つま先よりすこし上
フカミオトハ
つま先よりすこし上
1.
結局、ヒールを履いていくことにした。
高校の同窓会なんてそう気合いを入れるものでもないのだろうが、なんといっても十年ぶりの再会だ。週末ごとの飲み仲間に会うのとはわけが違う。
記憶の中では懐かしい顔ぶれでも、実際に会うとなると緊張する。十年という時間は、人を変えるには少し足りないかもしれないが、関係を変えるには十分すぎる。
私にとってこの十年が激動だったように、彼らの大半にとっても大きな変化が連続した十年だったはずだ。
きめすぎるのも浮いてしまうが、カジュアルすぎるのも躊躇する。初対面ではないけれど、もう気心が知れているとも言えず、しかしどこかで身内の空気に甘えたくもなる。かつての同級生というのは、思えば他に類のない、なんとも不思議な関係だ。
悩んだ挙句、ラッフルスリーブのワンピースにカーディガンを羽織って、足元はヒールの高いミュールサンダルを選んだ。どうにもしっくり来ていないが、これ以上時間をかけても堂々巡りになるだけだろう。抑えた色合いのワンピースにあわせて、ほんの少しだけ化粧をのせる。この十年で、化粧もだいぶ日常になった。
化粧だけではない。ひざ上でシルエットが絞られたワンピースも、薄手のレース生地がおしゃれなカーディガンも、つま先より踵の高い靴も、なにもかもが私にとってあたりまえになってしまった。都内の大学に通いはじめた頃には、そのどれもが未知の世界だったのに。
高校を出て十年。地元を離れて十年。
激動の、十年だったのだ。
会場は地元だ。電車でだいたい二時間ほどはかかる。もう出なければ間に合わない。
私は一人暮らしのワンルームを出た。扉を閉める前に、小さく「行ってきます」とつぶやく。もちろん、返事はなかった。
2.
会場は駅前のホテルだった。駅前と言っても歩ける距離にはなく、シャトルバスを使う。記憶の中では吹きさらしのホームにとってつけたような駅舎の、田舎代表みたいだった駅も、二階建ての綺麗な建物に変わっていた。もっとも、この駅が改装されたのはもう五年も前の話で、私がここを使うのは二回目だ。駅ナカの(駅ナカなんてしゃれたものがある、なまいきにも)パン屋さんから漂う焼きたての甘い香りを、前に帰郷したときにも嗅いでいるのだ。あの冷たい風が吹く見晴らしの良すぎるホームを、未だに私は想像してしまうけれど。
地元はどんどん変わっていくのに、私の記憶はいつまで経っても更新されない。
いつまでも、やんちゃな高校生の頃のままだ。
シャトルバスに揺られて十五分ほど、会場のホテルに着いた。ヒールに気をつけながらタラップを降りる。二十七階建ての白いホテルは、外装からして少しばかり装飾過剰に思えた。田舎らしく無闇に広い敷地を使い余しているのか、正門前の車回しには銅像まで建てられている。いったい誰の像なのか、説明書きでもあるのかもしれなかったが、見る気はしなかった。
このホテルは三年ほど前、海浜地区の再開発にともなって建てられたものだ。以前には海とだだっ広い公園しかなかった海浜地区も、大型ショッピングモールの誕生とともに一息に開発が進み、今では立派な商業スポットへと変貌した。視界一面を青に染める田舎の空に背の高いこのホテルは悪目立ちしているけれど、規模としてはさほどおかしくもないのかもしれない。
それでも、どことはなしに無理を感じてしまうのは、私の記憶がまだあの頃にとどまっているせいだろうか。
精一杯背伸びをして「どうだすごいだろう」と見栄を張る子供のような、つま先立ちでふらつく不安定さが、今のこの街にはある。
ホテルの内装は華美というよりは悪趣味な派手さに近く、それもまた虚勢を思わせた。ともあれ会場へと急ごう。電車の時間を読み違えたせいで、予定の時刻は既にオーバーしていた。
「アキラ!」
