第41話:「とりあえず林彪を出すか」

 「ボロディン神父、今回はどのようなご用件で?」

 あの晩の舞踏会が終わってから、ボロディンはソ連から部隊に軍校に留まるように命じ、数位の側近を連れて広州城の汪精衛に会いに出かけ、その後はずっと城内にあるソ連大使館に留まっていたのだった。本来なら彼の仕事は国民政府との橋渡しにあり、このため彼は軍校を離れてからというもの、蒋中正はずっと自ら彼は自ら軍校まで戻って来るようなことはない、と考えていたのである。

 「実は提案したい案件が一つありましてな。蒋校長がどのようにお考えか伺いたかったのです」

 校長室において、蒋中正とボロディンは向かい合って座り、周恩来は蒋中正の後ろに立ったまま控えていた。

 「私は北伐が開始される前に、まず我々ソ連部隊と貴校の部隊で一度遠征演習を実施したいと考えているのです」

 「ほう……その提案は中々興味深いですね。理由をお尋ねしてもいいですか?」

 「これは我々の部隊の教頭からの提案なのです」ボロディンは顎を撫でながらそういった。「彼が言うには貴校の部隊はすでに相当な水準に達しているらしいのですが、彼らが訓練を受けている場所はこの軍校に近い場所にあるグラウンドに限られているというのです。遠征の経験も積んでいるようではありますが、北伐となると長期に渡る遠征が予想される。そこで彼は遠征演習を実施することで、貴校部隊の実際的な戦闘能力を測ろうというのです。私としてもこれは良い意見だと思いましたので、こうして私から蒋校長に提案することにしたわけです」

 「それはボロディン神父に心配して頂くには及びません。我が校の兵士は入隊時点ですでに充分な遠征経験を積んでおります。今あなたがおっしゃったのは基礎訓練のこと。現在北伐はもう間もなく始まろうという時期です。訓練の内容も模擬戦闘に集中するべきかと」

 「なるほど。これは失礼しました。けれど、遠征という話でいえば、我々ソ連の兵士は実戦経験を有しております。もし蒋校長が貴校の部隊と我々の部隊で共に遠征をしておけば、きっと彼らの水準は向上することでしょう」

 「うん……」

 蒋中正は腕組みしながら考えに耽った。

 しばらくしてから、彼女は周恩来に顔を向けた。

 「翔宇、どう思う?」

 「僕としてはやらない手はないと思います」周恩来は頷きかえした。「ソ連の軍隊の持久力の高さは良く知られたものです。寒冷なシベリア大陸でも行軍が可能というほどですからね。もし我が校の部隊が彼らからサバイバル技能を学ぶことができれば、これは大変な価値と言えるでしょう」

 「ふむ。ではそのようにしようか。ソ連の精鋭に対して失礼にならないよう、私としては今回の演習には我が校最強の部隊を参加させることにしよう」

 周恩来は苦笑を浮かべていった。「また林彪ですか?」

 「ん? 翔宇、何か意見でもあるのか?」

 蒋中正は故意に分からないといったような表情を浮かべ、周恩来は溜息をつきながらこう返した。「まさか。先輩のご意思に従いますよ」

 「よかった。では蒋校長の決定も下りたことだし、すぐにでも支度をしましょう。あと、私も彼らと一緒に今回の演習に参加いたしますので、蒋校長においてはお気になさらず」

 「え? それは現場の軍官に任せておけばよいことなのでは?」

 「私とて大革命を経験してきた兵士の一人です」ボロディンはじっと目を見据えていった。「我々ロシア人の体には戦闘民族としての伝統が受け継がれているのです。貴校の女性兵士部隊の演目を見てからというもの、私はずっと貴校部隊の実力を間近で見たいと考えておりました。それに最近の私の仕事といえばデスクワークばかりで、体もだいぶ鈍って来ておりましてね。今回の演習を通じて戦闘の感覚を取り戻したいのですよ」

 ソ連大使みずから前線での戦闘に身を投じたいというのは、蒋中正の好奇心を刺激するに充分だった。それに『身近から貴校部隊の実力を知りたい』という言葉もまた彼女の神経を震わせた。

 「神父がそこまで固く決心されているということでしたら、私も止めるようなことはいたしません」彼女はそういって立ち上がると、手を差し出した。「神父自らの御足労のためにも、我が校の部隊が神父を失望させるようなことがないように祈っております」

 彼はそうして蒋中正と握手を交わすと、校長室から出て行った。

 「あのソ連の神父がここまで負けず嫌いだとは思ってもみなかったな」蒋中正はそういった。

 「気に入らないんですか?」

 「まさか。ソ連側から演習の提案をしてくるなんて、私たちからすれば願ってもないことだぞ」

 「では林彪には僕から通知しておきますね……そうだ、先輩。僕から報告しておきたいことがあるのですが……」

 蒋中正は少しいたずらっぽく目を大きくした。

 「お前が言いたいのは李之龍に関することだろう」

 「えっ? ご存じなんですか?」

 「今朝、私も報告書を受け取っている。だからお前の言わんとしていることが分かったわけだ」

 「はは、先輩の目から逃れることはできませんね」

 「私としても報告書にある内容には同意だ。李之龍は得難い人材、奴を暇にさせておくのは惜しいからな。それに前回の件に関して言えば……」蒋中正はそこまでいうと、喉元で言葉がつっかえたような様子だった。「うん、実際のところ少しカッとなってしまったところもあった。しかし汪精衛に対するには、あれも致し方のないことだ……私としては北伐が始まれば、彼に海軍局長の職を推したいと思っている」

 「せ、先輩……!」

 海軍局長というのは軍校内で海軍を管理する最高の職位にあたる。蒋中正のこの決定が仮に現実になれば、彼女はもう李之龍にたいしてとやかくしないということを意味するわけだ。そうなれば彼の内心にずっとわだかまっている蒋中正に対する誤解も晴れることだろう。同時に、こういう言い方をするのは道徳に反することではあるが、彼が海軍局長になれば、自由に権力を発揮し、中山艦の兄弟を身辺に呼び寄せ、また共に仕事ができるようにもなるのだ。

 「今の命令が下されれば、彼はきっと泣いて喜びますよ」

 「これはまだ決定した話じゃない。他で言うなよ。翔宇、忘れるな。現時点で北伐よりも重要なことなどないんだ。我々は全力を北伐成功に傾注しないといけないんだぞ」

 「はい」

 その後、周恩来は一通り蒋中正に報告を済ませると、校長室を出ていった。

 「中山、あなたの志が実現されようとしています。どうか天より我らを導いてください……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

やったれ少女毛沢東! 原子アトム @harakoatom88

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