ、アリスにとっては捕まったお祝いのパーティですね」
「そうじゃなくて!」
「?」
「だから、アリスはあっちに行ったの。まだ捕まえてなんていないでしょう?」
「だから、あっちを走って行って、ここに戻ってきたときに僕に捕まったんだよね」
「違う。あっちに走って行ったまんまよ。戻って来てなんていないわ」
「じゃあ、アリスはずっとここにいたんですか?」
「かくれんぼしていたの?」
「アリスはあそこから走ってきて、あっちにまっすぐ走っていったの。戻ってきてもいないし、多分、隠れてもないわ」
「そうだね。確かに隠れても戻ってきてもいないね」
「そう、そうなの!」
「今アリスはずっとここに立ち止まっていますからね」
「ち、違うってば!」
「だから、」
「わたし、アリスじゃないの!」
「………」
「………」
「アリス、また新しい遊びかい?」
「ずいぶんとつまらないお遊びを考えつきましたね」
「遊び?違うわ、別にわたし、」
「アリスじゃないごっこ遊びってとこかな。まぁ、そういうのもたまにはいいかもね」
「すぐに飽きるでしょう。それよりチェシャ猫」
「承知してますよ。…じゃあ僕は先にみんなを集めておくから、またあとでね、アリス」
そう言うとチェシャ猫はパッと消えていなくなってしまいました。
「!」
「さぁ、アリス私たちも行きましょうか」
「消えちゃった……」
「猫は便利ですよね」
「便利の一言で片付くものかしら?」
「でも、兎穴も便利には違いありません」
「兎穴?」
「では行きましょうか、アリス」
「あなたってそんなに長くて立派な耳があるのに、まったくわたしの話を聞いていないのね」
白兎の頭から垂れ下がる長いお耳はアリスの言葉にピクピクと動いて反応している割に何にも聞こえちゃいないように思えてアリスは思わず白兎に詰め寄ります。
猫ってあんな簡単に消えちゃうものなの?どこに消えていっちゃったの?兎穴が便利ってどういうこと?どこに行こうとするつもり?わたしはアリスじゃないのよ?
頭の中のいっぱいのセリフを口から吐き出しかけたその途中です。
白兎はアリスと自分との間の空間に一歩足を踏み出し、その足で軽く地面をポンと踏み込みます。すると、ガコン、と、木の戸板か何かが外れるような音がしたかと思うと、白兎とアリスの立っていた場所にひとつの穴が空き1人と一匹は瞬く間に下へと落ちていったのです。
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