館内図を眺める私のことを、誰かが背後からそう呼んだ。振り返ると、カジュアルスーツをラフに着こなした、垢抜けた男性がこちらを見ている。おそらく同年代――というか、同級生だろう。
顔を見ても、名前はすぐに浮かばなかった。
「アキラだろ? 久しぶりだな」
「ああ、うん。久しぶり」
探るように挨拶を返すと、相手はそれだけでなにやら悟ったらしく、あらかさまに落胆した表情を浮かべた。「誰だかわからないんだろう」と直截に言われてしまっては、ごまかすことも難しい。
「ごめん、わからない。波坂高校……だよね?」
「そりゃあな、じゃなかったら声なんかかけねーよ。沢渡だよ、沢渡宗吾。まさか、名前も覚えてないとか言うなよ?」
まさかだ。
沢渡宗吾は中学のはじめから高校二年生あたりにかけて、おそらくもっとも多くの時間を一緒にすごした相手だ。互いの家に泊まりがけて遊びに行ったこともある。馬鹿なことばかりしていた記憶があるが、不思議と具体的なエピソードはあまり浮かばない。けれど、踵をはきつぶした運動靴で駆け回っていた私たちは、何もない街で楽しいことばかりを見つけていた。朝会っては「おはよう」と笑い、別れる前には「またな」と手を振った。
馬鹿みたいにはしゃいで、くだらないことで笑って、幼い恋に夢中になった、あの頃。
「ああ――覚えてるよ、もちろん。久しぶり、宗吾」
「ふん、すぐにわかんなかったくせに、雰囲気出してもおせーや」
宗吾がそう笑うと、時間が一気に巻き戻った気がした。彼を中心に、空気の味まで変わっていく。もちろん、宗吾自身だって高校当時のままではなかったが……
十年前に途切れた関係が、不意につながった。そう思った。
「行こうぜ、もうはじまってるんだ」
ひょっとして、宗吾は私を待っていてくれたのだろうか。
「私が最後?」
「いや。でももうほとんどそろってるよ」
彼の後についてロビーを横断する。エレベーターの中で見る背中は記憶よりも大きかった。実際に成長したのか、それとも大人びた雰囲気がそう感じさせるのかはわからない。宗吾に会うのは十年ぶりだ。他の、ほとんどのクラスメイトとも十年ぶりに会う。それどころか、手紙やメールのやりとりすらしていない。以前帰郷したときには、誰にも会わずに東京へ戻った。
不義理をしているつもりはない。この十年、ほんとうに忙しかったのだ。
「お前はさ」
気持ちを読み取ったかのように、宗吾がつぶやいた。
「十年間、大変だったんだろう?」
「……まあ、そうだね」
「ずいぶん板についてるもんな。そんな、歩きづらそうな靴履いてさ」
宗吾の視線が足元を刺す。ヒールのついたミュールサンダル。歩きづらいだろうか。高い踵にも今ではもう慣れてしまって、あまり気にならない。疲れはするけれど。
「昔は全然聞けなかったけどさ。異性化って、どういう感じなんだ?」
「……」
不躾なその問いかけは、きっとこの後、同じことを聞かれたときに戸惑わないようにと、宗吾なりの気遣いなのだろう。確かに、当時そのことに触れてきたものはいなかった。その機会がなかったということもあるだろうが。
異性化。そう、私は、異性化現象発現者だ。
高校三年生の冬、私の性別は突然女になった。まるで前触れのない出来事で、へたな冗談のような話だと思った。しかし、そういうことは稀にあるらしい。異性化症と、俗な言葉で医者は説明した。
それは確かに、私と私に関係するものをごっそりと変えた。変わってしまったと思う。
「どうもこうもないよ」
しかし、だからといって、男として生きた私の十八年間がなくなるわけではない。私という人間のうちがわは、さほど大きく変化しなかった――と、今の私は思っている。
「女になったからって、たいした違いはなかったと思う」
「そんなもんか」
「社会に出てからはずっと女だしね、私の場合は」
「ふうん」
つまらなそうな声音で宗吾は会話を終わらせた。それもきっと、彼なりの優しさだったのだろう。
3.
