第40話:「毛沢東、もっと周りに気を遣うようにと注意される」

 「もともと明日話そうと思っていたことだけど、お前がそんな風に言うんだったら、僕だって遠慮はしないぞ!」彼は憤然と立ち上がると、毛沢東の鼻先に指を突きつけた。

 「李之龍同志のところに今から押し掛けるって言ったこともそうだし、三か月前に突然トラブルを起こしたこともそうだけど、お前のやる事は後になってどうなるかってことを全く考慮していないんだよ! お前だって全国にウン万人もの構成員を抱える共産主義小組の核心的人物なんだぞ! お前のやる事はもうお前個人に限定されるものじゃないんだ。お前はそのことをちゃんと理解しているのか!」

 「私には分からないね!」毛沢東は本能的に立ち上がるといった。「往々にして後のことまで考えていたら、好機を逃してしまうことになるんだ! 私は自分のやり方に問題があるだなんて思わないね!」

 「僕の質問に対する答えになってないだろ! あの会議が始まる前、中正先輩の前では絶対に口を挟まないように、喧嘩はしないように、先輩が何を言ったところで聞き流すように、礼節を護るようにと口を酸っぱくして言い聞かしていたはずだ! それがどうだ! お前のその性格は死んだって治らないのか! お前は一心に李之龍同志のことを心配しているかも知れないが、周りの人間がお前の身を案じていることなんて一切考慮していないじゃないか! お前は同志を信用しているって言うけど、だったらお前は僕のことを、僕に対してお前が約束したことを、僕とお前の間で交わした約束を重視しているのか!」

 「おま……お前そんな言い方……卑怯だろうが……」

 毛沢東は今しがたの勢いをすっかり失い、口をきつく結び、真赤になった顔で黙って周恩来を見詰め返していた。じきに涙がこぼれ出した。

 林彪はその様子を見るや、片手で周恩来の襟元を掴んだ。

 「バカ! よくもお姉さまを泣かしやがったな!」

 「僕は事実を口にしたまでのことだ!」

 普段の周恩来なら、林彪に対して弁解を行っていたことだろう。けれど今の彼には全くもってそんなつもりなどなかった。

 「こいつには小組のリーダーとしての自覚が全く備わっていないじゃないか、全くのわがまま放題だ! もしここで僕がこいつを叱ってやらなかったら、将来、彼女は小組を取返しの付かないところまで引っ張って行ってしまうことになるぞ!」

 「バカいえ! お前はただお姉さまが度々李之龍のことを気にかけていることに嫉妬して、躍起になっているだけじゃないのか! お前だってお姉さまがそんな人間じゃないってことぐらい分かってるだろう。この小物め、いいかげんみみっちいぞ!」

 「僕は……僕は嫉妬をしてるわけじゃない! と、とにかくこれまでずっと我慢していたことなんだ! 今日という今日はこいつに自分のわがままが周囲の人間にどれだけの迷惑をかけているか教えてやらないことには……」

 「お前こそ何も知らないくせに! このでくの坊! 白痴! 大馬鹿野郎!」

 毛沢東は周恩来の話にそれ以上耳を貸さず、罵倒すると出て行ってしまった。

 「お姉さま!」

 林彪は周恩来を掴んでいた手を放すや、何もかも放り出して後を追いかけて行ってしまった。

 一連の口喧嘩の後、周恩来だけが取り残され、用意してあった料理はまだ熱を持っていた。

 「……くそ。僕は一体、何をやっているんだ」


 それから、周恩来と毛沢東は冷戦状態に突入することとなった。

 二人が喧嘩別れをしてしまったあの晩の後、毛沢東は毎朝出勤時間通りに周恩来の宿舎の外に現れるようになっていたが、終始仏頂面で書類を渡しに来るだけで、一言も言葉を発しないまま回れ右して行ってしまうのだった。当初、周恩来もそんな彼女の様子を見て、言葉にできない怒りを抑えられず、見て見ぬフリなどしていた。

 けれど、そんな調子が一週間ほども続くと、彼はだんだんと後悔の念を抱くようになっていった。

 「あいつ、まだ怒ってるのかな……」

 周恩来は椅子に座りながら、一人活気を失った執務室の様子を見渡し、煩わし気に頭を掻きながら、万事打つ手なしといったような表情を浮かべていた。

 毛沢東は拘留される前までは、ずっと周恩来の執務室の中で仕事をしており、彼の執務室に今までにないような熱気を生み出していたものだった。けれど、今の彼女は執務室の外に自分用の机と椅子を設置して、周恩来が上司の立場から彼女に机を執務室の中に戻すように命令しても、一向に聞き入れようとはしないのだった。

 「ダメだダメだ。今は仕事をする時間なんだ。ちゃんと集中しないと……」

 彼はそんなことを言いながら上がって来た報告書を手にとった。

 それは政治部の下役が書いて寄越して来た報告書で、今朝になって毛沢東が彼に回して来たものだった。習慣上、彼女は先に周恩来に渡すべき書類全てに目を通し、特に重要なものを早朝から彼に届けるようになっていた。二人の関係は今やすっかり冷え込んでしまっていたけれど、彼女は依然として自分の役目はきちんと果たしているのだった。

 彼は一足飛びに報告書の結論に目を通すと、一目見て、内心に様々な感情が入り乱れることになった。

 『……このことから、李之龍中将に適当と思われる職位の再検討を提言するものである……』

 報告書を担当した下役が下したそんな結論は、彼に思わず最初から見直させるようなものだった。

 李之龍は中山艦の艦長の職を解除されて以来、ずっと自分の宿舎の中に閉じこもっていたが、最近になって元気を取り戻し、中山艦の乗組員たちと毎日交流を続けているようだった。監視を担当している彼の部下も気軽な調子で会話をしているところを見ており、どうやら前回の事件のことはすでに呑み込んでしまっている様子だった。

 「ふぅ……」周恩来は溜息を漏らした。

 本来、この報告書を見た彼は、喜んでもいいはずだった。李之龍は小組の期待の星だ。今の彼がどっちつかずの情況にあるとはいえ、依然として軍校で最も年若い海軍中将であることには変わりがない。もし彼が復職することができれば、中山艦の艦長に戻ることは不可能でも、その他の重要な職位に就くことは可能だろうからだ。

 それに、李之龍の能力、背景と経歴、その他の要素を考慮しても……北伐が始まってしまえば、彼は再び中山艦の艦長に任命される可能性はあるのだった。

 しかし今李之龍という名前を目にすると、どうしても毛沢東との喧嘩のことを思い出してしまうのである。

 (「バカいえ! お前はただお姉さまが度々李之龍のことを気にかけていることに嫉妬して、躍起になっているだけじゃないのか!」)

 彼は林彪に言われた言葉を思い出すと、煩悶を抑えられなかった。

 「僕は彼に嫉妬なんてしていない……!」

 彼が口元を噛みしめ、拳でテーブルを叩き付けたちょうどその時になって、電話が鳴った。彼はその音に驚かされたものの、すぐに受話器を取り上げた。

 「もしもし?・・・・・ああ、秘書の君か。おはよう……ボロディン神父が先輩に会いたいって? 分かった。すぐに行く」

 彼は電話を切ると、執務室の毛沢東がいない椅子に視線を送ると、ふんと息を漏らして部屋を出て行った。

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