異性化症。
それが実際にはなんなのか、詳しいことはなにもわかっていない。その俗称や、現代病という風評が勘違いさせるけれど、そもそも病気ですらない。
今のところ、異性化症とは原因不明の『現象』なのだ。明瞭なのは結果だけで、それ以外のことは何もわかっていない。なぜ起こるのか、どう進むのか、誰にでも起こりうるのか、後遺症はあるのか、元に戻れるのか、予防はできるのか……わからないことだらけだ。
私はこれを発現した。
それまで男として、それなりにスポーツをして、そこそこ勉強をして、たくさん遊んで、少しだけ恋をして……そんなふうにあたりまえの生活を送っていた私の日常は、ある日突然壊されてしまったのだ。
たった一日で完全に女になってしまった私は、その姿のままひと月だけ学校に通い、そして卒業を待たずに高校を辞めた。今でも鮮明に覚えている。宗吾は私に「またな」と笑い、私は何も答えなかった。
なんと答えればいいのか、わからなかったのだ。
「今でも、どうにかできなかったのかって思うときがあるよ」
想像よりもはるかに広い会場で、グラスを手に宗吾がそうつぶやいた。どこもかしこも装飾過剰なホテルだったが、宴会場はひときわだ。ぎらぎらとしたシャンデリアが照らし出す会場には丸いテーブルがいくつも並び、それなりにめかしこんだ男女が談笑している。会場も広いが参加者も多い。
この同窓会は卒業前に既に企画されていたもので、学年全員が招待されている。まさか本当に全員が来たわけではないだろうが、それでも相当数が集まったようだ。
それにしても、立食パーティだとは思わなかった。案内状には書いてあっただろうか。踵の高い靴で来たことを、少し後悔した。
「お前が高校を辞めたときから、ずっと考えているんだ」
私がなにも言わないことをどう思ったのか、宗吾がつづけてそう言った。
「……宗吾が悪いんじゃないし、宗吾ひとりがどうこうしても意味なんかなかったよ。そういうものなんだ。異性化したあと同じ学校に通うのなんて、ほんの一握りだってさ」
「そういうもんか……」
学校を辞めた私は国の支援施設へ入り、そこで高校卒業の資格を得て一年遅れで大学へ進学した。それからこの街へ帰ってきたのは一度きり。祖父の葬式のときだけだ。
「恨んでもないし、別に後悔もしてないよ。しかたのないことなんだよ」
宗吾はなにも言わなかった。彼が当時どんな感情を抱えていたのかは知らないし、私がなにを思ったのかも、実は覚えていない。いずれにせよ十年も昔の話だ。今の私たちにとっては、どちらも過去の思い出である。
「この十年連絡しなかったのだって、別に思うところがあったわけじゃない。本当に忙しかっただけ。……おかげで今、会場にいる誰が誰なのかよくわからなくなってるけどね」
「十年ぶりじゃな。俺だって、半分くらいしか把握してないよ」
当時の波坂高校三年生が何人いたのかは私も知らないが、この会場には少なく見ても百人近くが集まっている。半分把握しているだけで十分だろう。正直、私にはひとりもわからない。
「ところでさ」
不意に、宗吾はそう話題を切り替えた。いつまでもこんな話をしていてもしかたがないと思ったのだろう。同感だ。
「夏目とはどうなってるんだ?」
「なつめ――」
どこかで聞かれるだろうとは思っていた。同じ学校の同じ学年なのだから、ここで会うことすら覚悟してきた。
それでもその言葉は、思いのほか強く、私のうちがわに突き立った。
「いや……なつきとも、もうずっと会ってない」
久しぶりに口にした名前は、それでもすんなりと舌になじんだ。あの頃は、この名前を毎日のように、ほとんどの場合は意味もなく呼んでいた。
夏目夏希は、かつての私と恋人だった女性だ。
「そうか……しばらくは連絡とってたんだろう?」
「施設に入ってから、しばらくはね。それなりに会ってもいたよ」
私が彼女と出会ったのは高校一年生の秋で、告白したのは翌年の夏だった。三年の冬に異性化症を発現するまで、私と彼女は同じ時間をすごしたのだ。それはもちろん、おっかなびっくりつま先立ちの、探り探りの関係だったけれど、それもまた高校生らしい青春だっただろう。
施設に入ってからも、それなりの頻度で顔を合わせた。彼女は私の変化を受け入れると言ってくれたし、私もからだがどうなろうと彼女を好きだと言い張った。
会って、話して、メールもして、自分たちは変わらないのだと、ずっと一緒にいられるのだと、必死になってそれを証明しようとしていた。こんなことで駄目になってしまうような、そんな関係じゃないんだと。
今思えば、あれも無理な背伸びだったのだ。高校生、まだ十七か十八。そんな年齢の恋が、あれほどの激変についていけるはずもない。もっと早く、もっとすっぱりと関係を終わらせるべきだった。
結局、少しずつふたりの間で何かが噛み合わなくなって、それが決定的になる前に、私は東京の大学へ進学したのだった。
以来、彼女との交流はめっきりと減り、ほどなくどちらも連絡しなくなった。自然消滅と、言えば言えるだろう。
「それも、そういうもんか?」
「そういうもんだろうね。似たような例は結構聞いたよ」
「そっかあ。どっちにしろ、地元と東京じゃあなあ」
「そう。異性化症とは関係なく、きっとだめになってたよ」
本当のところはわからないけれど。
女になって、十年になる。
この十年は本当に激動で、毎日がめまぐるしく、息つく暇もなかった。私ももう二十八になる。まだまだ若いつもりでいたけれど、世間的にはおばさんの一歩手前だろう。その間に男性と関係を持ったのは一度だけ。ほんの短い期間恋人らしきことをして、やがて別れた。夏希のときとは違って、はっきりと別れをつきつけられた。
きみを見ていられない、と彼は言った。その意味は今もわからないが、それ以来私は誰とも付き合っていない。
その理由を彼女に求めるほどセンチメンタルな考え方は、もうできない。今でも夏希が好きだとか、そういうことではない。男性にそういう気持ちを抱けないというのも、少し違う。わたしだって女子歴はもう十年だ――十歳の女の子だって恋愛くらいする。積極性がなかったことは認めるけれど、結局、忙しかっただけなのだろう。
社会に出てしまえば、過去の経緯なんて関係ない。私はひとりの立派な女性だ。自分できちんと立つために、多少の無理はやむをえない。つま先立ちでふらつきながら、それでも必死に駆け抜けてきた十年だったのだ。
「しかたがなかったんだよ」
彼女を置いてきたという気持ちが、ないわけではない。
祖父が死んでその葬式に帰郷したとき、本当は彼女にだけは会おうかとも思った。しかしその時点でもう何年も連絡していなかったし、半日程度しか予定も空けられなかったから、結局会わずに東京へ戻ったのだ。
その程度の関係しか、私と彼女の間には残っていない。
「……なつき、いるんだよね?」
「出席にはなってたはずだけど、まだ来ていないみたいだな」
なんでそんなことを知っているのだろう。気にしてくれていたのだろうか。
さっきから、妙なところで気の回る男だ。高校時代を思い出しても、もっと乱暴な性格だった気がする。いや、今でもわりと雑な奴だとは思うけれど。
十年の歳月はやはり大きい。
「二次会、出れるのか?」
「ん、どうかな。一応帰るつもりではいるけど、実家に泊まれないことはないし、出てもいいよ。宗吾は?」
「俺は幹事だぜ」
「えっ」
幹事――ああ、そうか、宗吾が幹事だったのか。それで、ここまでの疑問が一気に氷解した。幹事だから遅刻した私を迎えに来たり、出席状況を把握していたわけか。そうか、知らなかった。知らないのも当然だ、同窓会については三年生の冬ごろから企画がはじまり、卒業までの間に幹事が決まる予定だった。その前に学校を辞めてしまったから、私が知っているはずはない。
そうか……私のところにまできちんと招待状が届いたことに少し驚いていたのだ。何せ私は一緒に卒業していないのだから。宗吾が幹事だったというのなら、それも納得できる。
「そうか、ひょっとして、いろいろ手間かけさせたのかな」
「幹事ってそういうもんだろ」
屈託なく笑う宗吾に、不覚にも少しときめいてしまった。
十年。
人が変わるのには少し足りないけれど、関係が変わるのには十分な時間だ。私はこの十年で、地元との関係をほとんど断ってしまった。けれど一度ほどけてしまったからといって、二度と結びなおせないということはない。
「実は、ちょっと迷ったんだ。この同窓会、来るかどうか」
「まあ、そうだろうな。俺も来ないかもなとは思ってた」
「来てよかったかもしれない」
そう言うと、宗吾は照れくさそうに笑った。
改めて会場を見回す。ある程度のグループができてはいるが、ふらふらとテーブル間を放浪しているコミュニケーション能力の高い奴もいるようだ。少し他の人とも話してみようか。話せば、相手が誰かも思い出すだろう。
「お前のことを覚えているやつは結構いると思うぜ、見てもわからないだけでさ」
「見ても……まあ、それはそうか」
女性の姿で通ったのはひと月だけだし、それから十年経っていればわからなくて当然だろう。すぐにそうとわかった宗吾のほうがすごいのだ。
「じゃあちょっと、一回りしてこようか――」
そう言って、ヒールを前に出した瞬間だった。
「――アキラくん!」
その声が、真後ろから、私に向かって放たれたのは。
「……えっ」
振り返る。今まさに扉を開けて入ってきたらしいその女性は、満面の笑みでこちらに駆け寄ってきた。リボンと控えめなフリルが少し子供っぽいドレス姿で、アップにした髪がからだの動きに合わせて揺れている。
宗吾のときとは違って、それが誰なのかはすぐにわかった。
「なつき――」
「わあ、ひさしぶり、アキラくん! かわいい格好してるじゃない」
屈託なく、数年のブランクなんてないかのように、夏希はにこにこと笑ってそう言った。アキラくんと、あの頃のままに私をそう呼んで。まるで時間が巻き戻っていくような錯覚があった。「会いたかったよ!」と笑う夏希に思わず「僕もだよ」と返事をしてしまいそうになる。実際には、会うのを少しためらっていたくらいのに。
「ひ、ひさしぶり……」
手を合わせて微笑む夏希を見て、どうにかそう言って、
そう言って、
そう言って――私は言葉を失った。
十年――人が変わるのには足りないけれど、関係が変わるのには十分な時間。私が夏希との関係を見失っている間に、夏希が違う誰かと違う関係を作っていることは、何も不思議なことじゃない。むしろ、それが当然というものだ。
それなのに、今日ここに至るまで、私はその可能性を完全に失念していた。
「ほんとう、ひさしぶり! アキラくんってば、全然連絡してくれないんだもの。おたがいさまだけどさあ」
ころころと笑う彼女。十年の月日も、私との関係の変化も、まるで忖度せずに笑顔を浮かべる彼女。隣の宗吾が声をあげる。「ひさしぶり」「ああ、えっと、うん……さ、沢渡、くん?」「そうだよ沢渡だよ、お前らはまったくどっちも」「だって、あんまり格好良くなったからわからなくって」「おだててもごまかされないぞ」ああ、うん。宗吾は格好良くなったよね。本当にそう思う。夏希も綺麗になった。みんな十年、ちゃんと歩いてきたんだ。
私は。
足が震えていることに気がついた。高すぎる踵が不安定に揺れている。無理な背伸びを笑うように、カタカタと音がする。昔から、僕は見栄を張って、できもしないことをできると言って、無理じゃないと笑って、そしてみっともなく転ぶのだ。
僕の踵はいつだって、つま先よりほんの少し上にある。地面をちゃんと、踏めていない。
「なつき」
意味もなく彼女の名前を呼ぶと「ん?」とかわいらしく声をあげて夏希はこちらを振り向いた。ああ、よく見える。豪華すぎるシャンデリアに照らされて、きらきらと左の薬指に輝いている。
「結婚――したんだ。おめでとう」
震える声で僕は言って、
「うん、そうなの。ありがとう!」
私を見つけたときと同じ声で、夏希はそう応えた。
4.
夏休みを前に決死の思いで告白した日のことは、よく覚えている。
OKの返事をもらったときの気持ちも。
きっとそれは幼い、恋といえるかどうかすら怪しい、曖昧で、不確かな、不安定な気持ちだったのだろうけれど、それでも僕たちは真剣だった。真剣だったのだ。
メール一通に馬鹿みたいな時間を使って、ささいな言葉に一喜一憂して、会うたびに幸せになって、別れるたびに悲しくなった。見たことのない世界を見ようと、無理な背伸びでつま先をふるわせながら、僕たちは、いっしょうけんめい恋をした。
夏目夏希が――好きだった。
「……」
ばたん、と扉の閉まる音がした。
荒い吐息が聞こえる。私の息だ。胸が痛い。実際に痛い。走ってきたせいだし、途中で転んだせいだ。ヒールを履いているのに全力で走ったものだから、つまづいたのだ。全身汗ぐっしょりで、目の前がクラクラと揺れていた。
「シャワー……」
つぶやいて、私はミュールを脱ぎ捨てた。ふと気がついて振り返る。繰り返された日常は、こんなときでもきちんと玄関の鍵を閉めていた。律儀なものだ。
――どうやって帰ってきたのか曖昧だ。
会場で夏希と会って、いくつか話をして、少しお酒を飲んで。二次会には出席せずに終電間際の電車に乗った。宗吾が何か言っていた気がするが、よく思い出せない。なぐさめるような言葉ではなかったと思う。優しいやつだな、と感じた記憶がある。しかし、その言葉も、なんて返事をしたのかも、まるで覚えていない。
給湯器のスイッチをいれてコックをひねる。水が熱湯になって、熱湯がほどよい温度に下がるまで、裸のままぼんやりと待った。
見下ろすと、見慣れた女性のからだがある。最初から「女の裸」に興奮するということはあまりなかった。これは自分なのだ。一度その認識が強くなってしまうと、どうにも性欲の対象にならない。それを抜きにしても、私の場合は女性に対する考え方がかなり早い段階で変わったと思う。
女友達と話しているみたいと、夏希に言われたことがある。あれはいつのことだったか。
シャワーのお湯を頭からかぶると、疲労と一緒に余分なものが流されていくような錯覚があった。私はいつもそうで、悩んだときや困ったときはシャワーを浴びることにしている。
同窓会、宗吾、夏希、私、僕。
夏希が結婚していたことは知らなかった。どうやら新婚らしいので結婚自体はついこの間のことのようだ。私たちはみんなもう二十八だ。それ自体はなんらおかしくない。
けれど、私はショックだった。そう、ショックだったのだ。夏希が結婚しているなんて考えもしなかったし、言ってしまえば、夏希が違う誰かと関係を作っていることすら想像の外だった。
何がそんなにショックだったのだろう?
私にとって、夏希との関係は終わったことだ。もうずっと、ずっとずっと前、まだ私が女性なのか男性なのかも曖昧だった時代に完結しているのだ。いまさら夏希が誰とどうなろうと、ここまで衝撃を受けることはないはずだ。
私にとっては終わっている――けれど、僕にとっては終わっていなかったのだろうか。
シャワーの水音がからだを叩いている。ぱたぱたぱた。ぱたぱたぱた。温度はすこしぬるめ。頭の中の雑音まで一緒に洗い流していく。
私は、ずっと女性になったのだと思っていた。からだが変わって、心がそれに寄り添って、女性に変わったのだと思っていた。少年の僕はいなくなって、大人の私があらわれて、そうして、身も心も、女になったのだと信じていた。
けれど、夏希と会って気づかされた。私は確かに女になった。からだに合わせて心も。問われれば私は自分を女と答える。そこに迷いはない。迷いはないけれど、だから少年だった僕がいなくなったのかといえば、そんなことはなかったのだ。
あの頃の僕はあの頃のまま、私の中にちゃんといる。きっと背伸びをするように、外の世界をのぞいている。あきらめて、受けいれて、順応したつもりでいたけれど、私は私の中の少年に蓋をして、見えないふりをしていただけだったのだ。
ちゃんとできると言い張って、唐突な悲劇を受け入れられると無理をして、おっかなびっくりのつま先立ちで、地に足を着けられないまま、ふらふらと十年よろめきながら歩いてきたのだ。
そのツケがこれだ。
おしこめられた僕の気持ちは、かつての恋人が結婚していたという、たったそれだけのことで爆発して、私の心を突き動かした。ふるえるつま先ではその重さを支えきれるはずがない。
「は……」
こぼれた吐息にこめれた感情がなんだったのか、自分でもわからなかった。
お風呂から出てからだをざっと拭くと、私はふらふらとベッドに倒れこんだ。髪もからだも濡れているし、服すらちゃんと着ていないが、もうなにもかもめんどうくさい。
いい機会だったと思おう。
つけられていなかった気持ちの決着を、今日つけることができたのだ。そう思おう。いつかしなければならかったこと、やり残した宿題を、今日終わらせたのだと。
まだ心臓の下あたりにずっしりと重しが乗っているけれど、明日になればこれもやわらぐだろう。枕に顔をうずめて深く息をはく。そう、いずれにしろ終わったことだ。ずっと昔に、終わっていたことだったのだ。
「おわったことなんだから」
言葉にしたことに、たいした意味はない。はっきりと口にすれば整理がつくと思ったのかもしれないし、考えていたことがそのまま出てしまったのかもしれない。いずれにせよ私はそうつぶやいた。つぶやいてしまった。
終わったこと。もう、とりかえしがつかない、どうしようもないこと。
それを悔いていることを。
私は、自覚してしまったのだ。
「ぁ……」
シャワーでほてったからだが一瞬燃え上がるように熱くなって、その後急速に冷えていった。手が震えている。ぐらり、と視界がゆがんだ。
「あ……ぁ」
泣く、と思ったときにはもう涙がぼろぼろとこぼれていた。ぽたぽたと枕の上に水滴が落ちる。どうして泣いているのだろう。なにがそんなに悲しいのだろう。理由もわからないまま、あとからあとから感情があふれてくる。
いや――わからないわけじゃない。これは自分のことなんだ。ただ、わからないふりをしているだけだ。あの頃の僕を私の中におしこめたように。
失敗した。
私は失敗した。この十年の歩き方に、失敗したのだ。
踵をしっかりとおろして、地面を踏みしめて、まっすぐに歩いていれば、きっと今頃違う世界があったのだ。夏希と会って、懐かしいねと笑って、また新しい関係を築くこともできたかもしれない。けれどそれはできない。できないのだ。あの頃のままの僕が、それを認めない。
ぶかっこうにつま先立ちで、無理をして歩いてきたせいで、私はあったかもしれない未来をひとつ閉ざしてしまった。忙しかったから恋をしなかったんじゃない。私はただ、本当にただ、恋ができなかっただけなんだ。
「見ていられない」と、かつてつきつけられた別れを思い出した。
いつまでも涙がとまらない。嗚咽を殺すこともできずに、私はみっともなく泣いた。かっこうつけて背伸びすることすらもうできない。
知らず、「ごめんなさい」とつぶやいた。誰に向けた言葉だったのかもわからない。私は枕に顔をうずめて、ぼろぼろと涙をこぼしながら、ずっとごめんなさいと繰り返した。なにかが変わるわけではないとわかっていたけれど、そうせずにはいられなかったのだ。
*
どのくらい泣きつづけたのだろう。
知らないうちに眠っていたらしい。寝起きの頭はぼうっとしていてまともに働いてくれない。号泣したせいで顔がパリパリしている。おまけに寒い。濡れたからだで裸のまま、毛布もかけずに眠ったのだから無理もない。ノドも乾いた。全身の水分が涙になって外に出てしまったみたいだった。
さんざんだ。けれど、そのぶん落ち着いた。
「泣くって、偉大……」
感情を涙にして外に出すということは、とても大事なのだ。いまさらながらにそれを思い知った。高校生のときの私がこれを知っていたら、なにかが変わっていたかもしれない。
からだを起こして、私はため息をついた。ともかく顔を洗おう。枕カバーもシーツも一度洗濯しなければならないが、まずは自分自身のことだ。
そうしてベッドから降りようとしたとき、私はそれに気づいた。枕元の携帯電話が、チカチカとランプを点している。新着メールの通知ランプだ。
どきり、と心臓が鳴った気がした。
折りたたみ式の携帯電話を手にとっておそるおそる開く。小さな液晶に新着メールの通知。差出人は沢渡宗吾。夏希からでなかったことに、一瞬複雑な気持ちがよぎったが、考えてみればそもそも夏希は私のアドレスを知らない。もちろん私も知らない。宗吾にしたって帰り間際にようやく互いのアドレスを交換したのだ。
文面は、同窓会に出席してくれたことへの感謝からはじまり、皆の無事と成長、それに旧交を温められたことに対する喜びを語っていた。
最初の一行で、出席者全員に同じ内容のメールを送ったのだとわかった。
肩透かしを食らったような気分だったが、つづきを読まないわけにもいかない。キーを押すと画面いっぱいに表示された文面が上にスライドして、下から残りの文章がせりあがってきた。
カチカチカチ。
一度押すごとに一行。あたりさわりのない文言でつづられた、そつのない文章があらわれる。不意に、宗吾がやけに大人になったような錯覚に見舞われた。会場の友人と、メールの向こうの幹事がつながらない。
文章は、もう一度同窓会を開きたい、というような意味合いの言葉で結ばれていた。本気かどうかはわからないが、次の機会があっても出席する気にはなれなかった。
途切れた関係を、十年ぶりにつなぐことができたと思った。けれど、宗吾から届いたメールは社交辞令の一通だけ。こんなものだ。私が抱えてきたものは、とうの昔にみんなが置き去りにしてきたものだったのだ。
メールを閉じよう。私は親指でキーを押し込んだ。
つい、と文面が上にスライドした。
メールはもう終わっているのだから、表示されるべき文章は存在しない。そのはずだ。もう一度キーを押すと、もう一行ぶん文章が動く。せりあがってくるのはなにも書かれていない空白だ。不思議に思って、もう一度押す。もう一度。もう一度。
そして、
『また会いたい』
たった六文字のメッセージがあらわれた。
宗吾がきっと私だけに向けた、短すぎる追伸。
「……」
ほんの数秒。小さな画面に浮かび上がった小さな文字が私のうちがわに沈み込んで、その意味を理解するまでのあいだ、私の時間は止まっていた。
馬鹿みたいに口をあけて、裸のまま携帯電話を見つめて、身動きひとつせずにぴたりとその場に貼り付けられていたと思う。
――また会いたい。
宗吾がどんな気持ちで、何を考えてこれを打ったのかわからない。けれど、事務的な報告メールにまぎれこませた私信からは、宗吾の迷いや、葛藤や、なにより優しさがはっきりと見てとれた。
私のことを、慮ってくれているメールだ。
知らず、ため息が漏れた。
この優しさにどう答えればいいのか、私にはわからない。わからないのだ。十年間ずっと無理な背のびをつづけた私は、どうやって歩いていたのかも、どうすればちゃんと立てるのかも忘れてしまった。高校を去った最後の日を思い出した。「またな」と宗吾は笑ってくれたのに、あのときですら、私は答えられなかったのだ。
ベッドに座りこんだまま、私はじっと携帯の液晶を見つめた。そうすれば私の出すべき答えも浮かび上がってくる気がしたのだ。もちろん、そんな都合のいいことは起こらなかった。
答えは、向こうから飛び込んできた。
とつぜん、ドアチャイムが来客を告げた。仮にも女の一人暮らし、このマンションはオートロックだ。マンションの入り口そのものが施錠されていて、玄関で部屋番号を入力するとドアフォンがつながるようになっている。カメラで確認して、こちらからロックを解除する仕組みだ。
こんな時間に誰だという疑問と、ひょっとしてという期待と、そんなはずはないという否定が、同時にわきあがった。だっておかしい。そもそもここを知っているはずがない。だから違う。違うに決まっている。いや、本当はわかっている。だって宗吾は幹事なのだ。招待状が届いているのだから、知らないほうがおかしい。
もういちどチャイムが鳴った。ドアフォンはベッドの足元、手をのばせばぎりぎり届く壁際に設置されている。
あたふたとベッドの上を這って、壁にかけられたドアフォンを覗き込む。玄関前のカメラは果たしてひとりの青年を映し出していた。カジュアルスーツを着崩して、セットした髪を乱して、インターホンによりかかりながら、充血した目でカメラを睨みつけていた。
「よ、よっぱらい……?」
思わず声に出してしまったが、しかし間違いない。酔っ払いだ。酔っ払いで、沢渡宗吾だった。
『あきらァ!』
酔っ払いは必要以上に大きな声でそう言った。この時間にそんな状態で、私の名前を呼ぶのはやめてほしい。正直言って迷惑だ。
どうしよう。帰れと言おうか。あの優しさのあとにこれでは何もかも台無しだ――
『お前が好きだ!』
――は?
その言葉は私の心の障壁をするりとくぐりぬけて、まんなかの部分にズシンと突き立った。足の先から毛の端まで、ぞわりとした感覚と猛烈な熱が一瞬で走り抜けていく。頭が熱い。なんだって。なに? なんて言った?
『お前が好きだ……好きなんだよ、だから来た。来たぞぉ。会いたいから会いに来た。悪いか、悪いかおい! 好きで悪いか! くそ!』
ばんばんインターホンを叩いて(ほんとうにやめてほしい)宗吾はそうまくしたてた。会いたいから会いに来た。なんてわかりやすい。わかりやすい酔っ払いだろう。
『美人になりやがって。お前が好きだ……ずっと好きだった。連絡もしないで、この……ずっと好きだったんだ……俺、でも、とても言えない……いえないだろ……』
勢いがあったのは最初だけで、言葉も姿勢もぐにゃぐにゃになっていく。ずっと好きだった。それはいつから? 思いあたるのはひとつしかない。私が女性のまま高校に通った、あのひと月――
「……宗吾……」
とても言えない。
とても言えない。言えるはずがない。あのときの宗吾が、あのときの私に、そんなことを言えるはずがない。私のまんなかに突き刺さったままの宗吾の告白が、じわりじわりと心の大事な部分をしめつけていく。言えるはずがなかったのだ。
だから、宗吾は「またな」と言った。あの街を離れる私に向かって、せめていつもどおりの言葉に、気持ちのはしっこを忍ばせたのだ。
きっと叶わないと知っていただろうに。
ずっと好きだった。ずっと。ずっと?
――十年も?
くらり、と目の前がゆらいだ。不意打ちすぎる。宗吾の想いに、私はあまりにも無防備だった。からだを支えられずに、ベッドにへたりこむ。ドアフォンの向こうからはまだぼそぼそという言葉が聞こえてきていたけれど、ほどなくそれもやんだ。帰ったのではない。寝てしまったようだった。
「なんて、めいわくな……」
あのとき、宗吾の気持ちに気づけなかった。宗吾の優しさに答えられなかった。もらったメールになんて返せばいいのかわからなかった。今も、宗吾の想いを受け止めきれずに倒れてしまった。私はほんとうにだめだ。全然成長していない。
それでも。
それでも、馬鹿みたいに泣いてカラカラに乾いた私に、じんわりと染み入る気持ちがあることはわかる。私のまんなかに突き立った宗吾の言葉が、溶け出すように私を温めているのだ。それは、もどかしいほど切ない、痛みをともなう優しさだった。
「いかなくちゃ……」
宗吾をあのままほうっておけない。それに、このままへたりこんでいたのでは、言葉も、気持ちも返せないままでいたのでは、あの頃の僕にも、この十年の私にも、顔向けできない。
おそるおそるベッドから降りて、ゆっくりと立ち上がった。足のうら全部で体重を支えると、ずしりと踵が重くなった気がした。
私は今からでも、踵をつけて歩いていけるだろうか。こぼした分の涙を抱えて、今度こそまっすぐに、生きていくことができるだろうか。誰かと新しい関係を作ることが、私にもできるだろうか。
はだしの踵で床を踏んで、私は一歩を踏み出した。迎えに行こう。どんな言葉を返すのか、今でもまだわからないけれど。
ただし、宗吾にはもう少しだけ玄関で待っていてもらわなければならない。顔を洗わなければならないし、なんといっても、私はまだ裸だったのだ。
おわり
つま先よりすこし上 フカミオトハ @fukami0108
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